ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
約束の明日は、重苦しい曇天と一緒にやってきた。
朝から、砦の空気はいつもと違っていた。
吊り橋を走る子供の足音は少ない。
広場の焚き火の前で交わされる大人たちの声も、低く、短い。
見張り台では、ザキさんの怒号が何度も飛んでいた。
中央広場には、ダイヤの砦の戦える大人たちが集まっていた。
銃。
槍。
クロスボウ。
刃を巻きつけた鉄パイプ。
それらすべてが、ゲートの向こうへ向けられている。
私は救護所のテントの陰にいた。
アキさんが、私の肩を抱いている。
隠すように。
守るように。
それでも、広場で何が起きるのかを見せないわけにはいかない、というように。
「ユキ。私から離れないで」
「……うん」
アキさんの声は静かだった。
静かすぎて、逆に怖かった。
やがて、巨大な鉄扉が開く。ギギギギ、と重い音が鳴った。
ゲートの向こうから、夢の国の部隊が入ってくる。
整然と並ぶ、百人近い集団。
泥と鉄錆の匂いが染みついたこの砦で、その綺麗さは、やはり暴力みたいだった。
先頭で、スズキさんが立ち止まる。
前回と同じ完璧な笑顔。
曇天の下でも、その表情だけは少しも陰らない。
「さて」
よく通る声が、広場に響いた。
「賢明なお返事をいただけるものと、信じておりますが」
「……帰れ」
ザキさんが言った。
低い。
けれど、広場中に響く声だった。
「俺たちは、誰のルールにも縛られねぇ。お前らの『夢の国』の飼い犬になるつもりは一切ない」
ザキさんの手が、ライフルのグリップを握る。
「ここから一歩でも踏み込めば、全員蜂の巣にするぞ」
その言葉に合わせ、足場の上の大人たちが一斉に銃の安全装置を外した。
冷たい金属音が幾重にも重なる。
それでも、スズキさんの笑顔は揺らがなかった。
「……そうですか」
ほんの少し、残念そうに目を伏せる。
「それは、非常に残念です。本当に」
スズキさんが、軽く右手を挙げた。
その瞬間。
背後に控えていた部隊が一斉にアサルトライフルを構え、空に向けて引き金を引いた。
鼓膜を劈くような連続した銃声が、広場の空気を容赦なく切り裂く。
「きゃっ……!」
私は反射的にアキさんの白衣を掴んだ。
威嚇だ。
圧倒的な火力と統率を見せつけるための威嚇。
けれど、老朽化した砦にとって、その音と振動はただの威嚇では済まなかった。
観覧車全体が震えると、上空で悲鳴のような金属の軋み音が鳴った。
誰かが叫ぶ。
「上だ!」
見上げた先で、補強梁の接合部が白く割れていた。
マナ結晶の膨張で押し広げられ、何度も継ぎ足しで誤魔化していた箇所。
そこが、銃声の振動で限界を迎えたのだ。
数トンはありそうな鉄骨がゆっくりと傾く。
一瞬だけ、時間が遅くなった。
そして落ちた。
「危ねぇっ!!」
ザキさんの声が響く。
鉄骨の真下には、広場の端で身を寄せ合っていた子供たちがいた。
リク。
ナナ。
ハル。
それに、昨日ビー玉をくれたあの女の子。
大人たちの怒号に怯えて、動けないでいる。
「逃げろっ!!」
叫びは届いているはずだった。
でも、子供たちの足は動かない。
アキさんが息を呑む音が、すぐ隣で聞こえた。
その時。
私の身体は、頭で考えるより先に動いていた。
「ユキっ!?」
アキさんの手が肩から離れる。
違う。
離れたんじゃない、私が振り切った。
広場へ飛び出す。足が痛い。息が苦しい。
銃声の余韻で耳がキンキンする。
でも、止まれない。
隠さなきゃいけない。
約束した。人前では使わないって、アキさんと約束した。
でも。
あの子たちが潰される。
死んでしまう。
(守りたい――っ!)
胸の奥にあった蓋が、粉々に吹き飛んだ。
私は子供たちの前へ滑り込む。落下してくる巨大な鉄骨に向かって、小さな両手を突き出した。
ドクン、と。
胸の奥が、大きく脈打つ。
世界から、音が消えたような気がした。
次の瞬間。
私の両手から、金色の光が爆発した。
夜の毛布の中で漏れた小さな光とは違う。病気の女の子を包んだやわらかな光とも違う。
まるで、太陽の欠片を両手でこじ開けたみたいな、眩い光。
それが一瞬で広がり、私と子供たちを包むドームになった。
直後、鉄骨が直撃した。
大地が跳ねる。
衝撃波が広場を走る。
土煙が、視界を暴力的に飲み込んだ。
私たちの上に、鉄骨は落ちてこなかった。
金色の光の盾は、歪むことすらなく、巨大な鉄塊を受け止めていた。
そして、ふわりと弾く。
数トンの鉄骨が、すぐ横の地面へ叩きつけられた。
ズン、と重い音が砦を揺らす。
金色の光が、ゆっくりと薄れていく。
「……あ」
私は突き出していた両手を下ろした。
指先から漏れていた光が、蛍みたいに明滅し、空気に溶けて消えていく。
背後では、子供たちが腰を抜かしていた。
誰も潰されていない。血も出ていない。
泣いてはいるけれど、生きている。
よかった。
助けられた。
その安堵に包まれたのは、本当に一瞬だけだった。
土煙が晴れる。
広場を支配していたのは、異様な静寂だった。
誰も、声を出さない。
私はハッとして周囲を見回した。
ザキさんがいた。
銃を下ろしたまま、こちらを見ている。
足場の上の大人たち。
畑の人。
水場の人。
鍛冶場の人。
見張り台の人。
みんなが、私を見ていた。
信じられないものを見る目だった。
子供が助かったことへの安堵だけではない。
もっと別のもの。
分からないものを見た時の、怯え。
触れてはいけないものを前にした時の、距離。
誰かが、一歩だけ後退った。
それが合図みたいに、何人かの大人がじり、と下がる。
さっきまで私の背後にいた子供たちの親らしき女の人が、隣の子を抱き寄せた。
私から遠ざけるように。
声はなかった。
でも、聞こえた気がした。
化け物。
そう言われたわけではない。でも、背中のどこかで、私はそれを聞いてしまった。
(……バレてしまった)
約束を破った。
一番恐れていた形で、私という異物を晒してしまった。
視界が揺れる。
その時、広場の中央に立つ男と目が合った。
スズキさんだった。
周囲の人間が奇跡に恐れおののく中で、彼だけは違っていた。
驚愕ではない。
怯えでもない。
彼は目を細めていた。
まるで、難しいパズルの最後の一片が、ようやく嵌まったのを見たような目だった。
その目に何があったのか、私はうまく名前をつけられなかった。
「……やはり、そうですか」
スズキさんの唇が、わずかに動いた。
声は小さかった。
でも、私には聞こえた気がした。
テントの陰で、血の気を失ったアキさんが私を見つめている。
約束を破ってしまった。
もう、ただの女の子ではいられない。
それでも。
背中で震える子供たちの温もりを感じるたび、私は自分の選択をどうしても後悔できなかった。
助けた。助けられた。
その事実だけは、嘘じゃない。
足が動かない。逃げたい。
アキさんのところへ戻りたい。
何も見なかったことにしてほしい。
でも、逃げたら、子供たちの前に立った自分まで消えてしまう気がした。
(……かつての自分なら、こういう時に何をしていたんだろう)
答えは出なかった。
自分の顔が、どうしても思い出せないから。
私はただ、広場の中央で、小さな肩を震わせて立ち尽くしていた。
◇ ◇ ◇
土煙が晴れていく。
アキは動けなかった。
広場の中央に、ユキが立っている。
小さな両手を前に出したまま。
金色の光の名残が、指先から空気へ溶けていく。
銀色の髪が、埃っぽい風の中で静かに揺れていた。
(……あの子が)
飛び出していく背中を見た瞬間、アキは手を伸ばしていた。
間に合わなかった。
頭で考えるより先に体が動く。
砦に来てからずっと、あの子はそういう動き方をしていた。
痛がっている子を見た時。
熱にうなされる子の手を握った時。
誰かが困っている時。
ユキは、計算より先に手を伸ばしてしまう。
だから、きっと、止められなかった。
広場の静寂が異質だった。
誰も声を出さない。
ただ、砦の大人たちが、じわじわと後退っている。
無言のまま。
ユキのすぐそばにいた女性が、隣の子供の肩を引き寄せた。
体ごと、ユキから遠ざけるように、半歩横へ動く。
声より静かな拒絶だった。
ユキの小さな背中が、ほんのわずかに固まる。
顔は見えない。
でも、アキには分かった。
あの子は、今の空気を聞いている。
声にならない拒絶を、背中で聞いている。
(だめ)
アキの足に、ようやく力が戻る。
その時、男が動いた。
周囲の人間が後退る中を、ただ一人。躊躇いのない足取りで、ユキへ近づいていく。
スズキだった。
(……近づくな)
アキは息を詰めた。
スズキはユキの前にしゃがみ込む。スラックスの膝が、土と埃で汚れた。
それでも、スズキは少しも表情を変えなかった。
アキは、その仕草を見た瞬間、胸の奥が冷えるのを感じた。
理由は分からない。
ただ、この男をユキの近くに置いてはいけない。
そう思った。
スズキが、至近距離でユキに何かを言う。
声は、アキのところまでは届かない。
ユキは動かない。小さな肩が震えているだけだった。
アキの足が動いた。
スズキが、ユキへ手を伸ばす。
その瞬間。
「……っ、触らないでッ!!」
アキは、その手を叩き落としていた。
乾いた音が広場に響く。
アキはユキを背中に庇い、肩で息をしながらスズキを見た。
この男の目に、恐怖はなかった。
嫌悪もない。驚きすら、もう薄い。
ただ、静かに見ていた。
見つけたものを、見失わないようにする目だった。
人を見る目にしては、あまりにも落ち着いていた。
「おっと」
スズキは不快そうな顔ひとつせず、ゆっくりと手を引いた。
「これは手厳しい」
その余裕が、アキには最も警戒すべきものに見えた。
スズキは立ち上がり、ザキへ向き直る。
「……ザキさん」
穏やかな声だった。
「交渉の条件を、少々変更しましょう」
広場の空気が、さらに冷える。
「提案の件は、一旦白紙に戻しても構いません」
スズキは微笑んでいる。
「その代わり――そちらの彼女」
スズキは、アキの背中の向こうへ視線を向けた。
「ユキさん、とおっしゃいましたか」
まるで、名前を丁寧に扱っているような声だった。
「ユキさんを、我々の国へお譲りいただけませんか」
「……なんだと?」
ザキの声が低くなった。
「今、なんて言った」
「ユキさんを、我々の国へお譲りいただけませんか、と」
スズキは、同じ調子で繰り返した。
まるで、食料の交換条件を読み上げるように。
「彼女一人で、この砦の全員の命と、明日からの食料が保障される。悪い取引ではないはずです」
ザキが黙った。
銃を持ったまま、複雑な顔で沈黙していた。
アキは、その沈黙の意味を理解してしまう。
ザキは合理的な男だ。
砦のリーダーとして、生き延びるために何を切り捨てるかを考え続けてきた人間だ。
だから、即座に否定できない理由も分かってしまう。
ユキ一人。
砦の全員。
その秤が、ほんの一瞬でも頭の中に浮かんだことが、アキには分かった。
吐き気がした。
誰も、助けに入ろうとしない。
スズキは、アキの背中の向こうを見るように言った。
「あなたのような方は、人の中心にいるべきです」
少し間を置く。
「ユキさん」
その名前だけが、広場の静けさに落ちた。
「ここではなく、もっと広い場所で」
ユキの指が、アキの白衣を掴む。
小さい。
震えている。
「いつでも待っていますよ」
スズキは穏やかにそう言うと、踵を返した。
整然とした部隊が続く。ゲートの向こうへ、夢の国の人々が消えていく。
静まり返った広場に、風だけが吹いた。
アキはゆっくりと振り返る。
ユキが、アキの服の裾を片手で掴んでいた。
自分で掴んでいることに気づいているのか分からないような、小さな手だった。
アキは、ユキの隣に立った。
何も言わなかった。ただ、隣にいた。
「……大丈夫よ」
「……うん」
ユキの声は、とても小さかった。
アキは、その小ささに気づいていた。
* * *
その夜。
砦の子供たちは、ユキから少し離れた場所にいた。
広場の端で、いつものように輪になって遊んでいる。
リクも。
ナナも。
ハルも。
昨日までなら、ユキはその輪の中にいた。
今日は、外にいた。
誰かが「来るな」と言ったわけではない。
むしろ、ナナは何度かこちらを見て、何か言いたそうにしていた。
リクも、いつもみたいに声をかけようとして、途中で口を閉じた。
怖いのだ。
たぶん。
どう接していいか分からないのだ。
それが分かるから、ユキも動けなかった。
アキは、広場の端に座るユキの隣へ腰を下ろした。夜風が、銀色の髪を揺らしている。
「……気にしてる?」
ユキが、かすかに肩を動かした。
「……すこし、かも」
だいじょうぶ、ではなかった。
アキはそのことに、ほんの少しだけ安心した。
この子は、ちゃんと傷ついている。
傷ついていると、自分で言えた。
アキはユキの頭に手を置いた。
「……それでいいわよ」
「え?」
「気にしないふりをする必要はない」
ユキは黙った。
アキの手の下で、銀色の髪が夜風に揺れている。
「怖かったら怖いでいい。悲しかったら悲しいでいい。腹が立ったら、腹が立ってもいい」
「……うん」
「あなたは今日、子供たちを守ったのよ」
アキは静かに言った。
「そのことだけは、誰がどんな目で見ても変わらない」
ユキの小さな手が、膝の上でぎゅっと握られる。
「でも……」
声が震えていた。
「みんな、こわそうだった」
「そうね」
アキは否定しなかった。
「怖かったんだと思うわ。分からなかったから」
「……わたし、化け物みたいだった?」
その問いに、アキの胸が痛んだ。
アキは少しだけ息を吸う。嘘で慰めるのは簡単だった。
そんなことないわ。
誰もそう思っていないわ。
大丈夫よ。
でも、それは違う。
ユキは今日、あの視線を浴びた。
大人たちが後退る音を聞いた。子供たちが距離を取る空気を感じた。
それを、なかったことにはできない。
「ユキ」
アキは、ちゃん付けではなく名前で呼んだ。
「あなたは、化け物じゃない」
ユキが、ゆっくり顔を上げる。
「でも、みんながすぐに分かってくれるわけじゃない。怖がる人もいる。利用しようとする人もいる。きっと、助けてほしいと言って泣く人も出てくる」
アキはユキの小さな肩を抱き寄せた。
「だから、私がいるの」
「アキさん……」
「あなたが誰かを助けたことまで、あなたの罪にさせないために」
ユキは何も言わなかった。ただ、アキの服の裾を掴んだ。
昼間と同じように。
アキはその手に、自分の手を重ねる。
遠くで、子供たちの笑い声が少しだけ聞こえた。
まだ、こちらには来ない。
それでも、完全に背を向けてもいない。
アキはその小さな距離を、無理に埋めようとはしなかった。
今日は、それでいい。
今夜は、傷ついたままでいい。
「……帰ろうか」
アキが言う。
ユキは少し間を置いて、頷いた。
「……うん」
アキはユキの手を取り、ゆっくり立ち上がる。
広場の端で、ナナがこちらを見ていた。
小さく手を振りかけて、途中で止める。
ユキも、それを見ていた。
でも、今は何も言わなかった。
アキはその横顔を見つめる。
この子はきっと、またあの輪の中へ戻ろうとする。
怖がられても。
傷ついても。
それでも、誰かが泣けば手を伸ばしてしまう。
そういう子だから。
アキは小さく息を吐き、ユキの手を握り直した。
鉄の樹上都市は、夜風の中で低く軋んでいる。
その音は、昼間落ちた鉄骨の残響のようにも、これから壊れていく何かの前触れのようにも聞こえた。
次回「ユキの決断」