ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
スズキさんの部隊が去った翌朝、ダイヤの砦の空気は重く冷え切っていた。
いつもなら、広場のどこかで誰かが怒鳴っている。
吊り橋を走る子供の足音がして、焚き火のそばでは芋を煮る匂いがして、鉄骨の上では洗濯物が風に鳴っている。
けれど、その朝は違った。
大人たちは口数が少なかった。子供たちも、いつもより声が小さかった。
そして、誰もが私を見ないようにしていた。
見ていないふりをしながら、見ていた。
救護所の前でアキさんの手伝いをしていると、広場の端にいた大人たちの視線が、何度もこちらへ滑ってくるのが分かった。
恐怖。
困惑。
打算。
その全部が、薄い膜みたいに空気の中へ混ざっていた。
昨日までは、私は「アキさんのところにいる小さな子供」だった。
よく手伝いをして、子供たちと遊んで、時々アキさんの白衣の後ろに隠れる女の子だった。
でも、今は違う。
金色の光を出した子。
数トンの鉄骨を弾いた子。
夢の国のスズキさんが欲しがった子。
私は、そういうものになってしまった。
「ユキ」
アキさんが、私の名前を呼んだ。
ちゃん付けではなく、ただ、ユキと。
「無理しなくていいわ」
「……うん」
私は頷いた。
でも、何が無理なのか、自分でもよく分からなかった。
視線に耐えることか。
笑うことか。
ここにいることか。
答えが出ないまま、私は膝の上の包帯を畳み続けた。
* * *
その午後。
スズキさんから、面会の申し出があった。
場所は、広場の端に置かれた、あの錆びたコンテナだった。
アキさんは最初、強く反対した。
「駄目よ」
短い言葉だった。
でも、その声には、取りつく島がなかった。
「行かせないわ」
アキさんは私の肩を抱いて、スズキさんからの使者を睨むように見ていた。
使者の男は困ったように眉を下げる。
「スズキさんは、ユキさんご本人とだけ、少しお話をしたいと」
「だから駄目だと言っているの」
「もちろん、危害を加えるつもりはありません。コンテナの外には皆様もいらっしゃいますし、扉も開けたままで構いません」
「そういう問題じゃないわ」
アキさんの手に力が入る。
私は、その手に自分の手を重ねた。
「アキさん」
「ユキ」
「……話だけ、聞いてみる」
アキさんが私を見る。目が揺れていた。
「どうして」
「分からない」
本当に、分からなかった。
行きたいわけではない。会いたいわけでもない。
スズキさんが怖くないわけでもない。でも、逃げてはいけない気がした。
昨日、広場で私の名前を呼んだ声。
ユキさん、と落ちた、あの丁寧な響き。
あれを聞いた時から、私の中で何かが引っかかっていた。
このまま救護所に隠れて、アキさんの白衣の中に隠れて、何も聞かなかったことにはできない。
そう思ってしまった。
「扉、開けたままなら」
私は小さく言った。
「アキさんが、外にいてくれるなら」
アキさんは長い間黙っていた。それから苦しそうに息を吐いた。
「……少しだけよ」
「うん」
「何かあったら、すぐ呼ぶこと」
「うん」
「向こうが変なことを言ったら、聞かなくていい。途中でも出てきていい」
「……うん。分かった」
アキさんはまだ納得していない顔だった。
でも、それ以上は止めなかった。
* * *
コンテナの前に立つスズキさんは、昨日のことなどなかったみたいに、穏やかな笑顔を浮かべていた。
整えられた髪。
色褪せたテーラードジャケット。
汚れの少ない靴。
昨日、土埃の中で膝をついたはずなのに、今日も少しも乱れていないように見えた。
「お時間をいただき、ありがとうございます。ユキさん」
「……話だけ、聞きます」
「ええ。それで十分です」
コンテナの扉は開けたままだった。
外にはアキさんがいる。
ザキさんも、少し離れたところに立っている。
見張り台の方には、たぶんテツさんもいる。
それでも、コンテナの中に入ると、空気が少し重くなった。
スズキさんは、向かいの椅子を示した。
「どうぞ」
私は迷ったけれど、椅子には座らなかった。
出入り口の近くに立ったまま、スズキさんを見る。
スズキさんは、それを気にした様子もなく、自分も座らなかった。
「まず、昨日の件についてお詫びを」
「……お詫び?」
「威嚇射撃によって、砦の構造物に損傷を与えました。その結果、子供たちを危険に晒した」
スズキさんは、静かに頭を下げた。
「私の判断です。申し訳ありません」
丁寧だった。
あまりにも、丁寧だった。
だからこそ、どう返していいか分からなかった。
「……でも、撃たせたのは、スズキさんですよね」
「はい」
スズキさんは顔を上げる。
「必要だと判断しました」
悪びれた様子はない。
必要だった。だからやった。その結果を謝っている。
そういう顔だった。
「怖がらせるために?」
「争えば、皆様がどれほど不利かを理解していただくために」
「それ、同じことじゃないの?」
言ってから、自分でも少し驚いた。
声が震えていた。でも、引っ込まなかった。
スズキさんは、少しだけ目を細めた。
怒ったのではない。
むしろ、興味深いものを見たような目だった。
「そうかもしれません」
彼は静かに言った。
「ですが、恐怖によって避けられる流血もあります」
私は何も言えなかった。
スズキさんは言葉を続ける。
「夢の国には、千五百人を超える人々がいます」
昨日も聞いた数字だった。
「子供もいます。老人もいます。怪我人も、病人も、働けない人もいます。彼らに毎日食事を配り、寝床を用意し、夜の安全を守るためには、秩序が必要です」
スズキさんの声は穏やかだった。
「秩序がなければ、人はすぐに奪い合う。疑い合う。弱い者から順に押し潰される。私は、それを何度も見てきました」
その言葉だけは、少しだけ本物に聞こえた。
「だから、私は国を作っています」
「国……」
「ええ。夢ではなく、国です。飢えず、凍えず、夜に怯えず、明日も同じ場所で目を覚ませる場所」
スズキさんは、そこで初めて少しだけ笑った。
「名前は『夢の国』のままですが」
私は笑えなかった。
「そこに、わたしを連れていきたいんですか」
「はい」
即答だった。
「どうして」
「あなたには、人を集める力がある」
私は指先を握った。
「魔法のこと?」
「それだけではありません」
スズキさんは、私をまっすぐ見ていた。
「昨日、あなたは子供たちを守った。自分がどう見られるかより先に、助けることを選んだ。その姿を、皆が見た」
「……みんな、怖がってた」
「ええ。恐れもしたでしょう」
スズキさんは否定しなかった。
「ですが、人は恐れたものを、やがて意味に変えます」
意味。
その言葉が、嫌だった。
「私は、その意味を正しく置きたい」
「正しく?」
「ええ」
スズキさんの声は、どこまでも穏やかだった。
「あなたのような存在が、怯えられ、隠され、ひとつの砦の中で消耗していくのは、あまりにも惜しい。あなたはもっと多くの人の前に立つべきです」
「立ちたくないって言ったら?」
「それでも、いずれ立つことになるでしょう」
静かな断言だった。
「ダイヤの砦に残っても、あなたはもう以前のようには扱われません。助けてほしい人が来る。怖がる人も来る。利用しようとする人も来る。あなたを守ろうとする人が、あなたのために誰かを敵に回すこともある」
アキさんの顔が浮かんだ。
胸が痛くなる。
「それならば、最初から大きな秩序の中に置いた方がいい。あなたを中心に生まれる混乱を、国の仕組みで受け止めることができる」
「……わたしを、使うってこと?」
「役割を持っていただく、ということです」
「同じに聞こえる」
スズキさんは、少しだけ黙った。
それから、穏やかに答える。
「そう聞こえるなら、私の言葉が足りないのでしょう」
否定はしなかった。それが、余計に怖かった。
「ユキさん」
名前を呼ばれる。私は顔を上げた。
「私は、あなたに今すぐ返事を強要するつもりはありません。ただ、知っておいてほしいのです」
「何を」
「夢の国には、あなたの力を必要とする人がいます」
その言葉は、ずるいと思った。
必要としている人。
助けを待っている人。
泣いている人。
そう言われたら、私はきっと想像してしまう。
熱にうなされる女の子。
痛いよと泣く子供。
清潔な布が足りずに膿んでいく傷。
この世界には、そういう人がいくらでもいる。
私は、それを知ってしまっている。
「……わたしが行けば、砦はどうなるの」
やっと、声が出た。
「砦への攻撃は行いません。食料と医療品の支援も約束します」
「本当に?」
「はい」
「わたし一人で?」
「あなたが望むなら、同行者を認めます」
スズキさんは、開いた扉の向こうへ一瞬だけ視線を向けた。
外にいるアキさんの方へ。
「もちろん、アキさんも」
心臓が跳ねた。
アキさんの名前まで出された。
それだけで、逃げ道を一つ用意されたような気がした。
いや、違う。逃げ道じゃない。私が断りにくくなる道だ。
「……考えます」
私はそう言った。
今度は、すぐに答えなかった。スズキさんは満足そうに微笑む。
「ええ。どうか、ご自分の意思で」
その言葉が、少しだけ重く残った。
* * *
コンテナを出ると、アキさんがすぐに私を抱き寄せた。
「大丈夫?」
「……うん」
「何を言われたの」
私は答えようとして、少し迷った。
アキさんの顔が怖かったからではない。
言えば、アキさんが傷つく気がした。
「夢の国のこと。国を作ってるってこと。わたしに、来てほしいってこと」
「……そう」
アキさんの腕に力が入る。
「行かなくていいわ」
即答だった。
「行く必要なんてない。ここにいればいい。私が守るから」
その言葉は、嬉しかった。
胸が温かくなった。
でも同時に、胸の奥のどこかで、別のものが動いた。
昨日、私から距離を取った大人たち。
声をかけられなかった子供たち。
ザキさんの沈黙。
スズキさんの言葉。
そして、私の力。
ここにいれば、守られる。
でも、ここにいることで、何かが歪んでいく。
そんな気がした。
その夜まで、私は何度も考えた。
救護所のゴンドラで、包帯を畳みながら。
広場の端で、子供たちの声を聞きながら。
夕食の薄いスープを飲みながら。
夢の国へ行きたいわけではない。スズキさんを信じたわけでもない。
でも、行かなきゃいけない気がした。
怖いとか、嫌だとか、そういう感情より先に、行く、という言葉が自分の中にあった。
理由は、その後から追いついてくる。
この砦で受け取った温かさを守りたい。
自分の力が何なのか確かめたい。
スズキさんが何をしようとしているのか、この目で見たい。
夢の国にいる人たちを、知らないままにはできない。
いくつも理由は浮かんだ。
でも、本当はどれも、あとからつけたもののような気がした。
行く。
それだけが、先にあった。
* * *
夜。
救護所のゴンドラには、ランタンの淡い光が揺れていた。
アキさんは一人で、棚の薬草を整理していた。
包帯。
針。
消毒に使う瓶。
乾燥させた葉。
いつもと同じ動きのはずなのに、少しだけ乱れているように見えた。
「アキさん」
私が声をかけると、アキさんの手が止まった。
「……なに?」
振り向かない。
私は膝の上で、小さな手を握った。
「わたし、行かなきゃいけない気がする」
アキさんの背中が、ほんの少し固まった。
「夢の国に」
ランタンの炎が、部屋の端で静かに揺れていた。
長い沈黙だった。
波の音が聞こえる。鉄骨が、遠くで低く軋む。
「……そう」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいわ」
短い返事だった。
また沈黙が落ちる。
私は、言わなければいけないことを探した。
「怖くないわけじゃないの」
「ええ」
「スズキさんを、信じたわけでもない」
「ええ」
「でも、ここにいたら……たぶん、ずっとアキさんが、わたしを守ることになる」
アキさんは振り向かなかった。
「それは、だめな気がする」
「どうして」
「分からない。でも……アキさんが、砦の全部より、わたしを先に見てるの、分かるから」
言ってから、胸が痛くなった。
言ってはいけないことだったかもしれない。
でも、言わなければいけないことでもあった。
アキさんは、ゆっくりとこちらを向いた。
表情は静かだった。
静かすぎて、怖いくらいだった。
「私は、それでいいわ」
「わたしは、よくない」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
アキさんが目を見開く。
「アキさんが、わたしのために何かを捨てるのは、いや」
「ユキ」
「でも、一人で行くのも、いや」
声が震えた。
ここからが、一番言いたかったことだった。
「……アキさんは」
「なに」
「一緒に来てほしいって……言ってもいい?」
今度の沈黙は、さっきとは違う重さだった。
アキさんは、私を見ていた。
じっと。
逃げ道を探すような目ではなかった。怒っている目でもなかった。
ただ、何かを決める前の目だった。
「……分かった」
「え」
「行くわよ。一緒に」
あまりにもあっさりとした返事だった。
私は瞬きをする。
「……なんで?」
アキさんは、まっすぐにこちらを見た。
「あなたが行くから」
それだけだった。私は何も言えなかった。
砦がある。
仕事がある。
ここで守ってきた人たちがいる。
アキさんを必要としている怪我人も、病人も、子供たちもいる。
それでも、アキさんは「あなたが行くから」と言った。
その言葉の色を、私は受け取った。
でも、名前をつけるには至らなかった。
「……いいの?」
「よくはないわ」
アキさんは少しだけ笑った。
「でも、決めたの」
「アキさん……」
「あなたを一人で行かせるくらいなら、私は一緒に行く」
アキさんは私の前にしゃがみ込んだ。
「夢の国がどんな場所でも。スズキさんが何を考えていても。あなたが何を見つけるとしても」
両手が、私の頬に触れる。
「私は、あなたのそばにいる」
その言葉に、胸の奥がほどけた。
怖い。
怖いのに、アキさんが来てくれる。
それだけで、足元に少しだけ地面が戻ってきた気がした。
「……ありがとう」
私は小さく言った。
アキさんは答えず、私を抱き寄せた。
その腕は、強かった。
でも、昨日までのように、閉じ込める強さではなかった。
一緒に行くための強さだった。
* * *
翌朝。
荷物を背負って広場に出ると、砦の子供たちが遠くにいた。
広場の端。
焚き火の近く。
壊れた遊具の陰。
リクも、ナナも、ハルもいた。
誰も近づいてこない。
分かっていた。
昨日の光のことを、みんなまだ覚えている。怖いと思うのは、正しい反応だ。
それでも、胸は痛かった。
(……そっか)
私は荷物の紐を握り直した。
アキさんは隣にいる。
白衣ではなく、動きやすい上着を着ていた。
鞄の中には、包帯と薬草と、小さな刃物が入っている。
もう、出発の準備はできていた。
「あ」
広場の端で、一人だけ小さく手を振っている子がいた。
ビー玉をくれた、あの女の子だった。
小さく。遠くから。
私は足を止めた。
胸の奥が、きゅっと痛む。
私はそっと、手を振り返した。
リクが、その子の横で迷うように拳を握っていた。
ナナは口を開きかけて、閉じた。
ハルは目を伏せていた。
誰も、近づいては来なかった。でも、完全に背を向けてもいなかった。
私は、それだけを胸にしまった。
* * *
分厚い鉄扉の前に立った時、ザキさんも、テツさんも、広場にはいなかった。
見送りには来なかった。
けれど、遠くの見張り台に二つの影があった。
ザキさんと、テツさんだ。
二人は、こちらを見ていない。
外の荒野へ鋭い視線を向けている。
まるで、いつも通りの見張りをしているだけみたいに。
でも、ゲートの上の狙撃位置は、いつもよりずっと丁寧に整えられていた。
外へ続く道の左右には、さりげなく砦の戦闘員たちが散っている。
そういう配置だった。
私は、なんとなく分かった。
それが彼らなりの、不器用な別れの作法なのだ。
私は見張り台の方へ深く頭を下げた。
ザキさんは振り返らない。テツさんも、たぶん振り返らない。
それでよかった。
ギギギ、と音を立てて、鉄扉が開く。
防壁の外の空気が流れ込んできた。
砦の中より、少し冷たい。
湿った鉄と、泥と、遠い海の匂い。
外には、夢の国の部隊が整然と待っていた。
スズキさんが、列の先頭で穏やかに微笑んでいる。
「お待ちしておりました、ユキさん。アキさん」
私は小さく息を吸った。
怖い。
でも、足は動いた。
アキさんの手が、隣から差し出される。私はその手を握った。
一歩。
防壁の外へ出る。
背後で、ダイヤの砦の巨大な鉄扉が、軋む音を立てて閉まり始めた。
私は一度だけ振り返る。
錆びた鉄板。
歪んだゲート。
観覧車の鉄骨。
吊り橋。
洗濯物。
子供たちのいた広場。
アキさんと暮らしたゴンドラ。
最初の居場所。
そして、出ていく場所。
鉄扉が閉まる。重い音が胸の奥に落ちた。
私はもう一度だけ、深く頭を下げた。
「……ありがとう、ございました」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
アキさんが隣で私の手を握り直す。
「行きましょう、ユキ」
「……うん」
私は前を向いた。
防壁の外の空気は、砦の中よりわずかに冷たかった。
その冷たさを頬に受けながら、私は夢の国へ続く道を歩き出した。
次回「城が見えた」