ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜   作:Naito

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第15話 城が見えた

 防壁の外の空気は、砦の中より少し冷たかった。

 

 朝の曇った光の下、夢の国の迎えの部隊は静かに隊列を整えていた。

 腕章は揃っていて、服の汚れも少ない。

 誰も大声を出さず、誰も無駄に動かない。

 

 先頭にはスズキさんがいる。

 ただし、彼はすぐに私たちへ近づいてくることはなかった。

 少し離れた場所から、いつもの穏やかな笑顔で一礼する。

 

「では、参りましょう。ユキさん、アキさん」

 

 アキさんが、隣で私の手を握った。

 

「……行きましょう」

「うん」

 

 私は頷いて、夢の国へ続く道を歩き出した。

 隊列の先頭には、案内役の男たちが数人。後ろには護衛がつく。

 

 けれど、アキさんはずっと私の隣にいた。

 夢の国の人たちと私の間に、いつでも身体を入れられる距離で。

 

 私はその横顔を見上げる。

 砦を出てから、アキさんはほとんど喋っていない。

 でも、手は離さない。

 それだけで、少しだけ息ができた。

 

* * *

 

 砦を出て、まだ一時間も経っていなかった。

 それなのに、振り返ると、ダイヤの砦の観覧車はもう遠く霞み始めていた。

 

 地図の上なら、たいした距離ではない。

 川をひとつ挟んだだけの場所だったはずだ。

 

 けれど、鉄扉の向こうへ出た瞬間から、そこはもう別の世界だった。

 

 崩れた道路には、マナ結晶がアスファルトを押し割っていた。

 傾いた標識の向こうで、ひび割れた防音壁が曇り空を切っている。

 

 その隙間を、夢の国の部隊は迷いなく進んでいく。

 彼らは道を知っていた。

 どこを踏めば崩れないか。どの影に近づいてはいけないか。どこで声を潜めるべきか。

 全部、決まっているみたいに歩いている。

 

 私はその後ろを、アキさんに手を引かれて歩いた。

 ときどき、前を行く部隊の誰かがこちらを振り返る。

 けれど、すぐに前へ戻る。

 私はそのたびに、アキさんの手を少しだけ強く握ってしまった。

 

「大丈夫?」

「……うん。たぶん」

 

 そう答えたけれど、大丈夫かどうかはよく分からなかった。

 ただ、歩くしかなかった。

 やがて、旧江戸川へ向かう橋の手前で、隊列が少しだけ速度を落とした。

 

 崩れた防音壁の一部に、古い落書きが残っていた。

 

 星の形。

 子供が描いたみたいな丸い線。

 その下に、ひらがなの文字。

 

 いきてる。

 

 私は足を止めた。

 

「……いきてる」

 

 思わず、声に出して読んでいた。アキさんも立ち止まる。

 

「誰かが書いたのね」

「うん」

 

 私は、色褪せた文字をじっと見つめた。いつ書かれたものだろう。

 世界が壊れた直後か。

 誰かが逃げる途中か。

 それとも、今もどこかで生きている子供が書いたのか。

 

「……なんか、よかった」

 

 そう呟くと、アキさんが私の横顔を見た気がした。

 

「そうね」

 

 短い返事だった。

 それでも、アキさんの声は少しだけ優しかった。

 前方で、夢の国の案内役がこちらを振り返る。

 

「進みます」

 

 淡々とした声だった。

 私はもう一度だけ落書きを見てから、歩き出した。

 

* * *

 

 旧江戸川を渡る橋は、かろうじて形を保っていた。

 橋の欄干はところどころ折れ、路面には深い亀裂が走っている。

 マナ結晶がアスファルトの隙間から牙みたいに突き出し、風が吹くたびに青白い光を揺らしていた。

 

 夢の国の部隊は、橋の上で自然に隊列を細くした。

 一人ずつ間隔を空け、決められた線を踏むように進んでいく。

 

「足元、気をつけて」

 

 アキさんが私の手を引く。

 

「うん。気をつける」

 

 下を見ると、旧江戸川の水がゆっくり流れていた。

 濁った水面に、曇った空と、崩れた橋の影が映っている。

 向こう側が、舞浜。

 こちら側が、葛西。

 

 たったそれだけの距離だった。

 それなのに、橋の中央を越えた瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。

 砦が、後ろになる。

 

 ダイヤの砦。

 アキさんの救護所。

 リクたち。

 ビー玉をくれた女の子。

 見張り台にいたザキさんとテツさん。

 

 全部が、背中側へ回っていく。

 私は立ち止まりそうになった。けれど、アキさんの手がある。

 前からは、夢の国の部隊が進んでいく。後ろからも、護衛の足音が続いている。

 立ち止まる場所はなかった。

 

「ユキ」

 

 アキさんが、名前を呼んだ。ちゃん付けではない私の名前。

 

「……うん」

 

 私は小さく頷いて、橋を渡った。

 舞浜側の地面に足を置いた時、風の匂いが少し変わった気がした。

 

* * *

 

 昼を少し過ぎた頃、廃道の先に見慣れない建物のシルエットが現れ始めた。

 

 崩れた高架の下に、ひび割れた駅舎がある。

 錆びた案内板には、色褪せた夢の国の印が、半分だけ残っていた。

 文字のいくつかは剥がれ落ちていて、もう読めない。

 

 けれど、それを見た瞬間、胸の奥のどこかが小さく引っかかった。

 

(……ここ)

 

 来たことがある。そう思った。

 

 誰と来たのか。

 いつだったのか。

 その時、どんな顔をしていたのか。

 

 それは分からない。

 

 ただ、人の波と、軽い音楽。

 明るい床。誰かが笑っている声。

 

 そんな断片だけが、頭の奥にぼんやり浮かんだ。

 振り返ると、アキさんも一瞬だけその看板を見上げていた。

 お互い、そのことには触れなかった。触れたら、何かが崩れてしまう気がした。

 

 さらに進むと、外と内を分ける門が見えた。

 同じ布を腕に巻いた男たちが、二人立っている。

 

「止まれ。どちらから、何のために」

 

 片方の男が声をかけた。

 先頭の案内役が、短く答える。

 

「ダイヤの砦からの客人。スズキさんのお達しだ」

 

 検問の男たちの視線が、こちらへ向く。

 アキさんが一歩前に出た。私の身体を遮るように。

 

「アキ。ダイヤの砦では怪我人と病人を診ていたわ」

 

 怪我人と病人。

 その言葉を聞いた瞬間、門番の一人がわずかに目を上げた。

 

「……医者か」

 

 短い確認だった。

 けれど、その声には、ほんの少しだけ余分な熱が混じっていた。

 もう一人の門番が、奥の方へ視線を走らせる。

 

「ええ」

 

 アキさんは短く答えた。

 門番は一度だけ頷くと、今度は私へ視線を向けた。

 

「名前は」

 

 アキさんの身体が、ほんの少しだけ前に出る。

 

「この子はユキ」

 

 ユキ。

 私の名前が出た瞬間、門番たちは顔を見合わせた。

 今度の反応は、はっきりしていた。

 

「……通達は受けている。入れ」

 

 門が開く。

 

 中に足を踏み入れた瞬間、強烈な生の気配が押し寄せてきた。

 

 大勢の人間が密集して暮らす熱気に、焚き火と煮炊きの匂いが混じっている。

 湿った土。

 洗った布。

 どこかで煮えている豆の湯気。

 重なり合う、人の声。

 

 屋根付きの中央通りの下には、居住スペースがびっしりと並んでいた。

 

 布で仕切られた小さな部屋。

 木箱を重ねた棚。

 補強された屋根の下で揺れる洗濯物。

 

 その隙間を、人々が行き交っている。

 配給の列に並ぶ人もいれば、荷物を運ぶ人もいる。

 子供の手を引く人がいて、鍋のそばでは順番を待つ人たちが立っていた。

 

 そこには、人がたくさんいた。

 

「……子供がいる」

 

 思わず足を止めた。

 砦では少なかった、自分より幼い子供たちが、大人たちの足元で遊んでいる。

 

 走る子。

 欠けた人形を抱いた子。

 鍋のそばで順番を待つ子。

 

 泣いている子も、笑っている子もいた。

 

「こんにちは」

 

 ふいに、前方から声がした。

 角のない、ゆっくりとした声だった。

 

「……あなたが、ユキちゃん?」

 

 声の主は、淡いブロンドの髪を後ろでまとめた二十歳くらいの女性だった。

 清潔な揃いの上着。

 腕に巻いた同じ色の布。

 柔らかな微笑み。

 出会った瞬間にこちらの警戒をほどこうとするような、穏やかな笑顔だった。

 でも。

 

(……この人の目)

 

 笑っている。

 

 その目は砦の大人たちと同じだった。

 荒野を生きて、廃墟の中で何かを見てきた人の目。

 

 柔らかく笑うことを、必要だから選んでいる人の目だった。

 

「ハルカっていいます」

 

 女性は丁寧に頭を下げた。

 

「お二人の案内を任されているの」

 

 差し出された右手を、私は見た。

 白い手袋をしている。汚れがない。指先の動きまで、整っている。

 

 手を取ろうとした、その瞬間。

 

 すぐ後ろで、アキさんの気配が凍りついたように静まり返った。

 何が変わったのかは分からない。

 でも、「ユキちゃん」という言葉のあたりで、何かが変わった気がした。

 

「……よろしくお願いします」

 

 私は小さく頭を下げるだけにした。

 ハルカさんは、差し出した手を自然に戻した。

 気にした様子はない。

 

「さあ、遠くから来て疲れたでしょう。まずは休める場所へ案内するね、ユキちゃん」

 

 ハルカさんの手が、私の肩へ触れようとした。

 その前に、アキさんが無言で一歩、私たちの間に割り込んだ。

 ハルカさんは瞬きを一つした。

 それから、何もなかったように微笑む。

 

「こちらです」

 

 先を歩き始める。アキさんは私の手を握った。少し強い。

 

「アキさん」

「……なに」

「だいじょうぶ」

 

 小さく言うと、アキさんは返事をしなかった。

 ただ、手の力を少しだけ緩めた。

 

 でも、離しはしなかった。

 

* * *

 

 ハルカさんに案内されながら、私たちは人の波の中を進んだ。

 

 夢の国。

 かつて、そう呼ばれていた場所。

 

 でも今のここは、夢というより、大勢が身を寄せ合って生きる場所だった。

 

 小さな店だった場所には布が吊られ、人が暮らしている。

 土産物が並んでいたらしい棚には、乾燥させた野菜や、針と糸や、細かく分けられた薬草が、きちんと分けて置かれていた。

 

 石畳の上には、炊き出しの列ができていた。

 それでも、不思議なことに、ところどころに昔の名残が残っていた。

 

 色褪せた装飾は、今も丁寧に拭かれている。

 案内板の文字は薄くなっていたけれど、誰かが下に手書きの札を足していた。

 壁画の前には荷物が置かれないよう、低い柵が作られている。

 

 ここはもう昔のままではない。

 それでも、楽しい場所だった記憶を、誰かが捨てずに残していた。

 

 その明るさの名残の中で、人々が真剣に生きていた。

 

 アキさんはずっと黙っていた。

 ハルカさんは時々振り返り、道を説明してくれる。

 

「こちらで食べ物を配っています。奥が大鍋の場所です。怪我人や具合の悪い人は、中央の医務室へ運ばれます。アキさんには、後でそちらも見ていただく予定です」

「……そう」

 

 アキさんの返事は短い。

 ハルカさんは笑顔を崩さない。

 

「ユキちゃんは、まず休んでね。スズキさんも、長旅の後だから無理をさせないようにって」

 

 アキさんの手が、また少しだけ強くなる。

 私は何も言えなかった。

 

 ユキちゃん。

 ここでは、会ったばかりの人がそう呼ぶ。

 アキさんが呼ぶ「ユキ」とは違う。リクやナナが呼ぶ「ユキ」とも違う。

 

 丁寧で、優しくて、少しだけ遠い。

 その距離感に、私はまだ慣れなかった。

 

 しばらく進むと、前方の空が開けた。

 

 人の波の向こう、古びた建物の間。

 午後の光の中に、夢の国の白い城が現れた。

 

「……」

 

 歩みが、止まった。

 

 白い塔と、青い屋根。

 そのところどころに、マナ結晶が根を張るように広がっている。

 

 尖塔に絡みついた結晶は、傾きかけた午後の光を受けて、ゆっくりと青白く輝いていた。

 綺麗だった。

 

(……あれが、お城)

 

 知っている。私はたぶん知っている。

 昔の写真か。映像か。本当に来たことがあるのか。

 分からない。

 

 でも、胸の奥で何かが震えた。

 子供だった頃の記憶なのか。大人だった頃の記憶なのか。

 この身体に残った、知らない何かなのか。

 何も言葉にならなかった。

 ただ、見上げていた。

 

「ユキちゃん?」

 

 ハルカさんが振り返った。

 私は、はっと瞬きをする。

 

「……だいじょうぶ」

 

 そう言って、歩き出す。

 でも、もう一度だけ振り返った。

 

 夢の国の城は、マナ結晶の光をまとって静かに立っていた。

 

 二人きりではない旅の終わり。

 それでも、アキさんと手を繋いだまま辿り着いた場所。

 

 ここで始まる何かの、最初の形だった。




次回「ありがとう、と言えなかった」
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