ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
防壁の外の空気は、砦の中より少し冷たかった。
朝の曇った光の下、夢の国の迎えの部隊は静かに隊列を整えていた。
腕章は揃っていて、服の汚れも少ない。
誰も大声を出さず、誰も無駄に動かない。
先頭にはスズキさんがいる。
ただし、彼はすぐに私たちへ近づいてくることはなかった。
少し離れた場所から、いつもの穏やかな笑顔で一礼する。
「では、参りましょう。ユキさん、アキさん」
アキさんが、隣で私の手を握った。
「……行きましょう」
「うん」
私は頷いて、夢の国へ続く道を歩き出した。
隊列の先頭には、案内役の男たちが数人。後ろには護衛がつく。
けれど、アキさんはずっと私の隣にいた。
夢の国の人たちと私の間に、いつでも身体を入れられる距離で。
私はその横顔を見上げる。
砦を出てから、アキさんはほとんど喋っていない。
でも、手は離さない。
それだけで、少しだけ息ができた。
* * *
砦を出て、まだ一時間も経っていなかった。
それなのに、振り返ると、ダイヤの砦の観覧車はもう遠く霞み始めていた。
地図の上なら、たいした距離ではない。
川をひとつ挟んだだけの場所だったはずだ。
けれど、鉄扉の向こうへ出た瞬間から、そこはもう別の世界だった。
崩れた道路には、マナ結晶がアスファルトを押し割っていた。
傾いた標識の向こうで、ひび割れた防音壁が曇り空を切っている。
その隙間を、夢の国の部隊は迷いなく進んでいく。
彼らは道を知っていた。
どこを踏めば崩れないか。どの影に近づいてはいけないか。どこで声を潜めるべきか。
全部、決まっているみたいに歩いている。
私はその後ろを、アキさんに手を引かれて歩いた。
ときどき、前を行く部隊の誰かがこちらを振り返る。
けれど、すぐに前へ戻る。
私はそのたびに、アキさんの手を少しだけ強く握ってしまった。
「大丈夫?」
「……うん。たぶん」
そう答えたけれど、大丈夫かどうかはよく分からなかった。
ただ、歩くしかなかった。
やがて、旧江戸川へ向かう橋の手前で、隊列が少しだけ速度を落とした。
崩れた防音壁の一部に、古い落書きが残っていた。
星の形。
子供が描いたみたいな丸い線。
その下に、ひらがなの文字。
いきてる。
私は足を止めた。
「……いきてる」
思わず、声に出して読んでいた。アキさんも立ち止まる。
「誰かが書いたのね」
「うん」
私は、色褪せた文字をじっと見つめた。いつ書かれたものだろう。
世界が壊れた直後か。
誰かが逃げる途中か。
それとも、今もどこかで生きている子供が書いたのか。
「……なんか、よかった」
そう呟くと、アキさんが私の横顔を見た気がした。
「そうね」
短い返事だった。
それでも、アキさんの声は少しだけ優しかった。
前方で、夢の国の案内役がこちらを振り返る。
「進みます」
淡々とした声だった。
私はもう一度だけ落書きを見てから、歩き出した。
* * *
旧江戸川を渡る橋は、かろうじて形を保っていた。
橋の欄干はところどころ折れ、路面には深い亀裂が走っている。
マナ結晶がアスファルトの隙間から牙みたいに突き出し、風が吹くたびに青白い光を揺らしていた。
夢の国の部隊は、橋の上で自然に隊列を細くした。
一人ずつ間隔を空け、決められた線を踏むように進んでいく。
「足元、気をつけて」
アキさんが私の手を引く。
「うん。気をつける」
下を見ると、旧江戸川の水がゆっくり流れていた。
濁った水面に、曇った空と、崩れた橋の影が映っている。
向こう側が、舞浜。
こちら側が、葛西。
たったそれだけの距離だった。
それなのに、橋の中央を越えた瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
砦が、後ろになる。
ダイヤの砦。
アキさんの救護所。
リクたち。
ビー玉をくれた女の子。
見張り台にいたザキさんとテツさん。
全部が、背中側へ回っていく。
私は立ち止まりそうになった。けれど、アキさんの手がある。
前からは、夢の国の部隊が進んでいく。後ろからも、護衛の足音が続いている。
立ち止まる場所はなかった。
「ユキ」
アキさんが、名前を呼んだ。ちゃん付けではない私の名前。
「……うん」
私は小さく頷いて、橋を渡った。
舞浜側の地面に足を置いた時、風の匂いが少し変わった気がした。
* * *
昼を少し過ぎた頃、廃道の先に見慣れない建物のシルエットが現れ始めた。
崩れた高架の下に、ひび割れた駅舎がある。
錆びた案内板には、色褪せた夢の国の印が、半分だけ残っていた。
文字のいくつかは剥がれ落ちていて、もう読めない。
けれど、それを見た瞬間、胸の奥のどこかが小さく引っかかった。
(……ここ)
来たことがある。そう思った。
誰と来たのか。
いつだったのか。
その時、どんな顔をしていたのか。
それは分からない。
ただ、人の波と、軽い音楽。
明るい床。誰かが笑っている声。
そんな断片だけが、頭の奥にぼんやり浮かんだ。
振り返ると、アキさんも一瞬だけその看板を見上げていた。
お互い、そのことには触れなかった。触れたら、何かが崩れてしまう気がした。
さらに進むと、外と内を分ける門が見えた。
同じ布を腕に巻いた男たちが、二人立っている。
「止まれ。どちらから、何のために」
片方の男が声をかけた。
先頭の案内役が、短く答える。
「ダイヤの砦からの客人。スズキさんのお達しだ」
検問の男たちの視線が、こちらへ向く。
アキさんが一歩前に出た。私の身体を遮るように。
「アキ。ダイヤの砦では怪我人と病人を診ていたわ」
怪我人と病人。
その言葉を聞いた瞬間、門番の一人がわずかに目を上げた。
「……医者か」
短い確認だった。
けれど、その声には、ほんの少しだけ余分な熱が混じっていた。
もう一人の門番が、奥の方へ視線を走らせる。
「ええ」
アキさんは短く答えた。
門番は一度だけ頷くと、今度は私へ視線を向けた。
「名前は」
アキさんの身体が、ほんの少しだけ前に出る。
「この子はユキ」
ユキ。
私の名前が出た瞬間、門番たちは顔を見合わせた。
今度の反応は、はっきりしていた。
「……通達は受けている。入れ」
門が開く。
中に足を踏み入れた瞬間、強烈な生の気配が押し寄せてきた。
大勢の人間が密集して暮らす熱気に、焚き火と煮炊きの匂いが混じっている。
湿った土。
洗った布。
どこかで煮えている豆の湯気。
重なり合う、人の声。
屋根付きの中央通りの下には、居住スペースがびっしりと並んでいた。
布で仕切られた小さな部屋。
木箱を重ねた棚。
補強された屋根の下で揺れる洗濯物。
その隙間を、人々が行き交っている。
配給の列に並ぶ人もいれば、荷物を運ぶ人もいる。
子供の手を引く人がいて、鍋のそばでは順番を待つ人たちが立っていた。
そこには、人がたくさんいた。
「……子供がいる」
思わず足を止めた。
砦では少なかった、自分より幼い子供たちが、大人たちの足元で遊んでいる。
走る子。
欠けた人形を抱いた子。
鍋のそばで順番を待つ子。
泣いている子も、笑っている子もいた。
「こんにちは」
ふいに、前方から声がした。
角のない、ゆっくりとした声だった。
「……あなたが、ユキちゃん?」
声の主は、淡いブロンドの髪を後ろでまとめた二十歳くらいの女性だった。
清潔な揃いの上着。
腕に巻いた同じ色の布。
柔らかな微笑み。
出会った瞬間にこちらの警戒をほどこうとするような、穏やかな笑顔だった。
でも。
(……この人の目)
笑っている。
その目は砦の大人たちと同じだった。
荒野を生きて、廃墟の中で何かを見てきた人の目。
柔らかく笑うことを、必要だから選んでいる人の目だった。
「ハルカっていいます」
女性は丁寧に頭を下げた。
「お二人の案内を任されているの」
差し出された右手を、私は見た。
白い手袋をしている。汚れがない。指先の動きまで、整っている。
手を取ろうとした、その瞬間。
すぐ後ろで、アキさんの気配が凍りついたように静まり返った。
何が変わったのかは分からない。
でも、「ユキちゃん」という言葉のあたりで、何かが変わった気がした。
「……よろしくお願いします」
私は小さく頭を下げるだけにした。
ハルカさんは、差し出した手を自然に戻した。
気にした様子はない。
「さあ、遠くから来て疲れたでしょう。まずは休める場所へ案内するね、ユキちゃん」
ハルカさんの手が、私の肩へ触れようとした。
その前に、アキさんが無言で一歩、私たちの間に割り込んだ。
ハルカさんは瞬きを一つした。
それから、何もなかったように微笑む。
「こちらです」
先を歩き始める。アキさんは私の手を握った。少し強い。
「アキさん」
「……なに」
「だいじょうぶ」
小さく言うと、アキさんは返事をしなかった。
ただ、手の力を少しだけ緩めた。
でも、離しはしなかった。
* * *
ハルカさんに案内されながら、私たちは人の波の中を進んだ。
夢の国。
かつて、そう呼ばれていた場所。
でも今のここは、夢というより、大勢が身を寄せ合って生きる場所だった。
小さな店だった場所には布が吊られ、人が暮らしている。
土産物が並んでいたらしい棚には、乾燥させた野菜や、針と糸や、細かく分けられた薬草が、きちんと分けて置かれていた。
石畳の上には、炊き出しの列ができていた。
それでも、不思議なことに、ところどころに昔の名残が残っていた。
色褪せた装飾は、今も丁寧に拭かれている。
案内板の文字は薄くなっていたけれど、誰かが下に手書きの札を足していた。
壁画の前には荷物が置かれないよう、低い柵が作られている。
ここはもう昔のままではない。
それでも、楽しい場所だった記憶を、誰かが捨てずに残していた。
その明るさの名残の中で、人々が真剣に生きていた。
アキさんはずっと黙っていた。
ハルカさんは時々振り返り、道を説明してくれる。
「こちらで食べ物を配っています。奥が大鍋の場所です。怪我人や具合の悪い人は、中央の医務室へ運ばれます。アキさんには、後でそちらも見ていただく予定です」
「……そう」
アキさんの返事は短い。
ハルカさんは笑顔を崩さない。
「ユキちゃんは、まず休んでね。スズキさんも、長旅の後だから無理をさせないようにって」
アキさんの手が、また少しだけ強くなる。
私は何も言えなかった。
ユキちゃん。
ここでは、会ったばかりの人がそう呼ぶ。
アキさんが呼ぶ「ユキ」とは違う。リクやナナが呼ぶ「ユキ」とも違う。
丁寧で、優しくて、少しだけ遠い。
その距離感に、私はまだ慣れなかった。
しばらく進むと、前方の空が開けた。
人の波の向こう、古びた建物の間。
午後の光の中に、夢の国の白い城が現れた。
「……」
歩みが、止まった。
白い塔と、青い屋根。
そのところどころに、マナ結晶が根を張るように広がっている。
尖塔に絡みついた結晶は、傾きかけた午後の光を受けて、ゆっくりと青白く輝いていた。
綺麗だった。
(……あれが、お城)
知っている。私はたぶん知っている。
昔の写真か。映像か。本当に来たことがあるのか。
分からない。
でも、胸の奥で何かが震えた。
子供だった頃の記憶なのか。大人だった頃の記憶なのか。
この身体に残った、知らない何かなのか。
何も言葉にならなかった。
ただ、見上げていた。
「ユキちゃん?」
ハルカさんが振り返った。
私は、はっと瞬きをする。
「……だいじょうぶ」
そう言って、歩き出す。
でも、もう一度だけ振り返った。
夢の国の城は、マナ結晶の光をまとって静かに立っていた。
二人きりではない旅の終わり。
それでも、アキさんと手を繋いだまま辿り着いた場所。
ここで始まる何かの、最初の形だった。
次回「ありがとう、と言えなかった」