ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
既読の方は飛ばしても大筋は追えますが、砦の住人の心情補強回になっています。
娘が三歳の頃、私たちはこの砦に流れ着いた。
夫は、変異の夜に帰ってこなかった。探しに出た隣人も、翌朝には帰ってこなかった。
だから私は、探すのをやめた。
薄情だったとは思わない。
あの夜から、世界はそういう場所になった。
探しに行った人間が帰ってこないなら、残された人間は生きるしかない。
私は娘の手を引いて、東へ歩いた。
まだ三歳だった娘は、最初のうちは泣いてばかりいた。
「パパは?」
「あとで来るわ」
「ほんと?」
「ほんとよ」
私は嘘をついた。何度もついた。
嘘をつくたび、胸のどこかが削れていく気がした。
でも、正直に言ったところで、三歳の子供が何を理解できただろう。
パパはもう帰ってこない。
世界は壊れた。
明日食べるものも分からない。
そんな言葉を渡すくらいなら、私は嘘を選んだ。
ダイヤの砦に辿り着いた時、娘はもう歩けなくなっていた。
最後の三日間は、ずっと抱えて歩いた。
腕の感覚はなかった。
足の裏は裂けていた。
喉は渇いて、頭はぼんやりして、何を考えていたのかも覚えていない。
ただ、脚を動かすことだけを考えていた。
門の前で、私は倒れた。娘を抱いたまま。
そこで、ザキさんの声を聞いた。
「子供がいる。入れてやれ」
それだけだった。
名前も聞かれなかった。
どこから来たのかも、何ができるのかも。
理由なんて、何も問われなかった。
砦は、居心地の良い場所とは言えなかった。
食料は少ない。
夜は冷える。
大人たちはいつも何かを警戒していて、怒鳴り声も銃声も珍しくなかった。
でも、娘が笑うようになった。
他の子供たちと走り回るようになった。
それだけで、私には十分だった。
娘はいま、六歳になる。
小さかった手は少し大きくなり、走るのも速くなった。
転んでも、すぐには泣かなくなった。
私が目を離した隙に、知らない子の輪の中へ入っていけるようになった。
生きている。
それだけで、十分だった。
◇ ◇ ◇
あの銀髪の女の子が砦に来たのは、今年の春のことだ。
最初に話しかけたのは、娘だった。
子供というのは、時々、大人が見ないものを見ている。
大人たちが遠巻きにしていた小さな女の子。
銀色の髪。
白い肌。
少し大きい服。
広場の隅にちょこんと座っていたその子を見つけると、娘は迷わず駆け寄っていった。
「あのこ、ともだちになれそう」
娘がそう言った時、私は特に何も思わなかった。
子供はそういうものだと思った。
大人なら警戒する。
素性を考える。
面倒事にならないか、誰の保護下にあるのか、どこから来たのかを先に考える。
でも、子供は違う。
寂しそうにしている子がいれば、近づく。きれいな髪だと思えば、褒める。
泣きそうな顔をしていれば、隣に座る。
娘は、その子をユキちゃんと呼んだ。
ビー玉の件は、後から娘に聞いた。
「たすけてくれたから、お礼したかったの。ぎんいろだから、にあうと思って」
娘はそう言った。
助けてくれた、という言葉の意味は、私にも分かっていた。
少し前、娘は高い熱を出して、救護所に運び込まれたことがある。顔を真っ赤にして、何度も私を呼んでいたと、後でアキ先生から聞いた。
私が駆けつけた時には、熱はもう下がっていた。
アキ先生は「峠は越えました」とだけ言った。私は泣きながら頭を下げて、娘の手を握った。
その時、娘がぼんやりとした声で言ったのだ。
「ユキちゃんが、て、にぎってくれたの。あったかかった」
私は、それを子供の夢うつつの言葉だと思っていた。
熱で苦しんでいた時に、そばにいてくれた小さな子。
手を握って、励ましてくれた子。
だから娘は、その子にお礼をしたかったのだと。
そのくらいにしか、考えていなかった。
砦で毎日を生き延びるのが精一杯で、私は娘の日常の細かいところまで追えていなかった。
朝になれば水を汲む。
食べ物の配分を手伝う。
古い布を縫い直す。
怪我人の世話に呼ばれることもある。
娘が今日、誰と遊んだのか。
どこで転んだのか。
誰に何をもらったのか。
そういう小さなことを、一つずつ拾ってやれる余裕はなかった。
今にして思えば、あの時から、娘にとってユキちゃんは特別だったのだろう。
そして、私が思っていたよりもずっと深い意味で、娘はあの子に助けられていたのだ。
◇ ◇ ◇
あの日のことを、私はまだ忘れられない。
集結命令が出て、広場に人が集まっていた。
外の勢力と何か揉めている、という話は聞いていた。
夢の国。
スズキさん。
そんな言葉が、大人たちの間で低く交わされていた。
でも、私には遠い話だった。
砦の上の人たちが決めること。
ザキさんたちがどうにかすること。
私にできるのは、娘を危ない場所から遠ざけることくらいだった。
「危ないから、こっちにいなさい」
私は娘を呼んだ。
でも、娘は友達と一緒に、広場の隅にいた。
ユキちゃんの近くではなかった。
でも、ユキちゃんのことは何度も見ていた。気になっているのだろうと思った。
近づこうとした時に、銃声が響いた。
空へ向けた威嚇射撃だったのだと、後から聞いた。
その時の私には、そんなことは分からなかった。
ただ、音が大きすぎた。
身体が固まった。
足が地面に縫い付けられたようになった。
次の瞬間、上から金属の軋む音が聞こえた。
嫌な音だった。
古い鉄が、限界を超えて裂ける音。見上げた先で、補強梁が歪んでいた。
鉄骨が、落ちる。
そう理解するより先に、娘の姿が目に入った。
真下にいた。
娘がいた。
声が出なかった。
脚が動かなかった。
母親として、最悪の瞬間だった。娘に向かって走れなかった。
抱きしめることも、突き飛ばすことも、名前を呼ぶこともできなかった。
私はただ、立ち尽くしていた。
そして、光が溢れた。
金色の光だった。
眩しくて、温かくて、場違いなほどきれいな光。
それが、娘たちを包んだ。
鉄骨が止まった。
正確には、弾かれたのだと思う。
重い金属が地面に叩きつけられ、土煙が広がった。
私は、息をすることも忘れていた。
煙が晴れた時、銀髪の女の子が立っていた
小さな両手を下ろして。
肩を震わせて。
娘たちの前に。
娘は無事だった。
怪我もなかった。
泣いてはいたけれど、生きていた。
安堵が、恐怖よりも先に来た。
生きている。
娘が生きている。
その事実だけで、膝から力が抜けそうになった。
でも、次の瞬間。
私は、ユキちゃんから遠ざかっていた。娘の肩を引き寄せて、体ごと横に動いていた。
自分でも気づかないうちに。
娘を抱きしめながら、私はユキちゃんの小さな背中を見ていた。
大人たちが後退っていた。
誰も声を出さなかった。
沈黙の中で、砦全体があの子から距離を置いていた。
私も、その中の一人だった。
(ありがとう、と言わなければ)
そう思った。
思ったのに、足が動かなかった。口が開かなかった。
娘を助けてくれた。命を救ってくれた。
ありがとう。
母親なら。大人なら。人として。
周りを見た。
大人たちが、じわじわと後退っている。
誰も声を出さない。
誰も前に出ない。
その沈黙の中に、私は溶け込んでいた。
みんなが怖がっているから、怖かった。
そう思った。それだけだった。
そう思いたかった。
でも、本当はもう一つあった。
娘が危なかった瞬間、私は動けなかった。
母親であるのに、足が地面から離れなかった。
その最悪の瞬間を、あの光はそのまま解決してしまった。
私が果たせなかったことを、あの小さな子が果たした。
感謝するより先に、それが後ろめたかった。
自分が情けなかった。
その居心地の悪さを、私は怖さと呼んだ。
怖いから、遠ざかった。そういうことにした。
◇ ◇ ◇
その夜、娘が言った。
「ユキちゃん、どうしてこっちに来ないの」
私は返事に詰まった。
広場の端で、ユキちゃんはアキさんと一緒に座っていた。
子供たちの輪から少し離れた場所。
いつもなら、娘たちの近くにいるはずだった。
笑ったり、石を並べたり、小さい子が転ばないように手を伸ばしたりしていたはずだった。
でも、その夜は違った。
「……分からないわ」
私はそう答えた。
嘘だった。
分かっていた。
誰も呼ばなかったからだ。
誰も、今まで通りに声をかけられなかったからだ。
ユキちゃんが変わったのではない。
私たちの目が変わったのだ。
「みんな、こわいの?」
「……そうかもしれない」
「たすけてくれたのに」
娘はそう言った。小さな声だった。
でも、まっすぐだった。
答えられなかった。
娘は正しかった。
子供の方が、ずっと正しかった。
助けてくれた。
だから、ありがとうと言う。
それだけでよかったはずなのに。大人は、そこにいくつもの理由を重ねる。
怖かったから。
分からなかったから。
周りがそうしていたから。
危ないかもしれないから。
娘には、そんなものは何もなかった。
「ユキちゃん、かなしい?」
娘が聞いた。
私は、広場の端にいる銀色の髪を見た。アキさんの手が、その頭に置かれている。
ユキちゃんは小さくうつむいていた。
「……悲しいと思う」
娘は膝の上の手をぎゅっと握った。
◇ ◇ ◇
彼女たちが砦を出る朝のこと。
荷物を背負った二人が、鉄扉の前に立っていた。
銀髪の女の子と、女医のアキさん。
たった二人ではない。
外には、夢の国の迎えの部隊が待っている。
それでも、私には、あの二人だけが砦から切り離されていくように見えた。
前の晩から、話は砦中に広まっていた。
ユキちゃんは夢の国へ行く。
アキさんも一緒に行く。
スズキさんがそう望んだ。
ザキさんたちは止めなかった。
噂は、誰かの口を通るたびに形を変えた。
あの子が自分で決めたらしい。
アキさんが連れていくらしい。
夢の国に渡したら、砦は助かるらしい。
助けられた子供たちの親は、何を思っていたのだろう。
私は、何を思えばよかったのだろう。
声をかけようとした。
何度も思った。
ありがとう。
娘を助けてくれて、ありがとう。
昨日、言えなくてごめんなさい。
怖がって、ごめんなさい。
言葉は、頭の中にいくつもあった。でも、どれも声にならなかった。
怖かった。
ユキちゃんが、ではない。
ユキちゃんの前に立った時、自分の情けなさを見せつけられるのが怖かった。
私は、最後まで大人のふりをして、遠くに立っていた。
その時だった。
娘が、広場の端から小さく手を振った。
遠くから。
でも、ちゃんと振っていた。
ユキちゃんが立ち止まる。
こちらを見た。
そして、そっと、小さく、手を振り返した。
私はその横で、何もできなかった。
ありがとう。
そう言いたかった。
ごめんなさい。
そう言いたかった。
でも、やっぱり声にはならなかった。
鉄扉が閉まる。
重い音が、砦の中に響いた。
ユキちゃんとアキさんの姿が、外の光の向こうへ消えていった。
娘は、しばらく手を下ろさなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、娘は窓のそばに立っていた。
朝食を呼びに行くと、振り返りもせずに「うん」と言った。
娘の目がどこを見ていたか、私には分かっていた。
鉄扉の向こう。
廃道の先。
夢の国へ続く方角。
そこに、もうここにはいない銀髪の女の子を探していた。
「ご飯、冷めるわよ」
「……うん」
返事だけはする。でも、動かない。
私は娘の後ろ姿を見ていた。
「……ねえ」
娘が言った。
「ユキちゃん、帰ってくる?」
私は答えられなかった。
帰ってくる、と言ってやりたかった。でも、また嘘になる気がした。
夫の時と同じように。
あとで来るわ。
ほんとよ。
そう言ってしまったあの日と同じように。
私は少しだけ息を吸った。
「分からないわ」
娘の肩が、小さく揺れた。
「でも」
私は続けた。
「あなたが手を振ったことは、きっと覚えていると思う」
娘は振り返らなかった。けれど、窓の縁に置かれた手が、ぎゅっと握られた。
窓の外では、朝の光が錆びた鉄骨を照らしていた。
ダイヤの砦は、いつも通り軋んでいる。
何も変わっていないように見える。
でも、娘の視線の先には、もうここにはいない子がいた。
私はその隣に立った。
遅すぎると分かっていた。
それでも、口の中で小さく呟いた。
「……ありがとう」
誰にも届かない声だった。
娘にも、ユキちゃんにも。
それでも、言わずにはいられなかった。
朝の光の中で、娘はまだ、夢の国へ続く方角を見ていた。
次回「白い城の奥で」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
次回からは夢の国編です。
新しい場所でユキとアキがどう変わっていくのか、引き続き見守っていただければ嬉しいです。