ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜   作:Naito

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第2話 鏡の中の少女

 観覧車は、さっきよりも大きく見えていた。

 けれど、まっすぐ近づく勇気はない。

 

 あそこには人がいる。

 

 助かる可能性がある。撃たれる可能性もある。

 その両方が、同じ場所にぶら下がっていた。

 

 私は崩れた建物の影を選びながら、少しずつ南へ進む。

 壊れた看板が、半分だけ地面に埋もれている。

 斜めに傾いた電柱の向こうで、ひっくり返ったバスが黒い腹を見せていた。

 その足元では、青白い結晶がアスファルトを割って伸びている。

 

 そのどれもに、昔の東京の名残はある。

 けれど、私の知っている街ではなかった。

 

 東京の形をした、別の何か。

 そう呼ぶ方が、まだ近い気がした。

 

 半壊した建物の奥に、細い光が差していた。

 

 さっき逃げ込んだコンビニほど丈夫そうではない。

 それでも、壁はある。

 入口も残っている。

 身を隠すには十分だった。

 

 私は暗がりへ滑り込んだ。

 

 中は、かつて小さな商業施設だったらしい。

 割れたタイルが床一面に散っていた。

 壁の案内板は剥がれ、天井から垂れた配線だけが、乾いた蔓みたいに揺れている。

 

 奥の方に、トイレの表示が見えた。

 

 水が出るとは思えない。

 けれど、壁と扉が残っているだけでありがたい。

 割れたタイルを避けながら、暗がりの奥へ進む。

 

 従業員用の鉄扉は、ひしゃげて半開きになっていた。

 壁には、黒く滲んだシフト表らしき紙が貼りついている。

 

 誰かが働いていた場所。でも、今はもう誰もいない。

 

 足先が、硬いタイルを叩いた。

 洗面所の跡だ。

 壁掛けの小さな換気窓から、細い光が一本落ちている。

 その光の先に、ホコリを被った洗面台と、ひび割れた大きな鏡があった。

 

「……っ」

 

 鏡の中に、誰かが立っていた。

 

 細い影。

 

 泥だらけの装備。

 銀色の髪。

 大きすぎるライフル。

 

 反射的に、私は銃を持ち上げかけた。

 鏡の中の少女も、同じように銃口をこちらへ向ける。

 

 数秒遅れて、目の前にあるのが鏡だと理解した。

 銃を構えた少女の肩が、私と同じタイミングで上下している。

 腕から力が抜けた。

 

「……び、びっくりしたぁ……」

 

 情けない声が、洗面所のタイルに吸い込まれた。

 私はライフルを肩に掛け直し、洗面台へ近づいた。

 

 グローブを外す。

 鏡の埃を拭う。

 

 灰色の膜の向こうから、知らない少女の顔が現れた。

 丸い頬に、薄い唇。

 泣き出しそうな碧灰色の目だけが、こちらを見返している。

 

 どれも、私の記憶の中の「自分」とは噛み合わない。

 

 泥だらけの男物装備は、肩にも腰にも余っていた。

 布とベルトの隙間から覗く身体だけが、ひどく場違いなほど子供だった。

 

「うぅ……何度見ても、タチの悪い冗談だよぉ……」

 

 鏡の中の少女が、困ったように眉を下げる。

 

 身長は、おそらく百二十センチ前後。

 サイズの合わない装備を引っかけた、泥だらけのちっぽけな子供。

 何より目を引いたのは、腰まで伸びた髪だった。

 

 銀色。

 宝石みたいに澄んだ色ではない。

 月光を薄く濁らせたような、くすんだ光。

 

 土とホコリにまみれているはずなのに、一本一本が冷たい光を細く返していた。

 私は、鏡の中の自分の頬に、そっと指先を這わせる。

 

 指が頼りないほど細い。

 頬は柔らかい。

 触れているはずなのに、触れられている側の感覚まで、やけにはっきり返ってくる。

 

「こんなの、わたしじゃないのに」

 

 鏡の向こうの子も、同じ口の形をした。

 

 高くて細い声。

 私の記憶の中にある声は、もっと低かった。

 少なくとも、こんなふうに震えたりしなかった。

 

 向こうの子が、泣き出すのをこらえるみたいに唇を噛む。

 

「でも……」

 

 私は洗面台の縁を握った。

 

 小さな手だった。

 指も細い。手首も頼りない。少し力を入れたら折れてしまいそうに見える。

 

 それでも、その手は動いた。

 瓦礫を掴んだ。銃を抱えた。ここまで歩いてきた。

 

「生きてるもん」

 

 言い聞かせるみたいな声だった。

 

「この身体でも、わたしはまだ生きてるんだから」

 

 強がりだ。

 口にした瞬間、自分でそう思った。

 けれど、鏡の中の子供は泣き崩れずに立っている。

 今は、それで十分だった。

 

 私は両手で頬を叩いた。

 

「いっ、たぁい……っ」

 

 加減を間違えた。

 白い頬に赤い手形が浮かび、涙が一粒こぼれる。

 痛みのおかげで、ぼやけていた頭に芯が戻った。

 

 このままじゃ駄目だ。

 長い髪は危ない。瓦礫に引っかかる。戦う時にも邪魔になる。

 

 私はベルトのポーチから、黒いヘアゴムを取り出した。

 

 腰まである銀髪を両手で集める。

 指の間を、さらさらと冷たい束が滑っていった。

 こんなものを、自分の頭から生やしていた覚えはない。

 

 何度か失敗した。

 途中で崩れた。

 髪が指に絡まって、少し涙目になった。

 

 それでも、どうにか後ろでひとつに束ねる。

 

「よしっ」

 

 鏡の中の少女は、まだ泥だらけだった。

 

 頼りない。

 泣きそう。

 

 それでも、乱れた髪をまとめると、ただの迷子には見えなくなった。

 

「いくもん」

 

 言ってから、また顔が熱くなった。

 

 もう訂正しなかった。

 私は鏡の中の少女に小さく頷き、重たいライフルを胸に抱えた。

 

* * *

 

 外へ出ると、陽射しが傾き始めていた。

 

 観覧車は、もう空の一部みたいに大きい。

 錆びた輪のあちこちに、ツタと小屋が絡みついている。

 青白い結晶の光の間で、布が風に揺れていた。

 

 近づけば近づくほど、そこがただの廃墟ではないと分かってくる。

 

 人がいる。

 あの高さで暮らしている。

 足が勝手に前へ出そうになった。

 

 同時に、腹の底が冷える。

 人に会えるということは、人に撃たれるかもしれないということでもあった。

 

 この世界で、見知らぬ相手を簡単に信用する人間なんてきっといない。

 私だって、逆の立場なら警戒する。

 廃墟の真ん中から、大きすぎる銃を抱えた銀髪の子供が一人で歩いてくる。

 

 怪しい。

 撃たれても文句は言えないくらいに。

 

「……ちゃんと、話せば」

 

 私は小さく呟いた。

 

 武器を捨てる。

 両手を上げる。

 敵意はないと伝える。

 

 手順だけなら、頭の中で何度もなぞれた。

 けれど、膝は言うことを聞かなかった。

 

 観覧車の根元を囲む防壁が迫ってくる。

 

 溶接したスクラップの山。

 傷だらけの鉄板。

 倒れた車両を積み重ねた壁。

 

 入口までの道だけが、妙に開けていた。

 

 身を隠せる瓦礫がない。

 車の残骸もない。

 倒れた標識すら、脇へどけられている。

 

 違う。

 掃除されているんじゃない。

 撃ちやすいように、何も置かれていないのだ。

 

「……キルゾーン」

 

 口から出た言葉に、自分でぞっとした。

 大人だった頃の知識が、今さら役に立つ。

 

 入口までの数十メートル。

 遮蔽物なし。

 防壁の上には射線が通る。

 

 ここを通る者は、丸見えになる。

 奥歯を噛む。

 行くしかない。

 

 ここまで来た。

 

 戻ったところで、食べ物はない。

 水も尽きかけている。

 安全に眠れる場所なんて、もっとない。

 

 あそこに入れなければ、どのみち終わりだ。

 

「……だいじょうぶ」

 

 声に出さないと、足が止まりそうだった。

 

「だいじょうぶ。ちゃんと、話せば……」

 

 ライフルのスリングを肩から外す。

 両手で支えた瞬間、重さが腕に沈んだ。

 これを抱えたまま近づけば、撃たれても文句は言えない。

 

 入口が見える位置で立ち止まり、ゆっくりと地面に置いた。

 銃身が瓦礫を叩き、鈍い音が響く。

 

 その瞬間だった。

 

 上の方で、いくつもの金属音が短く重なった。

 防壁の隙間から。

 小屋の影から。

 積み上げた鉄板の上から。

 

 黒い銃口が、いっせいにこちらを向いた。

 

「そこから一歩でも動いてみろ!」

 

 拡声器越しの怒声が、空気を叩いた。

 

「脳天を吹き飛ばすぞ!」

 

 肩が跳ねる。

 心臓が、身体の中で暴れた。

 

 両手を上げなきゃ。

 敵意はありません。

 人間です。

 助けてください。

 

 言うべき言葉は並んでいる。

 なのに、どれも口まで上がってこない。

 

 膝が震える。

 指先から熱が抜けていく。

 吸った息が、胸の途中で止まった。

 

「ひゃっ……」

 

 情けない悲鳴が漏れた。

 

 防壁の巨大な鉄扉が、錆びた蝶番を軋ませながら、ゆっくりと開いていく。

 開いた隙間から、男たちが現れた。

 

 ボロボロの革鎧に、継ぎ接ぎされたタクティカルベスト。

 手にはライフル。

 腰には、淡い光を帯びた山刀。

 

 誰一人として、気を抜いていなかった。

 彼らは銃口を私に向けたまま、扇状に広がっていく。

 

 汗。

 古い血。

 ガンオイル。

 

 風に乗った匂いが、鼻の奥に刺さる。

 この世界を生き抜いている人間の匂いだった。

 

「……おい。なんだこりゃあ。子供……か?」

「罠かもしれない。油断すんな。こんな廃墟のど真ん中に、ガキが一人で歩いてるわけがねぇ」

 

 男たちの視線が、私を上から下まで舐めるように動いた。

 

 泥だらけの服。

 大きすぎるブーツ。

 地面に置いたライフル。

 

 最後に、後ろで束ねた銀色の髪で止まる。

 そして、一人の男がハッとしたように鼻をひくつかせた。

 

「……嘘だろ。なんか、匂わねぇか?」

「あぁ……? 花みたいな……」

 

 男たちの顔に、困惑と不気味さが浮かぶ。

 血と泥と鉄しかない場所で、泥だらけの子供が花の香りをまとっている。

 それだけで、十分におかしかった。

 

「おい、てめぇ!」

 

 一番前の男が、鋭い声で怒鳴った。

 銃口が、私の眉間にぴたりと向く。

 

「化け物か!? 喋れるなら喋りやがれ!」

 

 殺される。

 そう思った瞬間、思考だけが妙に冷えた。

 

 武器は捨てた。

 

 両手を上げろ。

 人間だと言え。

 助けてくださいと頼め。

 

 思考はまだ命令している。

 身体は、もう別の答えを出していた。

 

「ひぐっ……ち、ちがうもん……っ」

 

 喉の奥が勝手に震える。

 

 違う。

 そうじゃない。

 

 もっとちゃんと話せ。

 敵意はありませんって言え。

 助けてくださいって言え。

 

 命令は届かない。

 

 口から出たのは、ぐしゃぐしゃの泣き言だった。

 

「ばけものじゃ、ないもん……」

 

 私は、顔を覆ったまま繰り返した。

 

「おむすびが、食べたかっただけだもん……」

 

 また、沈黙が落ちた。

 さっきまで私を射抜いていた銃口が、わずかに揺れる。

 

 撃つべきか。

 下ろすべきか。

 

 その迷いが生まれたことだけは、涙で滲んだ視界の中でも分かった。

 

「……クソ。泣き方が、ガキだ」

 

 一番前の男が、低く吐き捨てる。

 

「ザキさん」

「分かってる。油断はするな」

 

 男は銃口を下げないまま、無線に向かって言った。

 

「……テツ。撃つな。俺が見る」

 

 そして、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

 銃口は、まだ下がっていない。

 

 ただ、その目つきだけは変わっていた。

 化け物を撃つ目ではない。

 撃たずに済む理由を、必死で探している目だった。

 

 その視線の変化に気づいた瞬間、私はようやく、自分がまだ撃たれていないことを理解した。




次回「ばけものじゃない」
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