ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
夜だった。
城の窓の外はもう真っ暗で、ところどころにマナ結晶の青白い光だけが浮いている。
仮の医務室から城に戻ったあと、私は一度ベッドに腰を下ろしたきり、しばらく動けなかった。
体が重い。
眠いのとは違う。
身体の中心にあった熱が、紙一枚ぶん薄くなったみたいだった。
アキさんが外から戻ってきて、私の前に水のコップを置いた。
「飲んで」
「……うん」
冷たい水が喉を通る。
空っぽになっていた身体に、細い芯が戻ってくる。
アキさんは白衣を脱がず、椅子に浅く腰かけて、記録帳を開いていた。
今日来た人の名前。
症状。
私が光を使ったか。
アキさんが処置したか。
一行ずつ、ペンが動いていく。
しばらくして、アキさんが顔を上げた。
「ユキ」
「なに?」
「これから、スズキさんのところへ行くわ」
「……いま?」
「いま」
冗談を挟む余地のない言い方だった。
私はベッドから降りた。
アキさんが少し私を見て、それから何も言わずに、上着を私の肩にかけた。
「ありがとう」
「冷えるから」
それだけ言って、アキさんは記録帳を抱えた。
◇ ◇ ◇
スズキさんの部屋は、巨大なガラス屋根の通りに面した、かつて案内に使われていた場所の奥にあった。
城から石畳の道を歩いて、五分もかからない。
夜の夢の国は、昼よりずっと静かだった。
けれど、空っぽではない。
遠くの咳。
見回りの足音。
薪の爆ぜる音。
千五百人が眠る場所の気配が、暗がりの奥に沈んでいた。
扉の前には、ハルカさんが座っていた。
膝の上には、番号札の束がある。
赤。
青。
白。
色の違う札に、細い紐が通されていた。
「アキ先生」
ハルカさんが立ち上がる。
「お話があります」
アキさんが言うと、ハルカさんの背筋がわずかに強張った。
それから扉をノックする。
中から「どうぞ」と返事があった。
穏やかな声だった。
部屋に入ると、壁の古い地図に、今日の列が赤い線で書き足されていた。
机の端には番号札の束。
墨はまだ乾ききっていない。
スズキさんは、私たち二人を見て目を緩めた。
「お疲れさまでした、アキ先生。ユキさんも」
アキさんは座らなかった。
机の前に立ったまま、白衣の袖を整えてから、口を開いた。
「このままでは、ユキの体が持ちません」
部屋の空気が止まった。
スズキさんは笑っていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、聞いていた。
「あの列が毎日続けば、遅くとも一ヶ月で潰れます」
アキさんは静かに言った。
けれど、その言葉には逃げ道がなかった。
「だから、私が全員を診ます」
ハルカさんが、廊下側で息をのむ気配がした。
アキさんは続けた。
「ただし、急いで詰め込めば記録が追いつきません。記録のない診療は、診療ではありません」
アキさんの指が、記録帳の表紙に触れる。
「最初の六週間で全員を一度診ます。残り二週間は、重い人の再診と取りこぼし。軽い症状は私が診る。ユキには、本当に必要な人だけを回します」
八週間。
その数字で、昨日までただ続いていた列に、輪郭が与えられた。
「水と包帯は、朝のうちにユキがまとめて浄化します。日中は治療に限定する。そうすれば、回せます」
スズキさんは、壁の地図へ目をやった。
赤い線を見て、番号札を見て、それから口を開いた。
「それは、先生が決めたことですか」
アキさんの言葉が途切れた。
「私と——」
そこで初めて、アキさんの目が私へ向いた。
「私とユキが、決めることです」
スズキさんが、私を見る。
「ユキさんは、どう思いますか」
急に聞かれて、言葉の並べ方を忘れた。
アキさんがこちらを見る。
答えを代わりに言うつもりはない目だった。
「……アキさんが、そうした方がいいって、言うなら」
言ってから、すぐに違うと思った。
それは、私の答えじゃない。
「……ちがう」
自分の言葉を、自分で止めた。
スズキさんも、アキさんも、何も言わなかった。
待っていた。
「わたしも、その方がいいと思います」
大人の言い方を選んだつもりだった。
けれど、出てきたのは、まだ子供の息を含んだ言葉だった。
「全員を、いっぺんには見られない。わたしがぜんぶやったら、たぶん倒れる。でも、アキさんが先に見てくれて、ほんとうに必要な人だけなら……できると思う」
膝の横で、指を固く組んだ。
「それに、朝の水と包帯なら、あんまりつかれない。だから、そこはわたしがやる」
言い終えたあと、部屋が静かになった。
スズキさんは、まぶしいものを見るように、私を見ていた。
ハルカさんは、廊下で目元をうるませている。
私は、ただ計画の話をしているつもりだった。
続けるための方法。
アキさんが無理をしすぎないための分担。
それを話しただけのつもりだった。
けれど、大人たちには別の意味で届いている。
八歳の子供が、自分の体を削ってでも役に立とうとしている。
たぶん、そう見えている。
私はうつむいて、アキさんの白衣の袖に指をかけた。
「承知しました」
スズキさんが静かに言った。
それから、机の上の紙を一枚、引き寄せる。
「では、それを夢の国の決まりとして扱いましょう」
「……利用するんですね」
アキさんの声が低くなった。
スズキさんは、すぐには否定しなかった。
「私は今この瞬間も、頭の中で配給の量と、明日の見回りの人数を計算しています」
アキさんが、わずかに目を細めた。
「正直ですね」
「ええ。そうしなければ、ここは回りません」
スズキさんは、机の上の紙に目を落とした。
「子供を、夢の国の仕組みに組み込もうとしている自覚もあります」
「自覚があるなら、やめてください」
アキさんの声は、少しも揺れなかった。
スズキさんは、そこで初めて黙った。
長い沈黙だった。
「……私は、自分では止められません」
その言葉は、思っていたより静かだった。
アキさんが眉を動かす。
「どういう意味ですか」
「三年やってきて、よく分かっています。私は、数で考える癖がつきすぎた」
スズキさんは、壁の地図を見た。
赤い線。
番号札。
列の長さ。
「何人なら待たせられるか。何人なら明日に回せるか。誰を助ければ、何人が納得するか。そういう数え方をしなければ、この場所は保ちませんでした」
それから、アキさんの記録帳を見る。
「先生は、名前で見ている」
アキさんは答えなかった。
「だから、先生にいていただきたい」
「私に?」
「はい」
スズキさんは、まっすぐアキさんを見た。
「私が間違えたら、止めてください」
アキさんは、すぐには答えなかった。
「……簡単に言いますね」
「簡単ではありません。ですが、私一人では、たぶん気づくのが遅れる」
部屋の空気が、重くなった。
私は、スズキさんを見ていた。
この人は、私を利用しようとしている。
それは、たぶん本当だ。
でも、それだけではない。
千五百人分の食事と、安全と、明日の見回りを、頭の中でずっと数え続けている人でもある。
だから、こわいのだと思った。
悪い人だから、こわいんじゃない。
きっと、善いことのためにも、私を使える人だから。
「……条件があります」
アキさんが言った。
スズキさんは、まっすぐに頷いた。
「伺います」
「中止の判断は、私とユキが持ちます。ユキが倒れそうなら、その時点で止める。列が残っていても、住民が納得していなくても、止めます」
「承知しました」
「診療の順番と対象は、私が決めます。スズキさんの指示では動かしません」
「異論はありません」
「記録は残します。ただし、記録をどう使うかは、必ず私に確認してください」
「はい」
アキさんは、まだスズキさんを見ていた。
「最後にもう一つ」
「はい」
「ユキを、ひとりで人前に出さないでください」
スズキさんの視線が、初めて揺れた。
アキさんは続けた。
「列の前にも。集会にも。説明にも。必ず、私かハルカさんをつけてください」
「承知しました」
「約束してください」
「約束します」
スズキさんは、深すぎない礼をした。
「先生の条件を、受け入れます」
アキさんは、ようやく記録帳を閉じた。
「なら、八週間です」
その言葉で、話は終わった。
部屋の重さは少しも変わらなかった。
◇ ◇ ◇
部屋を出る時、廊下の椅子で、ハルカさんがゆっくりと頭を下げた。
言葉はなかった。
膝の上には、明日の番号札が置かれていた。
もう紐が通されている。
ハルカさんは、その上にそっと手を置いている。
「明日から、よろしくお願いします」
それだけ言って、もう一度頭を下げた。
「……うん」
その返事だけで精一杯だった。
アキさんは何も言わず、ただ軽く会釈した。
城へ戻る道は、昼間よりずっと暗かった。
塔の階段を上がりながら、アキさんが長く息を吐いた。
私は、その袖に指をかけた。
「アキさん」
「なに」
「ありがとう」
「……まだ、何もしてない」
「始める前に、ありがとうって、言っておきたかったから」
アキさんが、こちらを見ないまま歩幅を緩めた。
それから、頭に手が降りてきた。
今度は、夕方より長かった気がした。
◇ ◇ ◇
翌朝。
ばあやは、私が目覚めるより先に部屋へ来ていた。
「おはようございます、ひめ様」
「……おはよう」
もう「不覚でございました」とは言わなかった。
今日の朝は、ばあやの方が早かった。
アキさんも、ほぼ同時にベッドから出た。
挨拶は短かった。
そのまま、二人とも身支度に入る。
昨夜の話のことは、誰も口にしなかった。
「いってらっしゃいませ、ひめ様。アキ先生」
ばあやが一歩下がって、深く頭を下げた。
「……いってきます」
口にしてから、その言葉が思ったより自然に出たことに気づいた。
◇ ◇ ◇
城を出ると、朝の空気はまだ冷たかった。
昨日とは違う。ざわめきはある。
けれど、人の流れに形があった。
番号札を持った人たちが、それぞれの場所に並んでいる。
ハルカさんたちが水と椅子の位置を確かめながら、人の流れを作っている。
大きい方の医務室へ入ると、薬草の匂いが少し強かった。
「ユキ。お願い」
アキさんが、机の上に水差しと包帯を並べた。
「うん」
手をかざす。
緑の光が、水差しの底へ沈んでいく。
包帯の白さが、朝の光の中で際立った。
「できた」
「ありがとう」
その「いつも通り」に、私は救われた。
水差しの重さ。
包帯の手ざわり。
薬草の匂い。
アキさんが「ありがとう」と言う声。
今日から、八週間。
水差しは毎朝、私がきれいにする。
アキさんは、一日に何十人も診る。
私は、そのうちの何人かに手を当てる。
その繰り返しが、五十六回続く。
いいチームだ。
そう思えた。
次回「届かなかった手」