ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜   作:Naito

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第21話 八週間の約束

 夜だった。

 

 城の窓の外はもう真っ暗で、ところどころにマナ結晶の青白い光だけが浮いている。

 

 仮の医務室から城に戻ったあと、私は一度ベッドに腰を下ろしたきり、しばらく動けなかった。

 

 体が重い。

 

 眠いのとは違う。

 身体の中心にあった熱が、紙一枚ぶん薄くなったみたいだった。

 

 アキさんが外から戻ってきて、私の前に水のコップを置いた。

 

「飲んで」

「……うん」

 

 冷たい水が喉を通る。

 空っぽになっていた身体に、細い芯が戻ってくる。

 

 アキさんは白衣を脱がず、椅子に浅く腰かけて、記録帳を開いていた。

 

 今日来た人の名前。

 症状。

 私が光を使ったか。

 アキさんが処置したか。

 

 一行ずつ、ペンが動いていく。

 

 しばらくして、アキさんが顔を上げた。

 

「ユキ」

「なに?」

「これから、スズキさんのところへ行くわ」

「……いま?」

「いま」

 

 冗談を挟む余地のない言い方だった。

 

 私はベッドから降りた。

 アキさんが少し私を見て、それから何も言わずに、上着を私の肩にかけた。

 

「ありがとう」

「冷えるから」

 

 それだけ言って、アキさんは記録帳を抱えた。

 

◇ ◇ ◇

 

 スズキさんの部屋は、巨大なガラス屋根の通りに面した、かつて案内に使われていた場所の奥にあった。

 

 城から石畳の道を歩いて、五分もかからない。

 夜の夢の国は、昼よりずっと静かだった。

 けれど、空っぽではない。

 

 遠くの咳。

 見回りの足音。

 薪の爆ぜる音。

 

 千五百人が眠る場所の気配が、暗がりの奥に沈んでいた。

 

 扉の前には、ハルカさんが座っていた。

 膝の上には、番号札の束がある。

 

 赤。

 青。

 白。

 

 色の違う札に、細い紐が通されていた。

 

「アキ先生」

 

 ハルカさんが立ち上がる。

 

「お話があります」

 

 アキさんが言うと、ハルカさんの背筋がわずかに強張った。

 それから扉をノックする。

 

 中から「どうぞ」と返事があった。

 穏やかな声だった。

 

 部屋に入ると、壁の古い地図に、今日の列が赤い線で書き足されていた。

 

 机の端には番号札の束。

 墨はまだ乾ききっていない。

 

 スズキさんは、私たち二人を見て目を緩めた。

 

「お疲れさまでした、アキ先生。ユキさんも」

 

 アキさんは座らなかった。

 

 机の前に立ったまま、白衣の袖を整えてから、口を開いた。

 

「このままでは、ユキの体が持ちません」

 

 部屋の空気が止まった。

 

 スズキさんは笑っていなかった。

 怒ってもいなかった。

 

 ただ、聞いていた。

 

「あの列が毎日続けば、遅くとも一ヶ月で潰れます」

 

 アキさんは静かに言った。

 けれど、その言葉には逃げ道がなかった。

 

「だから、私が全員を診ます」

 

 ハルカさんが、廊下側で息をのむ気配がした。

 アキさんは続けた。

 

「ただし、急いで詰め込めば記録が追いつきません。記録のない診療は、診療ではありません」

 

 アキさんの指が、記録帳の表紙に触れる。

 

「最初の六週間で全員を一度診ます。残り二週間は、重い人の再診と取りこぼし。軽い症状は私が診る。ユキには、本当に必要な人だけを回します」

 

 八週間。

 その数字で、昨日までただ続いていた列に、輪郭が与えられた。

 

「水と包帯は、朝のうちにユキがまとめて浄化します。日中は治療に限定する。そうすれば、回せます」

 

 スズキさんは、壁の地図へ目をやった。

 赤い線を見て、番号札を見て、それから口を開いた。

 

「それは、先生が決めたことですか」

 

 アキさんの言葉が途切れた。

 

「私と——」

 

 そこで初めて、アキさんの目が私へ向いた。

 

「私とユキが、決めることです」

 

 スズキさんが、私を見る。

 

「ユキさんは、どう思いますか」

 

 急に聞かれて、言葉の並べ方を忘れた。

 

 アキさんがこちらを見る。

 答えを代わりに言うつもりはない目だった。

 

「……アキさんが、そうした方がいいって、言うなら」

 

 言ってから、すぐに違うと思った。

 それは、私の答えじゃない。

 

「……ちがう」

 

 自分の言葉を、自分で止めた。

 スズキさんも、アキさんも、何も言わなかった。

 

 待っていた。

 

「わたしも、その方がいいと思います」

 

 大人の言い方を選んだつもりだった。

 けれど、出てきたのは、まだ子供の息を含んだ言葉だった。

 

「全員を、いっぺんには見られない。わたしがぜんぶやったら、たぶん倒れる。でも、アキさんが先に見てくれて、ほんとうに必要な人だけなら……できると思う」

 

 膝の横で、指を固く組んだ。

 

「それに、朝の水と包帯なら、あんまりつかれない。だから、そこはわたしがやる」

 

 言い終えたあと、部屋が静かになった。

 

 スズキさんは、まぶしいものを見るように、私を見ていた。

 ハルカさんは、廊下で目元をうるませている。

 

 私は、ただ計画の話をしているつもりだった。

 

 続けるための方法。

 アキさんが無理をしすぎないための分担。

 

 それを話しただけのつもりだった。

 けれど、大人たちには別の意味で届いている。

 八歳の子供が、自分の体を削ってでも役に立とうとしている。

 たぶん、そう見えている。

 

 私はうつむいて、アキさんの白衣の袖に指をかけた。

 

「承知しました」

 

 スズキさんが静かに言った。

 それから、机の上の紙を一枚、引き寄せる。

 

「では、それを夢の国の決まりとして扱いましょう」

 

「……利用するんですね」

 

 アキさんの声が低くなった。

 

 スズキさんは、すぐには否定しなかった。

 

「私は今この瞬間も、頭の中で配給の量と、明日の見回りの人数を計算しています」

 

 アキさんが、わずかに目を細めた。

 

「正直ですね」

「ええ。そうしなければ、ここは回りません」

 

 スズキさんは、机の上の紙に目を落とした。

 

「子供を、夢の国の仕組みに組み込もうとしている自覚もあります」

 

「自覚があるなら、やめてください」

 

 アキさんの声は、少しも揺れなかった。

 

 スズキさんは、そこで初めて黙った。

 

 長い沈黙だった。

 

「……私は、自分では止められません」

 

 その言葉は、思っていたより静かだった。

 

 アキさんが眉を動かす。

 

「どういう意味ですか」

 

「三年やってきて、よく分かっています。私は、数で考える癖がつきすぎた」

 

 スズキさんは、壁の地図を見た。

 

 赤い線。

 番号札。

 列の長さ。

 

「何人なら待たせられるか。何人なら明日に回せるか。誰を助ければ、何人が納得するか。そういう数え方をしなければ、この場所は保ちませんでした」

 

 それから、アキさんの記録帳を見る。

 

「先生は、名前で見ている」

 

 アキさんは答えなかった。

 

「だから、先生にいていただきたい」

「私に?」

「はい」

 

 スズキさんは、まっすぐアキさんを見た。

 

「私が間違えたら、止めてください」

 

 アキさんは、すぐには答えなかった。

 

「……簡単に言いますね」

「簡単ではありません。ですが、私一人では、たぶん気づくのが遅れる」

 

 部屋の空気が、重くなった。

 

 私は、スズキさんを見ていた。

 この人は、私を利用しようとしている。

 それは、たぶん本当だ。

 

 でも、それだけではない。

 千五百人分の食事と、安全と、明日の見回りを、頭の中でずっと数え続けている人でもある。

 だから、こわいのだと思った。

 

 悪い人だから、こわいんじゃない。

 きっと、善いことのためにも、私を使える人だから。

 

「……条件があります」

 

 アキさんが言った。

 

 スズキさんは、まっすぐに頷いた。

 

「伺います」

 

「中止の判断は、私とユキが持ちます。ユキが倒れそうなら、その時点で止める。列が残っていても、住民が納得していなくても、止めます」

 

「承知しました」

 

「診療の順番と対象は、私が決めます。スズキさんの指示では動かしません」

 

「異論はありません」

 

「記録は残します。ただし、記録をどう使うかは、必ず私に確認してください」

 

「はい」

 

 アキさんは、まだスズキさんを見ていた。

 

「最後にもう一つ」

「はい」

「ユキを、ひとりで人前に出さないでください」

 

 スズキさんの視線が、初めて揺れた。

 アキさんは続けた。

 

「列の前にも。集会にも。説明にも。必ず、私かハルカさんをつけてください」

「承知しました」

「約束してください」

「約束します」

 

 スズキさんは、深すぎない礼をした。

 

「先生の条件を、受け入れます」

 

 アキさんは、ようやく記録帳を閉じた。

 

「なら、八週間です」

 

 その言葉で、話は終わった。

 部屋の重さは少しも変わらなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

 部屋を出る時、廊下の椅子で、ハルカさんがゆっくりと頭を下げた。

 言葉はなかった。

 

 膝の上には、明日の番号札が置かれていた。

 もう紐が通されている。

 

 ハルカさんは、その上にそっと手を置いている。

 

「明日から、よろしくお願いします」

 

 それだけ言って、もう一度頭を下げた。

 

「……うん」

 

 その返事だけで精一杯だった。

 アキさんは何も言わず、ただ軽く会釈した。

 

 城へ戻る道は、昼間よりずっと暗かった。

 

 塔の階段を上がりながら、アキさんが長く息を吐いた。

 私は、その袖に指をかけた。

 

「アキさん」

「なに」

「ありがとう」

 

「……まだ、何もしてない」

「始める前に、ありがとうって、言っておきたかったから」

 

 アキさんが、こちらを見ないまま歩幅を緩めた。

 それから、頭に手が降りてきた。

 

 今度は、夕方より長かった気がした。

 

◇ ◇ ◇

 

 翌朝。

 

 ばあやは、私が目覚めるより先に部屋へ来ていた。

 

「おはようございます、ひめ様」

「……おはよう」

 

 もう「不覚でございました」とは言わなかった。

 今日の朝は、ばあやの方が早かった。

 

 アキさんも、ほぼ同時にベッドから出た。

 

 挨拶は短かった。

 そのまま、二人とも身支度に入る。

 昨夜の話のことは、誰も口にしなかった。

 

「いってらっしゃいませ、ひめ様。アキ先生」

 

 ばあやが一歩下がって、深く頭を下げた。

 

「……いってきます」

 

 口にしてから、その言葉が思ったより自然に出たことに気づいた。

 

◇ ◇ ◇

 

 城を出ると、朝の空気はまだ冷たかった。

 

 昨日とは違う。ざわめきはある。

 けれど、人の流れに形があった。

 

 番号札を持った人たちが、それぞれの場所に並んでいる。

 ハルカさんたちが水と椅子の位置を確かめながら、人の流れを作っている。

 

 大きい方の医務室へ入ると、薬草の匂いが少し強かった。

 

「ユキ。お願い」

 

 アキさんが、机の上に水差しと包帯を並べた。

 

「うん」

 

 手をかざす。

 緑の光が、水差しの底へ沈んでいく。

 包帯の白さが、朝の光の中で際立った。

 

「できた」

「ありがとう」

 

 その「いつも通り」に、私は救われた。

 

 水差しの重さ。

 包帯の手ざわり。

 薬草の匂い。

 アキさんが「ありがとう」と言う声。

 

 今日から、八週間。

 

 水差しは毎朝、私がきれいにする。

 アキさんは、一日に何十人も診る。

 私は、そのうちの何人かに手を当てる。

 

 その繰り返しが、五十六回続く。

 

 いいチームだ。

 そう思えた。




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