ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
※本22話は元22話「千五百人の名前」を分割/改稿しています。
八週間が、始まっていた。
最初の数日は、まだ「いつも通り」に近かった。
朝、大きい方の医務室へ向かう。
私が水差しと包帯に手をかざす。
緑の光が水の底へ沈み、くすんでいた包帯に白さが戻る。
「ありがとう、ユキ」
「うん」
それから奥の小部屋に入り、ハルカさんが連れてくる人を順番に受ける。
重い傷の人。
熱が続いている子。
古い痛みを抱えた大人。
アキさんが先に診て、必要な人だけ私に回す。
私は手を当てて、できる分だけ光を流す。
日が傾くと、布のしきりを片付ける。
アキさんが記録帳を閉じる。
城へ帰る。
そういう一日が、繰り返された。
けれど五日目あたりから、同じ手順の中に、別のものが混じり始めた。
◇ ◇ ◇
アキさんの記録帳が厚くなった。
名前。
年齢。
症状。
処置。
私が光を使ったか。
次にもう一度診る必要があるか。
夜ごとに、紙の上へ新しい名前と症状が積み重なっていく。
夜、城に戻ってからも、アキさんはすぐには記録帳を閉じない。
白衣を脱ぐ前にもう一度開いて、今日来た人の名前を目で追う。
書いておかないと、消えてしまうもの。
アキさんが残しているのは、ただの診療記録ではないのかもしれない。
私が誰に触れて、何ができて、何ができなかったのか。
この八週間の記録でもある。
アキさんの目の下には、日を追うごとに濃い影が落ちていった。
夜、記録帳を閉じる指が止まる時間も長くなった。
だから私は、何度か、夜のコップにほんの少しだけ緑を落とした。
アキさんが気づかないくらい。
水が少し澄むだけだと、自分に言い聞かせて。
けれど、翌朝のアキさんの顔色が少し楽に見えるたび、胸の奥が変にざわついた。
だからこそ、私は口に出せなかった。
言ったら、アキさんが「大丈夫」と言って、もっと無理をする気がしたから。
◇ ◇ ◇
第二週に入った頃だった。
奥の小部屋に入ってきた女の人が、椅子に座る前に深く頭を下げた。
「ユキ様。本日はよろしくお願いいたします」
様。
返事のタイミングを失った。
「……痛いところを、見せてください」
女の人は、もう一度頭を下げてから、袖をまくった。
その日から、同じようなことが増えた。
廊下ですれ違う人が、道を空ける。
配給の盆を運んでいた人が、立ち止まって礼を言う。
医務係の人が、私を呼ぶ前に一度だけ声を整える。
誰も、怖がらせようとしているわけではない。
私を呼んでいるはずなのに、呼ばれるたびに、私だけが壇の上へ押し上げられていく。
そんな気がした。
◇ ◇ ◇
第三週に入る頃には、半分しか治せない患者が増えていた。
腰の古い傷。
畑仕事で固まった肩。
走れなくなった膝。
光を流すと、奥で固まっていたものがほどける。
けれど、元通りにはならない。
痛みが半分になる人。
夜、眠れる時間が戻る人。
杖をつけば、少し歩けるようになる人。
それを「治った」と呼ぶかどうかは、その人によって違った。
その頃の私は、治ることと、楽になることの境目に、毎日のように触れていた。
◇ ◇ ◇
夜。
大きい方の医務室。
最後の患者が帰ったあとも、部屋には薬草と汗の匂いが残っていた。
アキさんは診察机の前で、その日の記録を書いている。
白衣の肩が、いつもより重そうに見えた。
私は水差しを棚に戻してから、しばらくその背中を見ていた。
「アキさん」
「なに」
「『ユキ様』って、こわい」
ペンが止まった。
アキさんがこちらを向く。
「どう怖いの?」
私は、言葉を探した。
「子供たちが呼ぶのは、あんまりこわくなかった」
「うん」
「からかってるみたいで、笑ってて、また遊ぼうって言ってるみたいだったから」
「ええ」
「でも、大人の人が言うと……わたしを知ってる人が、わたしを遠くに置いてる感じがする」
私は、ちゃんと考えて話しているつもりだった。
どう呼ばれると近くて、どう呼ばれると遠いのか。
自分の中で、順番に整理して伝えているつもりだった。
でも、気づけば私は、アキさんの膝にくっつくように座り込んでいた。
白衣の裾を両手でぎゅっと握って、見上げていた。
アキさんが沈黙する。
ペンを机の上に、そっと置いた。
長い、長い沈黙だった。
それから、アキさんは静かに言った。
「……分かるわ」
温かい手が、私の頭に乗った。
ぽん、ぽん、と優しく撫でられる。
完全に、泣きそうな子をあやす手つきだった。
(……だから、子供あつかいしないでってば)
頭の中では、そう思った。
撫でられる手のひらが安心できて、抗議する前にまぶたがゆるんだ。
それで、ふっと肩の力が抜けた。
自分の疲れなんて、どうでもよかった。
アキさんの目の下の影が、ひとつでも消えてほしかった。
気づけば、手の中に光を集めかけていた。
「……だめよ」
静かな声だった。
「明日も列は来るわ。ユキ、自分のために取っておきなさい」
「でも、アキさん、つかれてる」
「平気よ」
アキさんは、私の手を握ったまま言った。
「……あなたがそばにいるだけで、もう、いいの」
その声がわずかに震えている気がして、私はそれ以上、光を出せなかった。
◇ ◇ ◇
第五週の終わり頃。
その人は、息子に支えられて来た。
七十代の男性だった。
胸を押さえながら、扉を入る。
顔色は青く、息が浅い。
アキさんが先に診た。
脈を取る。
瞳孔を確認する。
胸に耳を当てる。
呼吸を聞く。
アキさんの背中が、長い時間、止まったままだった。
「……これは、もう難しいです」
声を落として、息子さんに告げる。
「肺と、心臓と、長年の負荷です。私の処置では、楽にすることしかできません」
息子さんが、深く頭を下げた。
寝台の上で、おじいさんがうっすらと笑った。
「先生……あの子に、一目でも、お会いできたら」
声が、かすれていた。
アキさんが振り向いた。
私を手前へ呼ぶべきか、アキさんの肩が迷うように止まった。
それから、ハルカさんに小声で何かを言う。
すぐに、ハルカさんが奥の小部屋へ顔を出した。
「ユキちゃん。アキ先生が呼んでる」
私は立ち上がり、布のしきりをくぐって、手前の診察場所へ出た。
おじいさんは私を見ると、もう一度、笑った。
視線が、白い裾と胸元の花をゆっくり追う。
「お会いできて、よかった」
それだけだった。
私は、おじいさんの手の上に、両手を重ねた。
お会いできて、で終わらせたくなかった。
いつものように緑の光を流した。
指先から光が入っていく。
でも、胸の奥のあたりで止まった。
ほどけない。
届かない。
もう、戻らないものがある。
その事実だけが、理屈より先に身体へ伝わってきた。
(……だめだ)
私は、緑の光をゆっくり弱めた。
代わりに、身体の内側で金色の光がほどけた。
砦の広場で子供たちを守った時のような、まぶしい盾ではない。
もっと小さくて、静かで、あたたかい光。
布団をかけるみたいに、私はその光をおじいさんの体へ重ねた。
おじいさんの呼吸が、少しだけ深くなる。
眉間のしわが、ほんの少しゆるむ。
「……あたたかいな」
おじいさんが、目を閉じたまま呟いた。
「……うん」
私は両手を重ねたまま答えた。
「あたたかくするね」
それ以上のことは、できなかった。
でも、しばらく、おじいさんの手は私の手の中で温かかった。
息子さんが肩を貸し、ハルカさんが反対側を支えた。
おじいさんは二人に体を預けるようにして、ゆっくりと部屋を出ていった。
◇ ◇ ◇
その日の帰り道。
城へ向かう石の回廊は、夕方の光が落ちて、足元から冷え始めていた。
アキさんは、記録帳を胸に抱えたまま歩いている。
私はその半歩後ろを歩いた。
「おじいさん、らくになったよね」
「ええ」
「なおった、わけじゃないけど」
「それでいいの。あなたがやったことは、十分よ」
アキさんは、前を向いたまま言った。
何か言おうとした。
けれど、形になる前に消えた。
(……届かなかった)
金色の光に切り替えたのは、私の判断だった。
治せないと分かったから。
でも、本当に治せなかったのだろうか。
あの瞬間、手の中の光はいつもより遠かった。
毎晩、アキさんのコップにこっそり落としていた、あの緑。
あれが残っていたら、もう少しだけ届いたのではないか。
考えてはいけないと思った。
アキさんを助けたかった。
それも本当だった。
でも、考えたという事実は、もう消せなかった。
アキさんが足を止めた。
「ユキ?」
「……なんでもない」
そう答えると、アキさんはそれ以上聞かなかった。
ただ、歩幅を半歩だけ、私に合わせてくれた。
◇ ◇ ◇
三日後の朝。
医務室の扉を、ハルカさんがいつもより静かに開けた。
「……アキ先生。ユキちゃん」
声が小さかった。
「あの、桜井さん……昨夜、亡くなりました。眠ったまま、とのことです」
誰もすぐには動かなかった。
私は、手に持っていた包帯を置き直した。
きれいに。
丁寧に。
そうしないと、手が震えそうだった。
ハルカさんが、最後にこう言った。
「ご家族から、伝言です。最後の夜は、ずっと手があたたかかったそうです。苦しまず、眠ったままだったと。ありがとうございました、と」
その「ありがとうございました」が、いつまでも耳の中に残った。
◇ ◇ ◇
夜。
城の上の部屋。
私は、ベッドの端にしばらく座っていた。
アキさんは、机の前で記録帳を開いている。
ペンは、動いていなかった。
「アキさん」
「なに」
「あの日、まちがえた?」
アキさんが、ゆっくりこちらを向いた。
「わたしが、もっと……強く光を出してたら、なおせた?」
言葉にしたのは、それだけだった。
でも、もうひとつ、言えなかった問いがあった。
毎晩、アキさんのコップに落としていた光。
あれを使わずに残していたら。
言ったら、何かが壊れる気がして、喉の奥で止まった。
アキさんはすぐには答えなかった。
机から記録帳を取って、私の隣に座る。
ページを開いて、私に見せた。
桜井広志。
七十二歳。
慢性心不全。
肺の感染併発。
全身衰弱。
ユキの浄化。
症状緩和。限定的。
金色の光。苦痛軽減。
経過。
三日後、就寝中に逝去。
「ユキ」
アキさんの声が、いつもより低かった。
「あなたがなおせる病気には、限りがあるわ。古い体は、これ以上もたなかった。光を強くしても、戻せないものはある」
私は、何か言いかけて止めた。
「まちがえてないわ」
アキさんが続けた。
「あなたは、最後の三日を楽にした。それができる人は、ほかにいなかった」
「……でも」
「『でも』は残るわ。私にもある。三日前に、もう一度診ておけば。もっと別の処置があったのでは」
アキさんは、ゆっくり息を吐く。
「でも、それをあなたが一人で背負わなくていい」
アキさんの手のひらが、私の手を包む。
冷たかった。
いつもの私より、ずっと。
アキさんは、それを何も言わなかった。
ただ、しばらく自分の手で温めるように握った。
「あなたは聖女様じゃなくて、ユキだから」
その手は二週前の夜、私の光を止めたのと同じ手だった。
止めた手と握る手は、同じ温度だった。
聖女様じゃなくて、ユキ。
その言葉を、私はしばらく自分の中で繰り返した。
「……アキさん」
「なに」
「ありがとう」
「……うん」
それだけだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
私は、何も言わずに大きい方の医務室に立っていた。
机の上には、いつもの水差し。
いつもの包帯。
いつもの布。
手を上げかけて、止まった。
昨日までと同じ、小さい手。
桜井さんの手に触れた手。
私は一度、指を握り直す。
それから、水差しへ手をかざした。
緑の光が、いつも通りに広がっていく。
アキさんが、こちらを見ていた。
言葉はなかった。
私は、その沈黙を知っている。
これは、信頼の言い方だ。
(できないことがある)
(だけど、できる分だけは、わたしがやる)
(それでいい)
光が、水差しの底まで、しずかに沈んでいった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、老婦人が来た。
顔色は悪くなかった。
歩き方も、しっかりしていた。
ハルカさんが、少し困ったような顔で前置きした。
「お話だけ、とおっしゃっているのですが」
老婦人は椅子に座って、にっこりと笑った。
「重症じゃないんですよ。ただね、一度、お会いしたかっただけで」
その言葉を聞いた瞬間、桜井さんの声が重なった。
二週間前。
桜井さんも、同じようなことを言った。
あの子に、一目でも、お会いできたら。
同じ言葉なのに、目の前の人は笑っている。
息も、ちゃんとできている。
手も、まだあたたかい。
扉の向こうで、アキさんが静かに言った。
「念のため、診させてください」
問診が始まった。
話を聞いていくうちに、老婦人の症状は少しずつ増えていった。
膝の腫れ。
指の節の痛み。
夜の咳。
いくつもの古い炎症を、老婦人は「歳だから」と笑った。
「ユキ、お願い」
「うん」
私は、老婦人の手の上に両手を重ねた。
今度は最初から、強く治そうとはしなかった。
緑の光を、ゆっくり流す。
固まったところを、焦らずほどくように。
それから、薄い金色を重ねた。
布団をかけるみたいに。
冷えた手を包むみたいに。
老婦人は目を閉じた。
しばらくして、瞼が上がる。
「……ありがとう」
笑い声の奥に、涙が混じっていた。
「三年ね。ここで死ぬのかなって、ずっと思っていたの。あなたが来てくださって、よかった」
私は、咄嗟に老婦人の手を握っていた。
「……まだ、しなないでください」
老婦人が、くしゃりと笑った。
「そうね。もう少し、いてみるわ」
扉が閉まったあと、私はしばらく椅子から動けなかった。
桜井さんは「お会いできて、よかった」と言って、家へ帰った。
この人は「もう少し、いてみるわ」と言って、家へ帰った。
どちらも、私の手を通った。
どちらも、本当だった。
でも、結末は違った。
私には、治せないものがある。
けれど、少しだけ楽にできるものもある。
その境目は、まだ怖い。
怖いけれど、見ないふりをしてはいけないものなのだと思った。
アキさんが横に来た。
何も言わずに、私の隣へ座る。
肩が触れる距離に、アキさんがいた。
◇ ◇ ◇
八週間の終わりは、少しずつ近づいていた。
記録帳のページは、もう最初の頃の厚さではなかった。
名前。
年齢。
症状。
処置。
経過。
治った人。
楽になった人。
また来ることになった人。
そして、届かなかった人。
その全部が、アキさんの字で残っている。
私はそのページを見ながら、息を整えた。
できること。
できないこと。
治すこと。
楽にすること。
その境目を、私はまだ怖がっている。
それでも、明日も水差しに手をかざす。
包帯に光を通す。
呼ばれたら、奥の小部屋へ行く。
できる分だけ、やる。
八週間は、まだ終わっていない。
でも、その終わりが、もう遠くないところまで来ていた。
次回「八週間の終わりに」