ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
そして今日が、最後の日だった。
大きい医務室へ向かう。
水差しに手をかざす。
包帯に、緑の光を通す。
アキさんが記録帳を開く。
ハルカさんが番号札を確認する。
ばあやが水と小さな食べ物を置いてくれる。
誰かが合図を出さなくても、それぞれの手が動いた。
できたことも、できなかったことも、全部そこに残っている。
◇ ◇ ◇
最後の患者が帰った夕方。
仮の医務室の布が、風でゆっくり揺れていた。
医務係の人たちが椅子を運び、ハルカさんが番号札の束をまとめている。
広場の端では、ばあやが空のお盆を抱えて立っていた。
アキさんが、記録帳を閉じた。
ぱたん、と小さな音がした。
「……終わった」
私は聞き返した。
「……ぜんいん?」
「全員」
表情から、力が抜けていた。
けれど、こちらを見る目だけは、いつものアキさんだった。
すごい。
お疲れさま。
よくやった。
どれも、この八週間には届かない気がした。
だから、私は何も言わずに顎を引いた。
アキさんは、ほんのわずかに目元を緩めた。
それだけで、十分だった。
◇ ◇ ◇
城に戻る道。
私は、アキさんの袖を掴まなかった。
代わりに、半歩ずれて、横に並んで歩いた。
夕方の風が、白い外衣の裾を揺らしている。
薄緑の刺繍が、夕日を受けて淡く光った。
(……繭から出たとき、私は、自分の名前も思い出せなかった)
男だったことだけは、残っている。
けれど、顔も、声も、朝の習慣も、輪郭がだんだん薄くなっていた。
その代わり、今のことは手の中に残っている。
水差しの重さ。
包帯の手ざわり。
アキさんの「ありがとう」。
広場で子供たちが手を振る声。
それらは、はっきりしていた。
ぼやけた昔の誰かが、今の私を見たら、何と言うだろう。
八歳の体で。
毎朝、水と包帯を光らせて。
人を治したり、治せなかったりして。
(……たぶん、こまる)
そう思ったら、口元が勝手にゆるみそうになった。
(でも、わるくないよ)
誰に向けた言葉なのかは、分からなかった。
元の私にか。
繭の中の私にか。
それとも、今の私にか。
足元が、ふらついた。
気づいたら、アキさんの肩に頭が当たっていた。
アキさんが立ち止まる。
「……疲れた?」
「……うん」
しばらく間があった。
それから、アキさんが低く言った。
「……よくやった」
普段の「ありがとう」より、低くて、長い声だった。
アキさんの腕が、私の背中に回る。
すっぽりと包み込むように、抱きしめられた。
子供あつかいされているという恥ずかしさも、もうどうでもよくなるくらい、その体温は心地よかった。
八週間ぶんの何かを、全部受け取ってくれた気がした。
視界が、ゆっくり滲みかけた。
それでも、涙は落ちなかった。
アキさんの肩が、私の頭を支えてくれていた。
それだけで、よかった。
◇ ◇ ◇
夜。
城の上の部屋。
アキは机の前で、記録帳を開いていた。
千五百人分の名前。
症状、処置、経過。
ユキの浄化、と書かれた行が、何度もページに繰り返されている。
治癒。
症状緩和。
限定的。
逝去。
行ごとに、違う結果が並んでいた。
最後の一行を書き終えてから、アキはペンを置いた。
隣のベッドで、ユキが眠っている。
白い衣装は、ばあやが脱がせて持っていった。
今は薄手の寝間着で、肩から腕にかけて、八歳の細さが布の下にうっすら浮いている。
規則正しく、肩が上下していた。
アキは、しばらくその寝顔を見ていた。
(……今日は、よくやったわね)
声には出さなかった。
出すと、何かが崩れる気がした。
代わりに、ユキの髪へ指を沈めた。
銀色が、指の間をゆっくりすり抜けていった。
ふと、その手のひらが、ユキの指先に触れた。
温かかった。
二週前の夜、握った時の冷たさは、もうなかった。
アキは、気づいていた。
この子が何度も、自分のために光を使おうとしていたことを。
そして、それを自分から言えずにいたことも。
だから、今夜の温かい指先だけで十分だった。
(……あと少しだけ)
その言い訳を、アキはもう何度も繰り返している。
名前は、まだつけていなかった。
つけたら、止められなくなる気がしたから。
ユキが、わずかに身じろいだ。
アキは慌てて指を引っ込める。
それから、自分のベッドへ静かに戻った。
ユキは、目を覚まさなかった。
千五百人の傷を診たことより、隣で、この子が無事に眠っていること。
アキにとっての八週間は、最後にはそこへ行き着いてしまう。
◇ ◇ ◇
翌朝。
いつもの時間に目を覚ました。
今日は医務室に行かなくていいと分かっているのに、体だけがまだ続きを探していた。
「今日は休みよ」
隣のベッドから、アキさんが言った。
「……ねむくない」
「横になってるだけでもいいわ。休むのも、仕事のうちよ」
「アキさんも?」
「私も。今日は、できるだけ」
できるだけ。
そこがアキさんらしかった。
扉が静かに鳴り、ばあやが入ってきた。
盆の上にはお茶と小さな皿。
いつもの白い外衣はなかった。
「本日は、休息の日でございます」
ばあやは、そこで一度、深く頭を下げた。
「八週間、よくお務めになりました」
その声は、いつものように整っていた。
けれど今日は、礼儀の奥にやわらかさがあった。
ばあやは、白い外衣の代わりに薄い水色の上着を差し出した。
「今日は、ひめ様を見つけていただく必要はありません。ユキ様が休まれる日でございますから」
白くない服。
見つけてもらうためではない服。
ただ、着るための服。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ばあやは、満足そうに頭を下げた。
◇ ◇ ◇
休む日、と言われたのに、昼前には呼び出された。
呼びに来たのは、ハルカさんだった。
申し訳なさそうな顔をしている。
「ごめんね、ユキちゃん。スズキさんが、少しだけお話したいって」
「……少しだけ?」
「うん。少しだけ、のはず」
はず。
アキさんが、すぐに白衣を取った。
「私も行きます」
「はい。スズキさんも、そのつもりだと思います」
ばあやは何も言わず、私の水色の上着の襟元を整えた。
白い外衣ではない。
胸元の花もない。
薄緑の刺繍もない。
でも、ばあやの手つきは、いつもと同じくらい丁寧だった。
「いってらっしゃいませ、ユキ様」
いつもの「ひめ様」ではなかった。
それでも、ばあやの声だと怖くなかった。
遠ざけるためではなく、送り出すための呼び方に聞こえたからだ。
「いってきます」
◇ ◇ ◇
スズキさんの部屋には、紙がたくさんあった。
八週間の記録。
診療人数。
症状の分類。
再診が必要な人。
亡くなった人。
アキさんの記録帳から写したものだと、並び方で察した。
でも、アキさんの記録は人の名前から始まっていた。
スズキさんの紙は、数字から始まっていた。
「お疲れのところ、申し訳ありません」
スズキさんは立ち上がって、丁寧に頭を下げた。
「昨日で、最初の診療は完了しました。夢の国の住民千五百二十一名。所在確認が取れなかった二十三名を除き、全員の記録が残りました」
千五百二十一名。
その数字を聞いても、もう驚かなかった。
けれど、その数字はもう、ただの数には聞こえなかった。
後ろに、顔が浮かぶから。
膝を抱えていた男の子。
泣かなかったユウタくん。
もう少しいてみるわ、と笑った老婦人。
桜井さん。
全部、数字の中に入っている。
アキさんが一歩前に出た。
「記録の扱いについて、確認させてください」
「もちろんです」
「診療記録は、医療のためのものです。住民の管理や、労働配置だけに使われると困ります」
スズキさんは、すぐには答えなかった。
微笑みを消さないまま、アキさんを見る。
「医療は生活と切り離せません。働けるか、休ませるべきか、食事を増やすべきか。そういった判断にも関わります」
「だからこそ、線引きが必要です」
「ええ」
スズキさんは、机の上の数字ではなく、アキさんの記録帳へ目を向けた。
「私はどうしても、数で見ます。何人が働けるか。何人を休ませるか。どこに食料を回すか」
スズキさんは静かに続けた。
「だから、先生が必要なのです。名前で見て、止めてくださる方が」
スズキさんは穏やかに言った。
アキさんの口元が固く結ばれた。
私は、その横顔を見上げた。
アキさんは怒っている。
でも、怒鳴らない。
怒鳴った瞬間、この人の言葉の中に取り込まれてしまう。
アキさんは、それを避けているみたいだった。
「今日、お呼びしたのは、その相談だけではありません」
スズキさんは、机の上から一枚の紙を取った。
そこには、大きく文字が書かれていた。
私はまだ、全部読めなかった。
でも、ひとつだけ読めた。
ユキ。
私の名前。
「明日、広場で集会を開きます」
「……集会?」
報告会でも、説明会でもなく。
集会。
「報告会と呼んでも構いません。ですが、今回はただ数字を伝える場ではありません」
スズキさんは、机の上の紙に目を落とした。
「八週間で何が変わったのか。これから何を支えにするのか。それを、同じ場所で共有する必要があります」
「そしてもう一つ」
スズキさんは、そこで私を見た。
「ユキさんに、名前をお渡ししたい」
名前。
「わたしの名前は、ユキです」
「ええ。あなた自身の名前は」
スズキさんは頷いた。
「私が言っているのは、あなたが担った役割の名前です」
役割。
また、その言葉だった。
八週間前にも聞いた。
名前のないものを、人は長く見つめていられない。
スズキさんは、そう言っていた。
「子供たちは、遊びの中であなたを呼びました」
スズキさんは、机の上の紙に目を落とした。
「けれど、大人たちは、祈る時の言葉を選び始めています」
「いのる時のことば?」
「聖女様、と」
その呼び名が、部屋の空気を変えた。
アキさんの手が、私の肩にそっと触れた。
守るように。
止めるように。
「私は、その言葉を否定しません」
スズキさんは続けた。
「むしろ、今の夢の国には、その言葉が必要だと考えています」
「スズキさん」
アキさんの声が低くなる。
「その言葉は、ユキを縛ります」
「縛る言葉にも、支える言葉にもなります」
「あなたが使えば、縛る言葉になります」
部屋が静かになった。
ハルカさんが息を詰める気配がした。
スズキさんは、深くは反論しなかった。
「……手厳しいですね」
「必要なことです」
「ええ。だから、先生にも同席していただきたい」
スズキさんは私を見る。
「そして、ユキさん。あなたにも確認します」
「……なにを?」
「明日、皆の前に立っていただけますか」
皆の前。
広場。
千五百人。
視線。
名前。
聖女様。
広場の視線が、まだ見えないのに肌へ触れた気がした。
嫌です、と言えばいいのかもしれない。
でも、嫌なのかどうか、よく分からなかった。
怖い。
それはある。
でも、逃げたいだけでもなかった。
八週間、私はあの人たちに触れた。
できることもあった。
できないこともあった。
それを、なかったことにはできない。
「……わたしは」
言葉の最初が、うまく立たなかった。
アキさんの手が、肩にある。
あたたかい。
「わたしは、聖女様じゃないです」
スズキさんは黙って聞いていた。
「でも、みんながそう呼びたいなら……止められないのも、分かります」
うまく言えている自信はない。
それでも、ここで黙ったら違うものにされる気がした。
「だから、明日、言ってもいいですか」
「何をでしょう」
「できることと、できないこと」
私はアキさんを見た。
アキさんは、何も言わなかった。
「わたしは、ぜんぶは治せない。なおらないものもある。でも、できる分だけやる。アキさんと一緒に」
そこまで言って、胸の前で言葉を整え直した。
「それを、言っていいなら、立ちます」
スズキさんの目が、静かに細くなる。
嬉しそうなのか。
困っているのか。
それとも、最初からその答えを待っていたのか。
分からなかった。
「もちろんです」
スズキさんは、深く頭を下げた。
「その言葉こそ、必要です」
◇ ◇ ◇
部屋を出たあと、しばらく話さなかった。
中央通りを歩く。
大きなガラス屋根の下に、午後の光が落ちている。
人が行き交うたび、視線がこちらへ流れてくる。
誰も声には出さない。
けれど、すれ違う前に足を止める人がいる。
頭を下げかけて、途中でやめる人がいる。
そのためらいが、妙に怖かった。
「ユキ」
アキさんが立ち止まった。
「なに?」
「本当に、いいの?」
その声は、スズキさんの部屋で聞いた声とは違った。
医師の声ではない。
守る人の声だった。
「こわいよ。すごく、こわい」
「だったら」
「でも、言わない方がこわい」
アキさんが黙る。
「聖女様って呼ばれて、ぜんぶ治せるって思われる方がこわい。治せなかった時に、『なのに』って思われるのが、こわい」
「だから、先に言う。ぜんぶはできないって」
「……そう」
アキさんが息を吐いた。
それから、私の頭に手を置いた。
「よく考えたわね」
「うん」
「でも、無理はしないで」
「うん」
「途中で嫌になったら、私を見ること」
「アキさんを?」
「ええ。私が止めるから」
その言い方が、いつものアキさんだった。
私は少しだけ笑った。
「うん。見る」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、ばあやが白い外衣を持ってきた。
いつもの服だった。
でも、胸元の花の下に、小さな飾りが増えていた。
薄緑の糸で縫われた、小さな輪。
光の輪みたいな形だった。
「……増えてる」
「はい」
ばあやは、誇らしげに頷いた。
「明日のために、少し整えました」
「ばあや」
「はい」
「明日、これを着たら……わたし、聖女様になるの?」
ばあやは、すぐには答えなかった。
外衣を両手で持ったまま、私の前に膝をつく。
「ひめ様」
「うん」
「服は、人を別のものにはいたしません。でも、見ている方々の心を整えることはございます」
「……心を?」
「はい。明日、皆さまはこの白いお姿を見るでしょう。祈るように頭を下げる方もいるでしょう」
ばあやは真面目な顔で続けた。
「けれど、ばあやは知っております。この服を着て、石畳でけんけんぱをなさった方だと」
「……それ、言わないで」
「ふふ。とても大切なことです」
ばあやは真面目な顔で言った。
「聖女様と呼ばれても、ひめ様が笑って転びかけたことを、ばあやは忘れません」
白い服の重さが、ふっと軽くなった。
アキさんとは違う。
でも、これも支え方なのだと思った。
「……ありがとう、ばあや」
「どういたしまして、ひめ様」
◇ ◇ ◇
夜。
城の上の部屋の明かりは、いつもより少し暗かった。
机の上には、明日のための紙が一枚ある。
私が言うことを、アキさんと一緒に考えたものだった。
ぜんぶは治せません。
できることと、できないことがあります。
でも、できる分だけやります。
アキさんと一緒に、続けます。
短い文なのに、何度読んでも指先が落ち着かなかった。
紙の端をなぞる。
折りそうになって、あわてて伸ばす。
明日、これを声にするのだと思うと、口の中が乾いた。
「覚えなくていいわ」
アキさんが言った。
「途中で止まってもいい。言えなかったら、私が言う」
「……だめだよ。わたしが言う」
「うん。そう言うと思った。でも、逃げ道は用意しておくの」
逃げ道。
「アキさん」
「なに?」
「明日、手をつないでもいい?」
言ってから、頬に熱が集まった。
八歳なら普通かもしれない。
でも、私の中のどこかが、まだそれを恥ずかしがる。
アキさんは、私の顔を見てから答えた。
「いいわよ」
「ほんと?」
「ええ。必要なら、ずっと」
「……うん」
それだけで、明日の広場が、手の届く大きさになった気がした。
私は紙を畳んで、枕元に置いた。
明日、私は広場に立つ。
◇ ◇ ◇
その頃、城の前の広場で、スズキは住民たちに向かって話していた。
「皆さんに、お知らせがあります」
夕食後のざわめきが、ゆっくりと静まっていく。
「八週間にわたる診療は、昨日をもって一区切りを迎えました。明日、お城の前で集会を開きます」
人々の視線が、自然と城へ向いた。
「何が変わったのか。そして、これから何を支えにして生きていくのか。皆さんと共に、確かめたいと思います」
人垣のどこかで、声が漏れた。
「聖女様も……いらっしゃるのか」
その声は、広場のあちこちへ静かに広がっていった。
スズキは、その言葉を否定しなかった。
ただ、城を見上げる人々の方へ、静かに目を向けていた。
次回「聖女の集会」