ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
城の前の広場には、朝から人が集まっていた。
窓の外を見た瞬間、身体が一歩ぶん後ろへ下がりそうになった。
石段の下にも、屋根つきの中央通りにも、広場の端にも人がいた。
昨日まで診療の列に並んでいた人たちが、今日はただ、こちらを見上げている。
子供も、大人も、老人も。
杖をついた人も、誰かの肩を借りて立つ人も。
千五百人。
数字として聞いた時より、ずっと大きかった。
「ひめ様」
ばあやの声で、私は窓から顔を離した。
白い外衣は、もう着せられている。
胸元には花。
薄緑の刺繍の下には、小さな光の輪が増えていた。
ばあやは最後に裾を整えると、深く頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ」
「……うん」
アキさんが隣に来る。
今日は記録帳を持っていない。
でも、いつもの小さな鞄は肩にかけていた。
何かあったら、すぐ動けるように。
それが、アキさんだった。
「見るのは、全員じゃなくていいわ」
「え?」
「足元。私。見られるところだけ見なさい」
私は頷いて、小さく手を出した。
昨日、約束した手。
アキさんは何も言わずに握ってくれた。
◇ ◇ ◇
城の裏口から表へ出ると、そこはもう広場より少し高い場所だった。
足元の石畳は、丁寧に掃かれていた。
城の前には人々が集まり、両側にはハルカさんを先頭に案内役の人たちが並んでいる。
階段を上がったわけではない。
ただ外へ出ただけなのに、広場の人たちから見上げられている。
特別な壇はない。
それなのに、そこは最初から、人々が誰かを見上げるために作られた場所みたいだった。
つないだ手だけを頼りに、私は城前の石畳を進んだ。
アキさんが、半歩だけ前に出る。
私を隠すほどではない。
でも、私だけを広場の前に置かない位置だった。
私は、つないだ手を握り返した。
「あ……」
「来た」
「ユキ様……」
「聖女様」
声が、小さく広がっていく。
結んだ手に力が入りかけた時、広場の端から別の声が飛んできた。
「ユキひめ様ー!」
ルミだった。
「がんばれー!」
「混ぜないでってば」
小さく返した声は、たぶん届かなかった。
でも、口に出しただけで少し息ができた。
スズキさんは、高台の中央に立っていた。
いつもの穏やかな笑顔。
けれど今日は、顔色がいつもより白く見えた。
スズキさんも緊張するのだろうか。
そう思うと、あの人が少しだけ人間に見えた。
「皆さん。本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
スズキさんの声が、広場に通った。
ざわめきが静まっていく。
「八週間にわたる診療が、昨日をもって一区切りを迎えました」
人々の間に、小さな波が走る。
「所在確認の取れなかった方を除き、夢の国に暮らすほぼ全ての方の診療記録が残りました。症状。処置。経過。必要な再診。そのすべてを、アキ先生が記録してくださいました」
視線が、アキさんへ集まった。
アキさんは、表情を変えずに小さく頭を下げる。
「そして、多くの方がユキさんの力に触れました」
今度は、視線が私へ向いた。
手が震えそうになる。
アキさんの指が、ぎゅっと私をつなぎ止めた。
「傷が癒えた方がいます。熱が下がった方がいます。痛みが軽くなり、眠れるようになった方もいます」
スズキさんは、そこで一度言葉を切った。
「そして、救えなかった方もいます」
広場の空気が沈む。
桜井さんの顔が浮かんだ。
眠ったまま亡くなったおじいさん。
最後の夜は、手があたたかかったと伝えられた人。
私は目を逸らさなかった。
「この八週間で、私たちは知りました」
スズキさんの声は静かだった。
「ユキさんの力は、特別です」
奇跡、と言わなかった。
「ですが、万能ではありません」
広場が、さらに静かになる。
「治せるものと、治せないものがあります。楽にできるものもあれば、時間をかけて見なければならないものもあります」
その言葉は、アキさんの記録帳から来ている気がした。
数字ではなく、人の話として。
「それでも」
スズキさんの声が、少しだけ強くなった。
「この八週間で、私たちは顔を上げる理由を得ました」
誰かが、小さく息を呑む。
「暗い通路で痛みを抱えていた人が、朝を待つようになった。子供たちが、傷を見せに走ってきた。家族が、もう少し一緒にいられるかもしれないと話した」
老婦人の言葉を思い出した。
もう少し、いてみるわ。
あの声の温度まで、まだ覚えている。
「その中心にいたのが、ユキさんです」
私は、足元を見そうになった。
でも、見なかった。
ルミが見ている。
ハルカさんも、まっすぐこちらを向いている。
ばあやは胸に手を当てて立っている。
アキさんは、隣で手を握ってくれている。
「子供たちは、彼女を遊びの中で呼びました」
広場の端で、ルミたちが小さく笑う。
「けれど、大人たちは、祈る時の言葉で呼び始めています」
スズキさんは、一度だけ間を置いた。
「聖女様、と」
その言葉が、はっきりと広場に置かれた。
怖かった。
けれど、昨日ほど遠くへ押し出される感じはしなかった。
「私は、この名を否定しません」
スズキさんは言った。
「ただし、今日この場で、皆さんに理解していただきたいことがあります」
スズキさんが、私を見る。
「その言葉を、彼女一人に重荷として背負わせてはなりません」
広場が、かすかに揺れた。
「聖女様と呼ぶならば、その名は、求めるためだけのものではありません。できることと、できないことを、共に受け止めるための名前でなければならない」
私はスズキさんを見上げた。
「ユキさん」
スズキさんが静かに呼んだ。
「皆さんに、伝えたいことを」
◇ ◇ ◇
紙を開いた。
昨日、アキさんと一緒に考えた紙。
何度も読んだ紙。
文字が、少し揺れていた。
ぜんぶは治せません。
できることと、できないことがあります。
でも、できる分だけやります。
アキさんと一緒に、続けます。
読める。読めるはずなのに、喉が動かない。
人が多い。
待たれている。
祈られている。
怖い。
その時、つないだ手が、ぎゅっと強くなった。
痛くはない。
ただ、ここにいる、と伝えるみたいな強さだった。
アキさんを見る。
アキさんは、ただ頷いた。
私は首を横に振らなかった。
息を吸う。
「……わたしは」
声は小さかった。
けれど、広場は静かだった。
「わたしは、ぜんぶは治せません」
言えた。
「なおせるものと、なおせないものがあります。楽にするだけで、せいいっぱいの時もあります」
紙を見る。さっきより、文字の形が分かった。
「わたしが強く光を出しても、なおらないものはあります」
桜井さんの顔が浮かんだ。
「だから、聖女様って呼ばれても、わたしはかみさまじゃないです」
誰も、何も言わない。
「でも」
紙を握る手に、力が入る。
「できる分だけ、やります」
今度は、広場の奥まで届いた気がした。
「水をきれいにします。包帯も、ちゃんときれいにします。傷を見て、熱も見ます。痛い人がいたら、アキさんと一緒に、どうするか考えます」
アキさんの手が、私の背中にそっと触れた。
「ひとりではできません」
これは、紙にはなかった言葉だった。
「アキさんがいないと、できません。ハルカさんが人を連れてきてくれないと、順番も分かりません。ばあやが休めって言ってくれないと、たぶん休めません」
ばあやが、一度だけ目を伏せた。
「だから」
顔を上げる。
「わたしだけに、お願いしないでください」
広場の空気が揺れた。
怖かった。
でも、言った。
「アキさんにも、ハルカさんにも、近くにいる係の人にも、ちゃんと聞いてください。スズキさんとアキさんが決めた順番も、守ってください。わたしが、できないって言っても、怒らないでください」
喉が熱い。目も熱い。でも、泣かなかった。
「それでもいいなら」
紙を下げて、前を見た。
「できる分だけ、やります」
沈黙が落ちた。
長かった。
言いすぎたのかもしれない。
聖女様には、もっときれいな言葉を期待していたのかもしれない。
できないことばかり並べてしまった。
そう思った時。
広場の端で、小さな手が上がった。
ルミだった。
拍手ではなく、両手を口の横に添えて、精いっぱい声を張る。
「ユキひめ様ー!」
その声が、広場に跳ねた。
隣にいた女の人が、慌てたようにルミの肩へ手を置く。
けれど、止めなかった。
遅れて、その横にいた男の人が、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
低い声だった。
ルミの隣にいた男の人だった。
女の人も、目元を押さえながら頭を下げていた。
その一礼で、張りつめていた広場の空気に、息をする場所ができた。
ぱち、と音がした。
最初に手を叩いたのは、ルミだった。
それに、隣の子供が続いた。
その親も、遅れて手を叩く。
杖をついた老人が、ゆっくりと手を合わせる。
腕に包帯を巻いた男の人が、胸の前で小さく拍手する。
拍手は、少しずつ広がっていった。
大きな歓声ではなかった。
熱狂でもなかった。
でも、ひとりずつ、自分の場所から返してくれているような音だった。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
「無理しないでくださいね」
そんな声が、拍手の間からぽつぽつと聞こえる。
息が、戻ってきた。
祈るみたいな声だけじゃなかった。
ルミの明るい声もあった。
誰かの「無理しないで」もあった。
それなら、まだここに立っていられる。
◇ ◇ ◇
拍手が静まるのを待って、スズキさんが一歩前へ出た。
「皆さん、聞いていただいた通りです」
声は、いつもより少し低かった。
「ユキさんは、万能ではありません。彼女一人に、すべてを背負わせてはなりません」
広場の人たちは、静かに聞いている。
「今後も診療は、アキ先生の判断で行います。順番を守っていただきます。急を要する症状は医務係へ。ユキさんへの直接のお願いは控えてください」
何人かが頷いた。
「そして、できることと、できないことがあります」
スズキさんは、そこで私を見た。
「それでも、彼女はここに立つと言いました」
また、広場が静かになる。
「ならば我々は、その名前を、重荷ではなく、約束にしなければならない」
約束。
その言葉だけが、耳に残った。
「この夢の国は、本日より、彼女をこう呼びます」
スズキさんが、ゆっくりと頭を下げた。
「夢の国の聖女、ユキ様」
広場に、静かな波が広がった。
新しい呼び名が、人々の間をゆっくり渡っていく。
けれど、もう一人で受け止めている感じはしなかった。
ぜんぶはできないと言えたから。
ひとりではできないと言えたから。
アキさんの名前も、ハルカさんの名前も、ばあやの名前も、ちゃんと出せたから。
私は小さく頭を下げた。
「……よろしく、おねがいします」
また、拍手が起きた。
◇ ◇ ◇
集会が終わっても、人々はすぐには散らなかった。
広場のあちこちで、小さな声が交わされている。
「……あんな小さい子が、ちゃんと言ってくれたんだな」
「ああ。全部は治せないって」
「それでも、できる分だけやるって」
「なら、こっちが守らなきゃだめだ」
誰かが、医務室の方を見た。
「まずはアキ先生だ」
「ユキ様に直接お願いしない」
「今まで通り、先生の判断に従う」
今まで通り。
その言葉を聞いて、肩から力が抜けた。
「ユキ」
アキさんが呼んだ。
「なに?」
「終わったわね」
「……うん」
終わった。
でも、始まった気もした。
今日から、私はあの名前で呼ばれる。
それは怖い。
でも、ぜんぶはできないと言えた。
それでもやると、自分の口で言った。
そのことだけは、手の中に残った光みたいだった。
ばあやが近づいてきた。
「ひめ様」
「ばあや」
「たいへん立派でございました」
「……ほんと?」
「ええ」
ばあやは、目元をやわらげる。
「聖女様として、ではなく」
そこで、にっこり笑った。
「ユキ様として」
胸の奥がふっとゆるんだ。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ばあやは、そこで外衣の裾を見た。
「それから、裾が汚れております」
「え」
「お話しされている間、ひめ様の足が、少しずつ後ろへ下がっておりましたので」
「……そんなところ見てたの」
「もちろんでございます」
ばあやは真面目な顔で頷いた。
「それでも、最後までお立ちでした」
その言葉で、喉の奥が熱くなった。
私は逃げなかった。
足は下がっていたかもしれない。
裾も汚したかもしれない。
でも、最後まで立っていた。
ばあやは、それを見てくれていた。
「……ばあや」
「はい」
「帰ったら、きれいにできる?」
「もちろんでございます」
ばあやは、誇らしげに胸へ手を当てた。
「ばあやは、ひめ様の裾を見逃しません。汚れも、ほつれも、ぜんぶ綺麗にいたします」
アキさんが横で小さく笑った。
私も、つられて笑った。
聖女様になったばかりなのに。
こんな話ができる。
そのことに、ほっとした。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
城の窓から広場を見ると、人々はいつも通り動いていた。
配給の列があり、水を運ぶ人たちが行き交っている。
石畳では子供たちが走り、椅子に座った老人が広場を眺めていた。
何かが劇的に変わったわけではない。
でも、医務室の前には、いつもの札が立っていた。
診療は順番に。
急な症状は医務係へ。
その下に、ハルカさんの字で、新しい一行が足されている。
ユキ様に直接お願いせず、まずアキ先生へ。
私はそれを見て、息を吐いた。
「……アキさんの名前、ちゃんとある」
「当然よ」
隣でアキさんが言った。
「私が決めるって約束したもの」
「うん」
足元が、ちゃんと戻ってきた気がした。
聖女様という名前が増えても、入り口は変わらない。
まず、アキさん。
順番があって、止める人がいる。
それなら、明日もここに立てる気がした。
◇ ◇ ◇
夜。
城の上の部屋に戻ると、身体の力が一気に抜けた。
ばあやの手で白い外衣を脱がされる。
胸元の花が外れ、薄緑の刺繍が畳まれ、白い布が私の体から離れていく。
肩が、ようやく自分のものに戻った気がした。
寝間着に着替えると、私はベッドの端に座ったまま、自分の手を見た。
小さい手。
八歳の手。
今日、たくさんの人の前で震えていた手。
でも、言えた。
ぜんぶは治せない。
でも、できる分だけやる。
それは、聖女様の言葉ではなかった。
私の言葉だった。
「ユキ」
アキさんが隣に座った。
「今日は、よく言えたわ」
その一言で、目の奥が熱くなる。
「……うん」
「泣いてもいいわよ」
「泣かない」
「そう」
アキさんは、それ以上言わなかった。
ただ、私の頭をそっと撫でた。
「アキさん」
「なに?」
「手、つないでくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
私は少し迷ってから、もう一度聞いた。
「……明日も、つないでいい?」
「必要なら、いつでも」
「……うん」
私はアキさんの手を握ったまま、ゆっくりと眠りに落ちていった。
次回「夢の国の夜に」