ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
田中は、荷台を引きながら、国道357号を歩いていた。
片道十五キロ。
本来なら、自分の担当ではなかった。
先月、前任の男が帰り道でやられた。
ハウンドの群れだったらしい。
聞いた話では、リュックを地面に置いた瞬間、後ろから三匹来たという。
だから今月から、田中に回ってきた。
荷台の中身は、米と麦。
印旛沼の周辺で作られたものだ。
それを連合が買い上げ、田中のような運び屋が各地へ届ける。
届け先から仲介料を受け取り、戻れば三割を連合に納める。
残りが取り分。
悪い条件ではない。
ただ、前任の死に方を聞いたあとでは、素直には喜べなかった。
(……気をつけないとな)
田中は、荷台の取っ手を握り直した。
背後を確認する。
車線の半分は砂に埋まり、もう半分はひび割れたアスファルトに苔が筋を引いている。
倒れた標識の支柱。
放置された車の残骸。
割れた防音壁の向こうに、青白いマナ結晶が小さく覗いていた。
何もいない。
田中は眉をひそめた。
この道に入ってから、ずっとハウンドの気配がない。
前任が死んだルートのはずだ。
幕張側の連中も、「あそこは今月は危ない」と言っていた。
なのに、道は静かだった。
静かすぎて、逆に信用できなかった。
遠くで、海鳥が鳴いた。
潮と錆の匂いが、風に混じって流れてくる。
田中は足を止めなかった。
止める方が、怖かった。
◇ ◇ ◇
かつては、ここまで車で渋滞していた。
田中は、ひび割れた国道を歩きながら、ぼんやりと思い出していた。
休日の朝。
子供連れの家族。
バスの窓に貼られたキャラクターのステッカー。
右も左も車で埋まり、誰もが同じ場所を目指していた。
今は、誰もいない。
海側に、あの城が見えてきた。
白い壁には蔦が這い、尖塔の一部にはマナ結晶が絡みついている。
それでも、遠目には昔の形を保っていた。
シンデレラ城。
田中は、無意識にその名前を思い浮かべた。
三年前に世界が変わってから、残ったものは少ない。
駅は崩れた。
高架は落ちた。
商業施設のガラスは割れ、ホテルの上層階には鳥が巣を作っている。
それなのに、城はまだそこにあった。
その事実が腹立たしくて、同時に、どこか安心できるものでもあった。
田中は首を振った。
感傷に浸るために来たわけではない。
米と麦を届けて、サインをもらう。
仲介料を受け取る。
幕張へ戻る。
それだけだ。
◇ ◇ ◇
入場ゲートの跡に近づくと、声が飛んだ。
「止まれ。所属と目的を」
田中は荷台を止めた。
かつて入場ゲートだった場所には、古い柱が並んでいた。
柱の間には簡単な柵が渡され、通路だけはきれいに掃かれている。
腕章をつけた門番が、二人立っていた。
一本の柱には、緑の布が巻かれている。
古い布ではなかった。
端は洗われていて、結び目も新しい。
誰かが最近、巻き直したのだ。
「連合の運び屋。田中。印旛沼の米と麦を届けに来た」
一人が荷台を覗き込み、もう一人は帳面を開いた。
「連合。田中。米八、麦六。予定通りだな」
「遅れちゃいないはずだ」
「道は?」
「静かだった」
門番の目が上がった。
「ハウンドは」
「見てない」
二人の門番が目を合わせる。
その反応で、田中は眉を寄せた。
ここでも、その話になるのか。
「荷を確認する」
「どうぞ」
米袋と麦袋を上から確かめた門番が、短く頷く。
「入れ。配給所はいつもの場所だ」
柵が開く。
田中は荷台を引いて、緑の布を巻いた柱の横を通った。
その時、門番の一人が、何気ない仕草で布の結び目に触れた。
曲がってもいない結び目を、指先で整える。
(聖女様とやら、本当にいるらしいな)
幕張でも、最近その話は出ていた。
舞浜のあの跡地に、光る子供がいる。
死にかけた奴が歩けるようになった。
ハウンドが近寄らない。
城が夜に緑に光る。
酒場で聞けば、だいたい半分は大げさな噂だ。
人は、不安になると奇跡の話を作る。
田中は、そういうものを信じないことにしていた。
信じて、裏切られるのは疲れる。
石畳の広場へ入る。
そして、足が止まった。
(……なんだ、ここ)
聞いていた話と違った。
前任の男は言っていた。
あの跡地に食料を降ろすだけの、楽な仕事だ。
中にいるのは、しぶとく生き残った連中だけ。壁の内側で、どうにか息をしている場所だと。
田中も、そういう場所ならいくつも見てきた。
幕張。
市川の倉庫街。
印旛沼の農地集落。
どこも同じだ。
人はいる。
秩序もある。
配給もある。
だが、どこへ行っても、人の表情には疲れが残っている。
今日を凌ぐ計算。
明日を疑う癖。
誰かが倒れた時に、自分の取り分がどう変わるかを一瞬考えてしまう目。
ここは違った。
子供が走っていた。
大人が、それを本気で怒鳴らずに見ていた。
老人が椅子に座り、夕方でもないのに目を閉じている。
制服らしい上着を着た若い女が、水差しを運びながら、誰かに笑いかけていた。
「おじさん、食料、持ってきてくれたの?」
声をかけられた。
振り返ると、七歳か八歳くらいの女の子が立っていた。
頬に白い粉をつけている。
石畳に絵でも描いていたのだろう。
手にも同じ粉がついていた。
「……そうだよ。米と麦」
「ありがとう!」
女の子は、当たり前みたいに礼を言った。
田中は返事に詰まった。
運び屋に礼を言う子供は少ない。
大人なら言う。
取引だからだ。
でも、子供は普通、荷物の中身しか見ない。
「見て!」
女の子が腕を差し出した。
「……何を?」
「ここ! ひめ様に治してもらったの!」
田中は、女の子の腕を見た。
何もなかった。
古い傷跡も、膿んだ痕も見当たらない。
ただ、きれいな子供の肌があるだけだった。
「前は、すごかったんだよ。赤くて、痛くて。お母さんが泣きそうな顔してたの」
「……へえ」
「でも、ひめ様が、緑の光で、あったかくしてくれたの」
女の子は得意そうに笑った。
「だからもう、だいじょうぶ!」
そう言って、走っていった。
石畳の上には、白い線の落書きがある。
城の形。
緑の丸い光。
髪の長い小さな人。
その横に、ひらがなで書かれていた。
ここにいれば、だいじょうぶ。
田中は、しばらくその文字を見ていた。
(……ずいぶん、都合のいい言葉だな)
そう思ったのに、なぜか目を逸らせなかった。
◇ ◇ ◇
配給係は、仕事が早かった。
田中が荷台を指定された場所へ運ぶと、すぐに配給係の二人が現れた。
米袋と麦袋を数え、重さを確認し、帳面に記録していく。
「印旛沼、米八袋。麦六袋。連合経由。仲介料は前回と同じでよろしいですね」
「よろしいです」
田中が革のケースから伝票を出すと、相手の女はすぐにサインを書き込んだ。
夢の国、配給管理班。
取引用の伝票に書くには、あまりにも浮いた名前だった。
だが、ここではそれが正式な名前らしい。
「こちらが仲介分です」
布袋を渡される。
中身を確認する。
乾燥豆。
塩。
それから、少量の薬草。
悪くない。
幕張で聞いていた話より、よほどまともな支払いだった。
「前より増えてませんか」
「医務室からの分です」
「医務室?」
「外の運び屋さんには、塩と薬草を少し多めに、と。アキ先生の指示です」
「……へえ」
田中には、そのアキ先生という人物が誰なのか分からない。
ただ、この場所では、物資の分配に医務室の意見が通るらしい。
それは珍しいことだった。
普通、物資は武装班か配給班が決める。
医者が口を出せる場所は、それなりに余裕があるか、あるいは医者がよほど強いかだ。
田中は、城の方を見た。
その上の方に、昼間なのに薄い光が見える。
緑。
いや、青にも見える。
青白いマナ結晶の色に、少しだけ緑が混じったような色。
田中は目を細めた。
城の石に反射しているだけかもしれない。
葉の色が混ざっているだけかもしれない。
それでも、その曖昧な光は、妙に目に残った。
「聖女様は、あそこに?」
つい聞いてしまった。
配給係の女が、一瞬だけ顔を上げる。
「今はお休みの時間です」
「……休みがあるんですね」
「あります」
女の声が硬くなった。
「必ず、あります」
田中は肩をすくめた。
「そりゃ、失礼」
謝ると、女の表情から硬さが抜けた。
「直接のお願いは、医務室へ。まずアキ先生へお願いします」
「俺は怪我してないですよ」
「怪我をした時のために」
「……なるほど」
田中は伝票をしまった。
ここでは、そういう決まりがあるらしい。
聖女様がいて。
でも、直接頼んではいけない。
医者を通す。
信仰なのか、制度なのか。
その境目が、田中には見えなかった。
◇ ◇ ◇
帰り際、もう一度だけ城を見た。
昔、娘を連れて来たことがある。
田中はそれを、できるだけ思い出さないようにしていた。
三年前。
まだ
入場ゲートに並んだ。
チケットを買った。
手の甲に再入場のスタンプを押してもらった。
娘は五歳だった。
「パパ、おしろ!」
そう言って、田中の肩の上で身を乗り出した。
妻が横で笑って、スマホを構えていた。
その写真はもうない。
スマホは、変異の最初の冬に壊れた。
充電する場所もなく、画面は黒いまま戻らなかった。
妻も、娘も、いない。
田中は、荷台の取っ手を握り直す。
考えても、しょうがない。
いつもそうしてきた。
考えないことで、足を動かしてきた。
だから今日も、そうする。
帰りの検問で、門番が荷台と伝票を確認した。
「出るのか」
「ああ。幕張まで戻る」
「日が落ちる前に抜けた方がいい」
「分かってる」
門番は短く頷き、柵を開けた。
田中は、緑の布が巻かれた柱の横を通る。
柱の付け根に、白い線で何かが描かれていた。
城。
緑の光。
小さな人。
田中は足を止めた。
(……同じ絵だ)
幕張へ戻る途中の、商業ビルの壁にも、最近、似たような絵を見た。
誰が描いたのかは知らない。
ただ、緑の光と城。
小さな人。
ここから出た絵なのか。
外から来た絵なのか。
それとも、誰かが噂を聞いただけで描いたのか。
分からない。
聖女様の噂。
夢の国の話。
ハウンドが近づかない道。
幕張の連中が商売の匂いを嗅ぎつけるのも、時間の問題かもしれない。
田中は、面倒なことになりそうだと思った。
同時に。
もう一度、城を見た。
面倒なだけでは、ないのかもしれないとも思った。
◇ ◇ ◇
国道357号に戻る。
荷台は軽くなっていた。
米と麦の重さがなくなった分だけ、車輪の音も軽い。
代わりに、仲介料の袋が腰の横で揺れている。
田中は歩きながら、耳を澄ませた。
風。
海鳥。
遠くで軋む看板。
ハウンドの爪音はない。
来る時も、なかった。
帰り道も、今のところない。
前任が死んだ道なのに。
(……本当に、来ないのか)
田中は首筋を撫でた。
理由は分からない。
夢の国の周りにはハウンドが近づかない。
幕張でそう言っている者もいた。
田中は笑い飛ばしていた。
だが今日の道は、来た時と同じ沈黙を保っていた。
荷台の車輪が、ひび割れたアスファルトの上で規則正しく鳴る。
遠くに、城がまだ見えていた。
その最上部に、昼の色に紛れるような小さな光がある。
青とも、緑ともつかない色。
マナ結晶の青白さとも、植物の緑とも違う。
青と緑の間に、灰を薄く溶かしたような色。
田中はその色を、どこかで見た気がした。
どこだったかは、思い出せなかった。
思い出せないまま、歩く。
幕張までは、まだ遠い。
◇ ◇ ◇
途中、コンビニの廃墟で一度だけ休んだ。
屋根は半分落ち、棚は倒れ、床にはガラス片が散らばっている。
それでも、風を避けるには十分だった。
田中は荷台を壁際に寄せ、腰を下ろす。
布袋から乾燥豆を取り出し、二粒だけ噛んだ。
硬い。
塩気がある。
水筒を開けようとして、ふと、レジ横に残った古いポップが目に入った。
色は褪せ、文字は半分消えている。
おむすび。
その四文字だけは、読めた。
田中は、なぜか笑った。
夢の国。
聖女様。
緑の光。
ハウンドが来ない道。
そんな話を見てきたあとに、崩れたコンビニでおむすびの文字を見る。
これが現実だ。
田中は、水筒の水を一口飲む。
思い出したくもないのに、昔のことが浮かんだ。
娘はコンビニのおにぎりが好きだった。
海苔が別包装になっているものを、うまく開けられずに、いつも田中へ渡してきた。
田中は、それを開けてやった。
娘は、最初の一口だけやたら大きく食べて、口の端に米粒をつけていた。
そこまでだった。
田中は立ち上がった。
それ以上思い出す前に、荷台の取っ手を握る。
荷台を引く。国道に戻る。足を動かす。
それだけだ。
◇ ◇ ◇
夕方前には、幕張の高い建物が見え始めた。
崩れたホテル。
窓の抜けたオフィスビル。
補強された歩道橋。
連合の見張り台。
見慣れた輪郭だった。
田中は、そこでようやく肩の力が抜けた。
いつもの景色。
いつもの顔。
いつもの検問。
戻ってきた。
「田中さん、早かったですね」
検問の若い男が言った。
「道が静かだった」
「ハウンドは?」
「見てない」
若い男が眉を上げる。
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、噂は本当なんですかね」
「知らん」
田中は、荷台を押して中へ入る。
検問の男が、なおも聞いてきた。
「聖女様、いました?」
「知らん」
「見てないんですか?」
「見てない」
「じゃあ、何があったんです?」
田中は立ち止まった。
何があった。
米と麦を届けた。
伝票にサインをもらった。
仲介料を受け取った。
それだけの仕事だった。
子供が走っていた。
大人が笑っていた。
ゲートに緑の布が巻かれていた。
城が、青とも緑ともつかない光を灯していた。
何があったと聞かれれば、それだけだ。
「……普通だったよ」
田中は言った。
「普通?」
「ああ」
荷台を引き直す。
「普通に、人が生きてた」
若い男は、何も言わなかった。
田中も答えを足さず、連合の倉庫へ向かって歩き出す。
背後で、検問の男が誰かに声をかけている。
「おい、夢の国の道、ハウンド出なかったってよ」
「マジか」
「聖女様の話、本当なんじゃねぇの?」
田中は振り返らなかった。
その手の噂は、勝手に広がる。止めても、止まらない。
田中には関係ない。
そう思ったのに。
倉庫へ向かう途中、口の中から勝手にこぼれていた。
「……夢の国、か」
風が、答えるはずもない。
幕張のビルの影が、夕方の道路に長く伸びていた。
その影の中を、田中の足音と荷台の車輪の音だけが、規則正しく響いていった。
次回「いつかのために」
夢の国の外にも、まだ世界は続いています。
次回はユキたちが来る前から、夢の国に残っていた人たちの話となります。