ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
朝いちばんに石畳を掃くのは、昔からの仕事だった。
世界が変わる前も。
変わったあとも。
柄の長いほうきの先が、白い石の上を擦っていく。
しゃっ、しゃっ、しゃっ。
小さな音が、まだ人の少ない広場に広がる。
ミヤモトは、その音を聞きながら、城の方を見上げた。
白い城。
三年前と、同じ場所にある城。
同じものには見えなかった。
胸ポケットの奥に、古いネームタグが入っている。
宮本。
ただそれだけが印字された、傷だらけの名札だった。
肩書きも、配属も、もう意味を持たない。
一年目の終わりに、彼はそれを外した。
お客様を迎えるための名前を、もう胸につけていられなかったからだ。
捨てるつもりで、何度も手に取った。
結局、捨てられなかった。
そのまま、三年が経った。
今は、城の上に聖女様がいる。
そう思うと、ほうきの柄を握る手に、自然と力が戻った。
◇ ◇ ◇
一年目は、みんなまだ待っていた。
そのうち、政府か自衛隊が来る。
外から助けが来る。
最初の頃は、誰もがそう言っていた。
パークの放送設備は沈黙し、外の道路は割れ、青白いマナ結晶がアスファルトを裂いて伸びていた。
それでも、キャストたちは朝になると通路を掃いた。
ゲートの周りを片づけた。
倒れた柵を立て直した。
案内板についた泥を拭いた。
なぜかと聞かれれば、答えは簡単だった。
お客様が来るかもしれないから。
もちろん、そんなはずはなかった。
チケットを持った家族連れも、写真を撮る若者も、帽子をかぶった子供も、もう来なかった。
代わりに来たのは、泥だらけの靴で門をくぐる人たちだった。
荷物を抱え、熱を出した子供を背負い、何度も後ろを振り返る人たち。
お客様ではなかった。
それでも、キャストたちは道を空け、水を渡し、座れる場所を探した。
それでも一年目のキャストたちは、まだ「いつか」を信じていた。
いつか、元に戻る。
いつか、助けが来る。
いつか、この場所はまた夢の国になる。
その「いつか」のために、掃いていた。
◇ ◇ ◇
二年目には、誰もあまり言わなくなった。
政府。
救助。
復旧。
そういう言葉を口にする人は減っていった。
代わりに増えたのは、今日の食べ物を何人で分けるかという話と、見回りの人数と、外に出たまま戻らなかった人の名前だった。
キャストの数も減った。
熱で倒れた人。
外へ食料を探しに行って帰らなかった人。
朝礼に来なくなった人。
制服を返し、次の日からは配給を待つ列の中にいた人。
サカモトの名札だけは、ミヤモトが片づけた。
ミヤモトの隣で毎朝同じ石畳を掃いていた男だ。
坂本。
名札にそう書かれていた。
宮本と坂本。
一字違いだったせいで、配属されたばかりの頃はよく呼び間違えられた。
「ミヤモトさん、あっち」
「俺はサカモトです」
「サカモトさん、こっち」
「そっちはミヤモトです」
そんなやりとりを、何度もした。
そのうち、二人で同じ持ち場になった。
サカモトはいつも左側から掃いた。
理由を聞くと、「右からだと落ち着かない」とだけ言った。
ミヤモトは右側から掃いた。
理由はない。
ただ、そうすると二人でちょうど真ん中まで掃けた。
二年目の冬、サカモトは外へ食料を探しに出た。
戻ってこなかった。
残された名札は、砂と雨で汚れていた。
ミヤモトはそれを拭いた。
それから、倉庫の奥の箱にしまった。
翌朝、ミヤモトは一人で同じ石畳を掃いた。
右側を掃き終えても、左側はまだ残っていた。
左側は、昼前まで残った。
自分の名札を外したのは、その少し後だった。
それでも、残った者たちはまだ掃いていた。
ただし、それはもうお客様のためではなかった。
通路に泥が残ると、子供が転ぶ。
割れた飾りを放っておくと、誰かが怪我をする。
門の周りが荒れると、外から何かが入りやすくなる。
掃除は、夢を守るためではなくなった。
生きるための作業になった。
ミヤモトも、その頃には考えるのをやめていた。
朝になったら掃く。
昼になったら水を運ぶ。
夕方になったら案内板の泥を拭く。
それだけだった。
◇ ◇ ◇
三年目には、諦めが形になっていた。
誰も助けに来ない。
この場所は、もう戻らない。
自分たちは、ここでこうやって生きていくしかない。
それを口に出す者は少なかった。
みんな知っていた。
キャストと呼ばれていた人たちも、少しずつただの係になっていった。
配給係。
見回り係。
水運び。
門番。
医務係の手伝い。
昔の名札をつけている者は、もうほとんどいなかった。
それでも、スズキさんだけは時々言った。
「ここは、夢の国です」
誰も笑わなかった。
笑えなかった。
心のどこかで思っていた。
もう、無理だろう。
夢の国という名前だけが残っている。
自分たちは、その名前を惰性で磨いているだけだ。
ミヤモトは、そう思っていた。
◇ ◇ ◇
それが変わったのは、スズキさんがダイヤの砦へ出向いてからだった。
最初は、ただの交渉だと聞いていた。
スズキさんと、交渉役の若い男。
古くから残っている係の者たち。
それから、揃いの腕章をつけた見回りの者たち。
外から見れば、数十人。
後続の荷車まで数えれば、もっと多く見えただろう。
旗を掲げ、足並みを揃え、川の向こうの砦へ向かう。
それを交渉と呼ぶのか、保護と呼ぶのか、招待と呼ぶのか。
ミヤモトには分からない。
砦の者たちからすれば、吸収の通告にしか見えなかっただろう。
ただ、その時スズキさんたちが、何かを見つけて帰ってきたことだけは分かった。
数日後。
夢の国へ来た一行の中に、小さな銀色の子供がいた。
長い銀の髪。
碧灰色の目。
淡い水色のワンピース。
細い足に、小さな靴。
白衣の医師に手を引かれ、きょろきょろと周囲を見上げていた。
アキ先生。
そして、小さな子供の方は、ユキ様と呼ばれるようになった。
最初は、またスズキさんが何か始めたのだと思った。
希望を作る。
名前をつける。
人を並ばせる。
場所を整える。
あの人は、そういうことがうまい。
ミヤモトは警戒した。
多くのキャストも、そうだったと思う。
疑いは長く続かなかった。
傷が消えた。
熱で動けなかった人が、水を飲めるようになった。
長く眠れなかった人が、夜に眠れるようになった。
そして何より、ミヤモトの目に残ったのは、子供たちの背中だった。
前なら、誰かがすぐに止めていた。
怪我をしたら困る。
熱を出したら困る。
今は、親たちが一歩遅れて声をかけるだけだった。
走る子供の背中を、少し笑って見ていた。
◇ ◇ ◇
朝の掃除が、変わった。
石畳を掃く。
門の前を整える。
城へ続く道に、泥が残っていないか見る。
仕事の大半は、前と同じだった。
ただ、門の柱に巻かれた緑の布だけは、必ず見るようになった。
ほどけていないか。
汚れていないか。
通る人の邪魔になっていないか。
増えたのは、それくらいだ。
手の中のほうきは、もう惰性では動かなかった。
ここを、聖女様が歩くかもしれない。
白い外衣の裾が、朝の石畳に触れる。
小さな靴が、この道を通る。
アキ先生が隣を歩き、ばあやが少し後ろから裾を見ている。
そう思うと、泥を残すわけにはいかなかった。
石の隙間に詰まった砂を、柄の長いほうきの先で掻き出す。
水を薄く撒いて、もう一度掃く。
通路の端に寄せた枯れ葉を、袋へ入れる。
石畳を擦る音が、朝の広場に軽く返った。
音が軽い。
昔の音に、似ていた。
昼前には、中央通りの手すりを拭いた。
昔は、子供たちが手をついて歩いた場所だ。
今は、診療を待つ人や、配給の列に並ぶ人が触れる場所になっている。
布を水で絞り、端から端まで拭いていく。
以前は、色褪せた場所だと思っていた。
剥がれた塗装。
古びた装飾。
もう鳴らない音楽。
誰も使わない案内板。
でも今は違った。
色褪せたのではなく、長くここにあった。
剥がれた跡も、まだ残ろうとしているように見えた。
もう鳴らない音楽の代わりに、子供の声がある。
誰も使わないと思っていた案内板の下には、ハルカが新しい札を足した。
診療は順番に。
急な症状は医務係へ。
ユキ様に直接お願いせず、まずアキ先生へ。
ミヤモトは、その札の前で足を止めた。
字はきれいではない。
急いで書いた字だ。
それなのに、妙に大切なものに見えた。
午後、城の前を掃いていると、子供たちが石畳に絵を描いていた。
白い棒で、お城。
緑の光。
長い髪の小さな人。
「そこ、もう少し丸くした方がいい」
ミヤモトが思わず言うと、子供が振り返った。
「ミヤモトのおじさん、絵うまいの?」
「昔はな。掃除の合間に、水とほうきで地面に絵を描くこともあった」
白い棒を受け取る時、ミヤモトは指先で一度だけくるりと回してしまった。
昔の癖だった。
「わっ」
「……今のは忘れろ」
「もう一回!」
「仕事中だ」
「えー」
子供たちが不満そうに声を上げる。
ミヤモトは迷った末に、しゃがんだ。
白い棒を受け取り、城の線を整える。
尖塔の形。
旗の位置。
窓の曲線。
「おおー」
「うまい」
「ひめ様の光も描いて」
「それは、お前たちが描け」
「なんで?」
「おじさんには見え方が分からん」
そう言うと、子供たちは得意げに緑の線を足し始めた。
青とも、緑とも言えない色。
「ユキ様の目みたい」
「お城の光だよ」
ミヤモトは、その絵を見ながら黙った。
昔、ここではいろいろな絵が描かれた。
キャラクター。
風船。
花火。
お姫様。
王子様。
今、子供たちは城と緑の光を描いている。
それが悲しいことなのか、嬉しいことなのか、すぐには分からなかった。
ただ、子供たちは笑っていた。
なら、悪いことではない。
その日の夕方、城の前の石畳に水を撒いた。
西日が低く差して、濡れた石が光る。
ミヤモトはそこで足を止めた。
城が、光って見えた。
白い壁に夕方の光が当たり、尖塔のマナ結晶が青とも緑ともつかない色を返している。
城の上の方には、ほんのかすかな緑が残っていた。
それが本当に光なのか、ただそう見えただけなのか、判別はつかなかった。
数か月前にはそんなふうに見えなかった。
同じ城。
同じ石。
同じ空。
なのに、今は違う。
城の上の部屋には、ユキ様がいる。
その近くにはアキ先生がいる。
ばあやが衣装を畳み、ハルカが明日の札を用意している。
医務室では記録帳が閉じられ、門では緑の布が結び直される。
その全部が、夢の国を動かしている。
誰が変えたのかは、分からない。
ただ、変わったことだけは分かった。
それでも、今朝掃いた道を、誰かが通る。
昼に拭いた手すりを、誰かが握る。
結び直した布に、門番が触れてから中へ入る。
なら、自分の仕事はまだ終わっていない。
いや。
ようやく、戻ってきたのかもしれない。
◇ ◇ ◇
夜の見回りの前、キャストたちは門のそばに集まった。
昔のような朝礼ではない。
人数も、もう多くはない。
けれど、ミヤモトの隣には、昔から残っている顔がいくつかあった。
「明日は東側の掃除を増やす」
昔、スーパーバイザーだった男が言った。
みんなは今でも、彼をリーダーと呼ぶ。
本人はもうやめろと言うが、誰もやめない。
昔は、スズキさんと同じ現場で、開園前の点検を回っていた男だった。
今では、彼の指示を誰より早く現場へ流す。
「聖女様が歩く道か?」
「聖女様だけじゃない。最近、子供が走る距離が伸びた。親も止めるのが遅くなってる。転ばせるな」
「転んだら医務室に運べばいいんじゃないのか」
「その前に掃くのが俺たちの仕事だ。アキ先生の仕事を増やすな」
「はいはい」
「あと、城前の石畳。夕方、けっこう光る。濡らしすぎると滑るから注意」
「城まで磨くなってことか」
「磨くなとは言ってない。転ばせるなと言ってる」
「了解。光らせすぎない程度に磨く」
そんな軽口が、自然に出るようになっていた。
昔なら、ゲスト導線。
安全確認。
開園前清掃。
そう呼んでいた仕事だった。
今は違う。
中身は変わっていないのかもしれない。
誰かが安全に歩けるようにする。
安心して立ち止まれるようにする。
顔を上げた時、そこが汚れていないようにする。
そしてときどき、くだらない冗談を挟む。
それもたぶん、キャストの仕事だった。
ミヤモトは門の柱に巻かれた緑の布を見た。
結び目が曲がっている。
手を伸ばして、直した。
「ミヤモトさん」
「なんだ」
「最近、楽しそうですね」
「そうか?」
「はい」
若い係が笑った。
ミヤモトは、胸ポケットの上から古い名札に触れた。
つける気は、まだなかった。
捨てる気だけは、もうなかった。
それから、城を見た。
夜の中で、白い輪郭が浮かんでいる。
その上の方に、かすかな緑の光があった。
昔、ここは夢の国だった。
今も、そう呼ばれている。
戻ったわけではない。
もう一度、そうなろうとしている。
「……仕事だからな」
ミヤモトはそう答えた。
若い係が笑う。
「はい。仕事ですね」
「ああ」
柄の長いほうきを肩に担ぐ。
夜の石畳を、見回りの明かりがゆっくり動いていく。
遠くで、子供の笑い声がした。
「明日も、光るかな」
「光るよ。きっと」
「じゃあ、また見る」
そんな声が、風に混じって届いた。
ミヤモトは、門の前に立ち、背筋を伸ばした。
政府は来なかった。
救助も来なかった。
昔のパークは、もう戻らない。
それでも。
どこかで、ほうきの音がした。
しゃっ、しゃっ、しゃっ。
ミヤモトのものではない。
昔、隣で聞いていた音とも違う。
別の誰かが、明日のために石畳を掃いている。
ミヤモトは自分のほうきを担ぎ直した。
聖女様の住む城。
子供たちが走る道。
医務室へ続く通路。
札の立つ広場。
緑の布が巻かれた門。
明日の朝も、掃く場所は多い。
次回「生き残った人たち」(予定)
これにて夢の国編は完結となります。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次回からは外の話を描く予定です。
楽しんでいただけていたら嬉しいです。
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