ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜   作:Naito

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第27話 いつかのために

 朝いちばんに石畳を掃くのは、昔からの仕事だった。

 

 世界が変わる前も。

 変わったあとも。

 柄の長いほうきの先が、白い石の上を擦っていく。

 

 しゃっ、しゃっ、しゃっ。

 

 小さな音が、まだ人の少ない広場に広がる。

 ミヤモトは、その音を聞きながら、城の方を見上げた。

 

 白い城。

 三年前と、同じ場所にある城。

 同じものには見えなかった。

 

 胸ポケットの奥に、古いネームタグが入っている。

 

 宮本。

 ただそれだけが印字された、傷だらけの名札だった。

 肩書きも、配属も、もう意味を持たない。

 

 一年目の終わりに、彼はそれを外した。

 お客様を迎えるための名前を、もう胸につけていられなかったからだ。

 

 捨てるつもりで、何度も手に取った。

 結局、捨てられなかった。

 

 そのまま、三年が経った。

 

 今は、城の上に聖女様がいる。

 そう思うと、ほうきの柄を握る手に、自然と力が戻った。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 一年目は、みんなまだ待っていた。

 

 そのうち、政府か自衛隊が来る。

 外から助けが来る。

 最初の頃は、誰もがそう言っていた。

 

 パークの放送設備は沈黙し、外の道路は割れ、青白いマナ結晶がアスファルトを裂いて伸びていた。

 それでも、キャストたちは朝になると通路を掃いた。

 

 ゲートの周りを片づけた。

 倒れた柵を立て直した。

 案内板についた泥を拭いた。

 

 なぜかと聞かれれば、答えは簡単だった。

 お客様が来るかもしれないから。

 

 もちろん、そんなはずはなかった。

 チケットを持った家族連れも、写真を撮る若者も、帽子をかぶった子供も、もう来なかった。

 

 代わりに来たのは、泥だらけの靴で門をくぐる人たちだった。

 荷物を抱え、熱を出した子供を背負い、何度も後ろを振り返る人たち。

 

 お客様ではなかった。

 それでも、キャストたちは道を空け、水を渡し、座れる場所を探した。

 

 それでも一年目のキャストたちは、まだ「いつか」を信じていた。

 

 いつか、元に戻る。

 いつか、助けが来る。

 いつか、この場所はまた夢の国になる。

 

 その「いつか」のために、掃いていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 二年目には、誰もあまり言わなくなった。

 

 政府。

 救助。

 復旧。

 

 そういう言葉を口にする人は減っていった。

 代わりに増えたのは、今日の食べ物を何人で分けるかという話と、見回りの人数と、外に出たまま戻らなかった人の名前だった。

 

 キャストの数も減った。

 

 熱で倒れた人。

 外へ食料を探しに行って帰らなかった人。

 朝礼に来なくなった人。

 制服を返し、次の日からは配給を待つ列の中にいた人。

 

 サカモトの名札だけは、ミヤモトが片づけた。

 ミヤモトの隣で毎朝同じ石畳を掃いていた男だ。

 

 坂本。

 名札にそう書かれていた。

 

 宮本と坂本。

 一字違いだったせいで、配属されたばかりの頃はよく呼び間違えられた。

 

「ミヤモトさん、あっち」

「俺はサカモトです」

「サカモトさん、こっち」

「そっちはミヤモトです」

 

 そんなやりとりを、何度もした。

 

 そのうち、二人で同じ持ち場になった。

 サカモトはいつも左側から掃いた。

 理由を聞くと、「右からだと落ち着かない」とだけ言った。

 

 ミヤモトは右側から掃いた。

 理由はない。

 ただ、そうすると二人でちょうど真ん中まで掃けた。

 

 二年目の冬、サカモトは外へ食料を探しに出た。

 戻ってこなかった。

 

 残された名札は、砂と雨で汚れていた。

 ミヤモトはそれを拭いた。

 それから、倉庫の奥の箱にしまった。

 

 翌朝、ミヤモトは一人で同じ石畳を掃いた。

 右側を掃き終えても、左側はまだ残っていた。

 

 左側は、昼前まで残った。

 

 自分の名札を外したのは、その少し後だった。

 

 それでも、残った者たちはまだ掃いていた。

 ただし、それはもうお客様のためではなかった。

 

 通路に泥が残ると、子供が転ぶ。

 割れた飾りを放っておくと、誰かが怪我をする。

 門の周りが荒れると、外から何かが入りやすくなる。

 

 掃除は、夢を守るためではなくなった。

 生きるための作業になった。

 

 ミヤモトも、その頃には考えるのをやめていた。

 

 朝になったら掃く。

 昼になったら水を運ぶ。

 夕方になったら案内板の泥を拭く。

 

 それだけだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 三年目には、諦めが形になっていた。

 

 誰も助けに来ない。

 この場所は、もう戻らない。

 自分たちは、ここでこうやって生きていくしかない。

 

 それを口に出す者は少なかった。

 みんな知っていた。

 

 キャストと呼ばれていた人たちも、少しずつただの係になっていった。

 

 配給係。

 見回り係。

 水運び。

 門番。

 医務係の手伝い。

 昔の名札をつけている者は、もうほとんどいなかった。

 

 それでも、スズキさんだけは時々言った。

 

「ここは、夢の国です」

 

 誰も笑わなかった。

 笑えなかった。

 心のどこかで思っていた。

 

 もう、無理だろう。

 

 夢の国という名前だけが残っている。

 自分たちは、その名前を惰性で磨いているだけだ。

 

 ミヤモトは、そう思っていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 それが変わったのは、スズキさんがダイヤの砦へ出向いてからだった。

 

 最初は、ただの交渉だと聞いていた。

 

 スズキさんと、交渉役の若い男。

 古くから残っている係の者たち。

 それから、揃いの腕章をつけた見回りの者たち。

 

 外から見れば、数十人。

 後続の荷車まで数えれば、もっと多く見えただろう。

 

 旗を掲げ、足並みを揃え、川の向こうの砦へ向かう。

 それを交渉と呼ぶのか、保護と呼ぶのか、招待と呼ぶのか。

 ミヤモトには分からない。

 

 砦の者たちからすれば、吸収の通告にしか見えなかっただろう。

 ただ、その時スズキさんたちが、何かを見つけて帰ってきたことだけは分かった。

 

 数日後。

 夢の国へ来た一行の中に、小さな銀色の子供がいた。

 

 長い銀の髪。

 碧灰色の目。

 淡い水色のワンピース。

 細い足に、小さな靴。

 

 白衣の医師に手を引かれ、きょろきょろと周囲を見上げていた。

 

 アキ先生。

 そして、小さな子供の方は、ユキ様と呼ばれるようになった。

 

 最初は、またスズキさんが何か始めたのだと思った。

 

 希望を作る。

 名前をつける。

 人を並ばせる。

 場所を整える。

 

 あの人は、そういうことがうまい。

 

 ミヤモトは警戒した。

 多くのキャストも、そうだったと思う。

 

 疑いは長く続かなかった。

 

 傷が消えた。

 熱で動けなかった人が、水を飲めるようになった。

 長く眠れなかった人が、夜に眠れるようになった。

 

 そして何より、ミヤモトの目に残ったのは、子供たちの背中だった。

 

 前なら、誰かがすぐに止めていた。

 怪我をしたら困る。

 熱を出したら困る。

 

 今は、親たちが一歩遅れて声をかけるだけだった。

 走る子供の背中を、少し笑って見ていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 朝の掃除が、変わった。

 

 石畳を掃く。

 門の前を整える。

 城へ続く道に、泥が残っていないか見る。

 仕事の大半は、前と同じだった。

 

 ただ、門の柱に巻かれた緑の布だけは、必ず見るようになった。

 ほどけていないか。

 汚れていないか。

 通る人の邪魔になっていないか。

 増えたのは、それくらいだ。

 

 手の中のほうきは、もう惰性では動かなかった。

 

 ここを、聖女様が歩くかもしれない。

 白い外衣の裾が、朝の石畳に触れる。

 小さな靴が、この道を通る。

 アキ先生が隣を歩き、ばあやが少し後ろから裾を見ている。

 そう思うと、泥を残すわけにはいかなかった。

 

 石の隙間に詰まった砂を、柄の長いほうきの先で掻き出す。

 水を薄く撒いて、もう一度掃く。

 通路の端に寄せた枯れ葉を、袋へ入れる。

 

 石畳を擦る音が、朝の広場に軽く返った。

 

 音が軽い。

 昔の音に、似ていた。

 

 昼前には、中央通りの手すりを拭いた。

 

 昔は、子供たちが手をついて歩いた場所だ。

 今は、診療を待つ人や、配給の列に並ぶ人が触れる場所になっている。

 布を水で絞り、端から端まで拭いていく。

 

 以前は、色褪せた場所だと思っていた。

 剥がれた塗装。

 古びた装飾。

 もう鳴らない音楽。

 誰も使わない案内板。

 

 でも今は違った。

 色褪せたのではなく、長くここにあった。

 剥がれた跡も、まだ残ろうとしているように見えた。

 

 もう鳴らない音楽の代わりに、子供の声がある。

 誰も使わないと思っていた案内板の下には、ハルカが新しい札を足した。

 

 診療は順番に。

 急な症状は医務係へ。

 ユキ様に直接お願いせず、まずアキ先生へ。

 

 ミヤモトは、その札の前で足を止めた。

 

 字はきれいではない。

 急いで書いた字だ。

 それなのに、妙に大切なものに見えた。

 

 午後、城の前を掃いていると、子供たちが石畳に絵を描いていた。

 

 白い棒で、お城。

 緑の光。

 長い髪の小さな人。

 

「そこ、もう少し丸くした方がいい」

 

 ミヤモトが思わず言うと、子供が振り返った。

 

「ミヤモトのおじさん、絵うまいの?」

「昔はな。掃除の合間に、水とほうきで地面に絵を描くこともあった」

 

 白い棒を受け取る時、ミヤモトは指先で一度だけくるりと回してしまった。

 昔の癖だった。

 

「わっ」

 

「……今のは忘れろ」

「もう一回!」

「仕事中だ」

「えー」

 

 子供たちが不満そうに声を上げる。

 

 ミヤモトは迷った末に、しゃがんだ。

 白い棒を受け取り、城の線を整える。

 

 尖塔の形。

 旗の位置。

 窓の曲線。

 

「おおー」

「うまい」

「ひめ様の光も描いて」

「それは、お前たちが描け」

「なんで?」

「おじさんには見え方が分からん」

 

 そう言うと、子供たちは得意げに緑の線を足し始めた。

 青とも、緑とも言えない色。

 

「ユキ様の目みたい」

「お城の光だよ」

 

 ミヤモトは、その絵を見ながら黙った。

 

 昔、ここではいろいろな絵が描かれた。

 キャラクター。

 風船。

 花火。

 お姫様。

 王子様。

 

 今、子供たちは城と緑の光を描いている。

 それが悲しいことなのか、嬉しいことなのか、すぐには分からなかった。

 

 ただ、子供たちは笑っていた。

 なら、悪いことではない。

 

 その日の夕方、城の前の石畳に水を撒いた。

 

 西日が低く差して、濡れた石が光る。

 ミヤモトはそこで足を止めた。

 

 城が、光って見えた。

 

 白い壁に夕方の光が当たり、尖塔のマナ結晶が青とも緑ともつかない色を返している。

 城の上の方には、ほんのかすかな緑が残っていた。

 

 それが本当に光なのか、ただそう見えただけなのか、判別はつかなかった。

 数か月前にはそんなふうに見えなかった。

 

 同じ城。

 同じ石。

 同じ空。

 

 なのに、今は違う。

 

 城の上の部屋には、ユキ様がいる。

 その近くにはアキ先生がいる。

 ばあやが衣装を畳み、ハルカが明日の札を用意している。

 医務室では記録帳が閉じられ、門では緑の布が結び直される。

 

 その全部が、夢の国を動かしている。

 誰が変えたのかは、分からない。

 ただ、変わったことだけは分かった。

 

 それでも、今朝掃いた道を、誰かが通る。

 昼に拭いた手すりを、誰かが握る。

 結び直した布に、門番が触れてから中へ入る。

 

 なら、自分の仕事はまだ終わっていない。

 

 いや。

 ようやく、戻ってきたのかもしれない。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 夜の見回りの前、キャストたちは門のそばに集まった。

 

 昔のような朝礼ではない。

 人数も、もう多くはない。

 

 けれど、ミヤモトの隣には、昔から残っている顔がいくつかあった。

 

「明日は東側の掃除を増やす」

 

 昔、スーパーバイザーだった男が言った。

 

 みんなは今でも、彼をリーダーと呼ぶ。

 本人はもうやめろと言うが、誰もやめない。

 

 昔は、スズキさんと同じ現場で、開園前の点検を回っていた男だった。

 今では、彼の指示を誰より早く現場へ流す。

 

「聖女様が歩く道か?」

「聖女様だけじゃない。最近、子供が走る距離が伸びた。親も止めるのが遅くなってる。転ばせるな」

「転んだら医務室に運べばいいんじゃないのか」

「その前に掃くのが俺たちの仕事だ。アキ先生の仕事を増やすな」

「はいはい」

 

「あと、城前の石畳。夕方、けっこう光る。濡らしすぎると滑るから注意」

「城まで磨くなってことか」

「磨くなとは言ってない。転ばせるなと言ってる」

「了解。光らせすぎない程度に磨く」

 

 そんな軽口が、自然に出るようになっていた。

 

 昔なら、ゲスト導線。

 安全確認。

 開園前清掃。

 そう呼んでいた仕事だった。

 

 今は違う。

 中身は変わっていないのかもしれない。

 

 誰かが安全に歩けるようにする。

 安心して立ち止まれるようにする。

 顔を上げた時、そこが汚れていないようにする。

 

 そしてときどき、くだらない冗談を挟む。

 それもたぶん、キャストの仕事だった。

 

 ミヤモトは門の柱に巻かれた緑の布を見た。

 結び目が曲がっている。

 手を伸ばして、直した。

 

「ミヤモトさん」

「なんだ」

「最近、楽しそうですね」

「そうか?」

「はい」

 

 若い係が笑った。

 

 ミヤモトは、胸ポケットの上から古い名札に触れた。

 つける気は、まだなかった。

 捨てる気だけは、もうなかった。

 

 それから、城を見た。

 

 夜の中で、白い輪郭が浮かんでいる。

 その上の方に、かすかな緑の光があった。

 

 昔、ここは夢の国だった。

 今も、そう呼ばれている。

 

 戻ったわけではない。

 もう一度、そうなろうとしている。

 

「……仕事だからな」

 

 ミヤモトはそう答えた。

 若い係が笑う。

 

「はい。仕事ですね」

「ああ」

 

 柄の長いほうきを肩に担ぐ。

 

 夜の石畳を、見回りの明かりがゆっくり動いていく。

 遠くで、子供の笑い声がした。

 

「明日も、光るかな」

「光るよ。きっと」

「じゃあ、また見る」

 

 そんな声が、風に混じって届いた。

 

 ミヤモトは、門の前に立ち、背筋を伸ばした。

 政府は来なかった。

 救助も来なかった。

 昔のパークは、もう戻らない。

 

 それでも。

 どこかで、ほうきの音がした。

 

 しゃっ、しゃっ、しゃっ。

 

 ミヤモトのものではない。

 昔、隣で聞いていた音とも違う。

 別の誰かが、明日のために石畳を掃いている。

 

 ミヤモトは自分のほうきを担ぎ直した。

 

 聖女様の住む城。

 子供たちが走る道。

 医務室へ続く通路。

 札の立つ広場。

 緑の布が巻かれた門。

 

 明日の朝も、掃く場所は多い。




次回「陸上自衛隊第一空挺団」

これにて夢の国編は完結となります。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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