ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
第28話 陸上自衛隊第一空挺団
千葉県船橋市。
陸上自衛隊習志野駐屯地。
私は、五十二人の部下を、生かしていた。
朝の点呼は、今でも続けている。
雨の日も。
風の日も。
マナ結晶の粉が、雪のようにコンクリートへ積もる朝も。
広場に並ぶ隊員は、もう五十二人しかいない。
それでも、彼らは整列する。
靴底はすり減り、迷彩服の色は落ち、袖の縫い目は何度も直されている。
規律だけは、まだ折れていなかった。
「一尉、榎本」
「はい」
「曹長、川瀬」
「はい」
「三曹、岡」
「はい」
一人ずつ名を呼ぶ。返事が返る。そのたびに、名簿の左端へ鉛筆で点を打つ。
生存。ただ、それだけの意味の点だ。
名簿の後ろには、もう読まない名前がある。九十名。戦死、行方不明、変異、自決、病死、脱走。昔なら、そこには区別があった。報告書にも、死亡年月日、状況、遺体確認の有無、遺族連絡といった欄があった。
今は、そこまで記録しない。書いても、届ける先がない。
私は、それらをまとめて「消失」と書いた。
ひどい言葉だと思う。
だが、もっと正確な分類を探す時間は、三年前に失われていた。
点呼を終え、名簿を閉じる。
呼ばなかった九十名の名前が、紙の中で沈黙する。
広場の外では、支援隊員、隊員の家族、保護した民間人たちが、朝の水汲みと配給の列を作っていた。
駐屯地にいる人間は、五十二人では済まない。
それでも、私が毎朝名を呼ぶ部下は、五十二人だった。
私は今日も、その沈黙を持ったまま、広場を後にした。
◇ ◇ ◇
執務室と呼んでいる部屋は、元は隊舎の小さな事務室だ。
窓ガラスには細い亀裂が入り、透明な樹脂で塞いである。
壁の時計は止まったままだ。
電池を替えれば動くのかもしれない。
だが、もう誰も替えようとはしなかった。
机の上に、湯気の立たないカップがある。
栗の皮を煎じた湯だ。
コーヒーと呼ぶ者もいる。
私は呼ばない。
一口飲む。
渋みが舌に残った。
引き出しを開ける。
中には、四つ折りの通信メモが一枚入っている。手のひらに収まるほどの大きさで、鉛筆書きの文字は薄くなり、折り目は毛羽立っていた。
受信日。
文面は短い。
習志野駐屯地を保持し、生存者を保護せよ。
再開連絡まで現位置維持。
発信は、第1空挺団長。それ以降、正式な命令は途絶えた。団長の生死を、私は知らない。生存を信じる根拠はない。死んだと断じる証拠もない。
だから私は、毎朝この紙を広げる。
読む。
畳む。
戻す。
それを、一千百四十二回やった。
今日も同じように紙を畳み、引き出しへ戻す。
閉じる前に、手が止まった。
紙の端が、少し黒ずんでいる。
いつからそうなっていたのか、覚えていない。
私は引き出しを閉じた。
その音が、部屋の中でやけに大きく響いた。
◇ ◇ ◇
「大隊長」
副官が入ってきたのは、朝の配給表に目を通している時だった。
「幕張から戻った運び屋が、妙な噂を持ち込んでいます」
「運び屋の噂は、だいたい妙だ」
「今回は、性質が違います」
私は鉛筆を置いた。
表には、米。
麦。
干し芋。
乾燥豆。
塩。
油。
数字が並んでいる。
昨日より減った量。
明日にはさらに削れる量。
何人に何日分を回せるか。
それだけが、ここでの現実だった。
「言え」
「葛西の向こうに、聖女がいるそうです」
聖女。
私は鉛筆から指を離し、副官を見た。
冗談を言う顔ではなかった。
こちらに笑わせるつもりもない顔だった。
なら、笑えない噂として扱うしかない。
この三年、笑えない噂は何度もあった。
安全な避難所。
助けに来る政府。
薬の残る病院。
食料を配る集落。
空から降りる救援部隊。
その手の言葉を信じて出ていった者の名前を、私は何人も名簿の後ろへ移した。
「続けろ」
「場所は、旧浦安市舞浜地区。旧大型テーマパーク跡地です。現地呼称は“夢の国”。幕張経由で、印旛沼の米と麦が入っています」
「取引先としては知っている」
私は配給表へ視線を落とした。
「問題は、そこがただの取引先ではなくなった、ということか」
「はい。聖女の噂、ハウンドの出没減少、避難民の流入。いずれも、この一か月で報告が増えています」
「人口は」
「推定で千五百前後です」
「その規模で、噂が動き始めたか」
「はい。閉鎖型の施設跡を利用しており、外周管理もしやすい。集落としてはかなり大きい部類です」
「聖女とは」
「負傷者の回復が異常に早い。熱病患者が翌日には動ける。ハウンドの出没が減り、夜間に城が発光する、という噂です」
「医療か、宗教か、詐欺か」
「幕張側でも見解は割れています。ただ、秩序と衛生状態が改善しているのは事実のようです」
私は、配給表へ視線を戻した。
聖女。光る城。ハウンドが近づかない道。
どれも、報告書には向かない言葉だった。信じる理由はない。だが、笑って済ませるには、もう人が動き始めている。
噂は、人を動かす。人が動けば、食料が動く。武器が動く。死体が増える。
それだけで、調べる理由になる。
「情報源は」
「複数あります。運び屋の間では、先月あたりから同様の話が出ていました。湾岸沿いでハウンドが減ったという報告、避難民の証言、壁の落書きもあります」
「落書き?」
「白い城、緑の光、小さな人影。そういった絵が、幕張へ向かう道でも確認されています」
「まともな情報に聞こえんな」
「はい。どれも断片です」
「なら、なぜ上が動く」
「田中という運び屋が、実際に夢の国へ入り、戻りました。米と麦を届けた帰りに、夢の国が変わっていたと」
「どう変わっていた」
「人が、普通に生きていたそうです」
普通に。
それは今では、軍事用語より扱いにくい言葉だった。
「その運び屋は、信用できるのか」
「利に敏い男です。嘘をつくこともあるでしょう。ただ、見たものを大きく言う癖はあっても、見ていないものを一から作る男ではない、と幕張の者は」
「つまり、信用はしない」
「はい」
「だが、無視もしない」
私は鉛筆を取った。
旧浦安。
夢の国。
千五百。
医療。
ハウンド減。
紙の隅に、それだけ書く。
聖女、という言葉は書かなかった。
少し離して、三つだけ足す。
脅威。資源。流言。
まだ、どれにも丸はつけなかった。
未知のものは、調べる。
調べて、数える。
数えた上で、使えるものと使えないものに分ける。
そうしなければ、人は死ぬ。
「大隊長」
「何だ」
「本当に、聖女などいると思われますか」
副官の声には、かすかな疲れがあった。
私は配給表の数字を見た。
五十二人の部下。
基地全体で、二百八十六人。
米は、七日分。
麦は、十一日分。
塩は、十四日分。
弾薬は、種類によっては三回の交戦分。
それが現実だ。
「いるかどうかは問題ではない」
私は言った。
「噂になった時点で、すでに現実の一部だ」
副官は、短く「はい」と答えた。
その時、廊下の向こうで足音がした。
急いでいる。
だが、走ってはいない。
まだ規律が残っている足音だった。
「正門より伝達!」
若い隊員が扉の前で足を止める。
「幕張方面より、士官一名、随伴一名。習志野管区司令部の命令書を携行。大隊長への面会を求めています」
私は、鉛筆を置いた。
副官と目が合う。
聖女の噂を聞いた朝に、命令書を持った士官が来る。
偶然として処理するには、出来すぎていた。
「正門へ行く」
「大隊長が直接ですか」
「命令書を持つ士官を、門前で立たせたままにするほど、我々はまだ軍を捨てていない」
帽子を取る。
壁に立てかけていた小銃には触れない。
代わりに、拳銃の留め具だけを確かめた。
◇ ◇ ◇
正門へ近づく途中で、匂いに気づいた。
石鹸の匂いだった。
この三年、駐屯地で消毒液以外の清潔な匂いを嗅ぐことはほとんどない。
水は節約する。
衣類は煮沸できる時にだけ洗う。
身体を拭く布は、怪我人と子供が優先だ。
だから、鼻が先に警戒した。
門の前に、二人の人影が立っていた。
先に目に入ったのは、足元だった。磨かれたブーツは汚れていたが、放置された汚れではない。門前で一度、泥を拭った跡があった。
次に、制服。濃紺。この世界で、その色を維持するのは贅沢に近い。布は傷み、袖口には補修の跡もある。それでも、プレス線は残っていた。
襟章、階級章、胸の略綬。どれも、磨かれている。
彼女は、私を見ると、一歩前へ出た。
踵を合わせる。
敬礼。
角度は教本どおりだった。
指先まで張り詰めている。
「二等陸尉、佐倉千歳」
声にも、規定の形が残っていた。
「幕張連合、習志野管区司令部より、旧浦安地区調査任務の命を受け、ただ今着任いたしました」
そこで、彼女は唇を噛んだ。
見逃してもいいほど小さな動作だった。
だが、そこだけが命令の形から外れていた。
私は、敬礼を返した。
「二等陸佐、名前は省く。ここでは大隊長で通っている」
「承知しました」
「命令書は」
彼女は胸元の内ポケットから、四つ折りの紙を取り出した。
手触りが違う。
この三年、駐屯地で使ってきた再利用紙ではない。
薄く、白く、まだ上質だった。
私は受け取らず、まず彼女の顔を見た。
若い。
二十代後半。
整った顔立ちではある。
だが、それより先に目についたのは、疲れを隠す技術だった。
眠れていない。
それでも眠れている顔を作っている。
そういう顔だ。
「中へ」
私は言った。
「門前で読むものではない」
佐倉二尉は、もう一度敬礼した。
随伴の隊員は、彼女の半歩後ろで黙っていた。
私は踵を返す。
背後で、門が閉じた。
鉄と鉄が噛み合う、古い音が残った。
◇ ◇ ◇
執務室に戻ると、私は彼女を立たせたままにした。
座れとは言わない。
彼女も、座ってよいかとは聞かなかった。
命令書は、四つに折られた一枚だった。
広げると、紙の匂いがした。
印字。
決裁印。
連合・習志野管区。
発信日は、三日前。
私は、その一行で目を止めた。
連合。
習志野。
斜線のような記号で繋がれた、二つの名前。
いつから、そういう書き方になった。
そこまで考えて、やめた。
文面は、よく整っていた。
対象。
推定年齢八歳前後。
銀髪。
旧浦安市舞浜地区における異常な医療行為との関連あり。
対象の実在を確認せよ。
接触可能であれば、安全を確保し、管区の保護下に置くこと。
必要と判断される場合、管区司令部への移送を検討せよ。
調査せよ、と書かれている。
だが、そこで止まってはいない。
安全を確保。
保護下に置く。
移送を検討。
言葉は慎重だった。
慎重な分だけ、逃げ道が多い。
対象の意思については、一行もない。
私は、「八歳」の二文字の上で、しばらく目を止めた。
八歳。
その数字は、配給表の数字とは別物だった。
弾薬数でもない。
戦闘可能人数でもない。
ただの情報のはずだった。
なのに、鉛筆の先で押さえたくなるような重さがあった。
ふう、と息を吐く。
ため息に似ていた。
そうでないとも言い切れない。私自身にも判別できなかった。
顔を上げる。
佐倉二尉は、まだ気をつけの姿勢で立っていた。
右手の親指の爪が、人差し指の腹に深く食い込んでいる。
敬礼よりも、そちらの方が多くを語っていた。
「読んだか」
「はい」
「内容を理解しているか」
「はい」
「この命令は、調査命令だな」
「はい」
「なら、なぜ君は門前で唇を噛んだ」
佐倉二尉は答えなかった。
「調査だけで終わると思っていない顔だ」
沈黙は三秒。
短くはない、長すぎもしない。
「失礼しました」
「謝罪は求めていない」
私は命令書を机に置いた。
「この対象を、君は見たのか」
「直接は、まだ」
「報告書は」
「幕張側の一次報告です。湾岸沿いの流言、避難民の証言、ハウンド出没の減少報告。それに田中という運び屋の現地確認が加わっています」
「田中は信用できるのか」
「完全には。ただ、実際に旧浦安舞浜地区へ入り、戻っています」
「つまり、噂に足がついた」
「はい」
「君は、その報告を信用しているのか」
佐倉二尉は、少しだけ間を置いた。
「完全には」
「正直だな」
「完全に信用できる者が、今どこにいるのか、私は知りません」
初めて、教本から外れた答えだった。
私は、彼女を見た。
佐倉二尉は視線を逸らさない。
ただ、右手の爪だけが、また人差し指へ沈んだ。
私は机の引き出しを開けた。
中から、一千百四十二日前の紙を取り出す。
習志野駐屯地を保持し、生存者を保護せよ。
再開連絡まで現位置維持。
古い紙を、新しい命令書の下に重ねた。
古い紙には、生存者を保護せよ、とある。
新しい紙には、対象を管区の保護下に置くこと、とある。
保護。
保護下。
似ている。だが、同じではない。
前者には、生きている人間がいる。後者には、対象しかいない。
紙の上では、調査で済む。
だが、相手は人口千五百の集落だ。
噂が事実なら、調査だけでは終わらない。
噂が虚偽なら、それはそれで始末が悪い。
その場で判断する者が要る。なら、私が行くしかない。
私は引き出しを閉じなかった。
「明朝、出る」
自分の声が、思ったより乾いていた。
「君も来い」
佐倉二尉は、唇を開いた。
何か言いかけたが、言わなかった。
代わりに、頭を下げた。
命令を受けるには、深すぎる礼だった。
机の上には、二枚の命令書が残っていた。
生存者を保護せよ。
対象を保護下に置くこと。
私は、どちらも畳まなかった。
次回「外の道」
5/26(火) 20時に更新予定です