ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜   作:Naito

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第29話 外の道

 出発は、夜明け前だった。

 

 空が白むより先に、習志野駐屯地の門が開く。

 鉄の扉が低い音を立て、見送りに出ていた者たちの肩をわずかに揺らした。

 

 広場には、五十二人のうち十二人が並んでいた。

 

 今回、連れていくのは六人。私と佐倉二尉を入れて、八人になる。夢の国へ交渉に行くには多く、強行偵察に出るには少ない。その半端さが、今回の任務には合っていた。

 

「弾薬は」

「各自、規定数の半分です」

「半分でいい。撃たずに済むなら撃つな」

「はい」

 

 副官が短く答える。

 彼は留守を預かる。そう決めた時、何も言わなかった。不満を出す顔でもなかった。

 ただ、名簿を受け取る時だけ、指が少し固くなっていた。

 

「留守は任せる」

「はい」

「三日戻らなければ、配給を一段階落とせ。五日戻らなければ、幕張からの追加命令は保留しろ」

 

「物資は」

「受けろ。印旛沼からの米と麦は止めるな」

「七日は」

「私を消失欄へ移せ」

 

 副官は何も言わなかった。

 言わないことを、私は了承と受け取った。

 

 開いたまま残してきた二枚の命令書が、まだ頭にあった。

 

 後方では、保護した民間人たちが水汲みの列を作っていた。

 母親が、こちらを見る子供の目を手で隠す。

 外へ出ていった者が戻らない光景を、ここにいる者は何度も見ている。

 

 佐倉二尉は、私の左後方に立っていた。

 

 濃紺の制服ではない。今朝は、野戦用の上着を羽織っている。ただし、その襟元は整っていた。

 靴も、昨日よりは泥を含んでいる。それでも、手入れの跡は隠れない。

 彼女は出発前の点検を終え、背嚢のベルトを締め直した。動作に無駄がない。

 

 その横顔だけ見れば、よく訓練された若い幹部に見える。

 だが、右手の親指は、時々、人差し指の腹へ沈んだ。

 昨日から、三度目だ。

 

「佐倉二尉」

「はい」

「命令書は持ったか」

「はい」

 

「なくすな」

「命に代えても」

「命とは替えるな。紙より君の方が高い」

 

 佐倉二尉は一瞬だけ、返答に詰まった。

 

「……承知しました」

 

 その一拍を見て、隊員の一人が少しだけ口元を動かした。笑いかけたのかもしれない。

 すぐに消えた。

 まだ、笑うには早い。

 

 門の外には、割れた道路と倒れた街路樹、アスファルトを割って伸びる青白いマナ結晶があった。

 外の道だ。

 

「出る」

 

 それだけ言って、私は歩き出した。

 

 門が背後で閉じた。

 鉄の音が、朝の空気に沈んだ。

 

◇ ◇ ◇

 

 習志野から浦安へ向かう道は、地図の上では単純だった。

 

 南西へ。

 かつての湾岸道路へ出る。崩落した箇所を避け、海側に寄りすぎず、船橋の残骸を抜け、市川の南端を掠め、そこから旧浦安へ向かう。

 紙の上なら、それだけだ。

 

 現実の道は、もう線ではない。

 割れ、沈み、曲がり、地図の線だけが昔のまま残っている。

 建物の上階が崩れ、道路へ斜めに刺さっている。車列の残骸は、焼けた金属の川のように続いていた。

 

 横倒しになった軽自動車の中で、焦げたチャイルドシートだけが形を残していた。

 

 風が吹くと、腐ったプラスチックと錆と、古い煤の匂いがまとめて動いた。

 道路脇のマナ結晶は、匂いもなく青白い光を返している。

 

 無害なのかどうかは分からない。

 ただ、この三年で、そういうものとして道端に増えた。

 

 人間が通れる幅だけを選んで進む。

 

 足元には、ガラス片。

 錆びたボルト。

 白く乾いた骨。

 

 動物のものか、人のものか、見ただけでは分からない。

 分からないものは記録しない。記録しないものは数に入らない。

 そう決めておかなければ、歩けなくなる。

 

「右、建物三階」

 

 先頭の隊員が低く言う。

 

 全員が止まる。

 三階の割れた窓の奥に、何かが動いた。

 

 影。

 細い。

 人間ではない。

 

 私は手を上げた。

 撃つな、の合図。

 

 数秒後、その影は窓枠を越えた。

 落ちるのではなく、外壁に張りついた。

 

 体はトカゲに近いが、大きさが違う。

 鼻先から尾の先までなら、軽トラック一台分はある。

 外壁に張りついたまま、重さでコンクリートの破片を落としていた。

 

 背中には、青白いマナ結晶が肋骨のように並んでいる。

 道端に生えたものとは違い、こちらは肉の内側から皮膚を押し割っていた。

 裂けた隙間には黒ずんだ血が固まり、呼吸のたびに、結晶の根元がわずかに動く。

 

 腹は不自然に膨れていた。呼吸のたび、内側から何かが押すように皮膚がゆっくり動く。

 

 覗き込まなかった。

 動物でも人でも、記録欄は変わらない。

 

 変異獣はこちらを見たが、襲ってこなかった。腹の中に、もう十分入っているのだろう。

 

 見逃されたのではない。

 順番を後に回されただけだ。

 

 影が建物の裏へ消えてから、私は手を下ろした。

 

 市川南端、中型個体一。腹部膨隆、戦闘回避。

 頭の中で、それだけ残す。

 

「進む」

 

 誰も声を出さずに歩き始めた。

 

◇ ◇ ◇

 

 昼前、崩れた歩道橋の下で小休止を取った。

 

 鉄骨の影が細く地面へ伸び、風には潮と錆、腐った藻の匂いが混じっている。隊員たちは壁を背にして、乾燥豆と薄い塩水を口にした。火は使わない。煙は見つかる。

 

 佐倉二尉は座らず、地図を広げて経路を追っていた。

 

「地図は役に立つか」

「半分ほどは」

「半分も役に立てば上出来だ」

 

 彼女が地図を畳んだ時、後方警戒の隊員が声を低くした。

 

「おい」

 

 全員が手を止める。

 道路脇のコンビニ跡。ひしゃげた陳列棚の奥で、何かが揺れた。

 

 銃口が向く。

 

「出てこい」

 

 私が言う。

 

「人間なら、両手を見せろ」

 

 数秒後。

 

 棚の奥から出てきたのは、六十代後半ほどの老人だった。

 白い髪に、こけた頬。両手を上げている。

 その後ろに女が一人、さらに十代前半くらいの少年が続いた。

 

 三人とも装備は粗末だった。刃物が一本、水筒が二つ、肩にかけた布袋。

 銃はない。少なくとも、見える範囲には。

 

「どこから来た」

「市川の方だ。北は駄目だ。でかいのが出た」

「どこへ向かっている」

「夢の国だ」

 

 老人は乾いた唇を舐めた。

 

「海の方へ行けって聞いた。白い城があるってな」

「誰から」

「死にかけの男だ。行徳の外れで見た。腹を裂かれてた。たぶんハウンドだ」

 

「その男が、夢の国へ行けと言ったのか」

「ああ。あそこには、まだ人がいるって。……それだけで十分だろ」

 

 老人の靴底はほとんど剥がれていた。女の腰で水筒だけが軽く跳ね、中身の揺れる音はしない。少年は顔を伏せたまま、こちらを見ようとしなかった。

 夢の国という言葉だけで、この三人はここまで歩いた。

 

「同行させる」

「大隊長」

「目的地は同じだ。保護対象を見つけて、置いていく理由はない」

「行軍速度が落ちます」

「落とせ」

 

 短く言った。

 

「流言の行き先も見られる」

 

 隊員は口を閉じた。

 

「佐倉二尉」

「はい」

「少年の靴を見ろ。歩けるようにしろ」

「はい」

 

 返事は早かった。

 佐倉二尉が少年の前に膝をつく。

 

 片方の靴紐が切れていた。

 装備袋から細い紐を一本抜き、黙って通し直す。

 

 少年は、何も言わずにその手を見ていた。

 女が、小さく頭を下げる。

 

 佐倉二尉は答えない。

 ただ、結び目だけを強く締めた。

 

「歩ける?」

 

 問いは短かった。

 少年は小さく頷いた。

 私は、その声を記録しなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

 午後から、道はさらに悪くなった。

 

 老人たちを中央に置いた隊列は遅い。老人の足は上がらず、女は少年の手を離さない。

 佐倉二尉が結び直した靴紐を、少年は何度も見下ろしていた。

 

 海に近い道路は沈み、アスファルトの下から黒い水が滲んでいる。油膜の浮いた水面に、青白い結晶が生えていた。

 見た目だけなら美しい。だが、美しさと安全は何の関係もない。

 

 遅れれば、夜が近づく。

 急げば、三人がついてこられない。

 選べるのは、ましな危険だけだった。

 

「この先、通過痕」

 

 先頭が止まる。

 道路を、巨大な何かが横切った跡があった。

 

 街路樹が根元から折れている。

 ガードレールが紙のように曲がっている。

 壁面には、幅の広い爪痕。

 

 地面には、乾いた血。

 

 人のものか、獣のものかは分からない。

 大きさから見て、熊ではない。

 そもそも、ここに熊はいない。

 

 昔なら。

 

 私は手袋をした指で、爪痕の端に触れた。

 まだ新しい。

 

「半日以内だ」

「迂回しますか」

 

「海側は沈んでいる。内陸へ寄ると時間がかかる」

「追いつかれる可能性は」

「ある」

 

 隊員たちは、黙って待っている。

 判断を待つ顔だ。

 

 私は、道路の先を見た。

 

 吹き抜けになった商業施設跡。

 その先に、湾岸道路。

 さらに先が、旧浦安。

 

 老人たちの足では、長い迂回に耐えられない。

 だが、ここを進めば、痕跡の主とぶつかる可能性がある。

 どちらを選んでも、危険は残る。

 

「前進する」

 

 私は言った。

 

「隊列を詰めろ。老人たちを中央。佐倉二尉は右側につけ。発砲は命令後。非戦闘員を孤立させるな」

「了解」

 

 佐倉二尉が銃の安全装置を確認する。

 その手は正確だった。

 

 ただ、視線だけが一度、少年の靴へ落ちた。

 私はそれを見た。

 

◇ ◇ ◇

 

 遭遇は、夕方前だった。

 

 最初に聞こえたのは、金属が潰れる音だった。

 

 何か重いものが、車の残骸を踏み抜いた。

 歪んだ鉄板がゆっくり折れ、その下で、湿った何かが押し潰される。

 

 ビルの奥から、ゆっくりと音が近づいてくる。

 

 その後に、爪の音が続いた。

 一つではない。

 二つでもない。

 

 硬いものがアスファルトを引っ掻き、途中で、濡れた何かを踏み潰す。音のたびに、壊れたビルのガラス片が細かく震えた。

 

 老人が息を呑む。

 女が少年を抱き寄せる。

 

 少年は声を出さなかった。

 出せなかったのかもしれない。

 

 私は左手を上げる。

 停止。

 

 前衛の二人が膝を落とす。

 後衛が老人たちの背後へ回る。

 佐倉二尉は、少年の右側に半歩寄った。

 

 次に、風が変わった。

 腐肉と湿った毛、鉄錆の臭い。その奥に、体液に濡れた結晶の臭いが混じる。

 

 道端のマナ結晶とは違う。肉の中で育ったものの臭いだった。

 鼻の奥に、鉄と腐った水を混ぜたような冷たさが残る。

 

 商業施設の崩れた入口から、それは現れた。

 

 四足だが、犬ではない。胴は長すぎ、肩は人の背丈より高い。前脚と後脚の長さが合っていないせいで、歩くたびに体が横へずれる。

 

 不格好なのに、距離だけは確実に詰まっていた。

 

 足を置くたび、アスファルトが湿った音を立てて沈む。爪は黒く、先だけが青白く透けていた。そこにマナ結晶が入り込んでいるのだと、私は一拍遅れて理解した。

 

 背中からは、青白い結晶が何本も突き出している。

 

 ただ生えているのではない。

 肉を内側から押し割り、皮膚をめくり上げて外へ出ていた。

 道端の結晶のような硬い静けさはない。

 根元には黒ずんだ血と膿が固まり、呼吸のたびに細かい粉が落ちる。

 

 頭部は半分ほど骨が露出し、黒い毛の束が乾いた血を吸って固まっていた。

 

 小銃で殺せない相手ではない。

 だが、結晶が神経の代わりをしている個体は、頭を撃っても止まりにくい。

 痛みで止まらず、出血で遅れない。

 動きを止め、結晶の根を砕くしかない。

 分かっていても、やりたくはない相手だった。

 

 ハウンドの大型個体。

 あるいは、ハウンドを食って変わった別の何か。

 

 分類は後でいい。

 今は、生き残ることが先だ。

 

 獣がこちらを見た。

 

 目は三つあった。

 右側に二つ。左側に一つ。

 その全部が、同じ速度でこちらを捉えた。

 

「散開」

 

 声は低かった。

 隊列は、それで動いた。

 

 隊員たちが左右へ散る。

 ただし、中央は空けない。

 

 老人、女、少年。

 

 三人を挟むように、二名が前へ出る。

 

 獣が吠えた。

 高く、細い。赤ん坊の泣き声に近い周波数だった。耳で聞くというより、奥歯の根に触る音だ。

 

 老人の膝が一瞬だけ緩む。

 少年が顔を上げかける。

 隊員の一人も、半歩だけ反応した。

 

「耳を貸すな。誘引音だ」

 

 私は言った。

 言いながら、自分の舌の奥にも嫌な力が入っているのを感じた。

 訓練で耐えられる種類の音ではない。

 耐えた者から順に、動くだけだ。

 

「二班、右脚」

 

 その瞬間、獣が跳んだ。

 

 狙いは、隊員ではなかった。

 中央。

 老人たちのいる場所。

 

「伏せて!」

 

 佐倉二尉が叫んだ。

 

 命令ではない。

 反射だった。

 彼女は射線を取るより先に、少年の肩を掴んで廃車の陰へ押し込んだ。

 

 一拍。

 射撃が遅れた。

 

「佐倉」

 

 私が呼ぶ。

 

 その声で、彼女の照準が戻った。

 撃った弾は、獣の右前脚の関節を抜いた。

 

 獣の体が沈む。

 

 だが、止まらない。

 壊れた脚を引きずったまま、近くの隊員へ飛びかかった。

 

「伏せろ」

 

 隊員が伏せる。

 

 獣の爪が、その上を通った。

 背後の自動販売機が裂ける。

 中から、黒く腐った缶が転がった。

 

 老人が女を庇うように前へ出かけた。

 

「動くな!」

 

 隊員が怒鳴る。

 

 老人は止まった。

 止まれた。

 それだけで、生存率は少し上がった。

 

 私は拳銃を抜いた。

 距離、八メートル。

 

 近すぎる。

 小銃を構え直す余裕はない。

 

 背後には民間人。

 右には佐倉二尉。

 撃てる角度は限られていた。

 

 獣の口が開いた。

 中に、人の歯のようなものが混じっていた。

 

 私は撃った。

 

 一発。

 二発。

 三発。

 口内、結晶根、左目。

 

 獣がのけぞる。

 

「今!」

 

 佐倉二尉が駆けた。

 彼女は腰の刃を抜き、獣の背中に残った一番太い結晶へ叩き込む。

 

 硬い音がした。

 

 最初の一撃は弾かれた。

 結晶の表面に、白い傷が入っただけだった。

 

 獣が身を捩る。

 

 折れたはずの右前脚が、ありえない角度で地面を掻いた。

 関節を抜かれても、動く。

 結晶の根が、肉の代わりに脚を引いている。

 

「佐倉、離れろ」

 

 彼女は退かなかった。

 

 二撃目。

 今度は根元を狙った。

 

 刃が入る。

 同時に、青白い粉が噴き出した。

 

「吸うな。下がれ」

 

 粉を吸った隊員が、咳き込む。

 

 佐倉二尉の右手が、一瞬だけ止まった。

 粉で視界を奪われたのだ。

 

 獣の首が、彼女へ向く。

 

 照準を上げる。

 一発。

 二発。

 

 露出した顎。

 左目の下。

 

 獣の頭が逸れる。

 

「今だ!」

 

 三撃目で、佐倉二尉の刃が亀裂へ入った。結晶は、すぐには砕けない。

 獣の体の内側から、複数の骨が同時に折れるような音がした。

 

 次の瞬間、結晶が砕けた。

 青白い粉が、夕方の光に散る。

 

 一瞬だけ、光の粒に見えた。

 この世界で、そう見えるものほど危ない。

 

 獣の体が、糸を切られたように崩れた。

 だが、死んではいない。

 背中の結晶を失っても、前脚が痙攣している。口が開き、赤ん坊の泣き声に似た音が、喉の奥でまだ鳴っていた。

 

 私は近づき、最後の一発を撃った。

 

 今度こそ、動かなくなった。

 誰もすぐには声を出さなかった。

 銃声の余韻だけが、壊れた商業施設の中を行き来している。

 

 獣の死体から、青白い粉がまだ落ちていた。血に触れた粉が薄く泡立ち、黒い肉の隙間で細い結晶がまだ伸びようとしている。

 

 死んでも、変異はすぐには止まらないらしい。

 分からないものには、近づきすぎない。

 

「損害」

「軽傷一。民間人は無傷」

「弾薬」

「小銃弾三十二。拳銃弾六。刃に損耗。粉を吸った者が一名、咳あり」

 

「記録」

「はい」

 

 隊員が手帳に書く。

 大型個体一。右前脚を破壊後も運動継続。背部結晶破砕まで停止せず。誘引音あり。粉塵、呼吸器への影響あり。民間人三名、保護継続。

 

 感想を挟む余地はなかった。

 

 廃車の陰で、佐倉二尉が少年の前に膝をついていた。

 

 少年は泣いていない。

 声も出していない。

 ただ、切れかけた靴紐を握りしめていた。

 

 佐倉二尉は何も言わず、自分の装備袋からもう一本、細い紐を抜いた。

 少年の靴に通し、強く結び直す。

 

「歩ける?」

 

 同じ問いだった。

 今度は、命令の声ではない。

 

 少年はもう一度頷いた。

 

 射撃としては一拍遅い。保護としては正しい。

 私は、どちらも記録しなかった。

 

「行くぞ」

 

 私が言うと、佐倉二尉は立ち上がった。

 

「はい」

 

 返事は早かった。

 今度は、遅れなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

 日が傾き始めるころ、異変に気づいた。

 

 ハウンドの気配が薄い。爪音、息遣い、壁の向こうで擦れる体、遠くで響く獣の声。それらが、舞浜へ近づくほど減っていく。

 廃ビルの影にいた小型の変異獣も、こちらを見る前に逃げた。

 

「あいつらも、近づかねえのか」

 

 老人が呟く。

 

「……噂通り、ですか」

 

 佐倉二尉の声は低かった。

 噂は外れれば人を殺す。当たっていても、人を集めすぎれば、やはり人を殺す。

 

 私は手帳に短く残す。

 

 舞浜接近。

 ハウンド反応減少。

 流言の目的地と一致。

 原因不明。

 

 少年が、女の服の裾を握った。

 

「もう、すぐ?」

 

 女は答えられなかった。

 代わりに、老人が前を見た。

 

「……たぶんな」

 

 その声は、先ほどより少しだけ掠れていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 先に足を止めたのは、老人だった。

 

「……あれか」

 

 かすれた声だった。

 誰も答えなかった。

 

 道路の向こう、崩れた高架の隙間に、夕方の光を受けた白い輪郭が浮かんでいた。

 

 城だった。

 

 白い壁と尖塔。その上に、青とも緑ともつかない光が滲んでいる。

 報告書に書かれた施設名ではなく、何か別のものに見えた。

 崩れた世界の中で、そこだけが壊れ方を忘れているようだった。

 

 少年が、女の服の裾をさらに強く握る。

 

「あそこ、人がいるの」

 

 女の手が、少年の肩を抱き直した。

 老人が城を見たまま喉を鳴らす。

 

「人がいるって聞いた。……それで、ここまで来た」

 

 その一言で、少年の顔が少しだけ上がった。

 

 佐倉二尉が、息を呑んだ。

 ほんの小さな音だった。

 

 私は手帳をもう一度開きかけ、やめた。

 書くべき言葉が、すぐには見つからなかった。

 

 命令書には、対象とあった。

 老人は、人がいると言った。

 

 その差だけが、妙に大きかった。

 

 視界の先で、白い城が静かに光っている。

 こちらだけが、一方的にそこを見つけていた。




次回「タイトル未定」

ユキとアキさんの視点に戻る予定です。
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