ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
翌朝。
目を覚ますと、最初に足が痛かった。
「……い、たぁ……」
毛布の中で、小さく呻く。
かかとが熱い。
足の指もじんじんする。
膝と手のひらの擦り傷まで、思い出したように痛み始めた。
昨日まで履いていた、大きすぎるブーツのせいだ。
起き上がろうとして、すぐに諦める。
身体を少し動かしただけで、足の裏に鋭い痛みが走った。
(……満身創痍の八歳児って、なんだろう)
頭の中ではそんなふうにぼやけるのに、口から出たのは情けない声だった。
「うぅ……」
その時、薄いドアがこんこんと叩かれた。
「ユキちゃん、起きてる?」
「あ、はい……」
入ってきたのはアキさんだった。
洗い込まれた白衣の袖を少しまくり、片手に湯気の立つマグカップを持っている。
「おはよう。足、痛む?」
「ちょっとだけ……」
嘘だった。かなり痛い。
けれど、アキさんは私の顔を一目見ただけで、小さく眉を寄せた。
「ちょっとだけ、って顔じゃないわね」
「……ちょっとより、ちょっといたいです」
「それは、かなり痛いって言うのよ」
アキさんは困ったように笑い、私の足元に膝をついた。
包帯をそっとめくる指先は、昨日と同じように冷たくて、丁寧だった。
「腫れはひどくなってないわ。でも、今日は走らないこと」
「はい」
「高いところに登らないこと」
「はい」
「変なものを拾わないこと」
「……はい」
「今、間があったわね」
「な、ないです」
アキさんはそれ以上追及せず、椅子の背にかけていた布の束を持ち上げた。
「それと、これ」
渡されたのは、色の抜けた半袖のシャツと、膝のあたりで切ったような短いズボンだった。
どちらも何度も洗われて柔らかくなっている。
ところどころ縫い直した跡があった。
「砦の子のお下がり。急いで探したから、ちゃんとしたものじゃないけど……昨日の服よりは動きやすいはずよ」
「……子供の服」
思わず呟いてしまった。
男物の大きなTシャツよりは、ずっと小さい。
でも、昨日まで自分が着るものだと思っていた種類の服とは、やっぱり違う。
子供の服だ。
今の私に合う、子供の服。
その事実に、胸の奥がむずむずする。
けれど、汗で張りついた男物の服の気持ち悪さには勝てなかった。
「……着ます」
「うん」
アキさんに手伝ってもらいながら、私は男物のTシャツを脱いだ。
新しいシャツは、少し色褪せていたけれど、薄くて軽かった。
袖が肘の上で止まる。
ズボンも、腰紐を結べばずり落ちない。
たったそれだけで、身体がずいぶん楽になった。
「……軽い」
「昨日までが重すぎたのよ」
アキさんは苦笑して、今度は足元に布でできた履き物を置いた。
サンダルというより、足袋と草履の中間みたいなものだった。
布を何枚も重ね、紐で足に固定する作りになっている。
「靴は、しばらくこれで我慢してね。傷に当たるところは避けてあるわ」
「ありがとうございます……」
「痛かったらすぐ言うこと」
「はい」
「我慢しないこと」
「……はい」
「また間があった」
「な、ないです」
アキさんは小さく笑い、マグカップを私の両手に持たせてくれた。
薄い芋のスープだった。
昨日飲んだものと似ている。
でも、朝の光の中で飲むそれは、少しだけ別の味がした。
外から、誰かの声が聞こえる。
鉄を叩く音。
吊り橋を歩く足音。
薪が爆ぜる音。
それから、子供の笑い声。
私はマグカップを抱えたまま、ついドアの方を見てしまった。
「外、気になる?」
「……ちょっとだけ」
「本当に、ちょっと?」
「……けっこう」
アキさんは、ふっと笑った。
「じゃあ、少しだけね。私の目が届くところまで」
私は顔を上げた。
「いいんですか?」
「走らない。高いところに登らない。変なものを拾わない。痛くなったらすぐ言う」
「はい」
「全部守れる?」
「……守ります」
「今の間は見逃してあげる」
アキさんはそう言って、私の頭を一度だけ軽く撫でた。
子供扱いだ。
そう思った。
思ったのに、嫌ではなかった。
◇ ◇ ◇
外に出ると、砦の朝は思っていたよりずっと騒がしかった。
観覧車の鉄骨が、海風に吹かれてギィィ、と低く軋んでいる。
頭上の吊り橋では、大人たちが木箱を抱えて行き交っていた。
上の小屋から誰かが布を垂らし、下の広場では別の誰かが畑の土を掘り返している。
薪の煙。
干した魚の匂い。
煮えた芋みたいな甘い匂い。
人が生きている匂いだった。
その中に、自分から漂っている花みたいな匂いが混じっている気がして、私は少しだけ肩を縮めた。
見られている。
大人たちの視線が、ちらちらとこちらへ向く。
昨日、銃口を向けられて泣いた銀髪の子供。
大きすぎる銃を持って、廃墟から一人で歩いてきた変な子供。
今の私は、たぶんそういうものとして見られている。
「……あ」
広場の端に、子供たちが三人いた。
年は、今の私と同じくらいか、少し上くらい。
服はどれも継ぎ接ぎだらけで、膝や肘が見えるところだけ布を重ねてある。
その中の一人、髪を短く刈った男の子が、私を指さした。
「昨日の子だ」
「銀色の子?」
「ミュータントじゃないの?」
胸の奥が、きゅっと縮む。
私は反射的に首を振った。
「ち、ちがうもん……」
言ってから、まただ、と思った。
違う。
違います、でいい。
けれど、子供たちは大人たちみたいに銃を向けてこなかった。
ただ、少し離れた場所から、珍しい動物でも見るみたいにこちらを見ている。
そのうち、一番小さな女の子が鼻をひくひくさせた。
「……いいにおいする」
「え?」
「お花みたい」
そう言われて、私はどう返せばいいのか分からなくなった。
自分では、もう半分くらい慣れてしまっている。
でも、この世界でこの匂いがどれだけ場違いなのかは、昨日の大人たちの反応でよく分かっていた。
「シャンプー?」
「ちがうと思う」
「じゃあ、お姫様?」
「ち、ちがうよ。わたしは、ユキです」
「ユキ?」
短い髪の男の子が、首をかしげる。
「雪って、白いやつ?」
「うん。たぶん」
「たぶんなんだ」
子供たちは顔を見合わせた。
それから、なぜか少しだけ笑った。
馬鹿にする笑い方ではなかった。
そのことに、少しだけ息がしやすくなる。
「おれ、リク」
短い髪の男の子が、自分の胸を叩く。
「こっちはナナ。で、こっちはハル」
「……よろしく、お願いします」
ぺこりと頭を下げると、三人が同時に固まった。
「なんで敬語?」
「えっ」
「子供なのに」
中身がアラフォーだからです、とは言えない。
「えっと……くせ、です」
「変なの」
リクが笑った。
やっぱり、馬鹿にする笑い方ではなかった。
「足、痛いの?」
ナナという女の子が、私の包帯を見て言った。
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけって顔じゃないよ」
アキさんと同じことを言われた。
私は少しだけ顔をしかめる。
「……まあまあ、いたい」
「それ、すごく痛いやつじゃん」
リクが呆れたように言う。
私は少しだけ頬が熱くなった。
「じゃあ、走るのはなしだな」
「え?」
「石渡り。走らないから、足痛くてもできる」
リクはそう言って、広場の石畳を指さした。
割れた石畳の上に、茶色い石、黒く焦げた石、青白い結晶の欠片が混じっている。
リクはその上を、ぴょん、と軽く跳んだ。
「茶色い石だけ踏んで進む。黒いとこは毒の川。青いとこはハウンドの巣。落ちたら最初から」
(……物騒な遊びだなぁ)
そう思った。
思ったのに、少しだけ面白そうだとも思ってしまった。
大人だった頃なら、こんな遊びで楽しいなんて思わなかったはずだ。
でも、今の私は、石畳のひとつひとつが少し大きく見える。
茶色い石に足を乗せるだけで、なんだか難しいことをしているみたいだった。
「ユキ、ここから」
「え、あ、はい」
「はいじゃなくて、うんでいいよ」
「……うん」
私はおそるおそる、一歩目を踏み出した。
茶色い石。
次も茶色い石。
その先に、少し離れた石。
足の裏がじんと痛む。
でも、届かない距離ではなかった。
「えいっ」
小さく跳ぶ。
着地した瞬間、膝に痛みが走った。
けれど、転ばなかった。
「おお」
「できた」
「ユキ、ちっちゃいのに上手」
「ちっちゃいのに、は余計です」
思わず言い返すと、三人が笑った。
笑われた。
でも、不思議と嫌ではなかった。
次の石。その次の石。
私はゆっくり進む。
リクたちは私の速度に合わせて、少し先で待ってくれた。
胸の奥が、変な感じだった。
昨日まで、私はずっと一人で歩いていた。
瓦礫の中で、自分の足音だけを聞いていた。
今は、誰かが待っている。
それだけで、石から石へ移る足が、少し軽くなる気がした。
「よし、次はあそこ——」
リクが振り返りながら跳んだ、その時だった。
ずるっ、と靴底が滑る。
「あっ」
リクの身体が傾いた。
とっさに手を伸ばすには、距離がありすぎた。
リクは石畳に膝を打ちつけ、派手に転んだ。
「いってぇ!」
「リク!」
ナナとハルが駆け寄る。
私も、考えるより先に動いていた。
足が痛いことも忘れて、リクのそばに膝をつく。
「だ、大丈夫?」
「へーき、こんなの」
リクは強がったけれど、膝から血が滲んでいた。
小さな擦り傷だ。
でも、昨日の自分の足を思い出して、胸がきゅっとした。
「血、出てる」
「こんくらい、いつものことだし」
「でも、洗わないと」
口から自然に出た。
自分でも少し驚いた。
その時、背後からアキさんの声がした。
「どうしたの?」
振り向くと、アキさんが白衣の裾を押さえながらこちらへ歩いてくるところだった。
私を見る。
リクを見る。
そして、状況をすぐに理解したように膝をついた。
「転んだのね。見せて」
「へーきだって」
「へーきかどうかは、見てから決めるの」
アキさんの声は優しいのに、逆らえない響きがあった。
リクは渋々、膝を差し出す。
アキさんは傷を確認し、小さく頷いた。
「深くはないわ。洗って、布を当てましょう」
私は横で見ていた。
何かしたい。
でも、何をしていいのか分からない。
足手まといになりたくない。
ただ守られているだけにも、なりたくなかった。
「あ、あの」
「ん?」
「わたし、なにか……できますか?」
言ってから、少し怖くなった。
怪我人が何を言っているの、と言われるかもしれない。
足手まといだと笑われるかもしれない。
でも、アキさんは少しだけ目を丸くした。
それから、ふっと柔らかく笑った。
「じゃあ、そこにあるきれいな布を取ってくれる?」
「あ、はい」
「走らない」
「……はい」
私はそろそろと立ち上がり、アキさんが指さした木箱へ向かった。
中には、洗って畳まれた布が何枚か入っている。
どれがきれいな布なのか、一瞬迷った。
血の跡がないもの。
乾いているもの。
変な匂いがしないもの。
それを選べばいいはずだ。
私は一番上の白っぽい布を両手で持って戻った。
「これ、ですか?」
「そう。ありがとう」
ありがとう。
それだけで、胸の奥がじんわり熱くなった。
ただ布を取っただけだ。
治したわけじゃない。
守ったわけでもない。
すごいことなんて、何もしていない。
それでも。
役に立った。ほんの少しだけ。
私はここで、誰かの邪魔をするだけの存在じゃなかった。
「ユキ、ありがとな」
リクが少し照れくさそうに言った。
「……うん」
返事をした声が、自分でも驚くくらい小さかった。
アキさんはリクの膝を洗い、布を当て、手際よく結んでいく。
私はその横で、余った布を押さえたり、使い終わった水入れを持ったりした。
ひとつひとつは、とても小さなことだった。
でも、そのたびにアキさんは言ってくれた。
「ありがとう」
胸の奥に、何かが積もっていく。
温かくて。
少しだけ、苦しいもの。
◇ ◇ ◇
リクの手当てが終わる頃には、広場の視線は少しだけ変わっていた。
さっきまで遠巻きに見ていた大人たちが、何人かこちらを見ている。
銀髪の変な子供。
昨日、銃口の前で泣いていた子供。
でも今は、アキさんの横で布を持っている子供。
たぶん、それだけの違いだ。
それでも、私には大きかった。
「ユキちゃん」
アキさんが、片付けながら言った。
「足、痛くなってない?」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとだけ?」
「……まあまあ、いたいです」
「それは、かなり痛いって言うのよ」
また同じことを言われた。
リクたちが笑う。
私も、少しだけ笑ってしまった。
笑った瞬間、自分でも驚いた。
ここに来てから、初めてだったかもしれない。
怖くて泣くのではなく。
恥ずかしくて顔を熱くするのでもなく。
ただ、普通に笑ったのは。
「じゃあ、今日はここまで」
アキさんは立ち上がった。
「ユキちゃんは戻って休むこと。リクも、今日は走らない」
「えー」
「えー、じゃない」
「はーい」
リクは不満そうにしながらも頷いた。
ナナとハルが、私に手を振る。
「また石渡りしよ」
「足が治ったらね」
「う、うん」
また。
その言葉に、胸の奥がくすぐったくなる。
昨日まで、私は明日のことなんて考えられなかった。
今日を生き延びるだけで精一杯だった。
でも、今。
また、という言葉が目の前にある。
私はアキさんに支えられながら、プレハブへ戻った。
歩くたびに足は痛い。
それでも、昨日の痛みとは少し違っていた。
昨日の痛みは、一人で歩く痛みだった。
今日の痛みは、帰る場所へ戻る痛みだった。
プレハブの前で振り返ると、観覧車の鉄骨に張り付いた街が、朝の光の中で青白く光っていた。
まだ、私の居場所とは言えない。
監視されている。
疑われている。
嘘もついている。
それでも。
ここでなら、少しだけ息ができるかもしれない。
「……あの、アキさん」
「なあに?」
「さっきの布、また必要だったら……持ってきます」
言ってから、恥ずかしくなった。
そんなことしかできないのか、と頭の中の大人の部分が呟く。
けれどアキさんは、真面目な顔で頷いた。
「助かるわ」
助かる。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
薄いスープよりもずっと熱く。
ゆっくりと。
「……はい」
私は小さく頷いた。
この砦での最初の朝。
私はまだ、何者でもなかった。
化け物ではないと、かろうじて認められただけの子供。
嘘を抱えた、身元不明の迷子。
それでも。
きれいな布を一枚運んだだけで、誰かが「助かる」と言ってくれた。
それが、たまらなく嬉しかった。
次回「アキさんの家」