ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
トタン屋根を叩く海鳥の声と、じっとりとした生温かい空気に撫でられて、私はゆっくりと目を覚ました。
硬いパイプベッドの上で身をよじる。
アキさんからもらった子供服が、汗を吸って肌に張り付いていた。
「……あつぅい……」
プレハブ小屋の中は、朝からもわっとしている。
薄い壁は日差しをすぐに通すし、窓の隙間からは潮風と一緒に、薪の煙と干した魚の匂いが入ってくる。
季節は、たぶん春先。
三月の終わりか、四月の初めくらいだろう。
朝の空気にはまだ冷たさが残っている。
それなのに、トタン屋根のプレハブは、日が差すとすぐに熱を抱え込む。
江戸川区の跡地を抜ける海風はひんやりしているはずなのに、この小屋の中では、ぬるく滞っていた。
「うぅ……べたべたする……」
毛布を蹴ろうとして、足の痛みに顔をしかめた。
昨日よりはましだ。
でも、大きすぎるブーツで擦りむいたかかとと、膝の擦り傷はまだじんじんしている。
それでも、昨日の朝とは少し違っていた。
昨日まで知らなかった子供たちの名前が、頭の中に浮かぶ。
リクの膝に布を押さえた。
ナナに「いいにおい」と言われた。
ハルはあまり喋らなかったけれど、最後に小さく手を振ってくれた。
私は、まだ嘘をついてここにいる。
北から来たというのも、パパの銃というのも、全部ちゃんとした本当ではない。
それでも。
昨日の「ありがとな、ユキ」だけは、嘘じゃなかった。
そう思い出したところで、薄いドアがこんこんと叩かれた。
「ユキちゃん、起きてる?」
「あ、はい……」
ドアが開き、アキさんが顔を出した。
洗い込まれた白衣の袖を少しまくり、片手には湯気を立てる木の実のお茶。
もう片方の腕には、布の束を抱えている。
「おはよう。よく眠れた?」
「はい……たぶん」
「たぶん?」
「暑くて、ちょっと起きました」
「このプレハブ、朝から蒸すものね」
アキさんは苦笑して、ベッドの横に膝をついた。
「足、痛む?」
「ちょっとだけ……」
言ってから、しまったと思った。
アキさんは私の顔を一目見て、すぐに眉を寄せる。
「ユキちゃんの“ちょっとだけ”は、まだ信用できないわね」
「……昨日よりは、ちょっとだけ」
「昨日のちょっとが嘘だったでしょう」
「うっ」
言い返せない。
アキさんは困ったように笑い、包帯をそっとめくった。
指先は昨日と同じように冷たくて、丁寧だった。
「うん。悪くはなっていないわ」
「ほんと?」
「ほんと。でも、今日も走らないこと」
「はい」
「高いところに一人で登らないこと」
「はい」
「変なものを拾わないこと」
「……はい」
「今、間があったわね」
「な、ないです」
アキさんはそれ以上追及せず、持ってきた布の束を広げた。
「それから、今日はこのプレハブを出ましょう」
「え」
胸がひゅっと冷える。
出る。
それは、追い出されるという意味だろうか。
私が固まったのを見て、アキさんは慌てて首を振った。
「違うの。外に放り出すって意味じゃないわ」
「あ……」
「昨日までは検疫も兼ねて、ここで寝てもらっていたでしょう? でも、もう大丈夫そうだから。今日からは私のところに移りましょう」
「アキさんの、ところ?」
「ええ。救護所も兼ねている場所よ。私の目も届くし、着替えもあるわ」
ほっとした。
ほっとしたことに、自分で少し驚く。
昨日までは、誰かの場所に行くことが怖かった。
でも今は、アキさんのところと聞いて、少しだけ胸の奥がゆるんだ。
「その前に、着替えましょう」
アキさんは布の束を持ち上げた。
淡い水色の、小花柄のワンピース。
それから、子供用の小さなスニーカー。
見た瞬間、頭の中の大人の部分が全力で後ずさった。
(おいおい冗談じゃない。いくらなんでも女の子すぎるだろ)
ところが。
「わぁ……っ」
布が肌に触れた瞬間、頭の中の大人の部分とは別に、身体の方が先に反応した。
涼しい。
昨日のお下がりのシャツも、男物の服よりはずっと楽だった。
でも、このワンピースは違った。
肩も、腰も、変に余らない。
紐で無理に締めなくても、布が今の身体に沿ってくれる。
汗ばんだ肌に、洗いたての生地がさらりと触れる。
女の子の服だ。
どう見ても、女の子の服。
なのに、悔しいくらい楽だった。
「……動きやすい」
「でしょう? 昨日の服は急いで探したものだったから」
「でも、これ……女の子すぎませんか」
「女の子の服だもの」
「そうですけど……」
アキさんが笑う。
私はワンピースを見下ろした。
薄い水色。
小さな花柄。
柔らかい布地。
今の私の身体には、悔しいくらい似合いそうだった。
(これは服が悪い。私が悪いんじゃない)
心の中で言い訳していると、アキさんが後ろへ回った。
「ほら、こっち向いて。ボタンを留めるわね」
「……っ」
アキさんの指が背中に触れた瞬間、肩が勝手に跳ねた。
男だった頃の感覚で言えば、別段なにも起きていない。
ただ服を着せてもらっているだけだ。
なのに、皮膚は別の判断をしていた。
背中に触れる指。
腰の後ろで留められるボタン。
柔らかい布が、汗ばんだ肌に整えられていく感覚。
(違う。違う、これは違う種類の反応だ)
頭の中で必死に否定する。
けれど、頬の温度だけは抗議を聞いてくれない。
「動かないでね。もうちょっとで終わるから」
「……うん」
声が、思ったより細かった。
アキさんは最後のボタンを留めると、満足そうに頷いた。
「うん。ぴったりね。よく似合ってるわよ」
「……似合っても、困ります」
「あら。似合わないよりはいいでしょう?」
「それは、そうですけど……」
鏡の代わりに、磨いた金属板を差し出される。
そこに映った自分を見て、私は言葉を失った。
淡い水色のワンピース。
細い手足。
血色の薄い頬。
くすんだ銀色の髪。
自分で言うのもなんだけど、悔しいくらい似合っていた。
昨日までの泥だらけの装備より、ずっと自然だった。
それが、少しだけ悔しい。
「最後に、髪も整えちゃいましょうか」
「あ、髪は自分で——」
「昨日も絡まっていたでしょう。今日はちゃんと梳かしておきましょう」
「……はい」
逆らえなかった。
アキさんが私の後ろに立つ。
温かい指が、髪をすくった。
たったそれだけのことが、過去四十年ほどの人生で、一度も発生しなかった出来事だった。
理容師に頭を触られたことならある。
美容院で髪を切ってもらったことも、たぶんある。
でも、誰かに髪を梳かれたことはない。
まして、こんなふうに。
女の子として、大切に扱われるみたいに。
「ん……っ」
指の腹が頭皮を優しく撫でるように滑った瞬間、変な声が漏れそうになった。
慌てて口を噤む。
頭のてっぺんから爪先まで、全身が落ち着かない。
アキさんの指が、もつれた髪を丁寧にほどいていく。
銀色の束が、さらさらと背中を滑った。
「思ったより細いのね、ユキちゃんの髪。銀糸を紡いだみたい」
「そ、そう、ですか……っ」
耳まで熱くなるのが分かった。
自分の髪の太さなんて、気にしたこともない。
それを他人が当然のように評価して、当然のように扱っている。
大人の男としてのちっぽけなプライドが悲鳴を上げる。
なのに、身体は快適さに負けていた。
髪を梳かれるのは、気持ちよかった。
悔しいくらいに。
「はい、できたわよ」
後ろでひとつに結ばれた髪が、首筋にふわりと触れた。
「じゃあ、お茶を飲んだら行きましょうか」
「どこへ?」
アキさんは、少しだけ笑った。
「今日からの、あなたのおうち」
◇ ◇ ◇
もわっとした潮風が、ワンピースの薄い裾をふわりと揺らした。
外へ出ると、砦の朝はもう動き出していた。
カン、カン、と鉄を打つ音。
ドラム缶の焚き火から漂う、海魚を焼くしょっぱい匂い。
サツマイモを煮る甘い香り。
吊り橋の上を、大人たちが木箱を抱えて行き交っている。
観覧車の鉄骨には太いツタが絡み、上の方では洗濯物が海風にはためいていた。
昨日、広場で見た景色と同じはずなのに、今日は少しだけ違って見えた。
昨日は、まだ私はお客さんだった。
今日は、どこかへ連れていかれる。
この砦の中に、私の場所が用意される。
そう思うと、胸の奥が落ち着かなくなった。
「ユキー!」
広場の向こうから声がした。
リクだ。
膝にまだ布を巻いたまま、大きく手を振っている。
その隣で、ナナがぴょんぴょん跳ねていた。
ハルは少し後ろで、控えめに片手を上げている。
「ワンピースだ!」
「かわいい!」
「昨日より、ちゃんと女の子っぽい」
「昨日も女の子です!」
思わず言い返すと、リクたちは笑った。
腹が立つはずなのに、嫌ではなかった。
「あとで遊べる?」
リクが聞く。
私が答えるより先に、アキさんが言った。
「今日は無理させないわよ」
「はーい」
リクたちは口を揃えて返事をした。
慣れている感じだった。
私は小さく手を振り返す。
昨日まで知らなかった名前が、もう私を呼んでいる。
それが少しだけ、くすぐったかった。
アキさんに手を引かれ、私は観覧車の鉄骨へ向かった。
広場から見上げるだけなら、大きな木みたいで少し綺麗だった。
けれど、実際に吊り橋へ足を乗せると、印象は一瞬で変わった。
ギシ、と足元の板が鳴る。
隙間から、はるか下の広場が見えた。
海風が吹くたび、吊り橋全体がわずかに揺れる。
「あわわわっ、アキさん、こわいっ!」
安全性を計算しようとする理性は、一瞬で吹き飛んだ。
私は涙目でアキさんの腰にしがみつく。
「大丈夫。ゆっくり行きましょう」
アキさんは慣れた足取りで、それでも私の歩幅に合わせて進んでくれた。
「みんな、平気で渡ってるの……?」
「慣れよ。最初は誰でも怖いわ」
「アキさんも?」
「もちろん。私も最初は腰が抜けたもの」
「ほんとに?」
「ほんとよ」
そう言って笑うアキさんの声が、少しだけ近かった。
吊り橋を渡りきる頃には、手のひらが汗でじっとりしていた。
怖さと暑さの両方で、頭が少しぼんやりする。
たどり着いたのは、観覧車のゴンドラを骨組みにして、トタンと廃材で拡張された小さな家だった。
中に入ると、太陽に温められた鉄の匂いがした。
それに、強いアルコール。
乾燥させた薬草の、少しツンとした香り。
部屋の隅には煮沸消毒用のドラム缶ストーブ。
壁には、包帯代わりの布が几帳面に干されている。
棚には瓶や木箱が並び、何かの根っこや葉っぱが紐で吊るされていた。
生活の場所であり、同時に救護所でもある。そんな部屋だった。
「ここが今日から、あなたのおうちよ」
アキさんは、白衣の裾を払いながら言った。
私はペタンと椅子に座らされた。
椅子は少し高くて、足が床に届かない。
それだけで、また自分が小さくなったみたいで落ち着かなかった。
「私の仕事は、この砦の怪我人や病人を診ること」
アキさんは棚の瓶を整えながら言った。
「……といっても、大した薬があるわけじゃないから、傷口を洗ったり、縫ったり、薬草を煎じたりするくらいなんだけどね」
「すごいです」
「すごくないわ。必要だからやってるだけ」
アキさんは少し照れたように笑った。
「あなたはまだ小さいから、ここで私と一緒に暮らすのが一番安全だと思うの。救護所なら、私の目も届くしね」
私の目も届く。
その言葉に、ザキさんの声を思い出す。
保護はする。
飯も出す。
足も治す。
だが、目は離さない。
つまり、ここは安全な場所であり、監視しやすい場所でもある。
それは分かっている。
分かっているのに、アキさんの部屋だと思うと、少しだけ安心してしまった。
「……アキさん、ありがとう」
素直にお礼を言うと、アキさんは嬉しそうに目を細めた。
「ユキちゃん」
アキさんが、私を呼んだ。
「はい」
反射的に返事をしてから、少し遅れて胸の奥が跳ねた。
今、私は返事をした。
ユキ、と呼ばれて。
昨日までは、まだ借り物の名前のつもりだった。
咄嗟に選んだだけの名前。
この身体に合わせて、とりあえず被っただけの名前。
それなのに、アキさんの声で呼ばれると、不思議と胸のどこかが落ち着いてしまう。
まるで、最初からそう呼ばれていたみたいに。
それが少し、怖かった。
でも、嫌ではなかった。
「あのね、アキさん」
「なあに?」
私は膝の上で、自分の小さな手を握った。
「リクたちも、わたしと同じくらいなのに……どうして、アキさんは、わたしのこと、こんなに心配するの?」
言ってから、少しだけ怖くなった。
聞いてはいけないことだったかもしれない。
でも、ずっと気になっていた。
この砦には、子供がいる。
昨日も一緒に遊んだ。
リクも、ナナも、ハルも、私と同じくらいの年に見える。
だから、子供が珍しいわけではないはずなのだ。
アキさんは、かすかに寂しそうな顔をした。
丸い窓の外を見下ろす。
広場では、リクたちがまだ何かを話していた。
「……この三年でね、みんな変わってしまったのよ」
アキさんの声は、波音に消えそうなほど静かだった。
「あの広場を走っている子たちを見てごらん。泥だらけになって、ミュータントから逃げ延びて、瓦礫を退けて生き延びてきた子たちよ」
アキさんは言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「あの子たちの目は、もう三年前の普通の小学生のものじゃないわ」
私は窓の外を見る。
リクが笑っている。
ナナが何かを言い返している。
ハルが少し離れて、それを見ている。
昨日と同じ、普通の子供たちに見えた。
でも、アキさんには違って見えているのだろう。
「手も、大人みたいに硬いの」
アキさんは、私の手をそっと取った。
「タコだらけで、傷だらけで。……それが悪いことだとは言わないわ。あの子たちは、それで生き延びてきたんだから」
アキさんの親指が、私の手の甲を優しく撫でる。
重い銃を引きずっていたせいで、少し赤く擦れてはいる。
けれど、私は大人用のグローブをしていた。
この手には、三年間を生き抜いた硬いマメがない。
「でも、ユキちゃん。あなたは違った」
アキさんの声が、少しだけ震えた。
「あなたは、変異前の平和だった頃と同じ甘い匂いをさせてた」
「……匂い」
「ええ。それに、銃を向けられて、あんなに子供らしく泣きじゃくって……おむすびが食べたいなんて言ったのよ」
アキさんは困ったように笑った。
「そんなことで泣く子、この砦にはもう一人もいないわ」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
情けなくて、恥ずかしくて、でも否定できなかった。
「その柔らかい手と、甘い匂いと、泣き顔を見た時、私、思い出しちゃったの」
アキさんの目が、うっすらと揺れる。
「せんせい、痛いよぉって泣きながら保健室に駆け込んできていた、昔の普通の子供たちのことを」
せんせい。
その言葉で、少しだけ分かった。
アキさんは、昔から誰かを診る人だったのだ。
救護所のアキさんになる前から。
きっと、子供の怪我を見ていた人だった。
「だからよ」
アキさんは言った。
「ユキちゃんは、私が守れなかった平和だった頃の子供そのものに見えたの。誰かにずっと大切に守られてきた、奇跡みたいな子に見えて、放っておけなかった」
そして、少しだけ目を伏せる。
「……大人の勝手な感傷ね。ごめんなさい」
私は何も言えなかった。
違う。
私は、誰かにずっと大切に守られてきた子供なんかじゃない。
数日前に、マナ結晶の中で目覚めた。
新品みたいな身体で。
手袋で守られていただけの柔らかい手で。
壊れた東京を、よく分からないまま歩いてきただけだ。
おむすびのことで泣いたのだって、ただ恐怖でパニックになっただけ。
パパの銃だって、嘘だ。
なのに、それがアキさんの中では、平和だった頃の子供の形をしてしまった。
申し訳なかった。恥ずかしかった。
でも、これ以上の嘘をつくのも苦しかった。
私は、アキさんの首に小さな腕を回した。
「……アキさん」
「なあに?」
「ありがとう」
それ以上は、言えなかった。
ごめんなさい、とは言えなかった。
言えば、何を謝っているのか聞かれる。
嘘をついているからです、なんて言えるはずがない。
だから、ありがとうだけを言った。
アキさんは少しだけ驚いたあと、私の背中にそっと手を回した。
「うん」
その声があまりにも優しくて、私は目を閉じた。
今日からここが、私の家。
そう思ってしまった自分に、また少しだけ胸が痛んだ。
次回「お洗濯の魔法」