ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
チャプチャプと、冷たい水音が錆びたドラム缶の中で跳ねていた。
アキさんの家兼救護所に移って、次の日。
私が任された最初のちゃんとした仕事は、救護所で使った古い包帯や布を洗うことだった。
昨日、リクの膝を手当てする時に布を押さえた。
あれは、手伝いというより、横にいただけに近い。
でも、今日は違う。
アキさんが使った布。
怪我人の血を吸った包帯。
膿や泥のついた当て布。
それを洗って、干して、また使えるようにする。
「汚れがひどいものは、無理に触らなくていいからね」
そう言いながら、アキさんは水色のワンピースの上から、古い布の前掛けをかけてくれた。
「せっかくの服が汚れちゃうもの」
「あ、ありがとうございます……」
前掛けは大きめで、胸元から膝のあたりまでをすっぽり覆ってくれた。
昨日もらった小花柄のワンピースが隠れると、息が抜ける。
可愛い服を着ている自分を意識しなくて済む。
それに、作業着っぽい。
(うん。これは労働。これは労働だ)
自分に言い聞かせる。
砦の広場の端にある水場から運んできた水は、地下水を濾過しただけのものだった。
一応は透明だ。
けれど顔を近づけると、ツンとした土臭さに、古い鉄管のサビが混ざっていた。
その水に、血や膿で汚れた包帯を浸す。
小さな手で、ゴシゴシとこすり合わせた。
「うぅ……つめたい……」
初夏とはいえ、地下から汲み上げたばかりの水は氷みたいに冷たい。
指先はあっという間に真っ赤になって、感覚がなくなっていく。
おまけに、こびりついた古い血の生臭さが、鼻の奥にまとわりついていた。
前の私なら、たぶん顔をしかめるだけで済んだ。
今の身体は、匂いにも冷たさにも過敏に反応する。
胃の奥が、じわじわ気持ち悪くなった。
「ユキちゃん、無理しちゃダメよ。手が冷たかったら、少し休んでね」
近くで薬草の葉を刻んでいたアキさんが、心配そうに声をかけてくれる。
「ううん、だいじょうぶ! わたし、がんばる!」
私は振り返って、元気いっぱいに微笑んでみせた。
アキさんは少しだけ眉を下げた。
「本当に?」
「ほんとに」
「痛くなったら、ちゃんと言うのよ」
「はい!」
「返事だけはいいのよね」
「う……」
アキさんは小さく笑うと、刻んだ薬草を布に包んだ。
「ザキに傷薬を届けてくるわ。すぐ戻るから、それまでに一回は休むこと。いい?」
「はい!」
「本当に?」
「……一回は、やすみます」
「よろしい」
アキさんは私の頭を軽く撫でてから、救護所を出ていった。
足音が遠ざかる。
吊り橋の板が、ギシ、ギシ、と鳴った。
やがて、その音も風に紛れる。
私はドラム缶の中を見下ろした。
赤黒く濁った水。
水面に浮く、古い血の膜。
底に沈む、灰色に汚れた包帯。
小さな手でどれだけこすっても、完全には落ちない。
指先だけが冷えて、痛くなっていく。
……よし。
今だ。
私は周囲を見回した。
誰もいない。
救護所の入口にも、丸い窓の外にも、人影はない。
私はドラム缶の縁に小さな両手を置き、水に浸かった包帯の山を見つめた。
深く息を吸う。
肋骨の内側。
心臓のすぐ隣あたりにある、熱い塊を探す。
数日前。
崩壊したビルの中で、マナ結晶の繭から這い出した時のことを思い出す。
ひどい渇きで死にかけていた私は、瓦礫のくぼみに溜まった泥水を飲もうとした。
その時、身体の中心にある熱い塊が勝手に脈打った。
指先から、淡い光がこぼれ落ちた。
光が触れた瞬間、泥水は湧き水のように澄み切った。
理屈じゃない。
結晶の中で作り変えられた身体が、それを本能で理解していた。
これは、【浄化】だ。
(……【浄化】……っ)
記憶をなぞるように、心の中で強く念じる。
その瞬間、手のひらから淡い緑色がこぼれた。
光は水面に触れ、水中へゆっくりと広がっていく。
シュワァァッ……と、炭酸水が弾けるような音がした。
赤黒い濁りが、底の方からほどけていく。
生臭さが薄れ、灰色だった包帯に白さが戻った。
「……ふぅ」
光が収まった。
ドラム缶の中には、鏡みたいに澄んだ水と、真っ白な布が沈んでいた。
「よしよし。大せいこう」
私は小さくガッツポーズをした。
これなら、指が冷たくならない。
布もきれいになる。
アキさんも助かる。
誰にも見られていない。
完璧だ。
「……水が変わった」
息が止まった。
振り返る。
救護所の入口に、アキさんが立っていた。
いつの間に戻ってきていたのか。
いつから見ていたのか。
アキさんの目は、ドラム缶の中の澄み切った水を、静かに見つめていた。
(……バレてない)
バレていないはずがない。
(バレてない、ということにしたい)
「え、えっと……きのせいじゃないかな」
声が上ずった。
アキさんの目が、私に向いた。
すぐに、ドラム缶へ戻る。
澄み切った水。
真っ白な包帯。
赤くなった私の指先。
「……そう」
それだけだった。
困る。そうで終わられると、困る。
問い詰められるのも困るけれど、何も聞かれないのも困る。
「わ、わたし、お水の中で、いーっぱいゴシゴシしたの!」
口が勝手に動いた。
「パパにね、お洗濯はいっしょうけんめいやると、魔法みたいにキレイになるよって、教わったから……っ!」
えへへ、と首を傾けて笑ってみせる。
アキさんはすでに「そう」と言った後だ。
このゴシゴシ説明は完全に後付けである。しかも、パパ設定まで足している。
もう、やめたい。
でも、止まれなかった。
アキさんは一度だけ瞬きをして、それから、ふわりと優しく微笑んだ。
「そう……パパが教えてくれたのね。ユキちゃんは、本当に頑張り屋さんね」
アキさんの手が、私の頭に乗る。
撫でられた場所が、じんわり温かくなった。
「ありがとう、ユキちゃん。これなら、怪我をした人たちもきっと喜ぶわ」
「うんっ! わたし、あしたもいーっぱいお洗濯するね!」
思わず元気に返事をしてから、胸の奥がちくりとした。
また、嘘をついた。
けれどアキさんは、何も聞かなかった。
ただ、私の頭を撫でていた。
帰り道。
白くなった布を干し終えて、重くなったバケツを両手で提げて歩いていると、横からアキさんの手が伸びてきた。
バケツの持ち手に、アキさんの指がそっと添えられた。
奪わない。
半分だけ、持ってくれる。
「重かったでしょ」
「……うん」
その意味を考えながら、私は結局、何も言えなかった。
アキさんも何も言わなかった。
ただ、バケツを半分だけ持ちながら、一緒に歩いた。
◇ ◇ ◇
ザキに傷薬を渡し終えて、救護所へ戻る途中、私は足を速めていた。
ユキちゃんの手が、気になっていた。
地下水は冷たい。
あの小さな指では、すぐに赤くなってしまう。
本人は「だいじょうぶ」と笑うけれど、ユキちゃんの大丈夫はあまり信用できない。
吊り橋を渡り、救護所の入口が見えたところで、私は足を止めた。
ドラム缶の前に、細い背中があった。
ユキちゃんが、水場に向かって両手をかざしている。
その手のひらから、淡い緑色の光がこぼれた。
水の濁りが、沈殿するのではなく消えていく。
血の匂いが薄れ、古い包帯から染みまで抜けていった。
私は、声を出せなかった。
光が収まる。
ユキちゃんは小さくガッツポーズをして、満足そうに水面を見つめていた。
子供らしい横顔だった。
でも、ドラム缶の中にあるのは、子供の手洗いでは絶対に作れない清潔さだった。
「……水が変わった」
気づけば、声が出ていた。
ユキちゃんが振り返る。
碧灰色の瞳が、大きく見開かれていた。
「え、えっと……きのせいじゃないかな」
声が少しだけ上ずっている。
嘘をついている。
隠そうとしている。
大人の、しかも元・医療従事者の私には、はっきりとわかった。
冷たい水とあの手の力だけで、血液の汚れがここまで落ちるわけがない。
石鹸すらないこの状況で、どうやって。
ユキちゃんの小さな両手を見る。
指先は、冷たい水に入っていたせいでさくらんぼみたいに赤い。
けれど、激しくこすり合わせたような擦り傷や荒れはない。
この子には、何かある。
確信に近かった。
この信じられないほど愛らしい容姿。
そして、奇跡のように清潔な水と布。
きっと彼女は、無意識にか、あるいは意図的にか、何らかの力を使ったのだ。
けれど。
(この子に、問い詰めちゃ駄目だわ)
もし、この力が砦の大人たちに知れたらどうなるか。
清潔な水。
清潔な布。
それが命をどれだけ左右するか、私は誰より知っている。
だからこそ、怖かった。
砦の衛生を保つための道具として、毎日毎日、冷たい水場に縛り付けられるかもしれない。
外の人間に知られれば、奪われる理由にもなる。
ザキたちが守ろうとしても、守り切れるとは限らない。
そんなのは嫌だ。
絶対に嫌だ。
「……そう」
私はそれだけ言った。
ユキちゃんの緊張した目が、かすかに揺れる。
ユキちゃんは、お水の中でいっぱいこすったのだと、必死に説明した。
パパに教わったのだ、とも。
えへへ、と首を傾げて笑うユキちゃん。
そんなわけがない。
でも、私は微笑んだ。
「そう……パパが教えてくれたのね。ユキちゃんは、本当に頑張り屋さんね」
小さな頭を撫でる。
細くて柔らかい銀色の髪が、指の間をさらさらとすり抜けた。
指先に、ほんのりと甘い香りが残る。
このまま、もう少し触れていたい。
理由の分からない気持ちが、そこにあった。
私はその気持ちに気づかないふりをして、ユキちゃんの頭をもう一度だけ撫でた。
「ありがとう、ユキちゃん。これなら、怪我をした人たちもきっと喜ぶわ」
「うんっ! わたし、あしたもいーっぱいお洗濯するね!」
花が咲いたように笑うユキちゃんを見て、私はしばらく、その顔から目が離せなかった。
この子が何かを隠しているなら、私が守る。
問い詰めない。
暴かない。
誰にも渡さない。
そう心に決めながら、帰り道、私はユキちゃんが提げているバケツの持ち手に手を伸ばした。
奪わない。
半分だけ、持つ。
「重かったでしょ」
ユキちゃんは少しだけ間を置いて、「……うん」と言った。
それだけで、何か十分な気がした。
西日に照らされた鉄の樹上都市は、風に吹かれて軋んでいる。
抱え込んだ秘密は、思ったより重かった。
けれど、バケツの持ち手は半分だけ軽くなっている。
私は何も言わず、ユキちゃんと一緒に救護所のゴンドラへ歩き出した。
次回「夜の窓で」