ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
『ダイヤの砦』での生活は、思っていたより早く、私の身体に馴染んでいった。
朝、海鳥の鳴き声と、ツタが鉄骨をこする音で目を覚ます。
アキさんと一緒に、薄い塩味のスープを飲む。
日中は救護所の手伝いとして、包帯を干したり、薬草の鉢に水をやったり、乾いた布をたたんだりする。
できることは、まだ少ない。
重いものは持てない。
高いところには登らせてもらえない。
包帯をきつく巻こうとすると、すぐに手首が疲れる。
それでも、何かを頼まれるたびに、胸の奥が少しだけ温かくなった。
救護所に置いてもらっているだけじゃない。
ご飯をもらって、寝床をもらって、守られているだけじゃない。
ほんの少しだけ、ここで役に立てている。
そう思える時間が、少しずつ増えていた。
水場で包帯を洗う時だけは、少しだけ緊張する。
私は誰も見ていない時を選んで、こっそりと【浄化】を使った。
赤黒く濁った水を澄ませ、血の匂いを消し、古い布を白く戻す。
あの日、アキさんはそれを見た。
見たはずだ。
けれど、それからもアキさんは何も聞いてこなかった。
私の洗った包帯を見るたび、ただふわりと微笑んで、
「ありがとう、ユキちゃん」
そう言って、頭を撫でてくれるだけだった。
その優しさが、嬉しい。でも、少しだけ怖い。
アキさんが私の秘密をどう処理しているのか、私には分からなかった。
ただ、ザキさんたち他の大人に、この異常な白さが怪しまれることはなかった。
砦の人たちは、清潔な布が増えたことを喜んだ。
私はただの「よく手伝いをしてくれる小さな女の子」として、救護所の日常にすっぽり収まっていた。
その日、アキさんは朝から砦の外に出ていた。
「近くの廃墟に、薬草と消毒に使えそうなものを探しに行くわ。夕方には戻るから、救護所で待っていてね」
出がけに、アキさんはそう言った。
夕方。
夕方には戻る。
(……夕方まで)
私は乾いた包帯をロープから外し、端を揃えて籠に入れた。
それから、ちらりと吊り橋の方を見る。
誰もいない。
「よいしょ……っと」
包帯を抱えて救護所の中に戻る。
棚にしまう。
また外に出る。
そして、また吊り橋を見る。
誰もいない。
別に、待っているわけじゃない。
ただ、アキさんは夕方に帰ると言った。
だから、夕方になったら帰ってくるか確認するのは、普通のことだ。
そう、普通のことだ。
私は自分にそう言い聞かせながら、薬草の鉢に水をやった。
少し経ってから、また吊り橋を見る。
まだ、いない。
ゴンドラの影が、少しずつ長くなっていく。
昼間の熱気が少しだけ緩み、海風がロープに干した布をふわりと揺らした。
やがて、日が傾きはじめた頃。
吊り橋の向こうに、白衣の人影が見えた。
(……帰ってきた!)
胸が、ぱっと明るくなる。
気づいた時には、私は救護所の入口まで出ていた。
「おかえり、アキさん!」
声が思ったより弾んだ。
アキさんは少し目を丸くした。
それから、柔らかく笑う。
「ただいま。……待ってたの?」
「……まってない」
声が、思ったより小さくなった。
待っていない。
待っていないはずだ。
なのに、なぜか目が合わせられない。
アキさんはそれ以上、何も言わなかった。ただ口元がかすかに動いた気がした。
笑った、かもしれない。
◇ ◇ ◇
「わーーっ! まてー!」
「あははっ! こっちだぞー!」
すぐ下の居住区の広場で、泥だらけの子供たちが数人、追いかけっこをしていた。
リクたちよりも、もっと小さい子たちだ。
五歳か、六歳くらいだろうか。
ドンッ。
そのうちの一人、小さな男の子が、地面から突き出していた車のスクラップに足を引っかけ、派手に転んだ。
「あっ……」
私は思わず身を乗り出した。
男の子はうずくまって、膝を押さえている。
周りの子たちは少し離れたところで「あーあ」と声を上げていたけれど、大人は近くにいない。
「アキさん、ちょっと行ってくる!」
「走らないでね」
「うん!」
返事をしながら、私は吊り橋を小走りで渡りかけて、アキさんの視線を思い出して速度を落とした。
走らない。
高いところで走らない。
落ちたら洒落にならない。
私は足元に気をつけながら吊り橋を渡り、階段を降りて広場へ向かった。
「だ、だいじょうぶ?」
うずくまる男の子のそばに膝をつき、覗き込む。
男の子は涙目で、膝を押さえていた。
擦りむいた皮膚から、血がじわりと滲んでいる。
深くはない。たぶん、洗って布を当てれば大丈夫な傷だ。
そう判断してから、自分が自然にそう考えたことに少し驚いた。
この数日で、アキさんの処置を何度か見ていたせいだろう。
「痛かったね。……砂、払うからね」
私は男の子の膝の周りについた土を、指先でそっと払った。
傷口そのものには触らない。
アキさんが言っていた。
汚れた手で直接触ると、かえってよくない。
だから、周りの泥だけを落として、息を吹きかける。
「ふー……ふー……」
男の子の肩が、少しだけ緩んだ。
「いたいのいたいの、とんでけ」
ぽん、と最後に、傷の少し上を優しく撫でる。
男の子はキョトンとした。
それから、鼻をすすりながら、小さく笑った。
「……うん。ありがと、おねえちゃん」
「うん。あとでちゃんと洗ってもらってね」
「はーい」
男の子は立ち上がると、また仲間たちの方へ走っていった。
「あ、走るとまたころぶよ!」
「へーき!」
全然へーきじゃないと思う。
小さな背中を見送りながら、私は立ち上がって首を傾げた。
(……大の大人が子供に、いたいのとんでけなんて、ちょっと過剰だったかな)
いや。
相手は小さい子だ。
大人の私としては、目線を合わせて安心させるのが当然の配慮だ。
たぶん。
きっと。
そう自分を納得させながら、私は膝についた土を払った。
自分が今、照れも計算もなく、本物の姉か母親みたいな声を出していたこと。
そしてその仕草が、あまりにも「少し年上の女の子」として自然だったことに、私はまったく気づいていなかった。
◇ ◇ ◇
夜。
砦の喧騒が静まり、外から波の音だけが聞こえてくる時間。
私はゴンドラの隅で、小さな手鏡を覗き込んでいた。
アキさんが、廃墟で見つけてきてくれたものだ。
「女の子なんだから、身だしなみは大事よ」
そう言って渡された。
女の子なんだから。
言われ慣れていないどころか、これまで一度も向けられたことのない言葉だった。
私はその言葉を、否定しなかった。
受け取った手鏡は、思ったより重かった。
重かった、というより。
自分のものとして持つことに、慣れていない重さだった。
(……女の子なんだから、か)
鏡の中で、銀色の髪の子が、同じ顔で困惑している。
陶器みたいに白い肌。
長いまつ毛に縁取られた、碧灰色の大きな瞳。
小さな鼻。
少しだけ開いた唇。
私は、自分の頬を指先でつついた。
鏡の中の少女も、同じように頬をつつく。
次に、無造作に結んでいた銀色の髪をほどいた。
指の腹で、ゆっくり梳いてみる。
洗面所で初めてこの姿を見た時は、長くて邪魔なだけだと思った。
瓦礫に引っかかったら危ないから、乱暴にまとめ直した。
けれど今は髪が絡まるのが嫌で、少しだけ時間をかけて手入れをしている。
……綺麗な髪だなと、素直に思った。
指が止まる。
髪を梳く途中のまま、私は鏡の中の少女を見つめた。
(今、綺麗だって思った)
その事実に、少しだけ胸がざわつく。
でも、嫌悪感はなかった。
以前なら、「誰だこれ」と思った。
タチの悪い冗談だと、目を逸らした。
鏡の向こうの少女が自分だなんて、受け入れたくなかった。
けれど今は、ただ静かに見つめている。
碧灰色の瞳。
銀色の髪。
小さな輪郭。
それらが、自分自身のものとして、少しずつ視界に馴染んでいく。
「ユキちゃん、そろそろランプを消すわよ」
背後で、毛布を整えていたアキさんが声をかけた。
「あ、うんっ。いまいくね」
私は鏡をぱたんと伏せ、アキさんの隣へ向かった。
トテトテと歩く自分の足音が、やけに軽かった。
石鹸の匂いがする毛布に潜り込む。
アキさんの気配が、すぐ近くにある。
私はゆっくりと目を閉じた。
自分が鏡の前で何分も、ただ自分の顔を見つめ続けていた理由を、深く考えることはしなかった。
◇ ◇ ◇
夜の鉄の樹上都市は、昼間とはまったく違う顔を見せる。
陽が沈むと、地上のあちこちに突き刺さったマナ結晶が、ゆっくりと不規則な光を放ち始める。
それは、冷たい氷の柱が内側から燃えているみたいで、不気味だけれど、どこか目を奪われる美しさがあった。
ギィィ……。
海風に煽られ、ゴンドラを支える巨大な鉄骨が低く軋む。
「……んん……」
私は毛布の中で身をよじり、そっと目を覚ました。
隣からは、アキさんの規則正しい寝息が聞こえる。
ゴンドラの丸い窓から、マナ結晶の光がうっすらと差し込み、部屋の中に淡い影を落としていた。
遠くで、変異獣の遠吠えが響く。
安全な場所にいると分かっていても、あの声を聞くと、背筋が反射的に冷たくなる。
私は毛布の縁を、両手でぎゅっと握りしめた。
アキさんは、すぐ隣にいる。
ここは高い。
壁もある。
見張りの人たちもいる。
大丈夫。
大丈夫、のはず。
そう思って、息をゆっくり吸い込んだ。
その時だった。
「……え?」
毛布を握りしめていた自分の両手から、ふわりと何かがこぼれ落ちた気がした。
目の錯覚かと思い、私は布団の中でそっと手を開く。
ポゥ……と。
小さな手のひらの中心で、淡い金色の光が明滅していた。
まるで、一匹のホタルが手のひらに止まっているみたいだった。
水場で包帯を洗う時に使う、あの【浄化】の緑とは違う。
もっと温かい。
もっと優しい。
日だまりみたいな金色の光。
それが、私の意志とは関係なく、じわじわと指先から漏れ出していた。
まるで、私の不安や心細さを慰めようとしているみたいに。
トクン、と心臓が跳ねた。
光は少しずつ強さを増し、私の顔の輪郭や、ゴンドラの天井の錆びた鉄板を淡く照らし始める。
まずい。
このまま光が強くなれば、隣で寝ているアキさんが目を覚ます。
外には見張り台に立つ人もいる。
窓から不自然な金色の光が漏れれば、異常事態として踏み込まれるかもしれない。
(消えて。……お願い、消えて……っ!)
私はパニックになり、両手を強く握り込んだ。
それでも、指の隙間から光が漏れる。
慌てて毛布の中に手を突っ込み、自分の胸に押し当てた。
息を殺す。
目を固く閉じる。
頭の中で「無」を念じる。
心臓の奥にある熱い塊に、蓋をするイメージを必死に描く。
数十秒が、永遠みたいに長く感じられた。
やがて、胸元から伝わっていた微かな熱が薄くなる。
毛布の中の光が、すっと霧散していく。
「……っ、ふぅ……」
誰にも聞こえないくらい小さな吐息を漏らす。
そっと毛布から手を出してみると、手のひらは元の白い肌に戻っていた。
私はごくりと喉を鳴らした。
冷や汗が、背中を伝っていく。
怖い。
自分が魔法を使えることは、この世界で生き残るための便利な手札だと思っていた。
でも、違う。
これは、道具じゃない。
私の身体そのものに根付いた、得体の知れない器官みたいなものだ。
感情の揺れや、無意識の反応で、いつ勝手に漏れ出すかわからない。
もし、大勢の人がいる広場で、ふいに転んで痛がった時に。
もし、誰かに怒鳴られて、極度の恐怖を感じた時に。
もし、誰かを助けたいと思った時に。
今日みたいに、勝手に光が漏れ出したら?
水場でアキさんが見せた、あの一瞬の沈黙が脳裏をよぎる。
この力が砦の大人たちに知られれば、私はもう保護されるだけの子供ではいられなくなる。
私は自分の小さな両手を、もう一度毛布の奥へ隠した。
まるで、ひどく悪いことをしてしまった子供みたいに、身体を小さく丸める。
外から、波の音と鉄の軋む音だけが聞こえていた。
アキさんの静かな寝息が、すぐ隣にある。
言おうかな。アキさんに。
あの水のこと。
この光のこと。
自分でも、よく分からないこと。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
言えば、何かが変わる。
でも、言わなくても、もう一人で抱えているのは苦しい。
(……明日)
私は毛布の中で、両手を握った。
(明日、アキさんに……話してみようかな)
言えるかどうかは、分からない。
それでも、一人で抱えていることに、少しずつ限界を感じ始めていた。
夜明けまで、私は目を閉じたまま、ただじっとしていた。
次回「似合ってるわ」