ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜 作:Naito
昨日、私が洗った包帯は、初夏の日差しと海風をたっぷり吸い込んで、真っ白に乾いていた。
お日様の匂いがする。
私はゴンドラ横のデッキにしゃがみ込み、乾いた包帯を端からくるくると巻いていた。
端を揃える。
少し折る。
そのまま、くるくる巻く。
最後に、ほどけないよう布の端を内側へ押し込む。
単純な作業だ。
ひび割れたアスファルトの廃墟を血まみれで歩いていた数日前に比べれば、天国みたいな時間だった。
「ユキちゃん、端っこをこうして、ちょっぴり折り込むとほどけにくくなるのよ」
「あ、ほんとだ。……こう?」
「ふふっ、そうそう。上手ね」
隣で薬草をすり潰していたアキさんが、目を細めて笑う。
私もつられて、えへへと笑い返した。
包帯を巻く。並べる。また巻く。
昨日、あの水の中で真っ白になった布だ。
アキさんは、何も聞いてこなかった。
どうやって綺麗にしたのか。
あの緑の光は何だったのか。
私が何を隠しているのか。
何も。
ただ、「ありがとう」と言って、バケツを半分だけ持ってくれた。
ふと、手元の包帯から視線を上げた時だった。
すりこぎを動かす手を止めて、アキさんがじっとこちらを見つめていることに気づいた。
海風が、温かみのある茶色い髪をふんわりと揺らしている。
その横顔に浮かんでいたのは、いつもの優しいだけの表情ではなかった。
どこか遠くを見るような。
あるいは、とても壊れやすいものを守り抜こうとしているような。
静かで、深い眼差しだった。
胸の奥で、何かがじわりと温かくなる。それと同時に、少しだけ怖くなった。
(アキさん。やっぱり、気づいてる……?)
気づいている。たぶん。
でも、何も聞いてこない。
それが優しさなのか。
それとも、私を監視するためなのか。
今の私には、まだ分からなかった。
「……アキさん?」
おずおずと声をかける。
アキさんはハッとして瞬きをすると、すぐにいつもの、花が咲くような柔らかい笑顔に戻った。
「ごめんなさい。ちょっとぼんやりしちゃったわ」
それから、私の手元に目を落とす。
「ユキちゃんは、本当にいい子ね」
アキさんが手を伸ばし、私のくすんだ銀色の髪をそっと撫でた。
その手のひらの温もりに触れた瞬間、胸の中にあった警戒心が、春の雪みたいにあっさり溶けていく。
「……えへへ」
気がつけば、私は目を細めていた。
もっと撫でてほしい。
そう考えるより先に、身体が勝手にアキさんの手へ頭を寄せていた。
撫でられる場所に、自分から近づいている。
ハッとして、息を呑んだ。
(今、私……)
計算より先に、身体がそれを知っていた。
アキさんの手は、怖くない。
むしろ、安心する。
「どうかした?」
「う、ううんっ! なんでもない!」
慌てて包帯に視線を戻す。
指先が、少しだけ震えていた。
◇ ◇ ◇
午後。
アキさんが負傷者の往診でゴンドラを離れ、私一人で留守番を任された時間。
私はゴンドラの死角になる隅っこにしゃがみ込み、自分の両手をじっと見つめていた。
昨夜、恐怖や心細さに反応して、勝手に漏れ出してしまった金色の光。
あれがもし、人前で起きたら。
広場で転んだ時。
誰かに怒鳴られた時。
小さな子が怪我をして、思わず手を伸ばした時。
私の意思とは関係なく、あの光が出てしまったら。
この「ただの子供」としての平穏な居場所は、一瞬で崩れる。
だから、確かめなければならなかった。
この得体の知れない力を、ちゃんと自分の意思で出せるのか。
そして、消せるのか。
深く息を吸う。
目を閉じる。
胸の奥にある、あの熱い塊を意識した。
昨日は、不安で勝手にあふれた。
包帯を洗った時は、綺麗にしたいと思ったら緑の光が出た。
でも今は、ほんの少しだけ。
蛇口をゆっくりひねるみたいに。
暗い部屋で、小さなランプを灯すみたいに。
意思の力で、引き出してみる。
(……きて)
指先に意識を集中する。
チカッ、と。
右手の人差し指の先に、淡い緑の光が灯った。
マッチの火みたいに小さい。
でも、確かにそこにある。
(……できた)
今度は、心の奥の蓋を閉じるイメージを描く。
光は、すっと消えた。
もう一度。
今度は、胸の奥の温かい方。
昨夜、勝手に漏れ出した金色の光。
怖がらない。
慌てない。
ほんの少しだけ。
ポゥ……と、指先に淡い日だまりみたいな金色が灯る。
緑の光とは違う。
見ているだけで、少しだけ胸が温かくなる色だった。
でも、長く見てはいけない気がした。
すぐに蓋を閉じる。
光が消える。
「……ふぅ」
私は壁に背中を預け、長いため息をついた。
制御はできる。
目に見えない、新しい筋肉の動かし方を覚えるような感覚だった。
それは大きな収穫のはずだった。
けれど、安堵と同時に、言いようのない孤独感が胸に広がっていく。
こんなことができるのは、たぶんこの砦で私一人だけだ。
指先に灯った緑の光も、金色の光も、私が普通の人間からかけ離れた生き物になってしまったことを、残酷なくらいはっきり証明していた。
鏡の中の少女。
子供たちに「おねえちゃん」と呼ばれる身体。
水を澄ませる手。
金色の光をこぼす指。
私は、いったい何になってしまったのだろう。
「ただいま、ユキちゃん」
鉄扉が開き、アキさんが戻ってくる音がした。
私は慌てて立ち上がり、服の裾を払って駆け寄った。
「おかえり、アキさん!」
「ふふっ、お留守番ありがとう。いい子にしてた?」
「うんっ」
返事はすぐに出た。
でも、アキさんの目をまっすぐ見られなかった。
アキさんの目には、やっぱりどこか、何かを知っているような静かな色が混じっている気がした。
私は彼女の白衣の裾を、小さく握りしめる。
アキさんは何も聞かなかった。
ただ、私の手元を一度だけ見て、それから何も見なかったことにしてくれた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、私は一人で広場の端にある水汲み場へ来ていた。
アキさんに頼まれた薬草の鉢植えに、水をやるためだ。
小さな木の桶に水をすくい、立ち上がろうとした時、背後から重いブーツの足音が近づいてきた。
「よぉ、おチビちゃん。こんなとこで何してんだ」
振り返ると、地上班のリーダーであるザキさんが立っていた。
見回りの途中なのだろう。
使い込まれたタクティカルベスト。
肩には黒光りするアサルトライフル。
相変わらず、ガンオイルと古い汗のむさ苦しい匂いがする。
「あ、ザキさん。お水、汲んでたの」
私は桶を足元に置き、ぺこりと頭を下げた。
それから、ずっと言おうと思っていたことを口にする。
「あのね、ザキさん。……ありがとう」
「あぁ? 何がだ」
「わたしを、砦に入れてくれたこと。それに、悪いミュータントから砦を守ってくれてること」
まっすぐ見上げてそう言うと、ザキさんはひどく居心地が悪そうに視線を泳がせた。
「……あー、いや。別に、俺は俺の仕事をしてるだけだ」
ガリガリと後頭部を掻く。
沈黙が降りた。
ザキさんは、明らかに小さな女の子との会話の繋ぎ方に困っていた。
私もどうしていいか分からない。
自然と視線が、彼の肩から提げられたアサルトライフルへ落ちた。
「……ん? なんだ。銃が気になるか?」
私の視線に気づいたザキさんが、少しだけほっとしたような顔をした。
たぶん、彼にとって銃は、いちばん馴染み深い会話の道具なのだ。
「お前が持ってきたのと同じ型だからな。……触るか?」
普通なら、八歳くらいの子供に実銃を触らせるなんてあり得ない。
でも、この世界では違う。
身を守る手段として、子供が銃の扱いを覚えることも珍しくないのだろう。
ザキさんは慣れた手つきで弾倉を抜き、薬室に弾が残っていないことを確認してから、肩紐を外して私に差し出した。
「重いぞ」
「うん」
私は小さな両手で、その重たい鉄の塊を受け取った。
ずっしりとした質量。
オイルと硝煙の匂い。
冷たい金属の感触。
その瞬間だった。
チャキッ、と。
私の小さな指が、迷わず安全装置を操作していた。
親指が自然にマガジンキャッチの位置を探る。
ボルトを引いて、薬室を再確認する。
エジェクションポートの中を覗き、汚れの溜まり方を見る。
「お前……」
ザキさんが、目を丸くして私の手元を見つめていた。
きょとんとした顔のまま、手だけが正確に動いていた。
どこを見るべきか。
どこに汚れが溜まるか。
どこが摩耗しやすいか。
頭で考える前に指先が知っている。どこかの誰かの手が私の中にある。
その誰かは、この銃をよく知っていた。
「この潮風だ。すぐにサビが浮く。手入れの仕方も、親父さんに教わったのか?」
「えっ……あ」
ザキさんは腰のポーチから、油の染み込んだ布を取り出し、私に渡してきた。
私はそれを受け取ると無意識のうちに、汚れが溜まりやすい場所を拭き始めていた。
エジェクションポート。
ボルトキャリアの隙間。
レールの内側。
手順が分かる。
力の入れ方も分かる。
これは見よう見まねではない。
「……すげぇな。そりゃあ、完全にプロの手つきだ」
ザキさんの目が感心と、微かな警戒の色を帯びて細められた。
「なぁ。お前にそれを仕込んだ親父さんってのは、一体何者だったんだ? 軍の生き残りか? それとも、どこかの傭兵か?」
「パパは……」
答えようとして、口が止まった。
パパなんていない。
それは、私が砦に入るためにでっち上げた嘘だ。
だから、本当の自分の記憶から答えを探そうとした。
私は、誰だろう。
自分が大人の男だったこと。
壊れる前の東京を知っていること。
銃の扱いを、手が知っていること。
それなのに、自分を証明するための記憶だけが、すっぽり抜け落ちている。
「……おい。どうした? 顔色が悪いぞ」
ザキさんが片眉を上げ、顔を覗き込んできた。
私はハッとして、慌てて銃を返そうとした。
けれど、指先が震えている。
冷たい銃身が、手の中で滑った。
「あっ」
ザキさんが素早く銃を受け取る。
「おい、大丈夫か」
「……パパ、やさしかったの。でも、それ以上は……思い出すと、こわいから……っ」
必死に、子供のトラウマのせいにした。
声が震えた。それは演技ではなかった。
怖かった。
ザキさんを騙していることも。
自分の中にある知らない手つきも。自分が誰だったのか分からないことも。
全部、怖かった。
ザキさんは何か言いかけて、それから口を閉じた。
「……そうか。悪いことを聞いたな」
気まずそうに銃を肩へ掛け直す。
「水、気をつけて持って帰れよ」
「……はい」
ザキさんが背中を向けて歩いていく。
私は水汲み場に取り残され、自分の小さな手のひらをじっと見つめた。
この手は、包帯を巻ける。水をきれいにできる。
アキさんの白衣を掴める。
そして、銃の扱いを知っている。
私は、本当に何なんだろう。
◇ ◇ ◇
水汲み場からの帰り道。
広場の端で遊んでいた子供たちの中から、ナナが私を見つけて駆け寄ってきた。
「ユキ、おかえり!」
「……うん、ただいま」
答えてから、気づいた。
(……“ただいま”って、言った)
昨日まで、この砦は知らない場所だった。
私はここに嘘をついて入り込んだ。
名前もパパの話も、全部あやふやなまま。
それなのに、ナナの「おかえり」に自然と「ただいま」と返してしまった。
その言葉が胸の中にするりと収まる。
受け入れているのか。
諦めているのか。
どちらかは、まだ分からなかった。
でも、ナナはそんな私の内心なんて知らない。
「ユキ、あとで石渡りしよ!」
「足がいたくなかったらね」
「アキ先生みたいなこと言う」
「アキさんが言ってたから……」
ナナはけらけら笑って、リクたちの方へ戻っていった。
私は桶を抱え直し、救護所へ向かう。
ゴンドラの丸い窓が見えた時、胸の奥が少しだけ軽くなった。
◇ ◇ ◇
夕食後。
アキさんに「髪、結んであげよっか」と声をかけられた。
「……じぶんで、できる」
「いいから、座りなさい」
断る間もなく、椅子に座らされる。
アキさんの指が、私の髪をまとめ始めた。
(……慣れちゃった、な)
最初の頃は、確かに戸惑っていた。
いい大人が他人に髪を整えてもらうことへの、あの奇妙な居心地の悪さ。
女の子として当たり前に扱われることへの、落ち着かなさ。
それがいつの間にか、薄くなっている。
「絡まってる。……じっとしてて」
「……うん」
アキさんの指が、毛先をさらりと流す。
次に、根元の方から丁寧に梳いていく。
(……やさしい)
目を閉じたまま、分かってしまった。
見ていないのに、指先の配慮が伝わってくる。
ゆっくりとした速度の理由。
力の抜き方。
引っ張らないように、という意志。
アキさんの手には、「傷つけたくない」という言葉がある。
それを正確に読めてしまう自分の中身は、やっぱり子供ではない。
でも、その手に安心してしまう身体は、たぶんもう八歳の子供だった。
(アキさんの指、やさしい。なんでこんなに、安心するんだろう)
答えは出なかった。
アキさんだから。
今の私には、それ以上の言葉が見つからない。
「……できたわよ」
アキさんが静かに言った。
指先が離れる。
私はそのまま、少しの間、動かなかった。
終わった。
そう思った瞬間、少しだけ寂しかった。
アキさんはもう薬草の鉢に向き直っていた。
背中を向けたままだった。
私は静かに、自分の両手を膝の上に置く。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
鏡はなかった。
でも、アキさんが背中越しに言った。
「……似合ってるわ」
何が、とは言わなかった。
結んだ髪のことかもしれない。水色のワンピースのことかもしれない。
この救護所にちょこんと座っている、今の私のことかもしれない。
(……よかった)
そう思った。
よかった、の中身を確認しようとして、私はやめた。
今は、確認しなくていい。
アキさんは何も思っていないように見えた。
私だけが、小さく息を吐いていた。
次回「秘密の告白」