かぐや様は告らせたい 〜ありもしない噂(うそ)〜 作:おたっきー
四宮家がVIP待遇で利用しているこの病院の特別フロアは、恐ろしいほど静まり返っている。
「階段から落ちた二人でしたが、かぐや様は軽い打撲程度で済みました。重症に見えた白銀会長は、幸い足の骨には異常なく足関節捻挫の診断。ただ、元々の過労と極度の睡眠不足、それに栄養失調。2日間の入院と点滴が必要とのことです」
搬送された白銀会長の処置が終わり、二人の容態の説明を医師から受けた早坂さんから、そう伝達があった。
僕は安堵から、深い深いため息を漏らす。ひとまずは安心だ。
「一時はどうなることかと思いましたよ。学校では冷静だったのに、病院についた途端、『私が会長を殺したぁぁぁぁ!!』って泣き叫んでパニックになってましたからね」
僕が疲労困憊で呟くと、隣に立つ早坂さんは静かに目を伏せた。
「……かぐや様は、ひどくご自分を責めておいでです。……自分が無理な要求をした挙句、階段から足を滑らせそれを庇うように白銀会長が下敷きになった。限界だった会長にトドメを刺してしまったのだと」
早坂さんの視線の先には、少しだけ隙間の開いた特別病室のドアがあった。
その向こうには、点滴の管に繋がれて泥のように眠る白銀会長と、パイプ椅子に座り、彼の手を両手で包み込むようにして俯く四宮副会長の姿がある。
僕と早坂さんは、足音を殺してドアの隙間に近づき、病室の様子をそっと窺った。
薄暗い病室の中、いつもは完璧に整えられている四宮副会長の黒髪は乱れ、制服にはシワが寄っていた。
「……会長。ねぇ、会長……っ」
彼女の口から漏れ出たのは、氷のように冷たくも、令嬢としての威厳に満ちた声でもない。
ただの一人の、恋する少女のひどく掠れた震える声だった。
「……ごめんなさい、会長。……私、本当は分かっていたんです。貴方の噂が全て嘘であることも、貴方の目の下のクマが毎日ひどくなっていることも。フラフラになりながら、それでも私のために必死に弁明しようとしてくれていたことも」
ポロポロと、大粒の涙が白銀会長のシーツを濡らしていく。
「……なのに、私は。自分が傷つくのが怖くて、貴方が別の誰かを選んでしまうありもしない
彼女は、眠る白銀会長の大きな手を、自分の頬へとそっと擦り寄せた。
「貴方はいつだって、泥水をすするように努力して、誰にでも優しくて……私を真っ直ぐに見てくれていたのに。……私は、自分のちっぽけなプライドを守るために、一番大切な貴方を、こんなになるまで追い詰めてしまった……!」
彼女の肩が、激しく上下に震える。
彼女の脳裏には、自分が拒絶の言葉を吐くたびに、傷つき、それでも手を伸ばそうとしてくれた白銀会長のボロボロの顔が焼き付いているのだろう。
「……私、どうしても、人を傷つけてしまう。……自分の臆病さのせいで、大好きな人をこんなに苦しめてしまう。……ごめんなさい。ごめんなさい、会長……っ」
嗚咽に変わりゆく、悲痛な本音の吐露。
それは、学園で恐れられる『氷かぐや』の奥底でずっと泣いていた、誰よりも不器用で、愛されることに怯える少女の、本当の姿だった。
「…………」
僕は、胸の奥をギュッと鷲掴みにされたような痛みを感じて、そっとドアから視線を外した。
「……見ましたか、上澤さん」
早坂さんが、廊下の壁を見つめたまま、静かな声で囁いた。
「あれが、かぐや様の真実の顔です。……あの方は、高すぎるプライドと『四宮の血』に縛られているため、素直に『寂しい』とも『私だけを見て』とも言えない。……相手を試すような残酷なテストでしか、愛情を確かめられない不器用な人なんです」
僕は何も言えず、床を見下す。
白銀会長は、僕の過去や土日の女性達の平穏を守るために沈黙し、一人で「絶倫のクズ」の汚名を被ろうとした。
そして四宮副会長は、そんな会長の優しさが自分以外に向く恐怖から氷の仮面を被り、結果的に自らの手で彼を壊してしまったと絶望している。
誰も悪くない。
誰も嘘を吐いていない。
ただ、互いを大切に想う『不器用な純情』が複雑に絡み合い、この救いようのない地獄を生み出しているのだ。
「……早坂さん」
「なんですか」
「四宮副会長、あんなにボロボロに泣いてるけど……。会長が目を覚ましたら、またあの『氷の仮面』を被っちゃうのかな」
僕の問いに、早坂さんはひどく冷ややかな、けれど確信を持った瞳で頷いた。
「……ええ。会長がもし、この期に及んで自分の弱さを隠して『強がり(男気)』を見せれば……。かぐや様は、自分がすがりついてしまった惨めさを隠すために、さらに強固な『絶対零度の氷』となって会長を拒絶するでしょうね」
「……なるほど。この後、会長が目覚めて『俺の体力は無限だ! 奉仕祭だって余裕で乗り切れる!』などというアピールをすれば、確実に関係はジ・エンドへと直結するというわけか…」
僕は、眼鏡のブリッジを中指でグッと押し上げて続ける。
「早坂さん。……僕は、臨時総務として『二人をサポートする潤滑油になれ』って、四宮副会長から直々に命じられてるんだ」
「……ええ。実家のジャガイモ畑を人質に取られて、ですね」
「うん。……だから僕は、参謀として、あの二人の恋愛頭脳戦と言う名の不毛なすれ違いを終わらせる義務がある。……あの涙を見せられちゃあ、絶対に見て見ぬ振りなんてできない」
僕の言葉に、早坂さんは少しだけ目を丸くし、やがて「ふふっ」と、面白そうなものを見るように口角を上げた。
僕たちは、扉の向こうで静かに泣き続ける少女の背中を背に、最強の裏方として、この泥沼のアンジャッシュをひっくり返すための決意を固めた。
扉の向こうから聞こえていた、四宮副会長の嗚咽。 しかし、ベッドで泥のように眠っていた白銀会長が「ん……」と微かに寝返りを打つ音を立てた瞬間、その泣き声はピタリと止んだ。
「……っ」 ハッと息を呑む気配。
そして、衣服の擦れる音。
四宮副会長が、慌てて涙を拭い、自らの表情筋を固定して強固な『氷の仮面』を被り直したのが、扉の外にいる僕にもはっきりと分かった。
ガラリ、と病室の扉が開く。 そこから出てきたのは、先ほどまで恋する少女のように泣きじゃくっていた姿とは打って変わった、絶対零度の冷気を纏う『氷の姫』だった。
「……早坂、帰りますわよ」
「はい、かぐや様」
四宮副会長は、扉の横で固まっていた僕を一瞥すると、ひどく冷ややかな声で言い放った。
「上澤さん。あとは任せましたわよ。……その『堕落したカリスマ』が目を覚ましたら、せいぜい自業自得だと伝えておきなさい。ここの田沼という者はヤブ医者なので、何かあったらすぐに報告なさい。いいですわね?」
「はい。お気をつけて」そんな言葉を捻り出す事で精一杯だった。
……あのボロボロの涙を見た後じゃ、ただの強がりにしか見えないよ。 氷の令嬢と金髪の近侍が、静かな足音を立てて廊下の奥へと消えていく。
「……はぁ。世話の焼ける人たちだ」
僕は天井を仰いだ。 会長は、僕の過去や無関係な少女の平穏を守るために沈黙し、一人で「絶倫のクズ」の汚名を被ろうとした。
その優しさが、結果的に四宮さんを深く傷つけ、彼自身をここまで追い詰めてしまったのだ。
「……そろそろ、潮時かな」
僕は思考を巡らせる中、鬱陶しくなって外した眼鏡を、自分が座っていたパイプ椅子の座面にコトリと無造作に置いた。
このまま僕が黙っていれば、白銀会長は学園中で破滅し、四宮副会長の心は完全に凍てついてしまう。
参謀として、そして何より、僕のトラウマを守ろうとしてくれたこの不器用な友人との絆のためにも……僕は真実を明かす義務がある。
「……少し、頭を冷やそう」
僕は、顔を洗うために立ち上がり、病室をパタンと後にした。