いつか途切れた、音の続きを   作:いつかの音色

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 後編です。
 よろしくお願いします。



隣立つ貴女の息遣いに聴き入る(後編) Side中川夏紀

 

 

 

「いらっしゃい! ひさめと仲良くしてくれてありがとうね! ささ、上がって上がって!」

 

 雨が降る中ユーフォニアムケースを庇いつつも何とかたどり着いた家で、テンション高めの母親に迎え入れられ、夏紀はひさめの部屋へと招き入れられた。

 

「さ、どうぞ。私のアトリエです」

 

 まず目についたのは中央に置かれたグランドピアノ。そして、電話ボックスのようなサイズ感の何か。

 

「すご……」

「アンタ画家なの? とか言われそうですよね。優子先輩がいたら」

「──今、優子の話はいいでしょ?」

「あっ、ハイ。スミマセン」

「……いや、私も冗談言っただけだから……」

 

 思わず口から出てしまった言葉を誤魔化しつつ、部屋の中を見渡す。女の子らしい、という感じはあまりないかもしれないが、様々な楽器やそのケースが目に付く音楽人の部屋だった。

 

「倉崎さんもギター弾くんだ?」

「趣味程度ですけどね。バンドに急な欠員が出た時はバッチこいです。も、って事は夏紀さんも弾くんですか?」

「うん。ちょっとね」

「弾いてみます?」

 

 そんな軽い様子で、ひさめはエレキギターとアンプを繋ぎ、夏紀に手渡した。

 

「実は1人で弾いてばっかりで、たまには誰かと合わせたいと思ったりもするんですけど、なかなか周りにやってる人がいなくてですね」

 

 そんな事を言いながら、本人は別の場所に保管してあったバイオリンを手に取っていた。

 

「バイオリンまでやってるんだ。さすが、手広いね」

「ユーフォのちょっと前に買ったばっかりだから初心者ですけどね。何か好きな曲ありますか? 合わせてみましょうよ」

「誰かに聞かせるつもりはなかったんだけどなぁ……」

 

 そうして弾いたのは、「魔女の宅急便」より『海の見える街』。バイオリンとギターの二重奏をするなら、エレキギターではなくクラシックギターを使うのだろうが、こうして趣味として演奏する分には構わないだろう。

 

「って、バイオリンも上手過ぎない? まだ何ヶ月も経ってないよね?」

「天才なもので」

 

 普通に大きなコンサートホールで弾いていても違和感のない腕前だった。もちろん、バイオリンに関しては造詣の深くない夏紀の評価であるため、あてにはならないかもしれないが、少なくとも素人から見ればそう感じられるほどのものだった。

 

「ピアノの方が気になります?」

「あ、いや」

「中学に上がった時に買ってくれたんですよ、このグランドピアノ。触ってみます?」

「……いいよ。指紋とか付きそうだし」

「気にし過ぎですってぇ」

 

 そう言って、いつの間にかバイオリンを片付けていたひさめは夏紀の手の中にあったエレキギターを取ってギター掛けに立てた。そして、そのままの足でグランドピアノに歩み寄り、上に掛けてあった布をめくった。

 

「グランドピアノ触った事あります? そっちに電子ピアノもあるんですけど、鍵盤触り比べてみてくださいよ。全然違うんで、感動しますよ」

「そうなんだ……」

 

 さらに、躊躇っている夏紀へ、ひさめはピアノの椅子の左半分に身体を寄せて座り、空いたスペースを手のひらで叩いた。

 ここに座れという意味だろうか。それはさすがに。

 

「さすがにおこがましい」 

「あのぉ……?」

 

 思わず口に出てしまったが、嘘偽らざる本音だった。こうして家にお邪魔している時点で相当だというのに、そこまで行ってしまうと、それは例えばアイドルのファンが、推しが歌い踊っているステージに上がり込むかのような所業だ。さすがに許されない。

 

「はぁ……。夏紀さん、前から思ってましたけど、私の事ちょっと神聖視し過ぎじゃないですか? そりゃ、何年か何十年に1人の天才だっていうのは認めますけど」

「それは当然なんだけど……」

「私は友達みたいな感じで思ってるのに、一歩引かれてるみたいで悲しいですぅ……」

「うっ……」

「悲しいですぅ……この悲しさは横に座ってくれないとなくならないですぅ……」

「うぐぐ……」

 

 おこがましいはおこがましいが、悲しませるのも本意ではない。とはいえ、ピアノの前に座って振り返るその姿には、神秘的なベールが見えるような気がする。隣に座るなんて、そんな至近距離では眩しさで目が潰れてしまうかもしれない。

 

「んー……しょうがないですねぇ」

 

 そんな夏紀に対して、ひさめは180度回転して正面を見据え、そして胸の前で両手を組んで唇を突き出した。

 

「あ〜ん、夏紀さん、ちゅきちゅき〜!」

「ひさめ〜、紅茶とお菓子……あっ、お邪魔しました」

 

 何と反応すれば良いのか。あえて言うなら大惨事だろうか。

 

「コホン……夏紀さん、ちゅきちゅき〜!」

「嘘でしょ!? 続けるの!?」

 

 母親に見られて気まずくなるどころか、何事もなかったかのように続ける様子に、耐えきれず夏紀はツッコんだ。そして、このカオスな状況、何よりそのマヌケな姿勢。無性に笑いがこみ上げてきた。

 

「アッハッハ!」

「ちゅきちゅき、ちゅっちゅ〜」

「ハッハッブフッ、ゴホッゴホッ……」

 

 思わず咳き込んでしまい、身体を何とか落ち着かせる。そして、改めて見ると、ドヤ顔のひさめが椅子をトントンと叩いていた。

 

「うん。そうだね。なんか、うん。一旦棚上げしようかな」

 

 吹っ切れた夏紀は、一旦諸々全部を棚上げする事にし、誘われるままひさめの隣に座った。

 

「やっと効きましたね、私のちゅきちゅき大作戦が」

「念の為に聞いておくけど、他のところでやってないよね?」

「やったのは初めてです。でも、有用性が証明されたのでそのうち……」

「他のところでやるのはやめよっか?」

「え〜?」

「やめよっか?」

「アッ、ハイ」

 

 と、会話しつつも夏紀の視線は白と黒の鍵盤に固定されていた。肩と肩が触れ合いそうな、横を向けば息が掛かる距離だ。

 

「ところでなんですけど。夏紀さん、何か弾ける曲ありますか?」

「いやいや、私が弾けると思う?」

「昔鍵盤ハーモニカとかやったじゃないですか。ああいうのでも良いですよ」

「『かえるの歌』とか『きらきら星』なら弾けるかもだけど……片手だけ」

 

 確かに小学校時代に鍵盤ハーモニカはやった事がある。ただ、その時にやったような子供のお遊びのようなものをグランドピアノでやるのは少し気が引けた。

 

「連弾しましょ、連弾。『きらきら星』で。適当に弾いてくれたら合わせるんで」

「指紋付きそう……」

「まだ言ってるんですか……そんなに気になるなら後で拭いたら良いだけですって。はい、ここがドの音ですから」

「うひっ!?」

 

 人差し指を触られ、そのまま真ん中のドの位置まで運ばれる。突然の事に変な声が出てしまい、耳の辺りに熱が集まっているような気がするが、ここまで来てしまっては逃げられない。

 

「い、いい?」

「いつでも。それか、前奏もつけましょうか?」

「じゃあ、お願い」

 

 そうして奏でられる、『きらきら星』。誰でも出来る曲だと、侮る事は出来ない。実際、夏紀の指遣いは素人も素人であったが、そこにプロ顔負けの伴奏が加わればそれっぽくなった。

 

「どうです? ピアノ良いでしょう?」

「うん……いいね」

「いやぁ、一回同じように晴香さんもピアノの道に引きずり込もうとしたんですけど、向いてないって断られてちゃいまして。来年私も北宇治に行くので文化祭とかで連弾披露しません?」

「ごめんそれだけは絶対に無理」

「なぜに……」

 

 こうして個人的にやる分にはまだ構わないが、さすがに公衆の面前でやるのは断固として拒否させてもらう。さすがに。

 

「むー……せっかくなんで何か聞きたい曲とかあります?」

「じゃあ……エチュードOp(オーピー).25-6」

「25-6……ショパンですか? 結構マニアックなところ行きますね。ショパンのエチュードなら『革命』とか『木枯らし』とかが有名どころですけど……あっ、もしかして!」

 

 夏紀はクラシックの曲に明るいという訳ではない。知っている曲といえば、誰でも知っているような超有名曲ぐらいだ。それと、ひさめがコンクールなどで披露した曲。

 

「もしかして、もしかしてぇ」

 

 今挙げた曲は後者。25-6とは言ったが、1から24にどんな曲があるかなんて分からないし、『革命』や『木枯らし』が何番なのか、そもそもそれに数字はついているのか、全然知らない。

 

「私が弾いた曲だから、ですか〜?」

「……うん」

 

 そう、今挙げた曲は少し前にひさめが海外のコンクールで披露したものだ。予めどのコンクールに出るかは聞いていたため、調べれば結果やそれに付随する色々な情報も分かる。

 

「南中にいた時から贔屓にしてくれてたんですもんね?」

「ちょっと待って。誰かから何か聞いた?」

「希美先輩から色々と」

「希美……!」

 

 何か不都合な事を暴露されていないかと高速で頭を回転させる。実際、これまでのひさめに関する事の夏紀の振る舞いというか、ネットで調べていた事まで知られたらストーカーと思われて色々と終わる自信があった。

 希美とは北宇治に進学してからも話す事が多かった。『きたみなみ公園オクテット』として集まるようになってからは、ひさめの事に関しても。希美は夏紀がそのピアノに対して良いようにいえば好ましく思っている事を知っている。まだ、そのピアノが好きらしいと、その程度なら問題はない。ただ、希美はどこまで知っていただろうか。

 希美の前では、というより誰の前でも迂闊な事を言った記憶はない。強いていえば、「見て見て! 調べたらいっぱいすごい結果出てくるよ!」などと希美が言ってきたタイミングで「後で見てみようかな」なんてアリバイ作りというか、万が一の言い訳作りのようなものはした事がある。当然、それよりも前から色々と調べたりはしていたが。

 

「この前のコンクールの映像あるんですけど、見ます?」

「……それは、すごく見たい……!」

「コンクールとかって大体家族親戚総出なので映像いっぱい残ってるんですよ。初めてコンクールに出た時のやつとかもありますけど、見ます?」

「それも、すごく見たい……!」

 

 一体何をどこまで知られているかを聞き出したいところではあったが、それよりも見たい欲が勝った。

 

 ▼△▼△▼△

 

「ほんと、ごめん。まさか夜ご飯までご馳走になるとは思ってなくて」

「いえいえ、全部見ようと思ったら結構時間かかりますから。私は弾いてるところ見られるのは好きな方ですし、両親も自慢出来てwin-winだったと思いますよ」

 

 順位を付けるコンクールではなく、ピアノ教室の発表会から、残っている映像を片っ端から見ているとかなりの時間が掛かった。途中からはリビングの大きな画面で見た方が良いという話になり、そこにひさめの母親が加わり、さらに仕事から帰った父親までも加わってヒートアップしていった。最終的に夜ご飯までもお世話になる事になり、かなり遅い時間になってしまった。

 

「せっかくですから、私のピアノが大好きな夏紀さんにお土産です」

 

 ひさめの部屋で帰る用意をしていたところで、夏紀へ2枚のCDが差し出された。

 

「これは?」

「倉崎ひさめのエチュード集です。実は思い付いたものを曲にしててですね。今のところエチュードだけでもNo.9まであるんですよ」

「自分で作曲したんだ……」

「クラシック風味の曲です。よかったら後で感想聞かせてください。ナンバーしか付けてないんで、カッコいい題名が思い付いたらつけてくれて良いですよ」

「いやいやいや……」

「『木枯らし』とかそういう題名も別の人がつけたらしいですよ」

「いやいやいやいや……」

 

 ここまで来ると、自分で作曲したと聞いてもそこまで驚きが大きくない事に、夏紀は呆れるやらなんやらで不思議な感覚になった。夏紀としては、それよりも題名をつけさせられそうになっている事の方が大事だった。さすがにそんな大役を務める事は出来ない。

 

Op.(オーパス)じゃなくてNo.(ナンバー)なんだね」

 

 ひとまずは話を逸らす事にした。ちなみにではあるが、最初夏紀はOp.の表示をそのままオーピーと読んでいたが、ひさめの過去の映像を見る流れでどうやらオーパスと読むらしい事が分かったので、脳内辞書をこっそり修正した。

 

「あれって出版された順番でつけられるらしいんで、楽譜としてちゃんと出したらつけられるかもですね」

「そうなんだ。うん。じゃあ、聞いてまた感想言うよ」

「気に入ったらノクターンとか他の種類もあるので、言ってくれたら用意しますね」

「楽しみにしてる」

 

 と、半ば強引に会話を切り上げつつ、題名の話を有耶無耶にする。

 話し続けようとすると、いくらでも続いてしまう。しかし、もう夜も良い時間で、居座る時間が増えれば増えるほど迷惑になってしまう。もちろんそんな事は表面に出さないだろうし、なんなら自惚れでなければ本気でもっと居座る事を歓迎してくる可能性もあるが、これ以上は掛ける迷惑の許容量を超えてしまう。

 

「またいつでも来てね! また語り合いましょう!」

「これからもうちの娘と仲良くしてくれると助かるよ」

 

 そんな風にひさめの両親には玄関で快く見送ってもらい、玄関を出て少しだけ話した後、解散した。

 

 ▼△▼△▼△

 

「何聞いてるの? また過激なやつ?」

「真逆。ピアノの曲」

 

 部活動もオクテットの練習もない休日。とあるきっかけから夏紀と優子はギターを教える、教えられる立場として共にギターの練習をしていた。正確には、練習のための準備をしていた。

 

「クラシック系のやつ?」

「まぁ、そう」

「アンタそういう系興味あったっけ」

「興味自体はね」

 

 あの日貰ったCDを、夏紀はすかさずスマホに取り込み、通学時に聴くBGMにしていた。それだけでなく、楽器を練習する際、事前に聴くと心が落ち着いてなんとなく練習効率が上がるような気すらしていた。

 

「ふーん、私にも聞かせてよ」

「えー」

「何よ、前のは普通に聞かせてくれたのに。もしかして変なの聞いてるんじゃないでしょうね」

「変なのじゃないし」

 

 とは言ったものの。というか言ってしまってから気付いたが、素直に聴かせて良いものか。

 貰ったCDの曲を聴いているだけだ。勝手に録音したとかなら相当にヤバい行動だが、貰ったCDを聴いているだけなら問題ないだろうか。聴かせずに変なものを聴いていると思われても困るといえば困る。渋々ではあるが、優子に聴かせる事にした。

 

「ホントにクラシックじゃない。なんて曲?」

「曲名はまだない」

「まだないぃ〜? 意味わかんないんだけど。じゃあ作曲誰よ。ベートーヴェンとか?」

「……倉崎さん」

「はぁ?」

「……正確に言うと、『倉崎ひさめのクラシック風味曲集 エチュードNo.5』」

 

 ここまできたら全部教えてやろうと。あるいは共犯者に仕立て上げるように。

 

「…………」

「なに、その顔」

 

 しかし、反応の代わりに返ってきたのは、優子のなんとも言えない顔。困っている、とまでは言い切れないが、かといって頭が痛いという感じでもない。言った内容的に呆れられるか、あるいは引かれるかという反応は予想出来た。だが、その顔はそれらすべてにプラスアルファを混ぜたような表情。

 

「帰り道同じ方だから結構仲良くしてるっていうのは知ってたけど……アンタ、あの子に手出してたりしないでしょうね? この前お家デートしたとか聞いたけど」

「デー……!? 嘘でしょ……!?」

「なんか、最近妙に距離感近いような気がするのよね……中学生に手を出す高校生とか最悪なんだけど」

「は、はぁ!? 出してる訳ないでしょ!! 馬鹿じゃないの!?」

 

 まさか知られているとは思わなかった。

 コソ練って言ってなかったっけ!? と心の中で絶叫する。確かに内緒とは言っていなかったかもしれないが、それにしてもだ。というか、そもそもお家デートなんて、ダメだろう。色々と。流石に。

 

 誓って変な事はしていないが。

 優子の誤解を解くには、かなりの労力を要した。

 

 ▼△▼△▼△

 

 あっという間にアンサンブルコンテストの当日となった。

 本当に一緒に出ても良いのか、なんて悩みは既に投げやった。ただ全力で吹くだけだ。

 そう、思っている。思ってはいるのだ。しかし、行き道から徐々に心拍数を上げていった心臓は、会場に着いた頃には爆音カーニバルを開催していた。

 

「ちょっと、アンタ大丈夫……?」

「大丈夫じゃないかも……心臓破裂しそう……手もヤバい」

「震えてるじゃないの。もう……ちょっとこの子に外の空気吸わせてくるわ」

 

 そう、ひさめに断りを入れた優子に連れられ、会場の外。

 

「意外ね。アンタこういうの、ふーんって感じで何食わぬ顔でやりそうなのに」

「私もそう思ってたよ……ほんと、どうしよ……このままじゃ」

「落ち着きなさいよ。らしくない」

 

 らしくないなんて事は自分が一番よく分かっている。ただ、それが分かったところで心臓はまったく言う事を聞いてくれない。今、このままの状態で舞台に上がってしまえば、最初の一音で大惨事になる事は簡単に予想出来た。

 

「緊張を和らげるのは温かい飲み物が良いんだって。何か買ってきてあげるから、何かリラックス出来る音楽でも聞いときなさい。クラシックも良いらしいわ。倉崎の、なんかあったでしょ。それでも良いわ、たぶん」

 

 いつもならきっとからかってくるのに、今日の優子はいっそ不気味なくらい優しい。今だって、ベンチに並んで座りながら背中をさすってくれて、空いた方の手で調べてくれていた。

 自分にも理解出来ない状況で、その優しさに頼り切りになるしかない。これは後で散々ネタにされるな、なんて冷静を装って心の中で呟いてみても、やっぱり身体は言う事を聞かないまま。

 離れていく優子の背中を眺め、それが見えなくなった視界をそのまま上へ。雲一つない晴天とはいかず、およそ半分ぐらいが雲に覆われている青空。

 

「うひゃあっ!?」

 

 突然、背中に鋭く冷たい刺激が走った。

 

「え、な、なに!?」

「あっ、ごめんなさい! 首に当てようとしたら滑っちゃって」

 

 腰の辺りに留まる冷たい異物を、インしていた肌着を引っ張り出して外に出す。その異物の正体は、透明なプラスチックというかビニールというか、そういう入れ物に入ったシャーベットのようなアイスだった。

 

「ちょっとビックリさせようと思って……しゃっくりとかも驚いたら止まるって言いますし」

「ビックリした……緊張とかの前に心臓止まるかと思ったよ」

「ごめんなさい。ところで優子先輩は夏紀さんを放ってどこに行ったんですかね?」

「飲み物を買いに行ってくれてるんだ」

「へー、優しいですね。珍しく」

「だよね……」

「あ、そのアイス食べてくださいね?」

 

 もはやアイスを奢らせているなんて事を気にする余裕もなかった。せっかく貰ったものだから、口を開けて咥える。喉を通って胃に落ちていく冷たい感覚が、なんとなく身体を冷やしてくれるようで、少しだけ落ち着いてきたような気がしないでもなかった。

 

「ゴミは捨てときますね。じゃあ、立ってみてください」

 

 突然促され、言われるがままに立ち上がる。

 

「それでは、どうぞ」

 

 なんて、両手を広げた状態でそんな事を言いながら。じっと、そこから動かない。

 

「えっと……」

「大好きのハグ」

「はい!?」

 

 一体、何と言ったのか。聞き間違いだろう。きっと。たぶん。絶対。

 なんて現実逃避しかけるが、依然として両手を広げたまま。

 

「大好きのハグですよ。ほら、南中で流行ってたでしょう?」

 

 聞き間違いではなかったらしい。

 流行っていただろうか。流行ってたような気もするし、流行っていなかったような気もする。ただ一つ確かなのは、自分にはそんな事をする相手はいなかったということ。

 

「どうだったかな……私はやった事ないかも」

「じゃあ、初めてですね」

「……誰とでもそんな事してるの?」

「ずっと前につむぎ先輩とやったぐらいです。知ってます? 石山つむぎ先輩」

 

 こういう聞き方をするという事は、恐らく南中の生徒だったのだろう。吹奏楽部に所属していたのかもしれない。しかし、その名前には聞き覚えがなかった。

 

「うーん、知らないかな」

 

 ただ、構わない。一人ぐらいなら。

 これが知らないところでやりまくっているというなら止めなければならなかったが、その心配はなさそうだった。

 

「まぁ、そんな事はおいといてですね。来てくれないなら私の方からいきますよ!」

 

 反応する間もなく、抱き締められる。

 季節は冬。服は分厚く、肌と肌が触れ合って温かさを感じる事は出来ない。しかし、コートの上からでもなぜか包み込まれる柔らかさは感じられた。

 脇の下から両手を入れられ、鼻に髪が当たる。ふんわりと良い匂いがした。

 

 自由な両手をどうするべきか。

 一瞬だけ迷って、自分も同じように細い腰へと両腕を回した。うっかり力を込めれば折れてしまいそうなその腰に意識がいくほど自然と身体が密着していく。

 

「ちょっとは落ち着きました?」

「うん」

「もうちょっとこうしときます?」

「うん……」

「このまま相手の好きなところを言うんですよ。まぁ、ちゅきちゅき作戦をやった仲の私たちには余裕ですね」

「そうだね」

「あれっ、とめない感じですか?」

「うん……聞きたいかも。私の好きなところ。私はいくらでも言えるよ。倉崎さんの好きなところ」

「なるほど、そういう感じですか……いいですよ、受けて立ちます」

 

 少し調子に乗った自覚はあった。

 そのせいで戻ってきた優子には公衆の面前で云々と説教もされてしまった。ただ、おかげで別の意味で高ぶった精神を落ち着ける事は出来た。

 

 そして、本番。

 いつか夢見た、何かを成せる人間に。なれただろうか。

 分からない。けれど、一つ言える事は。

 

 光も、熱も。隣から聞こえてくる息遣いも。

 共に立った舞台を、中川夏紀は決して忘れない。

 

 ▼△▼△▼△

 

 ──倉崎ひさめは特別だ

 

 あの日見た瞳も、あの日聞いたピアノも、共に過ごした日々も、全部特別で大好きだ。

 

 

 





 ○中川夏紀
 この作品で恐らく最も良い空気を吸っている人。中学時代から脳を焼かれまくっている。
 普段は平静を装っているが、急に接近されたり二人きりになったりすると、挙動不審になったり逆に大胆にスキンシップし返したりし始める。
 なお、割と真面目に優子からは色んな意味で心配されている。

 主人公の個人レッスンにより、原作の同時点に比べて大幅に実力が上がっている。

 ○倉崎ひさめ
 一つ年上ではあるし敬語は使っているが、夏紀は先輩後輩関係のない同志という感覚が近い。距離が近いのはそのせい。
 音楽関係は教える方向も才能がぶっ飛んでいるので、直接指導した形になる他のオクテットのメンバーも原作の同時点に比べて夏紀ほどの上がり幅ではないものの実力は上がっている。
 
 
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