いつか途切れた、音の続きを 作:いつかの音色
今回も他のキャラクターに焦点を当てたお話です。麗奈が原作と少し違う理由が明らかになります。
次回から主人公視点に戻るのでもう少しだけお付き合いください。
前回の夏紀先輩視点と違って暗めのお話なので注意です。
どうやら、世界にはいくら努力しても届かない天才というものがいるらしい。
そんな事を高坂麗奈が学んだのは、まだ小学生の頃だった。
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この世に不可能などない。努力すればなんとかなる。
そんな想いを胸にピアノのコンクールに挑んだ麗奈だが、常に勝ち続けていたかといえば、そうではなかった。ただ、負けたのは練習が足りなかったからで、今度からは今まで以上に練習して、練習して、練習を重ねれば今度は負けないと、そう思っていた。事実、今までだってそうしてリベンジを果たしてきた。
しかし。
たまたま近くにいただけで、世界には一握りの天才と呼ばれる奏者がいる。どうやっても勝てない天才はいる。
だから、気を落とす事はないと。
結果は2位。数字だけを見れば、1位とはたったの1つの違いでしかない。ただ、その数字以上に存在する、いっそ絶望的とまで感じてしまうような差。まるで自分が積み重ねてきたものがおままごとであると突き付けられたような、そんな風に錯覚してしまうほどに隔絶したその差。
それを知ったのは、小学生4年生で出たコンクール。日々の努力が実り、ようやく挑戦した少し大きなコンクールでの一幕だった。
父の言葉を、麗奈は信じられなかった。信じたくなかった。
世界中でトランペット奏者として活躍している父を、麗奈は世界一の奏者だと尊敬していた。そんな父が、追いつこうとする事すら諦めるような相手が存在するなんて、そんな事は認められなかった。
必ず追いつけるはずだ。今は負けていても、今まで以上に努力をすれば。
朝起きてから朝ご飯を食べるまで。朝ご飯を食べてから学校へ行く用意をし、それから家を出るまで。学校が終わったら一目散に帰宅し、レッスンがあればそこまで、レッスンがなければ夜ご飯を食べるまで。夜ご飯を食べてからベッドに入るまで。使える時間は全てピアノにつぎ込んだ。バイオリンなど他の楽器は本当に必要最小限で、これ以上はないというほど、ピアノに打ち込んだ。
再び相見える事になったのは、翌年小学生5年生になってからだった。前回とは違うコンクール。父に頼み込んで、本当はいけない事なのかもしれないが、彼女が出る可能性が高いコンクールを調べてもらい、そこに合わせた形だった。
前回のコンクール以来、常にピアノに打ち込み、さらにこの数ヶ月はこのコンクールだけに狙いを定めて練習を重ねたのだ。今回こそは。
渾身の出来栄えだった。1つのミスもない、緊張さえ糧にした素晴らしい表現が出来た。そのはずだった。
しかし、届かなかった。
圧倒的だった。
前回に比べて随分と上達した。したがゆえに、より分かってしまった。より鮮烈に、より明快に。あるいは前回よりもその差が大きいと錯覚してしまうほどに。
違う。そんなはずはない。ただ、自分の努力が足りなかっただけ。次は。もっと頑張れば次はきっと。
虚勢を張るように、そう自分に言い聞かせた。言い聞かせ続けて、ピアノを弾き続けた。不意に脳裏に浮かぶ影を振り払いながら、あの時の音を上回れるようにと。
そして、そう長い時間が経たない内に、何かが崩れた音がした。
ある日の事だった。
鍵盤に置いた指がわずかに震えた。ただそれだけ。
「なん、で……!」
上手く弾けなくなった。
指が、まるで自分のものではないような。指だけではない。手のひら全体が、前腕が、肘が、肩が。
「動いて……! 動け……!!」
しかし、言う事を聞かない身体。
その日を境に、高坂麗奈はピアノを辞めた。
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ピアノが弾けなくなったあの状態は、まるでスポーツ選手などに聞くPTSDのようだと父は言った。しかし、病院へ連れて行こうとする両親のその行動には、頑として従えなかった。
PTSD。心的外傷後ストレス障害。もしも本当に自分がそうなら、まるで負けたのがよほどショックだったようではないか。そんな事、認められなかった。
確定してしまえば、彼女との間にある溝がより鮮明なものになってしまうようで。真実から逃げ出しているような自分の現状からは、目を逸らした。
一度ピアノから距離を置くのも良いかもしれない。
父はそう言った。
逃げ出した事を庇われているようで、胸の奥がチクリと痛んだ。
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ピアノから距離を置いてからというもの、その代わりにするようにトランペットに打ち込んだ。元より父が生業としている楽器。それまでも練習はしていたが、ピアノに強く意識を向けるあまりに少し疎かになっていた。それを取り戻すように、打ち込んだ。
ピアノとトランペットは、同じ楽器という大きなカテゴリーには属するが、その実態はまるで別物だ。ピアノから離れた事で、より新鮮な気持ちで練習に没頭出来た。
さすがに彼女がトランペットをやるなんて事はないだろう。無意識に思い浮かんでしまう、そんな言葉を全力でかき消して。
中学校に進学し、選んだ部活動は吹奏楽部。トランペットを活かせる場所として、当然の選択だった。
そこには、最上級生であっても自分に勝るどころか、肩を並べるほどの実力者もいなかった。安堵してしまった自分に、嫌気が差した。
そんな醜い内面を覆い隠すように、家の外では優等生を演じた。
身嗜みは完璧に。学業も完璧に。トランペットの腕はもちろん完璧に。全てが完璧に出来るように。
あんなものは幻覚だと、小学生の頃の記憶に蓋をするように。
その甲斐もあって、中学一年生、夏に差し掛かる頃には不意に当時の記憶がフラッシュバックする事も随分と減っていた。
そうして挑んだ一年目の吹奏楽コンクール。オーディションでコンクールメンバーを選ぶ形式で、実力で選ぶならば選ばれないはずもなかった。一年生であろうと関係ない。
大吉山北中学校吹奏楽部の出番に遅れないように楽器を搬入する。その瞬間だった。
「────ッ」
全身が強張ったのを感じた。
一房の白いメッシュが入った黒い髪の少女。髪の内側には白い色が見えていた。
見間違えるはずもない。倉崎ひさめ。どうやっても勝てなかった、至上のピアニスト。
そう、ピアニストだ。それが、どうして。
どうしてトランペットを持っている?
見間違えるはずもない。その手にあったのは、トランペットのケース。
背中に嫌なものが流れる。
まさか。まさか。まさか。
そんなはずはない。だって、おかしい。あんなにも才能があって、きっと将来が約束されたピアニストが。なんで、トランペットに。
「どうしたの、高坂さん?」
自分がトランペットをしているから。そんな理由で彼女がトランペットを始めたなんてあり得ない。だって、彼女の視界には自分なんて映っていない。眼中にない。同じコンクールに出ていた事すら、知っているかどうか分からない。
むしろ、覚えてくれていない方が良い。もしも覚えられていて、ピアノの話題なんて振られでもしたら、まともな受け答えが出来る自信がない。
こうしてその姿が視界に入っただけでこの有り様なのだから。
「うわぁ、スゴい髪……高坂さん知り合い? ……高坂さん?」
「別に」
速足で逃げるようにその場を立ち去る。
ただ無心で楽器の搬入に集中した。しかし、胸のざわつきはいつまで経っても収まる事がなかった。
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お手洗いの鏡。情けない顔が反射する。
顔を洗えば落ち着くかと思ったが、そうも単純ではなかったらしい。余計に顔が崩れただけだった。
「あの、高坂さん……大丈夫?」
鏡越しに、その姿が見える。
黄前久美子。同じ吹奏楽部に所属する、ユーフォニアムを担当する同級生。先ほども声を掛けてきたが、あまり接点がある訳ではなかった。
「なんでついてきたの」
「なんか、普段と違う感じだったから……ごめん」
純粋に心配してくれたのだろう。それなのに、刺々しい態度しか取れない自分にも嫌気が差す。
こんな様子で、コンクールで万全の演奏が出来るはずがない。実力で選ばれた以上、実力が発揮出来なければそこにいる意味がないのに。
「黄前さん」
「は、はい!?」
「私のこと、殴って」
「はいっ…………は、はい!? ど、ど、どういう意味!?」
ごちゃごちゃと、変にものを考えるからいけないのだ。一度頭を真っ白に戻さなければならない。
「一回、頭をリセットしたいから」
「ますます意味わからないんだけど!?」
顔を洗うぐらいではリセット出来なかった。だから、もっと強い衝撃を与えなければ。
戸惑っているその手を掴み、自身の頬の近くまで持ってくる。
後から考えてみれば、もっとやりようはあったように思う。ただ、その時はそれしか思いつかなかったし、出番の時間も迫ってきていた。
悪いのは、トランペットでも敵わないのではないか、なんてネガティブな事を考えてしまうこの頭。まだ見てもいないのに、上手も下手も知りようがない。否、いずれにしろ、トランペットでも負けるなんて事はあり得ない。あり得て良いはずがない。
特別になりたい。
トランペットだけは取らせない。
自信をもってそう言えないのは、心が弱かったから。
「お願い、黄前さん!」
長年付き合ってきた自分自信の心だ。そんな簡単にどうにか出来るとも思っていない。
ただ、今だけは。
コンクールのその瞬間まで腑抜けている事など、高坂麗奈は許せないから。
ぺちん。
遠慮に遠慮を重ねたように、その手が頬に触れた。
「そんなんじゃダメ。もっと!」
触れただけだ。全然なにも変わっていない。
「そ、そんな事言ったって……」
「お願い! 後でジュース奢るから!」
ペチン。
ほんの少しだけ、強くなったような気はしたが、やっぱり変わっていないのと同じ。
「もっと!」
「怪我しちゃうよ……?」
「してもいいから!」
「私が良くない……!」
「やってくれないなら、ある事ない事言いふらすから!」
それから少しの押し問答の末、赤い紅葉が残るほどのキツい一発を貰い、頭をリセットする事が出来た。
本番にも万全の状態で挑む事が出来た。
その後で南中学校、彼女が所属する学校の演奏も聞いた。彼女の楽器はトランペットではなくクラリネットだった。あの時は他のメンバーの楽器を一時的に持っていただけだったのだろう。なんとも間の抜けた話だった。
その腕前は、きっとその大会の誰よりも上手かった。全国のレベルで比べても劣る事はないだろう。
でも、クラリネットだから。トランペットじゃないから。
再び浮き上がってくるそんな弱い心を叩き直すために、会場からの帰り途中、もう片方の頬にも紅葉を貰った。
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「久美子、一発お願い」
「今回はどうしたの?」
「夢に出てきたから」
「せめて本人に何か言われたとかのレベルにしない……?」
「夢に出てくるって事は、無意識のうちに負けを認めてるって事だから。認めてないけど」
「最近変な噂立ってるんだけど、知ってる? 今だって人がいないところに連れ込んでるみたいな……」
「そんなの、気にしなければ良いじゃない」
「もうやだ、この人……」
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中学の3年間を終えて、北宇治高校へと進学した。
様々な推薦を蹴って北宇治高校を選んだのは、とある人物が着任してくるという情報を掴んだからだが、それはそれとして、3年間でかなり親しくなった黄前久美子も同じ高校へ進学するという事についても喜びがあった。
当人は何か言いたげな様子だったが、きっと唯一セーラー服を採用しているからと選んだのが恥ずかしかったとか、そういう理由だろう。恥ずかしいなら、そんな理由言わなければ良いのに。
トランペットはもちろんのこと、勉強も手を抜かなかった。その甲斐もあって主席としての入学となり、順調なスタートだった。
教室の席に座る、その時までは。
こうさか、くらさき。確かに、同じクラスになれば50音順で前後の席にもなるだろう。
けれど、どんな確率だ。別々の中学校から示し合わせる事なく同じ高校に進み、そして同じクラスになるなんて。
どうして。どうして。どうして。
胸を押さえたくなるほど、鼓動が早くなる。呼吸が浅く、早くなる。
もう夢に出てくる事もほとんどなくなったのに、不意に蘇る。あの時の、無様な自分。
あの時とは違う。変わったのだ。あんな弱い自分なんて、もういないはずなのに。
「これから3年間、よろしくね。私、倉崎ひさめ。趣味でピアノとか弾いたりしててね、この髪ピアノの鍵盤をイメージしてるんだ。あ、倉崎でも、ひさめでも、好きな方で呼んで?」
面と向かって話し掛けられるのは初めてだった。
こんなに接近したのはいつかのピアノコンクール、その表彰式以来。その時だって会話はしなかった。向こうからもちろん、こちらからも話し掛けたりしなかった。出来なかった。
こちらの事などまるで眼中にないというような、あの目。目が合っているはずなのに目が合っていないと錯覚してしまうような。積極的に話し掛ける理由などなかったが、仮にあったとしても尻込みしてしまいそうだった。
随分と、印象が違う。
「……よろしく」
なんとか、言葉を絞り出す。
向こうが覚えていないなら、それで良い。
どのクラスになったのかすら、まだ分かっていないというのに、久美子のところに向かいそうになる身体を抑える。
逃げたりなんてしない。
だって、もうあの時とは違うのだから。
依然として、心臓の音はうるさい。
周囲の音など何も入ってこなかった。
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なんとか自分自身を落ち着かせ、彼女を誘って吹奏楽部がいる音楽室を目指す。中学2年生、3年生の時代は吹奏楽部コンクールに出ていなかったが、入るならば吹奏楽部だろう。
どうせ後で一緒になるなら、早いうちに慣れておく方が良いはずだ。
不自然ではないように話題を捻り出し、雑談をしながら音楽室へ向かう。途中、いっしょにやりたい人がいると言われた時は、心臓が止まるかと思ってしまった。
この高校に、わざわざ進学するほどの理由は思い付かなかった。となれば、自分と同じ理由。あり得ない話ではなかった。
結果的に勘違いではあったようだが、心の中は大きく揺さぶられてしまった。
音楽室に到着し、入部届けを書いてから、すぐに逃げるようにその場を後にした。
そして、音楽室から出て少ししたところで立ち止まる。
「あれ? さっきの……」
「久美子の友だちじゃなかった?」
「え? あぁ〜、嫌な予感……」
同じように音楽室から出てきた久美子。その腕を掴む。
「お願い」
「嘘でしょ、ここで……?」
「体育館裏とかでいいから。ごめん、この子借りる」
恐らく高校でできた新しい友だち。その2人を置き去りにするように、久美子の腕を引いた。
「うわぁ……やっぱりこうなると思った……」
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仮入部期間が終わり、本格的に部活動が始まる。
最初の合奏。滝先生は当たり前の事を指摘して、そしてそれが気に食わなかった上級生が練習をボイコットした。
くだらない。本当に、くだらない。
同じ凡人のくせに、そんな事をしている暇なんてないという事に気付いていない。滝先生は凄い人だ。滝先生ならきっと、本来なら一生埋められないような天才と凡人の差を埋めてくれる。
限界まで努力するのは前提。認めたくない、それでも天才に届かないのは分かっている。たとえ届かないとしても、その差を縮められるのは、優秀な指導者。
その教えを受けられるチャンスを自ら棒に振ろうとするなんて、愚か以外の何物でもない。
ひとり、運動場を見下ろしながらトランペットを吹く。
自分には、トランペットしかない。
かつて、ピアノから逃げた。もう二度と、逃げる事なんて許されない。許さない。許すつもりはない。
トランペットだけは、絶対に。
対抗するように聞こえてきたトランペットの音色が、自分のものよりも。たとえ、彼女のトランペットが自分よりも■■だったとしても。
トランペットを胸に抱き締めながら、自身に言い聞かせる。
高坂麗奈には、トランペットしかないのだから。
○高坂麗奈
現状この作品で恐らく最も主人公からの被害を受けている人。主人公の無自覚才能暴力により、洒落にならないレベルのトラウマを刻み込まれた。最後に聞こえてきたのは『必殺仕事人』。既にある程度トランペットパートの実力は分かっていたので、一発で主人公のものだと気付いた。
自分の事を凡人だと思っている。
音大に行くためにはピアノが弾けなければならないので、しばらくの間距離を置いて、頑張って少しずつ練習を再開した。今では主人公に勝とうと考えなければ弾けるようにはなった。
楽器に関して麗奈の中で格付けが完了してしまっているため、主人公に対して楽器の事では何も言えない。
○黄前久美子
主人公の無自覚災害の余波に巻き込まれた。
○倉崎ひさめ
麗奈が同じコンクールにいた事など全く覚えていない。その時期は自分が楽しく弾ければ何でも良かったので、他の奏者の事など眼中に入っていなかった。