いつか途切れた、音の続きを 作:いつかの音色
「あ、ごめんなさい。綺麗な音が聞こえてくると思って」
曲が終わり、依然として風が緑を揺らす中、柔らかく穏やかで、そして透明感のある声が鼓膜を揺らした。
口を開こうとして、何も声が出なかった。
人見知りをするタイプではない。初対面であろうとも、話し掛けるのに躊躇う事はない。けれど、声が出なかった。
クラリネットの音色を聞かれる事には慣れている。でも、泣いているところを他人に見られた事はない。こんなにも沈んだ気持ちのまま、他人と相見えた事はない。泣いているところを見られた恥ずかしさがあるのか、あるいは重い気持ちに引きずられるように唇が持ち上がらないのか、分からない。
「えっと、お邪魔してごめんなさい」
そう言って、目の前の存在は身体を翻す。
きっと、偶然聞こえてきた音の出どころが気になって見に来たものの、それを奏でていた私が暗い表情で泣いていたものだから、面倒事に関わらないうちに去ろうとしているのだ。下手に知らない泣いている女に声をかけて逆ギレでもされたら。十分に予測出来る未来だった。むしろ、一言二言だけでも言葉をかけてくれた分、向き合ってくれていると、そう考えるべきだった。
あるいは単純に音は聞きたくても人と話したい訳ではない人見知りかもしれない。もしそうだったら、ちょうど良いところで終わってしまって申し訳ないと思う。
ただ、さっき感じた新たな曲の始まり。
今、何もしなければ、始まらないまま終わってしまう。そんな予感があった。
引き止める。何とかして、引き止めなければ。
「あの……」
そんな想いで、何とか言葉をひねり出す。
重い唇をこじ開け、どこかで詰まっていた空気を吐き出し、震わせる。
「もう一曲、聞いていきませんか」
「いいの……?」
かろうじて、頷いて返答の意思を伝える事が出来た。
▼△▼△▼△
隣に座った彼女に聞かせるように音を響かせる。選んだ曲は「ハウルの動く城」より『人生のメリーゴーランド』。
停滞していた空間に変化がもたらされ、一曲が終わる頃には私にも変化があった。
「すごいね。プロの人の演奏を聞いてるみたいだった。まだ中学生?」
「はい、中二です。でも、小五ぐらいから始めて、結構自信があって、賞を貰ったりとか」
「賞? コンクールの金賞とかっていうこと?」
「ソロコンクールの、文部科学大臣賞です」
「文部科学!? なんか分からないけど凄そう!」
一度こうなってしまえば嘘のように話すのに苦労はなかった。
上手く口の開かない私とペラペラとよく回る口の私。どちらかといえば後者の方が私の性質に近い。だから、変わったというよりは、本性が出てきたというべきかもしれない。
「私も吹奏楽部やってるけど、同じようにはいかないかなぁ」
「すみません、自慢みたいな」
「ああ、いいのいいの! というか、それぐらい当然だよねーって感じだし!」
まだ少ししか話していないけれど、優しい人だという事が伝わってくる。初対面のよく分からない女が楽器を演奏していて、その隣に座る事を促されて、その通りに出来る人がどれだけいるだろう。我ながら不気味な事をしている自覚はあった。
嫌味だと受け取られかねないような発言も、嫌な顔一つせずに受け流してくれた。
「あ、そうだ。名前。名前聞いてもいい? 私は、小笠原晴香」
「倉崎ひさめです」
意図せず偶然に生まれた出会い。
私はそれを、手放さないようにしたいと、そう思った。
▼△▼△▼△
晴香さんとの密会はそれから何度も重ねられた。
北宇治高校から駅へ向かう道を少し遠回りしたところに私が練習場所としている公園はあった。あの日晴香さんが訪れたのは本当に偶然で、たまたま遠回りしたい気分になった時に私の音が聞こえてきたそうだ。遠回りになる場所へ、晴香さんは何度も足を運んでくれた。
平日は北宇治高校の吹奏楽部での練習が終わってからの少しの時間。土日は晴香さんの部活動がある時はそれが終わってからの時間。部活動がない時も、わざわざ私と会うためだけに足を運んでくれた事もあった。
何度か密会を重ねるうちに、ただ私の演奏を聞くだけでは物足りなくなって、晴香さんのバリトンサックスを持ってきて木管二重奏を響かせる事が日課になった。晴香さんが部活動で練習してきた曲を合わせる事もあれば、私がピアノで弾いた事のある曲のバリトンサックス用の楽譜を作ってきて、それを練習して合わせる事もあった。
楽しかった。
私が逃げた吹奏楽部の記憶に蓋をして、無邪気に楽しんでいた。
「ひさめちゃんと初めて会った時、どうして泣いていたのか、聞いてもいい?」
それは突然だった。
なんでもないような、雑談の一つ。初めて会った時以降、二度目からはそんな様子を見せていなかったから、大した理由ではないと思ったのかもしれない。あるいは、時間が経ったからもう解決している事だと思ったか。たぶん、そのどちらでもなかった。
返答の代わりに晴香さんの瞳を覗けば、いつも通りの穏やかな目元ではなく、何かを決心したような、力強さが宿っていた。なんとなくで聞いた訳ではないのだろう。きっと、何か悩みがあるならと切り出してくれたのだ。
「それは……」
本当の事を話すか、直前まで迷った。もし、軽蔑されてしまったら。私から離れていってしまったら。
私に残ったたった一つの縁。それが切れてしまうのが、恐ろしかった。私が悪いけれど、経験した結んだ縁の消失。それを識っているからこそ、再び繰り返されるのがたまらなく恐ろしかった。
「あ、嫌だったら全然話さなくていいからね? ちょっと気になっただけだから」
「……大丈夫です」
恐ろしかった。
けれど、同時に私の嫌な部分を隠しながら付き合う事は、晴香さんに対する裏切りだと感じた。一度目は失敗してしまったから。二度目は失敗したくなかった。不誠実な真似はしたくなかった。
「実は」
私は話した。出来る限り正確に、私の身勝手な部分も包み隠さずに。
晴香さんにとっては突然そんな事を聞かされても困るはずだ。でも、私が話し終わるまで、遮る事なく全てを聞いてくれた。
「そっか。そんな事があったんだ」
「はい。軽蔑しましたか?」
過去を話すよりも、この言葉に対する返答を聞く事の方が恐ろしかった。その返答次第で、縁が切れてしまう未来もあった。突然プツッと切れはしなくても、徐々に会う頻度が減っていって、最終的に何もなくなってしまうかもしれない。
「軽蔑なんて、そんな事しないよ。だって、ひさめちゃんはその先輩が本当に大好きで、だから吹いてほしかったんだよね? その想いが悪いなんてあるはずない。最後まで噂とかに気付かなかったのは、ひさめちゃんが悪いんじゃなくて、同じパートの人たちが凄かっただけだよ。逃げちゃった事は、ちょっとだけ良くなかったかもしれないけどね」
それは、私にとって救いの言葉だった。
今まで、誰にも相談した事はなかった。出来なかった。顧問の先生や両親にすら言っていなかった事を話した。
全てをさらけ出した私を受け入れてもらえるかは、本当に分からなかった。どちらかと言えば、受け入れてもらえない可能性の方が高いのではないかと思っていた。違う学校のものとはいえ、晴香さんが毎日真剣に練習に励んでいる吹奏楽部というものをばらばらにしてしまったのだから。
自然と視界が滲んだ。
先輩たちや吹奏楽部のみんなからすれば、何を勝手にという感じかもしれないけれど、私は救われた気持ちになった。
「ちょ、ちょっと、なんで泣いてるの!?」
そう、救われた気持ちになった。私が勝手に救われただけだ。問題は何も解決していない。
解決するにしても、あるいは悪化するにしても、私が行動を起こさない限りは楔が抜ける事はない。けれど、動くためには勇気が足りなかった。
「私、吹部のみんなに謝ろうと思います」
結局のところは自己満足なのかもしれない。今さら謝ったところで、もう過去は変わらないし、かといって未来が変わるかといえば、そうでもない。吹奏楽部に戻ろうなんて考えていない。ただ、私の胸の中に、きっとみんなの胸の中にもつかえているしこりを、ほんの少しでも小さく出来たら。
既に私たちの代は三年生に上がっている。先輩たちは卒業してしまってもういない。私の決断が遅すぎたせいで、機会を潰してしまった。いつか面と向かって謝りたい。今は、まだ中学校に所属している同級生と、巻き込んでしまった後輩たちに謝ろう。
「そっか。強いね、ひさめちゃんは。私だったら逃げちゃった場所に行くなんて出来ないよ」
「晴香さんが勇気をくれたからです。一人だったら、きっといつまでも逃げたままでした」
「私はただ話を聞いただけだよ」
「明日、謝りに行ってきます。私がやってしまった事について、誠心誠意」
「うん。じゃあ、私は明日、またここで待ってるね」
帰る場所、とは違うけれど、晴香さんが待ってくれているというだけで勇気が湧いてくる。
いつまでもこのままではいけないのだ。例え、望まれていないとしても、前に進まなければならない。そのための背中は、もう押してもらったから。
▼△▼△▼△
最初に声をかけたのは顧問の先生だった。何度も心配して声をかけてくれていたけれど、全てお茶を濁して逃げていた。
正直に言うと、本当に全て話すべきなのか、あくまで自分勝手にピアノコンクールに出たという事を軸に話すべきなのか迷った。今さら保身のために隠し事をしようとは思わないけれど、先輩の個人の名前を出す事で先輩に迷惑をかけてしまわないかという心配があった。
先生には、全て話す事にした。話して不義理を侘びた上で、部員のみんなに謝りたいという事を伝えた。先生はそれを受け入れてくれた。
まずは部長に謝罪をした。朝早く登校して、部長が登校してくるのを待ち、そのタイミングで昼休みに謝りたい事があると言って呼び出した。部長には全てを話した。全てを話して、謝った。私のせいでばらばらになった部員たちをまとめるのは、きっと大変だったと考えるまでもなく想像がついた。
朝のうちに声をかけて、謝りたい事がある、昼休みが始まって少ししたら声をかけるという、配慮が欠けていたかもしれない呼び出し方で呼び出した副部長にも、全てを話して謝罪した。
放課後、クラリネットパートのみんなにも、全てを話して謝罪した。本当は全員一人ひとりに謝りたかったけれど、そうすると今日一日では終わらないし、次の日に謝る事になった人には自分の事は後回しで良いんだ、という印象を与えてしまうかもしれなかった。だから、部長と副部長以外にはパートごとに謝罪回りをする形にした。
部長と副部長、そしてクラリネットパートのみんな以外には、先輩の名前は出さなかった。部長に、言い訳をしているように聞こえるかもしれないから、先輩を悪者にしたくなければ、相手を嫌な気持ちにさせたくなければ、と言われてしまったから、全てを話すのは最低限に留めた。
罵倒される事も覚悟していた。
けれど、言葉を荒げられる事はなかった。嫌味を言われる事があった程度で、予想していた以上に穏便に事は済んだ。それどころか、クラリネットパート含めた一部では戻ってこないかと言ってくれる人までいた。
吹奏楽部にとっては何も変わらなかったかもしれない。むしろ、今さら何言っているんだと、気分を害してマイナスになってしまったかもしれない。でも、内心はどうあれ最終的に気にしないと言ってくれたみんなを前にして、停滞した時間から進む事が出来た気がした。
▼△▼△▼△
「よく頑張ったね。えらいえらい」
日が落ち始めた頃、いつもの公園でポンポンと私の頭の上で晴香さんの手が上下する。宣言通りやり遂げた私を褒めてくれている。
私は女子の中でも身長が低い方になる。だから、座っている時はそれほど気にならなくても、立って向き合って見ると目線の高さが違うと言う事はよくあった。同級生からも子供扱いされる事は少なくなかった。
晴香さんは私の二つ年上だから、私の方が子供だというのは間違っていないけれど、身長のせいで余計に子供扱いされているというのは間違いないと思う。
「凄いなぁ。私もそんな風に出来たらいいんだけど……」
「晴香さんも、何かあったんですか?」
「うん。私が、っていうよりは先輩と後輩が、なんだけどね」
晴香さんのおかげで私は前に進む事が出来た。
私が解決出来るなんて、そんな自惚れた事は言えないけれど、何かほんの少しでも助けになれば、と話の続きを待った。
けれど、その続きが紡がれる事はなかった。
私は話すのにかなりの勇気が必要だった。晴香さんだってそうかもしれない。そうだとしたら、無理に聞き出すような真似は出来ない。何か別の話題を出す方が良いか、と隣り合うようにベンチに座った晴香さんの顔色を窺う。
そんな、晴香さんの目線の先には一人の影があった。
私たち二人に近付いてくるその影の姿が徐々にあらわになっていく。公園の砂を踏むのは、ひと目で学生だと分かるローファー。黒いソックスに、纏う衣服は晴香さんと同じ北宇治高校の制服であり、胸元のリボンの色だけが違っていた。
そして、黒い髪をポニーテールにして結っているその人物の顔を見て、一瞬呼吸が止まる。
「あれ、小笠原先輩と……倉崎さん?」
運命のいたずらを疑うようなその邂逅に、一度だけ深呼吸して立ち上がる。
少し前までの私なら、逃げてしまっていたかもしれない。けれど、もう、逃げないと決めたから。
「お久しぶりです、希美先輩。今、お時間頂いてもいいですか」
たくさんの迷惑をかけてしまった、先代の部長の元へと。
私は一歩、踏み出した。