いつか途切れた、音の続きを 作:いつかの音色
今回は久美子サイドのお話です。
前回、主人公との対話を期待させておいて申し訳ありませんが、前編は北宇治高校入学までのお話になります。対話は後編にります。
中学一年生、吹奏楽コンクールがあった日。
普段と様子が違った高坂麗奈を追いかけてしまったこと。
人生の転換点を聞かれた時、黄前久美子は迷わずあの日だと答えるだろう。
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倉崎ひさめという少女の事を、久美子は全く知らなかった。
初めてその姿を見たのは中学一年生の吹奏楽コンクールの会場。名前も知らず、功績も知らず、ただただ白黒の派手髪に目を奪われただけだった。恐らく数時間後には記憶の彼方に消えてしまうぐらいの邂逅とも言えないような、一方的な認知。
そんな事よりも普段と様子が違う麗奈の様子が気にかかり、早足でお手洗いに向かったのを追いかけた。
結果として、頬を思い切りビンタさせられるという意味の分からない状況になってしまった。
「え、高坂さん何あれ……」
「喧嘩……? 黄前さんと……?」
「フラれたんじゃない?」
頬に紅葉を付けて戻ったのだ。当然ながらある事ない事、噂が駆け巡る事になった。
「ねぇ」
自分たちの演奏が終わり、他の学校の演奏も終わり。結果としては京都府大会銀賞で終わった久美子たちではあったが、当の久美子にとってはそれどころではなかった。
コンクールが終わり、バスに乗り込む直前。久美子は麗奈に呼び止められた。ビンタ以降、他の学校の演奏を聞いている間や結果発表の間も話さなかったのに、ここに来て話しかけられたのだ。
とても嫌な予感がした。
「もう一回、叩いてほしいの」
「ちょっと何を言ってるのか……」
「お願い」
「…………」
「お願い……!」
「勘弁してー!」
逃げようとしたが、結局捕まってしまい、最初にビンタした時のようにある事ない事言いふらすからと脅されて最終的に再びビンタをお見舞いする事になってしまった。
ある事ない事はわざわざ言いふらさなくても既に回っているというところにまでは、テンパってしまって頭が回らなかった。
本当は色々と問いただしたいところではあったが、バスに乗り遅れてはいけない。そのため、久美子はひとまず疑問を飲み込んで、学校に戻ってから問いただす事にした。
「なんで急にあんな事言い出したの……?」
「あんな事?」
「殴ってとか叩いてとか」
久美子にとって、あまり積極的に話す関係ではないものの同級生でありながらコンクールのメンバーとなった数少ない仲間として、シンパシーは感じていたのだ。そんなもの吹っ飛んだが。
「それは……」
「教えてくれないと、ある事ない事言いふらすから!」
それは、ビンタを強制する麗奈に久美子が言われた事、その意趣返し。しかし、相手は慌てた様子はない。
「……どんな事言うつもり?」
「えっ? う、うーん……高坂さんは叩かれて喜ぶドM、とか」
言いながら、久美子は考える。
そんな事を言い回っている自分。ただの変態ではないか。
「別にいいけど。痛いの、嫌いじゃないし」
「なにそれ、なんかエロ……」
「……変態」
「へ、変態はそっちでしょ!?」
まだ言いふらしてはいないので、自分は変態ではない。
と、そんな事は置いておくとして。どっちが変態とか、変態じゃないとかそんな事よりも聞きたい事があった。
「……それで、結局なんであんな事言い出したの?」
「倉崎ひさめって子、知ってる?」
それが、久美子にとって倉崎ひさめという名を知った瞬間だった。
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帰宅し、スマートフォンの検索窓に倉崎ひさめという名前を入力した。
『倉崎ひさめ ピアニスト』
『倉崎ひさめ ピアノ』
『倉崎ひさめ 国際〇〇コンクール』
『倉崎ひさめ 天才』
『倉崎ひさめ 年齢』
『倉崎ひさめ かわいい』
検索の候補として出てきたものだ。
そもそも普通の人なら候補など出ないのだから、この時点で只者ではない。
『天才ピアニスト倉崎ひさめ、海を越え日本人初となる快挙を──』
名前で調べてみれば、ニュース記事のようなものがいくつもヒットした。
まごうことなき天才なのだろう。調べれば調べるほど、天才少女を絶賛するような記事が出てくる。中には、ピアノを弾いている動画もあった。久美子には良し悪しを判断出来るほどピアノの知識がある訳ではなかったが、それでも明らかに上手いという事が分かった。
音の粒が綺麗とか、音の粒が細かいのに潰れていないとか、そういう素人にでも分かるような事しか分からない。でも、とてつもなく上手いという事は分かった。
「これに勝つのは無茶だよ……」
かつて、本気で勝とうとしたと高坂麗奈は言った。
本人には口が裂けても言えないが。素人にも聞いて分かる上手さに、海外のコンクールで日本人初優勝という想像もつかない実績を持ったピアニスト。プロのピアニストでも勝てるかどうか。
こんなの、勝てる訳ない。
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「忘れてたはずなのに。忘れられてたのに……また夢に出てきたの。どうすればいいの……? わたし、どうすればいいの……?」
高坂麗奈にとっての悪夢、倉崎ひさめ。
詳しく話を聞いてみれば、二人の間にそれほどおおきな関わりはなかった。直接の関わりは、たった二度のコンクール。それも、ただ同じコンクールに出ていただけで話してすらいない。
だというのに、たったそれだけの関わりしかないというのに心に大きな傷を残した。
久美子は精神科医でも心理カウンセラーでもない。
だから、トラウマを克服する方法など知らないし、フラッシュバックする悪夢をどうにかする方法も知らない。嫌な思い出を忘れる方法があるなら、逆に教えてほしいぐらいだと思うぐらいだ。
『トラウマ 克服方法』
『トラウマ やわらげる方法』
『トラウマ 忘れる方法』
『トラウマ 体が言う事をきかない』
『トラウマ 体が硬直する』
『PTSDとは』
『PTSD 治し方』
『PTSD 心理療法』
『心理療法 トラウマ あえて想起させる』
結局のところ調べるしか方法はなく、検索履歴には手当たり次第に調べた内容が並ぶ。
本当の事を言うと、専門家に診てもらうのが一番良いのだろう。けれど、提案はしたものの麗奈にそのつもりはなく、本人にその意思がないのに無理矢理連れて行く事は出来ない。
「ピアノ、もう一回だけやってみない?」
コンクールの一件以降、久美子は麗奈と半ば強制的に親密な仲となっていった。パートは違う。クラスも違う。本来ならそれほど関わりのなかった立場。それを、倉崎ひさめというトラウマが繋げたのだ。
久美子は一度、麗奈がピアノに触れる様子を見せてもらった事があった。それまでは普通の様子だったのに、いざピアノの前に座った瞬間身体が強張っていたのが久美子の目にも分かった。手を鍵盤に伸ばせば、その手は硬直し、小刻みに震えていた。
トランペットで特別になるという目標を教えてくれた。同時に、そのためには音大に行く必要があり、それにはピアノが弾けなければならないとも。
身体が拒否反応を示しているような状況だ。無理矢理向き合わせる事は、さらなる悪化を招きかねないものだと久美子も理解している。ただ、このままでは挫折を経験し、その果てに見つけたトランペットという希望が潰えてしまうかもしれない。
そんな事は、麗奈も望まないだろう。専門家に頼る選択肢はなく、しかし現状維持ではいられない。
「合唱の曲とか、何か伴奏弾けたりしない?」
「……コンクールの事しか考えてなかったから、やった事ない」
「じゃあ、『きらきら星』。それならさすがにやった事あるよね?」
「やった事はある、けど……」
場所は麗奈の家。既に何度かお邪魔しており、母親とも顔見知りとなっていた。
ピアノの前に座り、鍵盤の蓋を開ける。鍵盤の上に乗せてあった布を取り、弾く準備は万端。少なくとも、見た目の上では。
「だめ……動かないの……動かないの……!」
けれど、動かない。
ただ鍵盤を押すだけ。クラシックの難しい曲ではなく、小学校で鍵盤ハーモニカを少し触った程度の久美子でも右手だけなら弾ける曲。
それでも、駄目だった。
「大丈夫……大丈夫だから……」
後ろから抱きしめる形で、落ち着かせる。
インターネットで調べただけの素人知識ではあるが、トラウマ体験というのはそれから逃げ続けていると悪循環になってしまって良くないらしい。
そもそも診断されていないのだからPTSDかどうかなんて分からないが、仮にPTSDであれば患者とセラピストの二人で心理療法というものを行なうらしい。
まずは二人の間に信頼関係を築く。そして患者に原因となったトラウマ体験を語ってもらい、あえてトラウマを想起させる。そうして、あくまでその経験は過去のものだと認識するようにする。例えば何らかの事故が原因であれば、危険だったのはあくまで過去の話で今は危険ではないと認識出来るように。
麗奈の場合は少し複雑だった。
直接の身体的な危険がなくても、スポーツなどで失敗した経験からPTSDを発症してしまう例はある。ただ、麗奈は何か失敗した訳ではなく、むしろ最高の演奏が出来たにも関わらず負けてしまった事が原因となった。
麗奈自身に何か原因があった訳ではなく、そして勝てないというのは過去の話ではなく現在も続いている。
素人の久美子には、この状況での最適な治療法など分からない。ただ、素人なりに考えた。
今の麗奈は倉崎ひさめに勝とうとはしていない。勝てないとも理解している。ただ、勝てる勝てないなんて話とは別に、ピアノを弾けなければならない。それなのに、いざ弾こうとするとどうしても勝てなかった事がフラッシュバックする。
だから、その苦い思い出を上書き出来るような何かを探した。そうして思い付いたのが、伴奏だ。
一人で弾くのではない。一人で弾こうとすれば思い出してしまう事も、二人なら。
「きらきらひかる……おそらのほしよ……」
後ろから抱きしめたまま、ゆっくりと久美子の歌声だけが部屋の中を満たしていく。
何度も、何度も、繰り返す。
そうして、何度目か。ゆっくりと、麗奈の指が鍵盤を押し込んだ。
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あれ以来、麗奈は少しずつピアノが弾けるようになっていった。
本人曰く、完全に元通りではないらしい。ブランクも長く、難しい曲を上手く弾こうとすればするほどフラッシュバックの足音が聞こえてくるような感覚になるそうだ。それでも、大きな前進と言えた。
「そうだ。合唱コンクールの伴奏、立候補してみたら?」
「合唱コンクールか……うん、やってみる」
ただ、ピアノを弾く時以外でもフラッシュバックが起こり、そのたびにビンタをさせられる事は引き続きあった。
「ねぇ……いい加減、こういうのやめない……?」
「なんで?」
「なんでって……おかしいよ、こんなの。叩くのに慣れてきた自分もちょっと嫌だし」
「これが一番良いから。久美子、上手だから自信持っていいと思う」
「なんの自信だよぉ……」
ずるずるとその関係性を続けたまま、季節が過ぎ去っていく。
学年が上がり、二度目の吹奏楽コンクール。南中学のコンクールメンバーに倉崎ひさめの姿はなかった。それとほとんど同じくして、国内の有名ピアノコンクールで最上位の賞を取ったという事が、調べて分かった。
ついでに調べれば、前年度のソロコンテストで文部科学大臣賞などというとんでもない賞をクラリネットで取っていた事も分かった。それなのに吹奏楽コンクールに出ずにピアノのコンクールに出たという事は、ピアノの方にシフトしたのだろうか。
そんな事を話しながら、さらに季節は巡る。
中学三年生最後のコンクール。
高坂麗奈は控えめに言っても全国クラスのトランペット奏者だった。せめて関西大会へ連れて行ってあげたかったが、残念ながら北中学校吹奏楽部の実力ではダメ金が精一杯だった。
部活動を引退し、高校入試に向けての勉強が始まる。
麗奈のような奏者なら推薦で引く手あまたなのだろうが、残念ながら久美子にはそこまでの実力はない。一般の入試で勝負するしかなかった。
そして、入試の当日。
「なぁんでいるんだよぉ……」
「なんでって、そんなの私も受けるからに決まってるでしょ? 北宇治」
「す、推薦は……? 立華とか色々あったでしょ……?」
「全部蹴った」
「全部蹴ったぁ……!? ま、まさか、私がいるから……?」
麗奈に対して志望校を隠すような事はしていなかった。だから、合わせようと思えば合わせられるだろうが、まさかそんな事をするとは思わない。
「それもあるけど」
「あるんかーい!」
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北宇治高校に入学して、新入生として通学する。
校舎の前では新入生に向けての吹奏楽部の演奏があった。曲は『暴れん坊将軍のテーマ』。お世辞にも上手いとは言えない演奏で、思わず「駄目だ、こりゃ」なんて言葉が飛び出してしまった。
幸いにして、当然ながら演奏中の吹奏楽部の先輩たちには聞こえていなかった。
ただ、数人。久美子の声を受けて振り向いたと思われる新入生の中に知った顔があった。
黒髪に白色のインナーカラーとメッシュが入った派手髪少女。
倉崎ひさめがそこにいた。
周りの目もあってなんとかこらえたが。
それがなければ久美子は目を剥いてひっくり返っていただろう。
そして同時に、これからの高校生活が波乱に満ちたものになるのだと、諦めに近い感情と共に思い知った。
○黄前久美子
黄前相談所高坂麗奈支店、なんと中学一年生時点でオープン。ほどよく脳を揺さぶって頭を真っ白にするビンタが上手い。
素人が他人のトラウマ踏み込むのは色んな意味でリスクが高く賭けにはなったが、賭けに勝ったのでピアノを弾かせる事に成功した。
主人公の事で一番印象に残っているのはすごい経歴でもピアノでもクラリネットでもなく、白黒の髪色。
○高坂麗奈
久美子のおかげでなんとかなっている。
好きな曲は『きらきら星』になった。もしもそれを他人に馬鹿にされたら滝先生を馬鹿にされた時ぐらいキレる。