いつか途切れた、音の続きを   作:いつかの音色

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 お待たせしました。後編です。




みちびくユーフォニアム(後編) Side黄前久美子

 

「香織先輩よりも上手いなんて、どの口が!!」

「事実でしょう!? だから私がソロに選ばれた!!」

 

 心情的には、久美子は麗奈の味方だ。だから、麗奈の気持ちは分かるし、擁護したいとも思う。

 麗奈は滝先生に対して大きな好意を持っている。その判断だって正しいと信じたいだろう。純粋な実力勝負というオーディションでの勝ち負けだ。選ばれた麗奈の方が上手いというのは間違いではないはずだった。たとえ久美子の耳には同じぐらいに聞こえても、指導のプロからすれば違いがあるのあろう。

 

 そして同時に、麗奈と対立する吉川優子の気持ちも分かってしまう。

 話題に上がった三年生である中世古香織の事を、優子がただの尊敬という言葉では言い表せないぐらい慕っている事は端から見た久美子にも分かっていた。ただの先輩をあんなに慕う事はない。きっと、そうなるに至った何かがあったのだろう。

 その何かが一体どんなものかは分からない。ただ、あるいは麗奈にとっての滝先生のような。優子にとっての香織とはそれぐらい大事な人だという事は分かっていた。

 

 久美子が一歩踏み込むと同時に、鼓膜を突くようなシンバルの音が音楽室に響いた。

 ひさめだった。

 

「二人とも、やめてください」

 

 久美子よりも動くのが早い。

 さすがだと言うべきだろう。しかし、麗奈にとって相手が悪い。

 

「私は間違ってないでしょう!? 選ばれなかったら意味なんてない!」

「違うよ、高坂さん。それは違う」

 

 ひさめなら、大抵のいざこざなら収められたかもしれない。ただこの瞬間においては、とっさにぴったりな言葉は浮かばないが、適任の真逆の人選だと言えた。

 

「オーディションで選ばれる事は確かに大事。そのために練習を頑張ってきたんだから。でも、選ばれなくてもそれまで頑張ってきた事がなくなる訳じゃない」

「それはあなたが常に選ばれる側だったから言えるの! 私みたいな凡人は、そんな事言ってられない!」

 

 ただでさえ、一対一で相対する形。

 それに加えて自分を否定するような言葉を向けられていると、そう思ってしまう場面。

 

「高坂さんだって、頑張ってきたんだよね。音を聞いたら分かるよ。きっと音楽が大好きで、その上で……」

「あなたみたいな天才が、分かったような事言わないで! 何でも出来るくせに! 私が、どれだけ……どれだけ……!」

 

 言葉は選んでくれている。麗奈の事を分かろうとしてくれている。直前まで優子と言い合っていた敵意をそのまま向けたような形で、戸惑うはずなのにそれを表面に出さず、あくまで麗奈をなだめる形を取ってくれている。

 ただ、駄目だ。

 それは麗奈には響いていない。

 

 このまま放っておけば、傷付くのはお互いでも立場を悪くするのは麗奈。そして、その前に麗奈が崩壊してしまう可能性だってあった。

 

 だから、久美子の行動は決まっていた。

 伊達に三年間も付き合っていない。麗奈を落ち着かせる方法を、既に久美子は知っている。

 

 中心の二人に集中しているみんなの意識の間を縫って、麗奈のそばに近付き、腕を振り上げた。

 直後の破裂音は、きっと今までのどのビンタよりも良い音だっただろう。思えば、麗奈に頼まれてではなく、自分の意思でやったのは初めてだったかもしれない。

 

 ただでさえ、二人以外は黙って行方を見ていたところに、今のでその二人すら黙ってしまった。

 

「あぁ〜……し、失礼しました〜……」

 

 麗奈の腕を引いて、音楽室を出る。向こうの事は部長たちに任せて。

 

 少しの間、廊下を歩いて。

 久美子に手を引かれるままだった麗奈は立ち止まり、膝から崩れ落ちるように床へ座り込んだ。

 

「最悪……最悪……最悪……最悪……っ」

「麗奈……」

 

 座り込み、伏せた顔の周囲を両手が行き来する。

 そんな麗奈を、久美子は黙って抱きしめた。身体が言う事を聞かない時には言葉で、心が大変な時には身体で。長年の付き合いで学んだ麗奈の落ち着かせ方だ。

 

「今日は二人で吹こう?」

 

 そのまま部活は早退し、川の土手でトランペットとユーフォニアムの音を響かせた。

 

 ▼△▼△▼△

 

 翌日からの練習は、わざわざ聞いて回らなくても分かるぐらい、滝先生への不信感が色んなところで溜まっていくのが感じられた。

 久美子にとって幸いだったのは、思っていたよりも麗奈に対する悪感情が見えなかったという事だった。この吹奏楽部でも一、二を争うぐらい人気や人望がある香織を真っ向から貶めるようにも聞こえる事を言ったのだ。滝先生が麗奈への悪感情まで代わりに吸い取ってくれたような形になっていた。

 麗奈にとってはおもしろくない状況かもしれないが、久美子にとっては滝先生よりも麗奈の方が大切なので、この状況はある意味好都合ではあった。

 ただ、吹奏楽部自体が足踏みするようなこの状況はとても喜べるものでもなかった。

 

 そして、ある日。

 このままではダメだからと、ひさめが主導して合奏練習を再開する事になった。

 

 分かっていた。でも、やっぱりすごい。

 一年生だけでなく、三年生までいるのに全く臆する事なく的確に指示を飛ばしていく。短い時間の内に久美子にも分かるぐらい曲の完成度が上がっていく。

 どうあれ、合奏練習が出来ないなんて状況よりも今の方が良い。

 そうして、合奏練習を終えて片付けをしている時、耳に入ってきた。ひさめが滝先生を追い出したという話が。

 

 あの後、ひさめに直談判をするという麗奈に付き合って。恐らく麗奈の様子を見て方針を転換してくれたのが、久美子には分かった。

 そして、ひさめの言った通り滝先生は戻ってきた。

 トランペットソロの問題は、麗奈と香織の二人それぞれにソロパートを作る事で解決した。

 

 全て丸く収まった。少なくとも大体の部員はそう思っているだろう。

 ただ、久美子にとっては一つだけ問題が残っていた。

 

「今、ちょっとだけお話出来る……?」

 

 そのために。

 久美子はたった二人で話す場を求めた。

 

 ▼△▼△▼△

 

 倉崎ひさめという少女に関して、久美子が知っている事は少ない。

 ピアノ奏者として、あるいはクラリネット奏者としての経歴は調べて出てくる程度の内容。その姿はかつて吹奏楽コンクールで一度見ただけ。高校に入学するまでは、話した事はおろか声を聞いた事すらなかった。

 ただ、麗奈から話はたくさん聞いていた。

 素人の久美子には分からないが、ピアノが上手すぎるという事、そして恐らく周りに興味がないという事。

 麗奈の話だけを聞いた印象は、一言で言えば大魔王。あくまで麗奈談ではあるが、同世代なのに十年二十年自分だけ長く練習したとしても勝てる未来が見えないと感じてしまうほどの実力に、視界に入ったのに全くこちらの事なんて眼中に入っていない様子。

 しかし。

 いつからか趣味程度に人間観察をするようになった久美子でなくても分かるぐらい、その人物像は全然麗奈の話とは違っていた。

 その評価が一番当てはまるとすれば、二年生の鎧塚みぞれだろうか。ひさめを除いて、たった一人飛び抜けた実力のオーボエ奏者。何を考えているかが分かりづらく、そして数人を除いてあまり他者への関心があるようには見えない。

 実力に関しては間違いないのだろうが、人物像に関しては真逆にも思えた。

 

「なんか、改めてお話って言われたら緊張するよね」

 

 真面目な話、それも長くなりそうな気配を察知してか椅子を持ってきたひさめと横に並ぶように椅子を置いた。

 

「ごめんね、忙しいのに」

「全然、全然。何気にこうやって練習関係なく二人で話す事って初めてかもしれないしね」

 

 はじめは椅子を向かい合うように置こうとしていたのを、久美子が横に並んで置くように誘導した。向かい合って座るよりも横に並んで座る方が連帯感が生まれやすいらしい。

 

「それで、話って?」

「うん……」

 

 久美子にとっては高校に入学してから接したひさめが全てで、個人的に何か思う事はない。

 ただ、麗奈にとってはそうではなくて。そして、このままではいけないと思ったから。

 

「倉崎さんって、滝先生の事どう思う……?」

 

 向こうからすれば何の心当たりもなく、何故か敵意を向けられたという状況かもしれない。そもそも麗奈のあれこれは、言ってしまえば麗奈側が勝手に自滅しているだけで、ひさめには何の落ち度もない事だ。少し前の言い合いどころか一方的な言い浴びせだって、向こうに落ち度はない。

 けれど、麗奈にとってはたとえ一方的なものが始まりだったとしても、仲直り、あるいは和解のようなものを経なければ先に進めないのだ。

 

「滝先生? うーん……何と言えば良いのか……」

「やっぱり嫌いだったり……?」

「そう見える? まぁ、好きか嫌いで言えば嫌い寄りではあるんだけどね。あ、これみんなには内緒ね? これから仲良くやっていこうってなってるところだから」

 

 恐らく、ひさめは頼めば今すぐにでも麗奈と和解するように動いてくれるだろう。

 ただ、その前にいくつか話したい事があった。その一つが滝先生について。

 

「やっぱりそっかぁ……ちなみにどういうところが?」

「かるーくと本気のどっちが聞きたい?」

「あっ……軽くで……」

 

 最初からその節はあった。

 全国大会を目指すか、緩くやるかの多数決。手を挙げない人もいた中で、たった二人だけ緩くやるに投票したうちの一人だった。

 もう一人の葵はそれだけではないのだろうが受験勉強など理由があったのは分かる。しかし、ひさめは一年生でそんなしがらみはないだろうし、むしろ楽器は違っても色んな賞を取っていて全国大会を目指す方が合っているはずなのにと不思議に思ったものだった。

 

「まぁ、色々あるけど……とりあえず滝先生の晴香さんに対する態度は許せないよね」

「あっ、ハイ」

「去年色々あってやっと立て直して頑張ってる晴香さんに対する態度がおかしいと思わない?」

「……ハイ」

 

 今、全く関係はないが、夏紀の顔が思い浮かんだ。

 麗奈も麗奈で滝先生の事になるとちょっとアレだし、目の前のひさめへの感情もそうだ。

 ちょっと重めの感情を持っている人が多いかもしれない。その大体の矢印に関わっているのがひさめである。

 

「っていうのは一旦置いておくにしても。ほら、滝先生ってあんまり人の気持ち考えてないみたいなところあるじゃん?」

「あぁ……分かる」

「でしょ?」

 

 それは普通に久美子も思っていた事だった。

 吹奏楽部の中でも滝先生は粘着イケメン悪魔の異名で通っているので、そう思っているのは久美子だけではないだろう。もしかすると麗奈以外の全員から賛同を得られるかもしれない。

 

「全国大会を目指すのは良いんだけどさ。ああいうのってみんなの気持ちが一つになった上での話だと思うから。結論ありきでそっちに誘導してる感じが気に入らなかったし」

「最初の投票?」

「そう。だって、あれで楽しく出来ればって方に手を上げる人なんて普通いないしね。だから、思い通りにはならないぞって事で楽しくの方に手を上げたってわけ。結局それを盾にして自分たちで決めたんだからとか言い出したし」

 

 久美子も滝先生のやり方に反感を覚えた事はある。

 言っている内容自体が正しくても、人は正論では動かない。人間は感情で動くものだ。

 正しい事を言っているから自分は正しい。そんな態度が透けて見えた事は一度や二度ではない。そもそも隠してすらいない。

 

「やっぱり滝先生を追い出したのは、嫌いだっていうのもあって?」

「んー、まぁ、完全になかった事もないかもだけど、利害の一致みたいな感じかな。私個人が嫌いでも、みんなのためになるなら歓迎するつもりだったし。あの時はもういない方が吹奏楽部のためになると思ったから。実際はそうじゃなかったから早とちりしちゃったんだけどね」

 

 今までだって本音で話してくれていたのは分かる。直接は言わないものの、寒いギャグなんかも本人は本気で面白いと思ってやっているのだろうし、色んな同級生や先輩と接している様子にも嘘は見えなかった。

 ただ、今は。

 もっと、もっと深いところまで見せてくれていた。

 

「黄前さんはどう思う? 滝先生のこと」

「まぁ……嫌いとはまではいかなくても思うところはあるかも」

 

 騙されたなんて感じた事はなく、何かを隠されたような感覚になった事もない。けれど、深く知っていた訳でもなかった。

 

「なんか滝先生、子どもみたいなところあるし」

「子ども?」

「人との付き合い方というか……コミュニケーションの齟齬というか、自分の言う事が伝わらない事を考慮に入れてないっていうか。言っている内容自体は正しい事が多いけど、言い方を考えてなさそうなのはたぶん、話すイコール伝わるってどこかで思ってるのかも。もしかしたら今までずっと周りに思いを汲み取ってくれる人がいたとか……」

「よ、よく見てるね……黄前さん」

「あっ……見てるというか、勝手に目に入ってきたというか……勝手な想像だし!」

 

 受け取ってばかりではいけない。懐を開いてくれているのだから、自分も開かなければ。そんな風に焦って、思わず口から出てしまった。

 引かれた可能性はあるが、本音を話しているとポジティブに受け取ってもらえると祈るしかない。

 

「倉崎さんは滝先生が戻ってきたのは、やっぱり嫌に思う? 個人的に」

「まぁ……思うところがないって言ったら嘘になるけど、ちゃんとやってくれるなら個人的にも良いと思ってるかな。元々言い方はともかく指導の内容は悪くないって思ってたし。私って根に持つタイプだから、嫌だったのも忘れないんだけど、せっかくやり直そうとしてるのに、いつまでも昔の事引きずってるのもアレだから。色々と許してもらっての今がある私の立場としても、だし」

 

 そして、最初の目的であるひさめの滝先生への考えを聞く事が出来た。

 それと同時に、気になる事も。

 

「何か、あったの? 昔」

「まー……ちょっと、というか結構やらかしてさ、中学時代」

 

 それがどんな出来事だったのかは分からない。ひさめにとってどんなに大きな出来事だったのかも分からない。ただの過ぎ去った記憶なのか、あるいはトラウマになるほどのものなのか。

 他人のそういう場所に踏み込む事のリスクは嫌というほど知っている。

 ただ、それでも踏み込むべき場面だと、久美子は判断した。

 

「中学の時も吹部だったんだけど、コンクールに出てほしい先輩がいたからオーディション辞退したんだ。もう、ホント何にも考えてないバカ野郎だったってわけ。先輩がどう思うのか、周りがどう思うのかって何も考えずに。で、南中吹奏楽部はほとんど崩壊状態。しかも、元凶の私は逃げた」

「あぁ……二、三年の時にコンクール出てなかったのってそういう……」

「あ、黄前さんも知ってた? 高坂さんも知ってたし、私って結構有名?」

「有名どころじゃないと思うよ……京都の希望の星って言われるぐらいだし」

「インタビューの見出し? 黄前さんも見てくれたんだ」

「緑ちゃんが言ってたあれインタビューの見出しだったんだ……」

「あ、見てくれた訳ではないのね?」

 

 少しだけ話題がズレた隙に頭を回転させる。

 なんて事のないように言っているが、ポンと言うにはかなりの内容だった。二年生、三年生の時にコンクールに出ていなかったという事は、その事件が起こったのは二年生の頃だろうか。その当時の記憶を呼び起こせば、あの時の南中学は関西大会出場どころか、珍しく銀賞を取った事が久美子の中学でも少し話題になっていた。

 南中学は強豪だ。久美子も当時はそんな事もあるんだなと聞いていたが、その裏にひさめが絡んでいたとは思わなかった。

 

「え、でも、南中出身の先輩と普通に仲良くしてるよね?」

 

 その全員を把握している訳ではないが、少なくとも鎧塚みぞれと傘木希美の二人は南中学出身だと久美子の中では確定していた。南中学の音の中でも飛び抜けて上手かったオーボエとフルートの音だ。聞き間違える事はない。

 帰宅部であったらしい夏紀はともかく、その二人は確実に南中学吹奏楽部。普段の様子を見れば、とても吹奏楽部を崩壊状態にした側とされた側という関係には見えない。

 

「そうだね。晴香さんと出会わなかったら逃げたままで、希美先輩たちともずっと会えないままだった」

「気になってたんだけど、倉崎さんと部長ってどういう関係?」

「たまたま偶然、運命的な出会いをしたんだなー、これが。聞きたい? 晴香さんと私の馴れ初め聞きたい?」

「う、うん……」

 

 それから始まったのは一方的な語りだ。

 恐らく脚色されているのだろうが、ところどころに部長の晴香を褒め称える言葉を交えつつ、とある公園で現実逃避していた時の出会いから、たった二人の逢瀬、先輩や同級生への謝罪、希美やみぞれや優子が増えたアンサンブル、そこにさらに夏紀、三年生の香織とヒロネを加えた『きたみなみ公園オクテット』の話。

 

「すごいね、倉崎さん……もし私が同じ状況になったら、みんなに謝って回るなんてとても出来ないよ」

「晴香さんが応援してくれたから。晴香さんがいなかったら無理だった」

「それでも、だよ。私も中一のオーディションの時……倉崎さんとは真逆かもしれないけど、私が受かって先輩が落ちちゃって、呼び出されてアンタがいなければって言われて。その先輩一人とも、最後までちゃんと話せなかったのに」

 

 特別な人間だと思っていた。

 ピアノもクラリネットも、何故かトランペットですらもあり得ないぐらい上手い天才。ただ楽器が上手いだけでなく、先輩同級生問わずすぐに仲良くなるコミュニケーション能力、先輩すら当たり前のように従ってしまうカリスマ。

 

「でも、そっか。変わったんだね、倉崎さんは」

「まぁね。全然周りの事なんか見てなかったし、楽しく出来たら良いとしか思ってなくて。だから、あんな事になって。晴香さんにきっかけをもらって、希美先輩たち、同級生たちからチャンスを貰ったから。だから、もう二度と同じ過ちは繰り返さない、絶対に逃げたりしないって決めたんだ」

 

 麗奈から聞いていた人物像と実際に久美子が見た人物像、その乖離。つまりはそういう事だったのだろう。麗奈が見たのは変わる前のひさめ。久美子が見たのは変わった後のひさめだったのだ。

 そして同時に、変わる事が出来た強さにも尊敬の念を抱いた。

 久美子の目には、ひさめが特別な人間に見えた。変わった後のひさめが。

 そうなるのに、一体どれだけの覚悟があったのだろう。

 

 比べてしまえば、久美子の状況など随分とマシなものだっただろう。それでも、同じように振る舞う事など到底出来なかった。

 どんなに怖かっただろう。

 久美子とは比べ物にならないぐらいの恐怖を乗り越えて、ひさめはここにいる。

 確かに特別な人間だった。久美子には想像も出来ない強さを持った、特別な人間だった。

 

「どうして、逃げずにいられたの?」

「逃げたらどうなるかを身をもって体験したからね。逃げずに立ち向かうのが怖くても、逃げた後の事を考えるとそっちの方が怖いから。まぁそれに、一回逃げたら事あるごとに逃げるっていう選択肢が出てくるようになるし」

「すごいね……本当に」

「黄前さんは? 中二、中三のオーディションはどうしたの?」

「普通に受けたけど……」

「なら黄前さんの方がすごいよ。だって、逃げなかったんだから」

「……買いかぶりだよ」

 

 図らずしも、その人柄の深い部分に触れた。

 元々の目的は別にあった。麗奈と和解してもらうこと。そのために、話をしようとしたのだ。

 

「……一つ、お願いしてもいい?」

「お願い? 私に出来る事ならいいよ」

「麗奈と、話してほしい」

「高坂さんと?」

 

 麗奈は滝先生の事が好きだから、念の為にひさめが滝先生の事をどう思っているのか確認した。嫌い寄りではありそうだったが、事情を説明すれば麗奈と滝先生の話をしても拗れる事はなさそうだった。

 麗奈を任せられるか、改めて話して人格を確認した。きっと任せて大丈夫だと思えた。

 

「薄々気付いてるかもしれないけど、麗奈は昔倉崎さんと会った事があって。小学生の時、ピアノのコンクールで」

 

 あらかじめ、麗奈にはひさめに話しても良いと了承を得ていた。

 麗奈だってこのままではいけないと思ってはいるのだ。ただ、踏み出せないだけで。その一歩目を久美子が埋める。そのために過去を話しても良いと、麗奈も覚悟を決めてくれた。

 

「あちゃぁ……小学生の時かぁ……」

 

 話しているうちに久美子も気付いたが、麗奈がコンクールで争ったのは変わる前のひさめだったのだろう。

 

「そっかぁ……まぁそっかぁ……昔会ってたならそれぐらいかとは思ったけど……」

「それでね、あまりに倉崎さんが上手すぎて。最初は頑張って勝とうとしたみたいなんだけど、頑張りすぎちゃって、ピアノが弾けなくなっちゃって。それで、倉崎さんに苦手意識というか何というか……」

「待ってね……めっちゃ嫌な予感するんだけど、もしかしてめちゃくちゃ失礼な事してたりする? あんなに怒ってるぐらいだもんね? 無意識のうちに煽ってたりとか……ヤッバい……最初思いっ切り初対面の感じで自己紹介しちゃったし……」

「あ、それは大丈夫! ……たぶん」

「たぶん!?」

 

 実際のところ、ひさめが麗奈を煽ったなんて事実はない。むしろ逆で、全く関心を向けられていなかったぐらいなのだから。高校に入ってからの対面でも、麗奈からすれば余計な事を覚えてくれていなくて良かったと感じたぐらいだろう。

 麗奈だってまさか高校で出会うなんて思っていなかったはずだ。そういう意味では、予想外の衝撃を和らげる意味でも良かったと久美子も思う。

 ただ、あれから数ヶ月。その時とは状況が違う。

 

「大丈夫、倉崎さんは何も悪い事はしてないよ。どっちかと言うと麗奈が勝手に色々と拗らせてるだけだから」

「ホントに?」

「ホント、ホント。それで、ここからが本題なんだけど……」

 

 色々と話したが、一番の目的は麗奈と和解してもらうこと。

 今の麗奈はピアノでひさめに勝とうとしている訳ではない。部活の仲間だとも思っている。理性の部分では対立するつもりなんてないのだ。

 トランペットに関してだけは、少し危ういところがない訳ではないが、基本的には。この前の言い争いの時だって、本当ならあんな対立するような事を言いたい訳ではなかったのだ。なのに、理性ではない無意識の本能のようなものが出てきてしまって、あんな事になった。

 

「麗奈は倉崎さんにトラウマがあって、たぶん今のままだと一生このままで……他の道に進むならそれでも良いかもしれないけど、トランペットで特別になる、音楽の道で生きていくなら、このままじゃ駄目だと思うから」

「そのトラウマの元と面と向かって話すのは大丈夫?」

「それは大丈夫」

「なら、私に出来る事はするよ。今日の練習終わりでも大丈夫?」

「わー……即断即決……」

「こういうのって、やるって決めたらすぐにやるのが良いからね。後になればなるほど動くのがしんどくなるし」

 

 確かに言う通りではあるが、だからと言って実際に行動に移せるかは別の話だ。

 頼んでいる側が言える事ではないが、逆の立場であれば久美子はそう簡単に頷く事は出来ない。他人のトラウマに簡単に踏み込む事なんて出来ない。そのトラウマの原因が自分だと言われては尚更だ。

 

「頼んでる私が言うのもなんだけど、嫌じゃない?」

「嫌じゃないよ。元々私も高坂さんと話さないといけないなって思ってたし。ギスギスしてる方が嫌だし、高坂さんとも仲良くしたいって思ってたから。という事で、作戦会議タイムです」

「びっくりするぐらい話早いね……?」

「嫌?」

「嫌じゃないけど……」

 

 嫌事を押し付けているようで、心苦しくはあった。

 ただ、今のままでいると事あるごとに迷惑をかける可能性もある。だから、言い訳をするならひさめにも利がある提案ではあるはずではある。

 こちらに罪悪感を抱かせないように話を進めてくれているのが分かる。とんでもない爆弾を渡されている状況なのに、こちらを気遣ってくれる。

 とても真似は出来そうにない。

 あるいは麗奈もピアノで同じような感覚になったのかもしれない。麗奈と違うのは、争うつもりなんてないということ。争う相手ではなく、共に戦う仲間だ。こんなにも頼もしい事もない。

 

 それから、麗奈とどう接するか、どんな話をするか、作戦会議をした。

 

「じゃ、そんな感じでいってみるよ。話してくれてありがとう。さっきまでより仲良くなれた気もするし」

 

 そして、ひさめは立ち上がり、反転して久美子の方へ手を差し出した。

 

「という事で。これからもよろしく、()()()ちゃん」

「こちらこそよろしく……()()()ちゃん」

 

 その手を久美子はしっかりと握った。

 

「あ、そうだ。高坂さんの事を想うのは良いと思うけど、叩くのはどうかと」

「好きでやってる訳じゃないんです……!」

 

 ▼△▼△▼△

 

「そういえば、なんであんなに色々話してくれたの?」

「んー、ほら、高坂さんとはいずれ話さないとって思ってたけど、いきなりは難しそうだから、とりあえず周りから切り崩すのが先かなって」

「わー……打算的だぁ……」

「なんかちょこちょこ心の声っぽいの漏れてるけど、大丈夫?」

「あっ……癖で……大丈夫じゃないです」

「まぁ、打算云々っていうのは半分冗談で、高坂さんの事はあるけど久美子ちゃんとも仲良くなりたいって思ってたからね。みんなと仲良くなるために多少作戦考えたりはするけど、そんな腹黒い事は考えてないし。打算なんて出さんってね」

「あはは……反応に困る……」

「うん、ちょっとは隠す努力しよっか?」

 

 ▼△▼△▼△

 

 その日の練習が終わり、片付けも終わって部員たちが帰っていく。

 約束の場所は音楽室。晴香にはやんわりとした事情を話して、無人になった音楽室を使わせてもらえるように頼んだ。麗奈にも心の準備をしておくように言った。

 せめてこれぐらいはと場のセッティングは久美子が行なった。

 

 そして、運命の時が訪れた。

 

「わざわざ時間作ってくれてありがとう」

「うん……」

 

 向かい合うように机を挟んで座る麗奈とひさめ、何かの審判かのようにそれを少し離れた横から黙って眺める久美子。たった三人しかいない音楽室で、話し合いが始まった。

 

「この前はごめんね。高坂さんの事情も知らずに一方的になだめるみたいな事して」

「……あの時は私も言い過ぎたから」

「じゃあ、この前の話はこれで手打ちという事で」

 

 主に麗奈側にたどたどしさはある。平常時なら、お見合いか! とツッコミを入れていたかもしれない。

 けれど、今はそういう場面ではない。久美子はただ黙って見守る。

 

「聞いたよ。私たち、同じコンクールに出てたって。ごめんね、昔の私って全然周り見えてなくてさ。態度悪くなかった?」

「別に、何かされた訳でもなかったし……話しかけづらさはあったかもしれないけど」

「やっぱり? 今はどう? 改心して親しみやすいポジティブひさめちゃんでやらせてもらってるんだけど」

「前より話しかけやすいとは思う」

 

 作戦会議はしたが、一朝一夕で解決出来る問題でもない。だから、まずは距離を縮めるところからだ。

 

「昔の事だからって言い訳して良い訳? って感じではあるけどね」

「え……あ、うん」

「あ、そうだ。高坂さん高校に入ってから身長伸びた? 私は全然伸びてなくてちょっとショックだったんだけど、流れ作業だったからちゃんと測れてたか怪しいよね。身長は慎重に測らないと」

「…………。それ、なに?」

「え? ポジティブひさめちゃんギャグ」

「…………」

 

 距離を縮める方法として、ひさめからはギャグで場を和ませるという提案があったのでとりあえず採用したが、本当にこれで良かったのだろうかと久美子は思った。

 

「ま、まぁ、えっと……高坂さんは私の事を何でも出来るって言ってくれたけど、私は全然何でも出来る訳じゃないんだ。だからこうやってみんなと仲良くなるために考えてきたギャグも滑るし、なんならドッカンドッカンの大爆笑を貰ったのなんて中学時代に後輩の前で披露した一回だけだし」

「……なんの話?」

「回りくどい事はなしで言うとね。昔の事を忘れるなんて出来ないし、忘れろなんて言えないし、なかった事には出来ない。でも、今私たちは同じ吹奏楽部の仲間としてここにいるから。私は高坂さんとも音を奏でたい。吹奏楽って、一人の音じゃ作れない。一人ひとりの音だけじゃ不完全で、みんなの音が合わさった時に吹奏楽の音楽になる。それが、私は本当に大好きで、出来るなら、みんなで心を一つにして、やりたい」

 

 そう言って、ひさめは立ち上がった。

 

「今までだって通じ合っていなかったとは思ってないよ。でも、出来る事なら、もっと深く、もっと強く」

 

 そして、手を差し出した。

 

「無理はしなくて大丈夫。出来る範囲で、一歩ずつ。一緒にやろう」

 

 たかだか握手と思うだろう。けれど、握手には様々な効果がある事が科学的に証明されている。

 手を握るだけで、ストレスが軽減される。オキシトシンという物質が分泌されるなど、本当に効果はある。

 

「私も、本当はこのままじゃ駄目だって、分かってる。だから……」

 

 麗奈は差し出された手を握った。

 

「ありがとう。実は、今も心臓がうるさくて、いきなりは難しいかもしれないけど、ちょっとずつ」

 

 やっと、この日が来たと、二人が手を握っている姿に思わず涙ぐむ。

 

「一つ、いい?」

 

 そして、麗奈が一つの提案をしたのを見届け、久美子は音楽室を出た。

 

 ▼△▼△▼△

 

 音楽室からはピアノとトランペットの音が漏れてくる。

 曲は『きらきら星変奏曲』。『きらきら星』は麗奈にとって、トラウマの一つを乗り越えた大切な曲だ。それを、ひさめと共に奏でる事を麗奈から提案した。

 これ以上ない、ぴったりな曲だ。

 ひさめから歩み寄ってもらうだけでなく、麗奈からも歩み寄れた。三年間付き合ってきた麗奈の成長を、こんなにも感じた事はなかった。

 

「やるじゃない」

「やるじゃん、黄前ちゃん」

 

 突然、廊下から音楽室の中を覗く久美子の肩に両サイドから腕を組まれた。

 

「えっ、夏紀先輩と優子先輩……?」

「倉崎と高坂を仲直りさせたんでしょ?」

「黄前ちゃんならやると思ってたよ、私は」

 

 振り向いてみれば、そこには晴香と香織が。

 

「ごめんね、どこからか聞き付けられちゃって」

 

 ひと仕事を終えた久美子は、夏紀と優子を中心にもみくちゃにされた。

 

 

 





 ○黄前久美子
 大仕事をやり遂げた。

 ○高坂麗奈
 トラウマと真正面から向き合った。

 ○主人公
 久美子とも、麗奈とも分かり合った。

 
 
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