いつか途切れた、音の続きを 作:いつかの音色
みぞれ先輩視点です。
よろしくお願いします。
──希美がいてくれるだけで良かった。
──希美がいてくれるだけで、良かったのに。
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それまでの人生が色あせていたなんて事は決してない。
両親には多大な愛情を注がれて何も不自由なく育った。友達はいなかったかもしれないが、人見知りで他人と話す事が苦手だったみぞれにとってそれはマイナス要素ではなく、リズムゲームなどの趣味もあって、そこそこに楽しく過ごしていた。
そんな、みぞれの人生が大きく変わる事になったのは、中学一年生の時だった。
自分一人だけの世界に籠もっていたみぞれを外の世界へと連れ出した傘木希美との出会いによって、人生は一変する。毎日が変わった。希美といると楽しかったのだ。
それはまるで生まれて初めて親鳥を見た小鳥のように。教室の隅に一人でいるようなみぞれとは正反対の存在だった。きっと、希美が吹奏楽部に誘ってくれていなかったら、みぞれから関わる事は一生なかっただろう。
最初は戸惑った。どうして急に誘われたのかなんて分からない。ただ、誘われて吹奏楽部に入部した事でみぞれの人生は輝き始めた。
充実した日々だった。
オーボエという希美とは違う楽器の担当にはなったが、一生懸命練習して、その音を聞いて希美が喜んでくれた。だから、もっと希美が喜んでくれるように、練習を頑張った。
一年生の時の吹奏楽コンクール、結果は関西大会銀賞。
二年生の時の吹奏楽コンクール、結果は関西大会金賞。
自分が入学する前の結果なんて知らないし、興味もなかったけれど、みぞれが入学してからの南中吹奏楽部は着々と良い結果を積み重ねていっていた。
ただ、それでも希美は満足していなかったから、みぞれも頑張って全国大会に行けるように練習を頑張った。希美も頑張っていて、きっと三年生の最後のコンクールでは全国大会に行けるものだとどこか楽観視していた。
「アンタらが倉崎に出ないように言ったんでしょ!」
「誰がそんな事言うか!!」
三年生最後のコンクール、その帰りのバスの中。
雰囲気は控えめに表現して最悪だった。
バスの中のあちらこちらから怒鳴り声。
言い合っている人たちと親しい訳ではない。名前すら怪しい人もいる。一言も話した事がない人の方が多い。
ここでなかったら、たとえ殴り合いの大喧嘩をしていたとしても何も思わず素通りしていただろう。けれど、ここは吹奏楽部。希美が導いてくれた吹奏楽部。
そんな吹奏楽部が、崩壊していく音が聞こえる。
膝を抱えて身体を丸めて、それでは音から逃げられなくて。両手で耳を塞いだ。
救いを求めるように、隣を見た。
希美は、静かに泣いていた。
その後に言い合いを止めに入った様子だったけれど。
ただ、希美は静かに泣いていた。
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当たり前のように、みぞれは希美と同じ北宇治高校へと進学した。
「希美、部活……」
「部活? もちろん吹奏楽部。みぞれは?」
「……私も」
ただ希美と一緒であれば何でも良かった。吹奏楽部じゃなくても良かった。むしろ、吹奏楽部以外の方が良かった。
吹奏楽部以外なら何でも良かった。希美がくれた音楽を続ける方法なんていくらでもある。学外の市民楽団に参加したって良いし、二人でどこか河川敷などで吹いたって良い。
けれど、希美はもう決めてしまっていたから。みぞれも追いかけるようにして吹奏楽部に入部した。
やっぱり吹奏楽部になんて入るんじゃなかった。
そう思うようになるまで時間はかからなかった。
希美と、南中時代から同じ吹奏楽部だった何人かが上級生とぶつかっていた。
希美以外とは、引退以来話していなかった。元々話すような間柄ではないというのもあったが、吹奏楽部崩壊からの喧嘩別れのような状態だったため、みぞれ側から避けていたというのもある。
また、こうなったと苦しくなった。その中心に希美がいて、余計に苦しくなった。
「の、希美……」
「コンクール、頑張って!」
希美たち一年生が誰もコンクールメンバーに選ばれない中、みぞれはただ一人メンバーに選ばれた。選ばれてしまった。
表面上では応援してくれた希美が、裏では上級生たちと衝突して傷付いていたのを知っている。上級生の悪意に晒されながらも、戦っているのを知っている。
希美が一緒に逃げようと言ってくれたら、喜んでついていくのに。希美が辞めるなら、何の憂いもなく辞められるのに。
でも、それを自分から言い出すだけの勇気はなかった。
頑張ってと言われたから、練習だけは一生懸命取り組んだ。一人になれるように、逃げるように個人練習に没頭した。
そんな頃だった。
希美を通して、倉崎ひさめが会いにきたのは。
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みぞれにとって、倉崎ひさめという名前に良い思い出はなかった。
それは何か嫌な事をされたという訳ではなく、その名が飛び交っていたのが吹奏楽部崩壊の現場だったからだ。それ以外で直接話した事もなければ、どんな顔だったかも覚えていない。
ただただその名前だけが嫌な記憶として残っているだけだった。
「お久しぶりです。みぞれ先輩」
「……うん」
校門前で待っているみたいと希美に言われ、言われた通りに校門を出たところへ言ってみれば、自分よりも少し身長の低い派手な髪をした少女に話しかけられた。
そういえば、中学の頃に見たような気もした。
「別に、気にしてない」
謝られたが、みぞれはただそう返した。
身に覚えがない、とは少し違うが、自分が吹奏楽部をめちゃくちゃにしたと言われても、そのめちゃくちゃになった場所に彼女はいなかったし、オーディションを辞退したからと言われても、みぞれからすればだからどうしたという話だった。
どうして謝っているのか意味が分からなかったし、なんならあの場で自分の名前が飛び交っていたら耐えられなかっただろうとも思った。むしろ、気の毒にすら思った。
ただ、希美の手引きでもあったし、変に付き返す理由もなかったため、そこから二言ほど交わして別れた。
それから少しの時間が経った。希美と一緒にいた同級生たちが退部したらしい。
いつの間に退部したのかなんて全然知らなかったが、希美を一人おいて退部してしまったらしい。
「希美……大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。みぞれは私の心配なんてしてる暇ないでしょ? もうすぐコンクールなんだから」
そのコンクールという言葉には、中学時代に感じた力が微塵も感じられなかった。
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もう会う事もないだろうと、そう思っていた。しかし、彼女との再会は驚くほどに早かった。
「みぞれ先輩〜この前ぶりですぅ」
学校の門を出た辺り。希美が誰かと話していると思ったら、彼女だった。
態度が違い過ぎて戸惑った。そして、近くの公園で会っているという話を聞いて、つい自分も一緒にとついていった。そこでは希美たちが数人で集まって楽器を吹いている様子だった。いつも家まで持ち帰っていたので、その時オーボエを持っていたみぞれも流れで参加した。
それからも、公園での会合は続いた。希美が参加していたから、みぞれも一緒に参加していた。
楽しかった。吹奏楽部という檻から解放されて、希美と共に音を奏でられて、楽しかった。
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今年の吹奏楽コンクールがようやく終わってくれた。
結果は府大会銅賞。どうでもよかった。
三年生が引退して、希美が少し元気になったような気がした。
それから少しして、ひさめの提案でアンサンブルコンテストに出る事になった。メンバーが増えて、先輩が三人増えたが、その三人は希美と衝突するような人ではなかったため、何も嫌な事は起こらなかった。
音楽自体、嫌いではなかった。むしろ、音楽は希美がくれたものだから、好きだった。
八人で『きたみなみ公園オクテット』と名付けられたこのグループでの演奏は、余計な事を考える必要はなく、そして吹奏楽部で感じていたようなストレスを全く感じる事がなかった。
「ひさめちゃん、今のところなんだけど……」
希美の視線は、いつもひさめの方を向いていた。それだけが、唯一不満があった点だった。どうしてその視線の先にいるのが自分ではないのだろうと、嫉妬のような感情を覚えながらも理解していた。
自分が希美に世界を変えてもらったように、希美も彼女に世界を変えてもらったのだろう。
自分がそうだったから、すぐに希美もそうなのだと気が付いた。
楽器の上手さでは敵わない。行動力でなんて敵うはずもない。
このオクテットは彼女の旗の元に集まったグループだ。たった一人中学生でありながら、一つ二つ年上の高校生を集めて従えている。従えているなんて表現しているが、進む道の先を示してくれるから、嫌な事も余計な事も考える暇もなく、ただ楽しかった。
──京都府アンサンブルコンテスト 職場・一般の部
──きたみなみ公園オクテット 混合8重奏 金 代表
呆気ないほどにあっさりと、オクテットはアンサンブルコンテストで関西大会進出を決めた。
「いつもお世話になっています、倉崎ひさめの母です〜」
「こちらこそお世話になって……」
「いつも娘から話は聞いてますー!」
結果が出る前。親たちが話しているのを不思議な感覚で眺めていた。
そして、その結果が出た瞬間。
「やった! やったよ、みぞれ!」
「……! うん……!」
笑顔の希美を見て、オクテットをやって良かったと、心の底からそう思った。
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吹奏楽部には顔を出していたが、ほとんどオクテット用の自主練のために行っているようなものだった。吹奏楽部自体は進んで行きたいものではなかったが、吹奏楽部の時間が終わってからのオクテットの事を考えれば以前ほどは苦痛ではなくなっていた。
「え〜? そんな時はぁ……フルートを振るーといいですよ!」
「ひさめちゃん、今日も調子良いね」
「希美先輩も髪の毛のハネが調子良いですね!」
「うん、これは寝癖だね」
オクテットの集まりは土日にもあった。強制力がある訳ではなく、ただ来たい人が来れば良いというもので、フルメンバーが揃っている時もあれば4人ぐらいしかいない時もあった。
希美はほとんど欠かす事がなかったため、みぞれも欠かさずに参加した。
始まる時間も決まってはいなかったが、いつしか自然とひさめが来る時間に合わせて来るようになっていた。みぞれとしては、正確にはひさめに合わせる希美に合わせて、ではあったが。
希美とひさめが並んで歩く、そのすぐ後ろをついていくように歩く。
希美と二人でいる時も、並んで歩くよりは希美の後ろをついていく事が多い。だから、希美の後ろを歩く事には何も思わない。ただ、その隣に人がいるという事だけは、少しだけ思うところがない訳でもなかった。
「──なんですけど、どう思います? みぞれ先輩」
「……え? えっと……」
「白鍵だけ急に言われてもやっぱり何の事か分からない人も多いんじゃない? ピアノと関連付けないと」
正直、一発ギャグとかはよく分からなかったし、そういう系の話は聞き流していた事も多かった。
でも、一緒にいて心地がよかったのも事実だった。希美を経由した視点では思うところがあったのは事実だが、希美関係なく一人の人間として見れば好印象な人物になっていた。
だだ、やっぱりどうしても希美の事を思考から排除して考えるというのは難しいもので。個人的には複雑な感情を抱きつつも、オクテットの活動は心の底から楽しかった。
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新年度になって、オクテットの活動は休止となった。
去年までの三年生がいなくなって、まだマシになっていた吹奏楽部は、新たに顧問となった滝昇という教師が来た事によってまたあちこちで嫌な声が聞こえてくるようになってしまった。
サンライズフェスティバルの前後で、一時はマシになったかと思えばコンクールのメンバーをオーディションで決める事になって、また逆戻りとなった。
何も聞きたくない。
他の声が入ってこないように、個人練習に没頭した。
一部の楽譜が変わって、またマシになった。でも、次またいつ同じような事になるか分からない。
もう、うんざりだった。
ずっと、苦しかった。
いつか崩壊してしまうなら、いっその事その前に辞めてしまった方が良いのではないかと、そんな考えが何度も浮かんでは消えて浮かんでは消えていった。
希美がいなかったら、とっくに辞めていた。
そもそも、希美がいなかったら入部すらしていなかった。
合宿が始まって、関西大会がどんどんと近付いてくる。
次はいつだろう。関西大会が終わった瞬間? それとも明日?
普段なら練習が終わり、帰宅する事で気持ちに一区切りをつけられるのに、合宿という都合上、吹奏楽部という空間から避難する事も出来ない。
夜、一人になれる場所を探した。
「あの、みぞれ先輩……」
一人で丸まって自分だけの世界に籠もっていると、みぞれだけの世界にズケズケと踏み込んでくる声がした。
倉崎ひさめ。
そもそも話す人間が少ないというのはあるが、その中でもかなり親しい分類に入る後輩だった。
「…………」
なぜか最近グイグイくるようになったのは謎だったが、そんな事よりもずっと気になっていた事があった。
随分と昔の事のようにも、つい昨日のようにも感じる中学最後のコンクール。
本人は自分の責任のように言っていたが、当日に急に辞めた訳でもなく、最初から参加しないという話になっていたのに、それが自分のせいなんて理屈が通っていない。通っていないのに、本人も周りも倉崎の名を口に出す。
なんてとばっちりだろう。
意味が分からない。そんな風に考える周りも、そんな状況になったのに当たり前のようにみんなの前に立てる彼女の事も。
途中で話を打ち切って、宿泊する部屋に戻ってきた。
布団の中に潜る。
全て忘れて眠ってしまいたかった。ずっと吹奏楽部という空間にいなければならない事もそうだし、勢い余って後輩に言わなくて良い事を言ったのもそうだ。
布団に入って何十分経っただろう。あるいは何時間経ったのだろうか。
自分の体内時計なんてあてにならず、外の情報をシャットアウトしているために時間なんて分かるはずもない。
「みぞれー、いる?」
そんな声が、みぞれの一人だけの世界に風穴を開けた。
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「お休み中だったのにすみません」
希美に連れられて来たのは、消灯して暗くなった食堂だった。
月明かりと少しの灯りだけが視界を照らす空間。そんな空間に彼女はいた。
「電気つけるねー。あ、つけて良いんだっけ?」
「良かったはずです。たぶん」
少し離れて希美がどこかのスイッチを押したのだろう。一気に視界が明るくなった。
「それじゃ、みぞれ。そこ座って?」
「う、うん……」
よく分からないままついてきた本当によく分からない状況だった。テーブルを挟んで正面に希美、その隣にひさめ。みぞれは二人と向かい合う位置に促されて座った。
心当たりが全くない訳ではなかった。つい先ほど後輩を困らせたという事実はある。だから、それを聞いた希美が説教をしようとしている、とか。
「まずはね。謝らないといけない事があって」
そう切り出したのは希美だった。
「こう言うと言い訳みたい……っていうか、言い訳でしかないんだけどさ。みぞれがそこまで悩んでたなんて思わなくて。頑張ってなんて、無責任だったよね」
「そんなことない……」
「ごめん」
「……あ、謝ってほしいなんて、思ってない……!」
たった一人、コンクールのメンバーにまざるのは苦しかったけれど、希美の言葉で頑張れた。それを否定するような事は、言ってほしくなかった。
「みぞれ先輩」
そして、引き継ぐように今度はひさめが口を開いた。
「私は音楽で一番大切なのは楽しむ事だって思ってるんです。それに比べれば、コンクールなんてどうだって良い。金賞とか、全国とか、オーディションとか、そんなのどうだって良いって思ってるんです。私は合奏が好きです。極論、それが出来れば何でも良いと思ってます。
みぞれ先輩。合奏は嫌いですか?」
「それは、別に……」
別に、合奏自体に思うところがある訳ではない。ただ、合奏をするためには吹奏楽部という空間にいる必要があって、それが苦しかったというだけで。
「みぞれ先輩、オーボエは好きですか?」
「……好き」
希美が喜んでくれたから。オーボエはみぞれにとって宝物だった。
「音楽は好きですか?」
「……音楽は、好き。音楽は……希美がくれたものだから」
希美がくれたものだから。音楽はみぞれにとって宝物だった。
だから、そんな音楽にすら嫌な感情を持ってしまいそうな空間が嫌いだった。
「聞いても良いですか?」
「なに?」
「今の吹部は、どうですか? 私の立場でこんな事を言うのはアレなんですが、今までの事を一旦棚上げして、今だけを見れば」
「……今は、いいけど。でも……いつまで続くか分からない。いつも、突然。明日になれば、また繰り返すかもしれないのが……怖い」
昨日や今日、ここ最近は良い。いつまでも今の状態が続くなら良い。
でも、みぞれは知っている。崩れるのは一瞬で、その時は突然やってくる。その時を、みぞれは怯えながら待つ事しか出来なかった。
「……みぞれ先輩。一つだけ、お願いを聞いてくれませんか?」
「……なに?」
「もう一度だけ、私にチャンスをくれませんか」
「チャンス……?」
「もう、あんな事は起こさせません。滝先生とも和解して、方針なんかも事前に共有するようにしてます。高坂さんとも話し合いました。他のみんなもそうです。先輩も、同級生も、みんなまとめます。私と晴香さんで、あんな部活中を巻き込んだ諍いなんて、もう起こさせません。だから、もう一度だけ。後の事なんて全部忘れて、一緒に音楽をしてくれませんか?」
正直に言うと、どうしてこんなにも言ってくるのか分からなかった。まるで彼女が原因で諸々の問題が起こったかのような言い方だ。百歩譲って中学のコンクールの件は少しぐらい原因と言えなくもないような事があったとしても、彼女が高校に入学してからの問題は全く関係ない。むしろ、解決する側に回っていたはずだ。
そして、彼女の力をもってしても解決するのは難しく、未然に防ぐなど、そんな事はきっと出来はしない。
「ねぇ、みぞれ」
今度は希美が引き継いだ。
「もし……もしも、だよ? もし、またみぞれが苦しいって思うような事が起きたらさ」
「うん……」
「一緒に、逃げちゃおうか」
「…………え?」
何を言われたのか、分からなかった。
「南中で吹奏楽を始めて、色々あって。あの時からずっと一緒にやってるのはもうみぞれと優子だけになっちゃった。それに、一緒にやろうって誘ったのはもう、みぞれだけしか残ってないんだよ?」
「希美……」
「だからさ。みぞれが苦しんでたって聞いて、そんなのはダメだって思った。それに、みぞれは知らないかもしれないけど、みぞれは私たちの希望だったんだ。ひさめちゃんに追いつけるかもしれない、その可能性があるならみぞれだって。まぁ、それはおいておくにしても、私はみぞれのオーボエが好きだから」
衝撃で、言葉が出なかった。
何も頭がまとまらない中、希美の名だけが口から溢れ落ちた。
「私は吹奏楽が好き。でも、それはここじゃないと出来ない訳じゃない。市民楽団とかね。だから、もしまた同じような事があったら、一緒に逃げちゃおう。それで、アンコンの時期になったら、またみんなで出よう。『きたみなみ公園オクテット』として」
それは、とても魅力的な誘いだった。
「だから、もう怖がらないでよ。何かあったら逃げちゃえば良いんだよ。その代わり、それまでは後の事なんて考えずに、ここで音楽をしよう」
何が起きても、希美が一緒に逃げてくれるなら、何も怖くはなかった。
一緒に逃げたいと、何度そう思っただろう。思っても口には出せなかった。もし口にしても、叶わないだろうとも思っていた。
たとえそれがその場限りの口約束だとしても、そう言ってくれただけで、どこか救われたような気がした。
「うん……!」
「じゃ、約束」
差し出された希美の小指に、自分の小指を絡ませた。
「明日から心機一転して頑張ろうね。私、先に部屋に戻ってるから」
「あ、うん……」
そして、指切りをしてすぐに希美は戻っていった。
その場にはみぞれとひさめの二人だけが残された。
「……倉崎さんは」
「はい」
「どうして、そんなに私にグイグイくるの?」
だから、勢いで聞いてみる事にした。
「なんだ、そんなこと……」
そう言って、ひさめは立ち上がり、長椅子に座るみぞれの隣に座ってズズズっと近付いてきた。
「そんなの、決まってるじゃないですか」
そして、みぞれの手を取って、正面から目を見据えて言った。
「みぞれ先輩ともっと仲良くなりたい。ただ、それだけですよ」
嫉妬なんて、笑い飛ばしてしまうほどあっさりと。
びっくりするほどまっすぐに。呆れるほど単純に。
話した回数なんて数え切れない。二人で話した事も何度もある。
けれど、思い返してみれば。こうしてまっすぐとその目を見たのは初めてだったかもしれない。
物理的に、ではない。どこか、心のどこかで直視出来ていない自分がいた事に、みぞれはたった今気が付いた。
「あ! 先輩と後輩ではありますけど、友達みたいに仲良く……友になるとも! みたいな」
「それはよく分からない」
「ですよねー」
相変わらずギャグなんてよく分からない。
ただ、何か今までとは見え方が違ったような気がした。
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翌朝。
「おはようございますっ」
まだ周りが寝ている中、起こさないようにゆっくりと起き上がり、部屋を出て少し進んだところにある椅子にひさめは座っていた。
まだ早朝だから声を抑えているのだろう。小声で叫んだような声にみぞれは出迎えられた。
「広場の方に日陰になってる場所、見つけておいたので!」
ひさめの手にはクラリネットのケース。みぞれの手にはオーボエのケースを持っていた。
昨日の夜、今朝に会う約束をしていたのだ。
案内されるまま宿泊棟を出て、スポーツでも出来そうな広場の方に歩く。少し歩いたところに、大きな木の陰になっている場所があった。
「ささ、どうぞ」
大げさな動きでどこから取り出したのか、ひさめが二、三人座れそうなレジャーシートを広げた。
クラリネットを組み立てているのを横目に、みぞれもオーボエを組み立てる。
思えば、オクテットの活動でも二人きりになった事はなかったかもしれない。
そうして、共に吹いたのはその時思い付いた曲。合わせる練習なんてしていない、とてもちぐはぐなデュエット。
でも、それこそがきっと、音楽なのだろう。
空に消えていく音を眺めながら、そう思った。
○主人公
Sounds Connected。
裏でオクテットメンバー+久美子を召集して「みぞれ先輩緊急会議」を開いた。黄前相談所からのアドバイスあり。
裏でも色々と動きがあったが、詳細は次回。
○傘木希美
言った事は本心だが、主人公の事を信頼しているので一緒に逃げる事になるとは思っていない。
台本というほどではないが、一部黄前相談所の受け売り。音楽をしようという言葉は主人公の受け売り。
○鎧塚みぞれ
音楽は嫌いじゃないし、合奏は嫌いじゃないし、楽器も嫌いじゃない。ただ、一度吹奏楽部が崩壊した事で、人間関係がギスギスする事がトラウマ。今年度だけでも数回そういう事があり、次いつあるかと怯えていた。
色々と吹っ切れたので精神デバフが解除された。