魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ   作:あのさぁBOT

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また長いです


第17話『掌握』

 カルステン公爵邸の応接室は、飾り気のない洗練された機能美に満ちていた。

 主であるクルシュ・カルステンは、麗人たる凛とした佇まいで上座に腰掛けている。その隣には『青』の称号を持つ治癒術師、フェリスが笑みを浮かべ、『剣鬼』と呼ばれた騎士、ヴィルヘルムが彫刻のように佇んでいた。

 

 案内したラインハルトが静かに部屋の隅へ退くと、室内には張り詰めた沈黙が満ちた。

 僕はスバルの隣に座り、彼の袖を握りしめて小さく丸まっていた。僕のすぐ後ろには、気配を完全に消したレムが、いつでも僕の首を刎ねられる間合いで直立している。

 

 「――話は、ラインハルトから大まかに聞いている。『剣聖』である彼が、これほど切迫した様子で私を頼るなど、過去に一度もなくてね。ナツキ・スバル、卿の口から詳細を聞こう」

 

 クルシュの琥珀色の瞳が、真っ直ぐにスバルを射抜いた。

 

 「……ああ、聞いてくれクルシュ」

 

 スバルは机に両手をつき、焦燥に飢えた三白眼をぎらつかせた。

 

 「数日以内に、魔女教が、大罪司教が動く。ターゲットはメイザース領、アーラム村とロズワールの屋敷だ。それも一人だけじゃねぇ。最低でも三人の大罪司教が同時に襲ってくる」

 「……大罪司教が、三人同時に、だと?」

 

 クルシュが眉をひそめる。

 だが、彼女の周囲に風は吹かない。スバルは『死に戻り』で経験した真実を語っている。主観において、彼の言葉には一辺倒の嘘も混ざっていないからだ。

 

 「そうだ! 奴らは理不尽な権能で村人を、レムを、エミリアを皆殺しにする! そして……」

 

 スバルは僕の肩をガシッと抱き寄せ、自分の胸元へと強く引き寄せた。

 

 「このアンちゃんを、奴らの邪悪な計画の『エサ』として利用しようとしてやがる。アンちゃんは魔女教に故郷を滅ぼされた被害者だ。ベアトリスが言ってた……奴らはこの子の魂に、触れた奴の頭を爆散させるおぞましい呪いを仕込んでる。奴らを殺そうとすれば、身代わりとして周りの人間が死ぬんだ! そんな理不尽、俺たちの力じゃ防ぎきれねぇ! だから、クルシュ、お前の私兵や人脈を貸してくれ! 数で包囲して、どうにかして呪いを発動させる前に大罪司教を暗殺する必要があるんだ!」

 

 堰を切ったように叫ぶスバル。

 クルシュは、じっとスバルの顔を見つめていた。彼女の『風見の加護』は、未だに静寂を保っている。スバルの言葉は、彼の「狂信」と「誤認」のままに、完璧な「真実」としてクルシュに観測されていた。

 クルシュは深く息を吐き、視線をスバルの背後にいるレムへと移した。

 

 「……レム。卿はロズワール卿のメイドだな。卿の主観から見て、このナツキ・スバルの言葉はどう映る?」

 「お答えします、カルステン公爵閣下」

 

 レムは一歩前に出ると、一切の感情を排した声で告げた。その氷のような視線が、スバルの腕の中にいる僕へと突き刺さる。

 

 「スバルくんの言う『襲撃の予感』に関しては、レムには判断がつきません。ですが……この『アン』と名乗る子供に関しては、明確な異常が存在します。この子供が屋敷に現れて以来、スバルくんの精神は急速に変調をきたしました。エミリア様を欺き、王都で狂ったように暴走している。レムの目には、この子供こそがスバルくんに認識阻害の呪いをかけ、魔女教の狂気へと誘導している元凶――すなわち、大罪司教の尖兵か、あるいは大罪司教そのものに見えます」

 

 室内の温度が、さらに数度下がった。

 レムの言葉にも、きっと風は吹かない。彼女もまた、自分の命と直感を懸けて、本気で僕を「化け物」だと確信しているからだ。

 

 「レム、お前……ッ!」

 

 スバルが激昂して立ち上がろうとしたが、それをクルシュの鋭い声が制した。

 

 「静かにしろ、ナツキ・スバル! ――フェリス」

 「はーい、クルシュ様」

 

 クルシュの目配せを受け、猫耳の治癒術師が軽薄な笑みを消して、僕の方へと歩み寄ってきた。

 フェリスの瞳にあるのは、大陸最高の水属性魔法使いとしての、生体組織を冷徹に見極める「医者」の目だ。

 

 「ちょっとその子を見せてね。フェリちゃんにかかれば、精神汚染だろうが認識阻害の術式だろうが、身体を見れば一発で分かっちゃうから」

 「っ!」

 

 僕はスバルの上着を強く握りしめ、本気で身体を震わせた。

 ラインハルトが後ろで見ている。下手な抵抗は身を亡ぼすだけだ。ここは、フェリスが魔女因子を発見できないことを祈るしかない。

 その次の瞬間――。

 

 「触るなって言ってるだろ!!」

 「痛っ!?」

 

 スバルがフェリスの手を荒々しく叩き落とし、僕を背中に隠して立ちはだかった。

 

 「どいつもこいつも、なんでこの子を疑うんだよ! クルシュ、お前の加護は嘘を見抜くんだろ!? 俺の言葉に、嘘があったか!?」

 「……いや。卿の言葉に、嘘はない」

 

 クルシュは厳かに首を振った。

 

 「卿は本気で魔女教の襲撃を確信し、本気でその子供が呪われた被害者だと信じている。それは私の加護が証明している。……だが、ナツキ・スバル。卿自身が『何者かに騙されている』あるいは『誤認している』場合、卿が真実だと思って吐く言葉は、私の加護では嘘と判定できないのだよ」

 

 クルシュの冷徹な指摘。

 政治家として、そして『風見の加護』の使い手として、彼女はスバルの言葉を正確に見抜いていた。スバルに嘘はなくても、スバル自身が狂っている可能性を、彼女は排除していない。

 

 「俺が騙されてるって言うのか!? アンちゃんが、俺を騙してると……!?」

 「それを今から確かめるのだ。そうだな、その子供自身の言葉で聞いてみよう」

 

 クルシュの琥珀色の瞳が、スバルの脇から覗く僕の顔へと向けられた。

 

 「アン、と言ったな。卿に尋ねる。――卿は、魔女教徒なのか? あるいは、ナツキ・スバルに何らかの術式を施し、彼を操っているのか?」

 

 ドクン、と心臓が跳ね上がる。

 ついに、質問の矛先が僕へと向いた。

 部屋の隅のラインハルトが、わずかに身を乗り出す。背後のレムは、いつでも鉄球を振るえるように指を曲げている。クルシュの周りには、僕の『嘘の風』を捉えるための不可視の檻が張られていた。

 ここで「違います」と言えば、嘘の突風が吹き荒れるだろう。

 僕はスバルの服を掴んだまま、涙でボロボロになった顔を上げて、クルシュを真っ直ぐに見つめ返した。

 

 「ぼくは……」

 

 喉を震わせ、子供特有の、怯えきった声を絞り出す。

 

 「ぼくは……死にたくなかった、だけ、です……っ」

 

 ぽろぽろと大粒の涙を零しながら、僕は擦り切れた声を絞り出した。

 呼吸を荒くし、スバルの上着に必死にしがみつく。指先が白く恐怖に染まるその姿は、世界の理不尽に怯えるただの子供そのものだった。

 

 「魔女教の人たちが……ぼくの故郷に、突然入ってきて……。みんな、殺されて、ぼくだけ、逃げて……。誰も助けてくれなくて、苦しくて……死にそうだったから、救いを求めて、あの村に、アーラム村に……たどり着いたんです……っ」

 

 しゃくり上げ、過呼吸気味に胸を上下させる。

 

 ――静寂。

 カルステン公爵邸の応接室を、耐え難いほどの沈黙が支配した。

 

 誰もが、クルシュ・カルステンへと視線を集中させている。彼女の周囲の空気を、張り巡らされた『風見の加護』の行方を、全員が固唾を呑んで見守っていた。

 やがて、クルシュはゆっくりと口を開いた。

 

 「――風は、吹かなかった」

 

 クルシュの厳かな声が、応接室の張り詰めた空気を静かに震わせた。

 

 「卿の言葉に、虚偽は一切含まれていない。……卿は本当に故郷を滅ぼされ、誰も助けてくれぬ絶望の中で、ただ死にたくないと願い、アーラム村へ辿り着いたのだな」

 

 僕はスバルの上着に顔を埋めながら、内心で安堵の息を漏らした。

 そうだ、先の僕の発言に嘘は無い。

 当然だろう。どれも、ペテルギウスに故郷を滅ぼされたあの日から、僕が見て聞いて感じた感情をそのまま伝えたのだから。

 

 「な、っ……!?」

 

 その瞬間、背後から突き刺さっていたレムの殺意が、激しい動揺へと変わるのを肌で感じた。

 完璧な正論で僕を「化け物」と断じ、その首を刎ねる大義名分を欲していた氷のメイド。彼女の自信に満ちていた瞳が、信じられないものを見たかのように見開かれ、呼吸を乱している。

 

 「嘘……そんな、そんなはずは……! この子供は、絶対に……っ」

 「ハハッ、見たかよ……!」

 

 動揺するレムとは対照的に、スバルが狂喜に満ちた勝ち誇るような笑い声を上げた。

 その三白眼には、自分の盲信が「世界のルール」によって肯定されたという、歪んだ全能感がみなぎっている。

 

 「聞いたろ、ラインハルト! レム! アンちゃんは嘘なんて吐いてねぇ! この子は本当に、ただ死にたくなくて必死に逃げてきただけの可哀想な子供なんだよ! 俺の目は、俺の心は、最初から間違ってなかったんだ……っ!」

 

 スバルは自分の正しさを誇示するようにガッツポーズした。

 

 「――待ってほしい、スバル」

 

 スバルの狂喜の声を遮るように、部屋の隅から静かな、けれど圧倒的な質量を持った声が響いた。

 ラインハルトが、その澄んだ青い双眸をこれ以上ないほど細め、僕たちを見つめていた。その表情には、友を疑うことへの深い苦渋と、騎士としての冷徹な義務感が同居している。

 

 「ラインハルト……? お前まだアンちゃんを疑ってんのかよ!」

 「いや、カルステン公爵の加護は絶対だ。彼女の言葉に嘘はない。……だが、僕の目が、さっきから一つの『違和感』を捉えて離さないんだ」

 

 ラインハルトが一歩、前へ踏み出す。それだけで、応接室の空気が肌を刺すような緊張感で張り詰めた。

 

 「スバル、君の魂と、そのアンという子の魂の間だ。……そこには、まるで血で編まれたかのような、どす黒く強固な『糸』の繋がりが見える。それも、一本や二本じゃない。君の存在そのものを、その子が完全に『所有』しているかのような……おぞましい、支配の糸だ」

 

 心臓が、本日何度目かも分からない、冷徹な停止を見せた気がした。

 

 (見えてる……! 奴の目は、僕の『傲慢』の呪いを視覚として捉えられるのか!!)

 

 全身の毛穴が開き、冷や汗がドッと溢れ出る。

 背中に回されたスバルの上着を掴む僕の指先が、恐怖でガタガタと目に見えて震え出した。

 

 「な、に……? 糸……だと?」

 「あぁ。普通の人間の間には、絶対に存在し得ない不自然な術式だ。スバル、君の精神の変調は、やはりその繋がりから流れ込む何らかの汚染によるものではないのかい?」

 

 ラインハルトの指摘は、核心に最も近い、鋭利な刃だった。

 だが――その最悪の刃を、スバルという最強の「誤認の怪物」が、その身を挺して弾き返した。

 

 「――それだよ、ラインハルトッ!!」

 

 スバルは、むしろ我が意を得たりとばかりに、目を血走らせて叫んだ。

 

 「それが、ベアトリスの言ってた大罪司教の『呪い』の正体なんだよ!」

 「……何だって?」

 「いいか、よく聞け! その未知の大罪司教の権能は、アンちゃんを『エサ』にして、周りの人間の命を数珠繋ぎにしてやがるんだ! 俺とアンちゃんが糸で繋がってるのは、俺がアンちゃんに触れて、その呪いの身代わりシステムに強制的に組み込まれちまったからなんだよ!」

 

 スバルは自分の頭を激しく叩きながら、ベアトリスから得た知識と、自身の都合の良い解釈を高速で混濁させ、一本の「偽りの真実」を編み上げていく。

 

 「あいつらは、アンちゃんの魂を所有物として定義して、盾にしてやがるんだ! アンちゃんを殺そうとする奴、傷つけようとする奴への攻撃を、全部この糸を介して俺や村人の頭に跳ね返らせて爆散させる! だから、その糸はおぞましくて当然だ! 魔女教のクソ野郎が仕込んだ、最悪の罠の痕跡なんだからなぁッ!」

 

 ドン、とスバルが机を激しく叩いた。

 その言葉、その叫び。――嘘の風は、一切吹かない。

 

 「……」

 

 ラインハルトが、言葉を失ったように目を見開いた。

 スバルの主張には、歪なほどに辻褄が通っていた。カルステン公爵の加護がスバルの「真実」を証明し、アン自身の口からも「嘘のない無実」が証明されている。ならば、この不気味な糸は、スバルの言う通り「魔女教の術者が仕掛けた身代わりの呪印の産物」と解釈する他ない。

 

 「……ラインハルト。念のため、お前がその手で確かめてくれ。私の加護が嘘を検知せずとも、魔女因子の残滓までは追えない」

 

 クルシュの厳格な命に、ラインハルトは深く頷いた。

 

 「分かりました。……アン、少しだけ失礼するよ。君を傷つけるつもりはない」

 

 赤髪の剣聖が、僕の前にしゃがみ込む。

 今度はスバルも手を叩き落とさなかった。ラインハルトの触診による「無実の証明」が、僕を救うために必要だと判断したからだ。

 ラインハルトの黒手袋に包まれた手が、ゆっくりと、僕の細い手首へと触れた。

 

 (――ッッ!!)

 

 脳髄が焼け付くような圧迫感。世界そのものに検閲されているかのような、全能の気配が僕の体内へと侵入してくる。

 もし、僕の奥底にある『傲慢』の魔女因子が引きずり出されたら、その瞬間に僕の首は飛ぶ。

 僕は奥歯を噛み締め、呼吸を止め、ただひたすらに、己の中の「無垢な被害者」の殻に閉じこもった。僕はただの子供だ。死にたくないだけの、哀れな子供だ――。

 

 ……数秒の、永遠にも思える停滞の後。

 ラインハルトは、ゆっくりと僕の手首から手を離した。

 

 「……どうだ、ラインハルト」

 

 スバルの問いに、ラインハルトは複雑な表情のまま、静かに首を横に振った。

 

 「……確かに、魔女の瘴気は感じられる。だけど、それがこの子自身の力なのか、あるいは外から植え付けられた呪いなのか……かなり巧妙に隠されていて、僕の『加護』の目をもってしても、それが命を掌握する呪いの術者であるという、明確な確証は得られなかった。スバル、君の言う『外付けの呪いの盾』という説を、否定することはできない」

 「……ハッ、ハハッ…! 見たか! 見たかよ!!」

 

 ラインハルトの口から下された審判に、スバルは狂ったような歓喜の声を上げ、僕をこれ以上ないほど強く抱きしめた。その三白眼には涙さえ浮かんでいる。

 世界最強の『剣聖』と、世界最高峰の『嘘暴き』が、僕の無実を証明したのだ。これ以上の免罪符がこの世にあるだろうか。

 

 「アンちゃんは白だ! 俺たちの仲間だ! これで文句ねぇだろ、レム!!」

 

 スバルに 怒鳴りつけられたレムは、まるで自分の世界が根本から崩壊したかのように、青ざめた顔で立ち尽くしていた。

 彼女の鋭い野生の直感は、未だに僕を「邪悪」だと告げている。しかし、敬愛するスバルの狂信、公爵閣下の加護、そして絶対的なラインハルトの言葉が、すべて彼女の直感を「間違い」だと圧殺したのだ。

 

 「レムの……レムの目は、間違って、いた……? スバルくんを苦しめているのは、この子ではなく……本当に、魔女教の……」

 

 レムはガチガチと奥歯を鳴らし、絶望に染まった目で、観念したように小さく、小さく頷いた。

 その瞬間、彼女の僕への殺意は、行き場を失った歪な「罪悪感」へと反転する。

 僕はスバルの胸に顔を埋めたまま、内心で狂おしいほどの愉悦に身を震わせた。

 

 (勝った。勝ったんだ……! この世界の誰も、僕を暴くことはできない!)

 

 スバルの盲信という名の防壁は、ついに僕を完全なる「聖域」へと押し上げた。

 だが、この歪みきった勝利の余韻に浸る時間は、唐突に遮られた。

 

 ――コン、コン。

 

 飾り気のない応接室の扉に、鋭く、規則正しいノックの音が響いた。

 室内の誰もが、その音に視線を向ける。クルシュが「……入れ」と静かに許可を出した。

 

 ガチャリ、と重厚な扉が開く。

 入ってきたのは、一人の若い騎士だった。

 

 「失礼いたします、クルシュ様」

 

 騎士は緊張した面持ちで一礼した。

 その声、鎧の隙間から見える顔、そして何よりも――その魂の奥底に見え隠れする、僕がかつて刻み込んだ『傲慢』の残滓。

 

 (――あ)

 

 僕の思考が、一瞬で凍りついた。

 思い出した。覚えている。忘れるはずがない。

 あれは、ペテルギウスとシリウスと共に行動していた時、偶々遭遇した騎士団の内の一人だ。

 シリウスに精神を捻じ曲げられ、嬉々として僕の権能にかかり、情報を漏らされないようペテルギウスに誓約を課された男。

 そんな彼が、何故ここにいる。

 

 「……フェリス、ラインハルト。そろそろ時間のようだ」

 

 クルシュが厳かに告げ、怪訝な顔をするスバルへと視線を向けた。

 

 「スバル、卿たちの話の途中だが、ラインハルトが今日ここへ来た本来の目的は、この騎士の検診なのだ。卿たちも知っているだろうが、最近、王都付近の巡回を担当していた騎士たちが、魔女教と鉢合わせてしまってね。それで、命を掌握する呪印を刻まれてしまったんだ。彼もその一人で、その呪印についてより詳しく調べるべく、彼とラインハルトに協力を頼み、フェリスと共に診ることにしたのだ」

 「あの、王国騎士団の……?」

 

 スバルが眉をひそめて騎士を見る。

 だが、僕にはそれ以上の言葉が聞こえなかった。

 

 (まずい。まずいまずいまずい、なんでここにいる、なんでこの男が――!)

 

 心臓が、今度こそ完全に破裂したかと思うほどの衝撃で跳ね上がった。

 全身の血の気が一引きに引き、頭の芯がカッと熱くなる。

 

 若い騎士は張り詰めた室内の空気に緊張しながらも、主であるクルシュへ向けて進み出ようとする。

 そして、その途中で、スバルの背後に隠れている僕の顔を、正面から視界に捉えた。

 

 「あ――」

 

 騎士の足が、ピタリと止まった。

 怪訝そうに眉をひそめた彼の瞳が、僕の姿を凝視する。

 僕の記憶が彼を思い出したように、彼の記憶の底に眠る、あの日の光景が、僕という引き金によって一瞬で呼び覚まされたのだ。

 ペテルギウスの狂気。シリウスの悪夢。そして、その中心にいた、僕という存在を。

 

 「あ、ああ、あ、ッ…………!?」

 

 騎士の顔から、みるみるうちに血の気が失せていく。

 喉の奥から、人間とは思えない掠れた悲鳴が漏れた。ガチガチと音を立てて上下の歯が震え、彼の端正な顔が、恐怖のあまり見る影もなく歪んでいく。

 

 「ど、どうしたの? そんなに怯えちゃって……」

 

 異変を察したフェリスが声をかけ、手を伸ばそうとした瞬間だった。

 

 「ひ、ヒィィィィィィッッ――!!」

 

 騎士は短い悲鳴を上げると、まるで頭上から雷を落とされたかのように、その場に激しく取り乱して腰を抜かした。

 ガシャガシャと金属鎧を床に打ち鳴らし、狂ったように足をバタつかせて、僕から距離を取ろうと必死に後ずさる。その股間からは、恐怖のあまり失禁した液体が床を濡らしていた。

 

 「な、なんだ!? おい、どうしたんだよお前!」

 

 スバルが驚愕して声を上げる。レムも、ヴィルヘルムも、即座に武器の柄に手をかけた。

 

 「狂乱……!? いや、これは精神攻撃を受けているわけじゃない!」

 

 フェリスが鋭く叫び、腰を抜かした騎士の肩を掴んで揺さぶる。

 

 「しっかりして! 何を見たの!? 何がそんなに怖いの!?」

 「あ、あ、ああ……ッ! あの子、子供、が……ッ!!」

 

 騎士は白目を剥きかけながら、泡を吹く口で、まっすぐに僕を指差した。

 ――ガタ、と誰かが椅子を蹴立てる音がした。

 それがクルシュなのか、ヴィルヘルムなのか、それともスバルなのか、僕の脳はもう認識していない。

 

 (言わせない)

 

 それだけが、僕の脳のすべてを支配した。

 

 (言わせない言わせない言わせない! ここまで積み上げた僕の、僕だけのパーフェクトコミュニケーションを、そんな過去の遺物に壊されてたまるか……ッ!!)

 

 「『一名消費』」

 

 混乱に乗じて、誰にも聞こえない声でそう宣言すると、若い騎士は、まるで糸の切れた人形のように力を失って崩れる。

 彼の、これから生きるはずだった命がエネルギーとして僕の身体に流れ込んでいく。

 ――ドサリ、と重苦しい金属音が応接室に響き渡った。

 彼の指先は一つとして動かない。排泄物と冷や汗で汚れた床に身体を委ねて、彼は完全に沈黙した。

 

 「――ッ!? おい、嘘だろ、何が起きた!?」

 

 スバルが素っ頓狂な声を上げて身を乗り出す。

 その隣で、フェリスが即座に騎士の身体へ飛びつき、両手に溢れんばかりの淡い青光を灯した。

 治癒魔法の輝きが男の背中を包み込む。だが、大陸最高の治癒術師の顔は、みるみるうちに驚愕と戦慄に染まっていった。

 

 「……死ん、でる……? 術式じゃない、衰弱でもない、脳の破壊でもない……! 『命』そのものが、一瞬で消滅してる……ッ!?」

 「何だと……!? フェリス、それはどういうことだ!」

 

 クルシュが毅然とした態度を崩し、鋭く叫んだ。彼女の周囲の空気が、かつてないほど激しく波打っている。

 フェリスは信じられないものを見る目で、自分の両手を見つめ、それから絶命した騎士を見つめた。

 

 「わかんない、わかんないよクルシュ様! 心臓も、ゲートも、脳も、どこも壊されてないの! ただ、この人の持つ『命』そのものが、根こそぎ消えてる……! こんなの、魔法じゃない、医療の歴史にだってこんな症例は……っ!」

 

 カルステン邸の応接室を、底のない恐怖が満たしていく。

 誰もが、この不可解極まる「突然死」の理由を理解できずにいた。

 ただ一人、僕を除いて。

 

 (はぁ、はぁ、はぁ……ッ)

 

 僕の身体の奥底に、若い騎士から吸い上げた『命』のエネルギーが、濁流のように流れ込んでいた。

 それは本来、僕の身体を強化し、癒やし、命の代わりになれる潤沢な光だ。しかし、今の僕にとっては、冷え切った内臓を焼き焦がす劇薬のように重苦しく、悍ましい質量を持っていた。

 僕はスバルの上着を千切れるほど強く握りしめ、彼の背中に顔を押し当てた。

 口から漏れそうになる荒い呼吸を、必死に噛み殺す。

 

 大丈夫だ。男は死んだ。僕の正体を知る者は、これでこの場から消え去った。

 騎士が狂い、そして死んだ理由は、スバルがさっき言った『大罪司教の呪い』のせいにすればいい。魔女教に遭遇した騎士だから、僕を見た瞬間に発動する遅効性の呪いが仕込まれていたのだと、スバルなら、スバルならきっとそう解釈してくれる――。

 だから、大丈夫なんだ。大丈夫。絶対に。

 

 「スバル」

 

 静かな。

 あまりにも静かで、地響きのように重い声が、僕の思考を完全に停止させた。

 

 「――そこから離れるんだ、スバル」

 

 部屋の隅。いや、いつの間にか、僕たちのすぐ目と鼻の先に、その男は立っていた。

 ラインハルト・ヴァン・アストレア。

 彼の透き通った青い瞳は、もはや揺らいでもいなければ、困惑してもいなかった。

 友を思いやる苦渋の色彩は綺麗に削ぎ落とされ、そこにあるのは、世界を護る『剣聖』としての、絶対的な冷徹さだけだった。

 

 「ラインハルト……? お前、何言って……」

 「いいから離れるんだ!!」

 

 ラインハルトの怒号が応接室を震わせた。床のガラス瓶が微かに鳴るほどの風圧。

 スバルがビクッと肩を跳ね上げる。ラインハルトがこれほどの声を出すのを、スバルは一度も見たことがなかった。

 

 「ラインハルト、何に気づいた」

 

 クルシュが冷や汗を流しながら尋ねる。

 そのただならぬ気配に、ヴィルヘルムさえも抜剣の一歩手前まで腰を落としている。

 

 「さっき、僕はこのアンという子の魂から、スバルへと伸びるおぞましい血の糸が見えると言った。……それは間違いなかった。スバルの言う『外付けの呪い』という説も、辻褄は通っていたんだ」

 

 ラインハルトは、僕を。スバルの背後に隠れる僕の瞳を、真っ直ぐに見据えた。

 

 「だけど、今、この騎士の命が消え果てた瞬間……その理由が完全に理解できた。――見えたんだ。僕の『魂を見出す加護』が、今の全てを捉えていた」

 

 一歩、ラインハルトが足を進める。

 その瞬間、僕の生存本能が狂ったように警鐘を鳴らした。逃げろ、と。この男の前に一瞬でも留まれば、魂ごと消滅させられると。

 

 「この騎士の命が消滅した瞬間、彼の身体から溢れ出た『命』は、外へと霧散したんじゃない。……スバルの背中にいる、その子の身体へと、一直線に吸い込まれていった」

 「……な、に……?」

 

 スバルの声が、微かに震えた。

 

 「その子が、その騎士の命を直接吸い取ったんだ。つまり――」

 

 ラインハルトの手が、ゆっくりと握りしめられる。

 それだけで、応接室全体の空気が、物理的な質量を持って僕の身体を圧し潰しにかかってきた。

 

 「スバルと繋がっているあの血の糸。あれはただの『身代わり』なんかじゃない。……その子がスバルの命を、いつでも自分の都合で喰い殺せるように、魂の根元を咥え込んでいる『捕食の牙』だ」

 

 ラインハルトの青い瞳が、完全に据わっていた。

 

 「君は被害者なんかじゃない。……他者の命を弄び、喰らい、自分の都合で容易く刈り取る存在。――間違いない。君は、魔女教大罪司教、あるいはそれに並ぶ、世界を脅かす存在だ」

 

 『剣聖』による、絶対の断定。

 

 その言葉の重みに、応接室の全員が息を呑んだ。

 レムの瞳に、一度は消えかけた野生の殺意が、さらに凶悪な灯火となって再燃する。ヴィルヘルムの剣が、鞘から数センチだけ滑り出で、キィンと鋭い金属音を立てた。

 

 言い訳は、もう通用しない。

 ラインハルトの『加護』の目は、僕が咄嗟に行った『一名消費』のエネルギーの移動を、完璧に視覚として捉えていた。僕がどれだけ無垢な子供の顔をしようとも、世界のシステムそのものが僕を「黒」だと告げていた。

 

 (終わった……)

 

 僕の頭の中で、ガラガラと音が立てて、完璧だったはずの砂の城が崩れていく。

 ラインハルトが動けば、僕は一瞬で塵になる。いくらストックがあろうとも、この男の攻撃を前にすれば、一秒間に何百回も殺され続け、すぐにストックが枯渇して終わる。

 

 「――ふざけるな」

 

 地を這うような、低い声だった。

 それが僕の喉から発せられたものだと気付くのに、少し時間がかかった。

 スバルの上着を掴んでいた僕の指先が、怒りと悔しさでガチガチと激しく震える。

 視界が、急激に溢れ出してきた涙で歪んでいく。ボロボロと、悔し涙が頬を伝って床に落ちた。

 

 「ふざけるな……ッ! 何が『世界を脅かす存在』だ! 何が捕食の牙だ! 勝手なことばかり言うな……ッ!!」

 

 僕はスバルの背中から飛び出すようにして、ラインハルトを、クルシュを、この部屋のすべてを睨みつけた。

 子供の小さな身体から、抑えきれない感情が怒号となって爆発する。

 

 「僕は、ただ平穏に生きたかっただけなのに……! あの不潔で狂ったペテルギウスたちから離れて、やっと、やっとスバルっていう騎士を見つけてッ、懐柔してッ、これから静かに暮らせると思ったのにッ……! なんで、なんで邪魔をするんだお前たちはよぉッ!!」

 

 涙を袖で乱暴に拭っても、次から次へと溢れてくる。喉が締まって、声がひび割れた。

 

 「余計なことをするな……! あの騎士が勝手に僕を見て怯えたから、だから消しただけじゃないか! そうしなきゃ僕が殺されるから! 僕は死にたくないんだ! 死にたくないから、殺されないように抗った!! それがそんなに悪いことかッ!?」

 

 ラインハルトを見上げ、僕は泣きじゃくりながら、その正義の顔に言葉をぶつけた。

 

 「おい、ラインハルト……ッ。お前、僕をどうする気だ……?」

 「……」

 

 ラインハルトは、悲哀の混じった、けれど冷徹な瞳のまま僕を見下ろしている。

 

 「これ以上、他者の命を奪わず、大人しく縛につくというのなら……君の身の安全は保証する。騎士団の牢獄へ、拘束にとどめるよ」

 「拘束……? ハッ、ハハハ……ッ!」

 

 僕は涙に濡れた顔で、狂ったように笑った。

 

 「その後はどうするんだよ!? 魔女因子の研究か? 拷問か? それとも見せしめの処刑か!? どのみち碌なことにはならない……ッ! そんなの、僕の望んだ未来じゃない! 僕はただ、誰にも脅かされずに、綺麗で安全な場所で、美味しいものを食べて眠るだけの、平穏な人生を送りたかっただけなのに……ッ!!」

 

 切実な僕の叫びが、応接室の洗練された壁に跳ね返って虚しく消える。

 誰も、僕の涙に同情などしなかった。

 ラインハルトの目は冷徹な正義のままで、レムの鉄球は静かにその質量を殺意へ変え、クルシュの琥珀色の瞳は「害獣」を見るそれに据わっている。

 誰も僕の味方はいない。この世界は、僕のような弱者にどこまでも冷酷だ。

 ――ただ、一人を除いて。

 

 「……ぁ」

 

 僕は、自分のすぐ隣で、石像のように硬直している男を見上げた。

 

 ナツキ・スバル。

 彼は半開きにした口から、間抜けな呼吸を漏らしたまま立ち尽くしていた。

 その三白眼は、狂喜の光を失い、かと言って怒りに染まることもできず、ただ完全な「空白」となって僕を見つめている。

 

 『あの不潔で狂ったペテルギウスたちから離れて』

 『やっとスバルっていう騎士を見つけて、懐柔して』

 『あの騎士が勝手に僕を見て怯えたから、だから消しただけ』

 

 僕が自らぶちまけた、偽りのない本音の数々。

 それが、スバルがこれまで必死に築き上げてきた「可哀想なアンちゃんを守る正義の俺」という防壁を、粉々に爆破したのだ。

 スバルの脳が、現実の拒絶と理解の狭間で、ガタガタと音を立てて回路を焼き切っていく。僕を信じ抜いた彼の魂は、今や見る影もなく無残にひび割れていた。

 

 それを見て、僕の胸の奥底から、ドロリとした昏い感情が湧き上がった。

 ああ、せっかく完璧な盾になってくれたのに。せっかく僕の「パーフェクトコミュニケーション」の礎になってくれたのに。

 たった一人の騎士の乱入で、こんなにもあっさりと壊れてしまうなんて。

 

 「――しょうがないな、スバルは」

 

 涙に濡れた顔のまま、僕の唇が、酷く冷ややかな形に歪んだ。

 もう、子供のフリをする必要すらなくなった声。それは鈴を転がすように愛らしいものだが、それでいて打算に満ちた濁った声をしていたに違いない。

 

 ラインハルトが、一歩、僕との間合いを詰める。その黒手袋が僕の細い肩に伸びてくる。

 もう、時間切れだ。

 

 僕は呆然と立ち尽くすスバルの正面へと回り込み、彼の虚ろな瞳を、真っ直ぐに見据えた。

 そして、これまでで最も美しく、最も傲慢な笑みを浮かべて、彼の鼓膜へと呪いを叩き込んだ。

 

 「改めて自己紹介してあげる。僕は魔女教大罪司教『傲慢』担当、アンタレス・アンドロクトヌス」

 

 室内の空気が完全に凍りつく。

 名乗られた大罪の重みに、クルシュが、フェリスが、ヴィルヘルムが、一斉に息を呑む気配がした。レムの鉄球が鎖を鳴らし、ラインハルトの圧がより強くなった。

 だけど、僕の視界には、もうこの壊れかけた男しか映っていない。

 

 「ねぇ、スバル」

 

 名前を呼ばれ、スバルの瞳の奥の焦点が、ピクリと僕の顔に合わさった。

 死に瀕した魚のような、哀れな、哀れな僕の騎士。

 

 「……あ、ん……ちゃ……」

 

 掠れた、今にも消えそうな声で、スバルが短く返事をする。

 その間抜けな呼び方に、僕は心底から愛おしさと、それ以上の滑稽さを感じながら、彼の胸元へと細い手を伸ばした。

 このままでは彼は壊れ切ってしまう。それは困る。

 だから、レムより先に、僕が彼に発破をかけてやろう。

 

 「次はちゃんと、僕を助けてね」

 

 ラインハルトの指先が、僕の首の皮膚に触れた。骨が軋む。

 レムの鉄球が空気を引き裂き、僕の脳頭蓋を粉砕せんと迫る。

 そのすべての暴威が僕を消滅させるよりも、ほんの一瞬、僕の権能がスバルの魂を刈り取る方が出色の差で早かった。

 

 「『一名消費』」

 

 ドクン、と。

 スバルの胸の奥から、彼自身の「命」の輝きが、僕の手のひらを伝って根こそぎ吸い上げられていく。

 確かな生命の終わりと共に、スバルの三白眼から完全に光が消えた。

 膝から崩れ落ちる彼の身体が、床に到達するよりも早く。

 僕の意識は、底のない真っ暗な闇の底へと、真っ逆さまに落ちていった。

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