魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ 作:あのさぁBOT
「――ぁ」
喉の奥から、乾いた掠れ声が漏れた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた、どこまでも広がる青い空。鼻腔をくすぐる、土と緑の匂い。耳に届くのは、のどかな鳥のさえずりと、遠くで薪を割るような規則正しい音。
アーラム村だ。ロズワール邸のすぐ麓にある、あの平穏な村の、広場の真ん中。
『死に戻り』した。その事実だけが、冷徹な事実として俺の脳の片隅に表示される。
だけど、俺の身体は、指先一つとして動かなかった。
いつもなら、死の恐怖を乗り越え、最善の未来を掴むために、即座に思考をフル回転させるはずの脳細胞が、今はただ、真っ白な灰のようになって沈黙している。
視界が、ぐらりと歪む。
つい数瞬前まで、指十分に触れていたはずのあの感触――俺という存在そのものを、根こそぎ奪い去っていった、あの冷たくて、底の見えない『死』の奔流。
そして、耳に残る、鈴を転がすような、けれど吐き気がするほど完成された『傲慢』の宣告。
『僕は魔女教大罪司教『傲慢』担当、アンタレス・アンドロクトヌス』
「……は、ぁ、……っ」
肺が空気を拒絶するように、喉がヒリつく。
あの子が笑っていた。あの子が泣いていた。あの子が、俺の袖を掴んで震えていた。
あのすべてが、計算だった? あの涙の粒ひとつひとつまで、俺を『懐柔』するための、おぞましい演出だったのか?
「……嘘だ。んな、……そんなわけねぇだろ……」
俺は虚空を見つめたまま、独り言を漏らす。
目の前では、村の子供たちが笑いながら走り回っている。この中に、あの『傲慢』が混じるというのか。あんなに小さくて、放っておいたら死んでしまいそうな、守らなきゃいけないはずの子供が。
「――おい、おい! スバル!」
突然、肩を強く揺さぶられた。
焦点の合わない俺の瞳に、心配そうに顔を覗き込む村人の男が映り込む。
「ど、どうしちまったんだよ。急に真っ青な顔して固まっちまって。……おい、聞こえてるか?」
「…………あ」
「ああ、やっと返事をした。……それより、さっき、村の外れで迷子を見つけてな。見たことない子なんだが、ひどく怯えてんだ。あんたなら、ほら、子供の扱いにも慣れてるだろ? ちょっと見てやってくれないか」
迷子。
その言葉に反応するように、俺はゆっくりと、幽霊のような足取りで向かって行った。
そうだ。分からないことなら聞けばいい。あの言葉の真相を。あの子の正体を。
村にある休憩所の椅子に、その子は座っていた。
ボロボロの衣服、泥に汚れた細い手足、物理的にも、そして何よりも、世界を恐れるように小さく丸められた背中。
つい先刻、カルステン公爵邸の応接室で、世界を、ラインハルトを、指示を出す側として俺を完璧なまでに嘲笑ってみせた、あの冷酷な大罪司教の面影はどこにもない。
そこにいるのは、ただただ、か弱く、今にも消えてしまいそうな一人の子供だった。
「……ぁ」
俺の足音が響くと、その子がびくりと肩を跳ね上げ、涙に濡れた顔を上げた。
澄んだ瞳が、恐怖と、それからかすかな救いを求めるように俺を捉える。
いつも通りだ。俺が「守らなければならない」と心から誓い、そのために命さえ投げ出してもいいと思えた、無垢なアンの姿がそこにあった。
脳裏を、彼女の本音がよぎる。
『やっとスバルっていう騎士を見つけて、懐柔して』
あの冷え切った、全てを見下すような声。
あの言葉は、本当にこの子の口から発せられたものだったのか。あの血の糸は、ラインハルトの言葉は、本当に正しかったのか。
「アン……ちゃん……」
かすれた声で名前を呼ぶ。
俺は一歩、また一歩と、泥を掴むような足取りで子供へと近づいた。
前のループの記憶が、俺の心をガチガチと締め付ける。裏切られたという事実を受け止めろと、脳が警鐘を鳴らしている。だが、目の前で震える小さな身体を見ていると、どうしてもその拒絶が鈍る。
こいつは、本当に化け物なのか? あんな風に俺を騙し、弄び、命を喰らう大罪司教なのか?
「……お前、は……」
俺は子供の前に膝をついた。許しを請うように、両膝を。
目線を合わせる。いつもなら、安心させるように優しく微笑みかけるはずの距離。しかし今の俺の顔は、引きつり、血の気が引き、見る影もなく恐怖に歪んでいた。
「お前は、なんだ……?」
すがるような、問い詰めるような声。俺の両手が、震えながら子供の細い肩へと伸びる。
「なぁ、『次』って……どういう意味だ………?」
俺の絞り出すような言葉が、冷たい風に乗って二人の間に落ちた。
掴んだアンタレスの細い肩。触れた感触は、どこまでも脆く、ただの子供のそれだった。だが、俺の発した言葉の質量は、その場の空気を一瞬で凍りつかせるに十分だった。
「……え」
アンタレスの喉が、引きつったように鳴る。
涙に濡れていたはずのその澄んだ瞳から、一瞬にして『子供の怯え』が綺麗に剥ぎ取られた。代わりに浮かび上がったのは、見開かれた驚愕と、底知れない戦慄。
彼女の顔が、さあっと青く染まっていく。
「―――ッ」
アンタレスの判断は早かった。
彼女は素早く椅子から飛び立ち、村の正反対、森の奥へと走り去っていく。
「待って、くれ……っ!」
我に返った俺の喉から、みっともない悲鳴が飛び出した。
弾かれたように立ち上がり、もつれる足を必死に前に動かす。
なんで逃げるんだ。どうして何も言ってくれない。
今の反応は何だ。あの怯えを剥ぎ取った顔は、見開かれた驚愕の瞳は、まるで――俺が何を知っているのか、完全に理解しているような、そんな。
「アンちゃん! 待って、くれよ……っ! 話を、話を聞かせてくれ!」
叫びながら、村の広場を突っ切り、木々の生い茂る不気味な森の入り口へと飛び込む。
視界の先、木漏れ日の隙間を、あの小さな影がひらひらと縫うように駆けていく。信じられないほど素早い。子供の足のそれじゃない。だけど、そんな冷徹な事実を脳が処理するのを、俺の心が拒絶していた。
嘘だと言ってほしかった。
あの応接室での言葉はたちの悪い嘘だったんだと。自分はやっぱり、何も知らない可哀想な子供なんだと、そう言って笑いかけてほしかった。
懇願するように、祈るように、俺は手を伸ばす。
「アンちゃん……っ! 俺だ、スバルだ!! お前を、守るって言った……っ!!」
バキ、と突き出た木の根に足を取られた。
視界が強烈に回転し、受け身も取れずに地面へと激しく叩きつけられる。
顔面を泥と枯れ葉が覆い、胸を強打して肺から酸素が強制的に吐き出された。
「カハッ……!」
惨めな呼吸が漏れる。痛みに視界がチカチカと明滅する。
だが、痛みに構っている余裕なんて一秒だってない。
俺は這いつくばったまま、顔を上げて前を見た。
「あっ……ぁ……」
いない。どこにも、いない。
ただ、不気味に静まり返った緑の木々が、嘲笑うように俺を見下ろしているだけだ。
「アンちゃん!! どこだ、どこにいるんだよぉッ!!」
泥まみれのまま立ち上がり、なりふり構わず周囲の藪をかき分ける。手のひらが茨で裂け、血が滲んでも気づきもしない。
一心不乱に、狂ったように、ただあの小さな存在を探して、深い森の奥へと足を突き動かす。
「――スバルくん! そこまでです!」
背後から、鋭い声と共に、強い力で身体を組み伏せられた。
背中に回された柔らかな、けれど絶対に抗えない硬度を持った腕。強引に地面へと引き戻され、俺は泥の上に組み敷かれる。
「放せ! 放してくれレム! あの子が、アンちゃんがそこに――!」
「ダメです! これ以上先は、ウルガルム……魔獣の生息域です。今のスバルくんが入れば、確実に命を落とします!」
「魔獣なんてどうでもいい! あの子が行っちまったんだよ! 一人で、あんな危ないところに!」
「落ち着いてください、スバルくん!!」
俺を押さえつけるレムの声には、明確な焦燥と、それ以上の深い困惑が混ざっていた。
そりゃそうだ。レムからすれば、さっきまで普通に過ごしてた俺が、突然見たこともない子供に奇妙な問いかけをぶつけた挙句、発狂したように森へ乱入したのだから。
レムが俺の肩を掴み、無理やりその青い瞳と視線を合わせる。そこにあるのは、純粋に俺を心配する、いつも通りの優しいレムの目だ。
前のループで、今や正論とは言えないものに圧殺され、絶望に染まって小さく頷いていたあのメイドの姿は、今のレムにはない。
「あの子供が何者かは分かりません。ですが、スバルくんの今の状態は異常です。……その傷を癒すためにも、一度屋敷へ戻りましょう」
「異常」、か。
ああ、そうだな。異常だよ。レムの言う通りだ。
俺を組み伏せるレムの腕の温もりを感じながら、俺の心は、じわじわと冷酷な現実の毒に侵食されていく。
――あの子は、俺の問いを聞いた瞬間、青ざめて逃げ出した。
もし本当に何も知らない無垢な子供なら、「次って何?」と聞くだけだ。あんな「青ざめた顔」で逃げ出すはずがない。
アンちゃんは――否、アンタレスは、知っていたのだ。
俺の『死に戻り』のことを。
そして何より――彼女が『死に戻り』という世界の理不尽を、確かにその手で引き起こしたという事実が、俺の心に突き刺さる。
「……あ、あはは……」
泥まみれの地面に顔を伏せたまま、俺の口から、乾いた笑いが漏れた。
レムが俺の身体を心配そうに抱き起こし、ハンカチで額の泥を拭ってくれている。その甲斐甲斐しい手の温もりが、今の俺には酷く遠い世界の出来事のように思えた。
認めたくなかった。
魂の根元を咥え込んでいる『捕食の牙』。ラインハルトの言ったあの言葉が。
『やっとスバルっていう騎士を見つけて、懐柔して』と吐き捨てた、あの冷ややかな嘲笑が。
すべて、あの剥き出しの、おぞましい『真実』だったのだと、脳がようやく、最悪の形で理解を完了させていく。
――魔女教大罪司教『傲慢』担当、アンタレス・アンドロクトヌス。
彼女は俺を騙していた。
徹底的に、完璧に、ナツキ・スバルという「お人好しの阿呆」を都合の良い盾にするために、あの小さな身体のすべてを使って踊ってみせていたのだ。
王都で俺が狂ったように暴走したのも、エミリアを傷つけるような真似をしたのも、すべては彼女がそうするよう仕組んだもの。
レムの直感は、最初から一ミリだって間違っていなかった。
「スバルくん……? しっかりしてください。レムがついています。何があったのか、お屋敷でゆっくりお話ししましょう」
レムの気遣わしげな声に、俺はゆっくりと首を縦に振った。
俺は、深く、深く息を吐き出しながら、前回のループの最後、アンタレスが追い詰められた瞬間の姿を頭の中で反芻していた。
完璧だったはずの防壁が崩れ、ラインハルトに正体を暴かれたあの時。
彼女は、ボロボロと大粒の涙を零しながら、喉をひび割れさせて激昂していた。
『勝手なことばかり言うな』
『そうしなきゃ僕が殺されるから! 僕は死にたくないんだ!』
『平穏な人生を送りたかっただけなのに……!』
あの時、彼女がぶちまけた剥き出しの感情。
……あれは、演技なんかじゃない。
どれほど他者を欺き、他者の命を虫ケラのように喰らい尽くす悪辣な怪物であっても――あの瞬間に彼女が叫んだ「生への凄まじい執着」だけは、紛れもない本物だった。
誰にも脅かされず、綺麗で安全な場所で、美味しいものを食べて眠りたいという、あまりにも矮小で、けれど切実な願い。それだけは、彼女の魂の底から出た真実だったのだ。
悪辣な手段を用いて、誰かの命を贄にしてまで、あいつはただ「生きたい」のだ。
死の恐怖から逃れるために、世界のすべてを呪いながら、必死に抗っているのだ。
「……だったら、なぁ」
泥を握りしめる俺の指先に、じわりと、熱い力が戻ってくる。
思い出すのは、王都へ向かう前、ロズワール邸の一室でアンタレスと交わした会話だ。
彼女が、人々の命を掌握する未知の大罪司教が、仮に怯えるだけの子供だったらどうするのかと聞いてきた時、俺は確かにこう言った。
――もし、そのクズが……本当はお前みたいに、ただ生きたくて、怖くて、誰かに助けてほしかっただけの子供なんだとしたら。……俺は、そいつをぶん殴って、泣き喚くそいつを引きずり回してでも、まずは『やめろ』って言ってやる――って。
「……ああ、そうだ。言ったさ。言ってやったよな、俺は」
あいつは大罪司教だ。世界を脅かす、邪悪そのものの化け物だ。
だけどその本質は、自分の死が怖くて、他人の命を貪り食うことでしか生きられない、ただの『怯える子供』だ。
だったら、やることは一つだけだ。
「スバルくん……?」
俺の雰囲気がガラリと変わったのを察して、レムが小さく息を呑む。
俺は泥まみれの顔を上げ、アンタレスが消え去った不気味な森の奥を、真っ直ぐに睨みつけた。その三白眼には、先ほどまでの絶望も、狂気も、困惑も、綺麗さっぱり消え失せていた。
ただの子供のフリをして俺を騙したこと、それは許さねぇ。
俺の心を、レムの心を、みんなの心を泥足で踏みにじったこと、それも絶対に許さねぇ。
だけど、お前がその薄汚い手を使ってでも「生きたい」と願うなら、その矮小な願いだけは、俺が、このナツキ・スバルがへし折って、別の形で叶えてやる。
他人の命を喰らわなきゃ生きられないっていうなら、その歪んだシステムごと、俺が叩き潰してやる。
お前を、ただ平穏に生きるだけの、ただの子供にしてやる。
「待ってろよ、アンタレス。……お前がどれだけ悪辣で、どれだけ強大でも関係ねぇ」
俺はゆっくりと立ち上がり、茨で裂けた手のひらの血を、自分の上着で手荒に拭った。
「宣言通り、殴ってでも、お前を止めてやる」
静まり返った深い森の奥から吹き抜ける風が、俺の熱を帯びた決意を、ただ冷徹に、そしてどこまでも遠くへと運んでいった。