魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ 作:あのさぁBOT
逃げなければ。スバルから。出来るだけ遠くへ。
「はぁッ、はぁッ…!」
あばら骨の隙間で、心臓が耳障りな音を立てて暴れ回っている。
泥を跳ね上げ、森の腐葉土を蹴りながら、僕はただ、ひたすらに走っていた。衣服の裾が茨に裂かれようが、鋭い枝が頬を斬ろうが、そんな痛みに構っている余裕なんて一秒だってない。
失敗した。いや、失敗していたのだ。前のループで、僕はやらかしたのだ。
アーラム村で、スバルが発したあの疑問が僕の脳を衝く。
『お前は、なんだ……?』
あの懐疑的な目。あの絶望を孕んだ瞳。あの僕の存在を否定したがっているような表情。
間違いなく、僕とスバルは初対面では無いし「か弱い少女」と思ってくれているわけでも無い。
あの時、スバルが見せた瞳は、僕の擬態を透かし、その奥にある本性を見据えていた。
だから、逃げる。理屈じゃない。生存本能が、あの男の傍に一秒でも留まるなと、全身の細胞を総毛立たせて悲鳴を上げたのだ。
『なぁ……「次」ってどういう意味だ………?』
「はぁッ、なんでっ、なんで前回の僕はそんな大事な事言ったんだよ…っ!!」
僕は、前回の僕に問いただしたい気持ちでいっぱいだった。
一体何があって、どういう流れで彼の『死に戻り』を知っていることを教えたのか。そんなことを教えれば、スバルの中で僕という存在の警戒度が上がることなんて目に見えているというのに。
そして実際、彼は僕を警戒していた。それはもう、信じられないものを見るような様子で。
「前の僕のバカ…ッ!!」
可能なら殴り飛ばしたい。正気かとひっぱたきたい。
だがそれは叶わぬ願いだ。時は巻き戻り、もうその失敗は何処にもない。スバルという男の記憶にのみ存在する幻だ。
その幻のせいで、今の僕が殺されるなんてたまったものじゃない!
「アンちゃん!! どこだ、どこにいるんだよぉッ!!」
足がもつれ、激しい音が後ろで響いた。スバルが転んだのだ。同時に響く、彼の必死の絶叫。
「――っ!」
僕はその声を、耳を塞ぐようにして思考から締め出した。そして振り返らない。絶対に。
僕はさらに速度を上げ、影のように密林の深奥へと滑り込んでいく。
走って、走って、感覚が麻痺するほど走った。
アーラム村の喧騒が遠ざかり、代わりに周囲を包み込むのは、不気味な静寂と、『魔女の残り香』の入り混じった腐臭。
たどり着いたのは、深い岩陰に隠された、暗い洞窟の入り口だった。
「はぁッ……っ! はぁッ……っ!」
洞窟の冷気が、火照った肌を刺す。僕は衣服の泥を払う余裕もなく、千切れそうな息を吐きながら、暗闇の奥へと足を進めた。
奥から聞こえてくるのは、ぶつぶつと呪詛のように繰り返される、不快で、けれど今の僕にとっては唯一の防壁となる、あの狂った男の声。
「――脳が、震える」
暗がりの奥、松明の歪な炎に照らされて、その男はいた。
魔女教大罪司教『怠惰』担当、ペテルギウス・ロマネコンティ。
歪に首を傾げ、狂気に濁った瞳をらんらんと輝かせながら、自身の指を血がにじむほどに噛みちぎっている。
僕が足をもつれさせながら這い入ってきたというのに、彼はじろりと、その充血した眼球をこちらに向けるだけだった。
「……ああ、ああ、ああ! 何ということデスか! なんという姿デスか、アンタレス! 我が同胞、同じく魔女の寵愛を授かりし『傲慢』でありながら、その有様は一体何事デスか! 見苦しい! 見苦しい見苦しい見苦しいぃッ!」
ペテルギウスは突如として自分の髪をむしり取り、狂ったように頭を壁に打ち付け始めた。
「福音に記された試練の時は近いというのに! あなたがアーラム村に仕込んだ『備え』はどうしたのデス!? 何故、そのように泥にまみれ、怯えたネズミのように戻ってきたのデスか! それが、魔女の愛に応える姿勢デスか! ……あなた、まさか――『怠惰』ではありませんか?」
狂人の放つプレッシャーが洞窟の空気を震わせる。
『怠惰』。その言葉には底知れない殺意が混ざっていた。それもそうだろう。彼から見れば、先んじて潜入調査をしてくると言って、すぐに尻尾を巻いて逃げてきた愚か者にしか見えないだろう。
言葉を間違えれば死ぬ。なんとかして、僕が『怠惰』ではないことを証明しないと。
僕は膝をつき、肩を激しく上下させながら、狂い震える男を見上げた。
「……見つかった、んです」
「なんデスと……?」
ピタリ、とペテルギウスの動きが止まった。
だらりと垂れ下がった両腕。裂けるような口端から涎をこぼしながら、彼は凝視してくる。
「見つかった? 誰にデス? 騎士団デスか? それともロズワールの手先デスか?」
「違い、ます…。もっと、予想だにしないような存在です……」
僕は乾いた喉を鳴らし、必死に言葉を紡ぐ。
「……漂っていたんです。尋常じゃない量の『魔女の残り香』が……っ! 大罪司教の僕たちなんかよりも、ずっと、ずっと濃密で、まるで魔女の執念そのものを全身に浴びて生きているような……そんな気配を漂わせた奇妙な装いの男が、あの村にいたんです……!」
「……名前は分かりましたか?」
「……ナツキ・スバル、という男です」
僕がその名前を口にした瞬間、洞窟内の空気が一変した。
ペテルギウスの、血走った二つの眼球が限界まで見開かれる。だらりと垂れ下がっていた男の身体が、まるで壊れた人形がバネで弾かれたかのように、ガクガクと奇妙な動きで直立した。
「ナツキ、スバル……」
ペテルギウスはその名前を、噛み砕き、咀嚼するように口の中で転がす。
その歪な顔に浮かんだのは、純粋な驚愕と、それを一瞬で塗りつぶすほどの不気味な歓喜だった。
「ああ、ああ、ああ! なんということデスか! 大罪司教をも凌駕するほどの寵愛! 魔女の残り香! それはまさに、神意! 福音に導かれし運命の歯車デス! しかし、アンタレス! あなたがそれほどまでに怯える理由にはなりません! その男が寵愛の信徒であるならば、むしろ我らの歩みを祝福する存在のはずデス!」
「それだけじゃ、ありません……!」
僕は首を激しく横に振り、たった今肌で感じてきた恐怖を必死に繋ぎ合わせながら、さらに言葉を絞り出した。
「あの男、僕を……『知って』いました。初対面のはずなのに、僕が普通の子じゃないと完全に怪しんで、見透かすような目で問い詰めてきたんです。まるで、僕がこれからすることや、起きることをすべて分かっているかのように!」
言いながら、背筋に冷たいものが走る。
スバルは『死に戻り』でループしている。それは知識として知っていた。だけど、直接その眼差しを向けられ、前の僕がやらかした「失言」のツケを払わされる恐怖は、文字通り次元が違った。
前のループの最後に僕が何をやったのかなんて、今の僕にはわからない。だけどきっと、スバルは全部覚えているのだ。僕が大罪司教『傲慢』であることも、すべて。
「僕の正体を、最初から知っているみたいだったんです……。そんなの、絶対に普通じゃない。あの男は、魔女教徒じゃない。僕たちの計画の何もかもを台無しにするかもしれない化け物です……!」
ペテルギウスの狂気を利用してでも、この場から遠くへ逃げる口実を作りたかった。スバルという爆弾から、一刻も早く距離を置きたかった。だから必死に、その危険性をまくし立てる。
しかし、ペテルギウスの反応は僕の予想の斜め上をいっていた。
「――すべてを、分かっている?」
ペテルギウスは不気味なほど静かに、けれど深く、その言葉を繰り返した。
そして次の瞬間、ガハッ、と喉を鳴らして、狂ったような高笑いを洞窟内に響かせた。
「ヒヒッ、ヒハハハハハハハハハッ!! 素晴らしい! 素晴らしいデス、アンタレス! それこそが『試練』! それこそが魔女が我らに与えし至上の寵愛! すべての運命を見通し、我らの前に立ちはだかる壁としての役目を授かった男! ああ、なんと深く、なんと重い愛を、その男は注がれているのデスか!!」
「え……?」
話が通じない。わかっていたことだけど、全く通じていない。
危険だから逃げよう、と言外にアピールしたつもりが、この狂人にとっては「最高の障害」が現れたとしか認識されていない。
「怯える必要など万に一つもありません! 我らは大罪司教! 魔女の愛を体現する者たちデス! その男がどれほど我らを見透かそうとも、我らの『勤勉』が、あなたの『傲慢』が、それに劣るはずがないのデスからァ!」
ペテルギウスは自らの顔を両手で覆い、指の隙間から歓喜に歪んだ目を僕に向けた。
「アンタレス! 仕込みを変更しマス! 半魔の娘はもちろんのこと、そのナツキ・スバルという男がどれほどの器か、この私の目で、直々に確かめて見せまショウ! これぞ試練! これぞ歓喜デス!!」
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
僕の制止の声など、この狂った信徒の耳には一ミリも届かなかった。
「素晴らしい、素晴らしいデス、アンタレス! その男があなたを見透かして動きを制限しようというのなら、それ以上にこちらの動きを先鋭化させるまで! あらかじめこちらの正体を知り、警戒している不確定要素が存在する……ああ、なんと、なんと『勤勉』が試される状況なのでしょう!」
ペテルギウスは、激しくガクガクと首を折り曲げながら、僕の小さな両肩をバチンと力任せに掴んだ。骨が軋むような痛みに、僕は思わず声を上げそうになる。
「アンタレス、恐るるに足りません。むしろ、短時間でそれだけの情報を持ち帰ったあなたの働き、それぞまさに『勤勉』。魔女の寵愛に値する、大罪司教に相応しい執念です」
「あ……あはは、ありが、とうございます……」
褒められた。狂人に、全力で褒め称えられた。
冷や汗が背中をダラダラと伝い落ちる。ただスバルから逃げ出すための言い訳として「あいつはヤバい化け物だ」とまくし立てただけなのに、ペテルギウスの狂った思考回路は、それを「アンタレスが命懸けで持ち帰った極上の偵察成果」として処理してしまったらしい。
とにかく『怠惰』だと断じられて殺される最悪のルートだけは回避できた。そこだけは心底ホッとした、のだけど。
「ならば! そのナツキ・スバルがあなたを『知っている』という事実を、そのまま我が方の計画に組み込みまショウ! これぞ福音の導き、運命の反転デス!」
「え……組み込む、って……?」
嫌な予感しかしない。
僕が恐る恐る尋ねると、ペテルギウスは裂けた口元をさらに吊り上げ、顔中の血管を浮き上がらせて言い放った。
「試練の当日、あなたがその男の『囮』となるのデス!!」
「……えっ!?」
余りの提案に、頭が真っ白になった。
ペテルギウスは僕の肩を掴んだまま、らんらんと輝く狂気の瞳を押し付けてくる。
「その男はあなたを警戒し、あなたの動向を追う。ならばそれを利用しない手はありません! あなたが村の周辺で泳ぎ、その男を引きつけて孤立させる! その隙に、私と指先たちで半魔の娘を器足りえるか確かめ、その後その男のもとへ参り、精査し、試練を完遂させるのデス! ああ、なんとなんとなんと『勤勉』に満ちた役割分担なのでしょう!」
――ヤッ…! イヤッ…!
そんな叫びが、喉元まで突き上げてきた。
スバルの囮になる? 冗談じゃない。先程のスバルの執念に満ちた泥臭い怒りを見ていないから、この狂人はそんな気楽なことが言えるのだ。
今のスバルは、僕が『死に戻り』を認識していること、そして大罪司教であることを、明確に知っている。あの男を敵に回して、のうのうと囮なんてこなせるわけがない。もし捕まったら、今度こそどんな目に遭わされるか分かったものじゃない。
「いや、僕は……そういうのは、ちょっと苦手というか……他に適任が――」
「――何か?」
僕の言いかけた拒絶の言葉を遮るように、洞窟の空気が、一瞬で凍りついた。
ペテルギウスの顔から、さっきまでの不気味な歓喜が綺麗に消え失せる。代わりに浮かび上がったのは、ドス黒い、底の知れない虚無の狂気。
ペテルギウスの背後の空間が、歪に歪み始めた。
見えない。僕には見えないけれど、そこに『見えざる手』が、無数に展開されていることだけは、肌を刺すような殺気でハッキリと分かった。
間違いない。ここで「嫌だ」と突っぱねたら、この男は僕を同胞ではなく『怠惰』な裏切り者と断じて、その瞬間に首をへし折る。
死ぬ。確実に、今ここで殺される。
スバルも怖い。だけど、今目の前で血走った目をしているこの狂人は、今すぐ僕の命を奪える位置にいるのだ。
生存本能が、一瞬で僕の拒絶の言葉をゴミ箱へと投げ捨てさせた。
「……ち、違います! 違います、ペテルギウスさん!」
僕は大慌てで両手を振り、顔を引きつらせながらも、必死に「相手の望む言葉」を選び取って笑顔を作った。
「拒むわけないじゃないですか! 僕だって魔女教の大罪司教『傲慢』です! 試練を成功させたい気持ちは、あなたと同じですよ……っ!」
「……ほう? では、囮の役目を果たしてくれるのデスね?」
背後の殺気が、ほんの少しだけ和らぐ。僕は心臓が跳ね上がるのを必死に抑え込みながら、涙目でコクコクと頷いた。
「は、はい……! やります、やらせてください! ただ……その、ナツキ・スバルは本当に未知数で、化け物じみた執念を持っています。僕一人じゃ、もしもの時に危ないかもしれないので……」
僕は上目遣いでペテルギウスを見つめ、衣服の裾をきゅっと握りしめて、か弱い子供のフリを全開にして懇願した。意味があるかは分からないけれど。
「ペテルギウスさんの指先たちを、何人か僕の護衛につけてくれませんか? ……僕、一人では、勤勉に囮をこなせるか不安なんです…」
ペテルギウスの戦力を少しでも僕の防衛に割かせれば、スバルに襲われた時の生存率は上がるだろう。多分。少なくとも、一人で行動するよりはマシだ。そしてどうにか隙を見て、何処かに逃げよう。そうしよう。
僕の言葉を聞いたペテルギウスは、しばし沈黙した後、再びガハッと顔を歪めて笑った。
「――よろしい! あなたの『傲慢』なまでの生への執着、それもまた魔女への愛の形デス! 指先を数人、あなたの影に潜ませまショウ! その男を存分に翻弄し、我らの『勤勉』を魔女へと知らしめるのデス!!」
「……っ、ありがとうございます! ちゃ、ちゃんと、僕のことを守ってくださいね?」
ペテルギウスが試練に向けて計画を立てに行くのを見届けながら、僕は深く、深く息を吐き出した。
ひとまず、即死イベントは回避できた。
だけど、状況は何一つ好転していない。僕は試練の当日、あの得体の知れない怒りに燃えるスバルの『囮』として、再び彼と対峙しなければならないのだ。
(どうしてこうなったんだよ、もう……っ!)
僕は洞窟の冷たい床に座り込み、自分の細い両腕を抱きしめてガタガタと震えていた。
ただ安全に、平穏に生きたいだけなのに。
世界の理不尽と、二人の狂った男たちの思惑の狭間で、僕の心臓はいつ止まってもおかしくないほどに鳴り響いていた。