魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ   作:あのさぁBOT

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第25話『呼ばれてないのに来るな』

 「はぁッ、はぁッ、はぁッ……!!」

 

 肺が焼けるような熱を帯び、視界が加速した風景で塗り潰されていく。

 僕は今、音速の壁を食い破る速度で、メイザース領の深い森を疾走していた。

 背後には誰もいない。あの赤髪の死神――ラインハルトを、僕はまいたのだ。

 

 「あはは、あはははは! やった! 今度こそ、逃げきれる!」

 

 泥を跳ね上げ、巨木の間をすり抜ける。

 身体能力の向上により、世界が琥珀の中に閉じ込められたように静止して見える。このままメイザース領を脱出し、誰も僕を知らない場所へ逃げ込めば、僕の「平穏な人生」へのリスタートは完遂されるはずだった。

 だが、逃走の最中、脳裏にある思考がよぎった。

 

 (……待てよ。ここで僕だけ逃げて、本当に助かるのか?)

 

 疾走する脚が、わずかに揺らぐ。

 僕は、前世の知識を総動員して、現在の状況を再計算した。

 

 今、この森のどこかでは、おかっぱの狂人ペテルギウスが、スバルたちを『試練』にかけているはずだ。

 もし、あいつの『見えざる手』がスバルの心臓を握りつぶしたらどうなる?

 スバルが死ぬ。――それはつまり、『死に戻り』が発動するということだ。

 

 (……ダメだ。そんなことは、起きてはならない)

 

 ゾッとするような戦慄が背筋を駆け抜けた。

 スバルが死んで時間が巻き戻れば、僕が今、百人もの命を犠牲にしてまでラインハルトから逃げ切ったという「事実」もすべて無に帰す。

 僕は再び、あの九死に一生を得るような経験をしなければならないのだ。

 しかも、今のスバルは僕の正体を「知っている」。

 ループを繰り返せば繰り返すほど、彼の僕に対する執着と警戒心は研ぎ澄まされていく。ラインハルトに真っ先に僕を殺したり気絶させるよう進言するかもしれない。

 

 (スバルが死んだら、僕のこの苦労が全部パーだ。彼には、この「僕が逃げ切った世界」を確定させてもらわなきゃ困る!)

 

 スバルの死の戻りのセーブが何処で行われるかは分からない。僕と言う存在がいる時点で、原作と同じタイミングでセーブされるなんてお気楽な想定はしない。

 しかし、ある程度の予測は出来る。セーブのタイミングは、彼が命の危機に直面する瞬間と、それを乗り越えた後だ。

 そして、今、スバルはペテルギウスという命の危機と対面している。

 

 「……クソッ! 僕がどうにかしなきゃいけないのかよ!」

 

 僕は毒づきながら、疾走するベクトルを強引に捻じ曲げた。

 行き先は、不浄な『魔女の残り香』が濃密に漂う、あの狂人のいる戦場。

 『傲慢』の権能によって強化された感覚が、森の奥で爆ぜるマナの残滓と、ペテルギウスの耳障りな高笑いを捉えた。

 

 「いた……!」

 

 密林を強引に突き抜けた先、そこは地獄だった。

 ひしゃげた巨木。抉れた地面。そして、数十本の『見えざる手』の気配が、獲物を囲い込むように蠢いている。

 その中心で、満身創痍のスバルが、エミリアとレムの後ろで膝をついていた。

 対峙するのは、自らの指を噛み砕きながら悦に浸るペテルギウス。

 

 「ああ、どうやら、アナタたちの勤勉は、ワタシの勤勉に届かなかったようデス! アナタたち、怠惰デスねぇ?」

 

 ペテルギウスの背後から、ひときわ巨大な『見えざる手』が鎌首をもたげる。それは無防備なスバルの喉元を、一瞬で握りつぶそうと放たれた。

 

 「やめろッ!!」

 

 僕は叫びと共に、その場へ乱入した。

 音速を超えた僕の身体が、スバルとペテルギウスの間に割って入る。

 着地の衝撃だけで周囲の地面がクレーター状に陥没し、凄まじい衝撃波がペテルギウスの『見えざる手』を強引に弾き飛ばした。ついでに、スバルを庇うように立ちふさがっていたレムとエミリアを転がした。

 土煙が舞い上がる中、僕は返り血を浴びた『処刑人の大剣』を地面に突き立て、双方を見据えた。

 

 「……ふぅ……間に合った」

 

 僕は肩で息をしながら、ゆっくりと振り返った。

 驚愕に目を剥き、絶望と疑念の入り混じった瞳で僕を見上げる、スバルの貌を見下ろす。

 

 「……アン、たれ……す……?」

 

 スバルの掠れた声。

 僕は、泥と血に汚れた顔で、彼に敵意を向けられないよう最高に猫被った愛らしい笑みを浮かべてみせた。

 

 「死なせないよ、スバル。君にはまだ、やることがあるんだから」

 

 土煙の向こう側で、血走った眼球を剥き出しにして、奇怪なポーズで固まっているペテルギウスを睨みつける。

 僕の背後では、スバルが絶望と困惑が入り混じったような顔で僕を見上げている。エミリアやレムも、何が起きたのか理解できずに立ち尽くしていた。

 

 「アンタレス……! あ、アナタ、何の真似デスかぁぁあああッ!!?」

 

 ペテルギウスが自らの指を噛み砕きながら、鼓膜を抉るような絶叫を上げた。彼の背後では、数十本の『見えざる手』が狂ったようにうねり、周囲の空間を不吉に歪ませている。

 

 「これは『試練』デス! 魔女の寵愛を確かめるための、崇高で勤勉なる愛の儀式デス! それを同じ大罪司教であるアナタが、何故、何故、何故なぜなぜなぜぜぜぜ…ッ!! 邪魔をするのデスかぁ!!」

 

 ペテルギウスは、顔中の血管を浮き上がらせ、泡を吹きながら僕を問い詰めた。彼にとって、僕の乱入は『福音』に記されていない、最大級の『怠惰』に見えているのだろう。

 

 「……何故、か」

 

 それは、この狂人に説明する義理はないだろう。

 僕は処刑人の大剣を肩に担ぎ直し、強化された脚でゆっくりと一歩、前へ踏み出した。

 今の僕の身体には、ラインハルトから逃げ切るために注ぎ込んだ『百人分の命』のエネルギーが、未だに濁流となって駆け巡っている。視界は異常なほど冴え渡り、ペテルギウスの放つ不浄なマナの揺らぎさえもが、スローモーションのように手に取るように分かった。

 

 「……強いて言うなら……ペテルギウス。お前が邪魔なだけだ」

 「――ッ!!」

 

 足に力を込める。

 ペテルギウスは僕の重心の変化に気付いたようで、彼は喉元まで出掛かっていた様々な疑問を飲み込み、代わりに権能の名を叫んだ。

 

 「『見えざる手』ェ!!」

 

 僕は一歩、踏み込んだ。

 音速を超えた僕の動きに対し、空気はその質量を押し返せず爆ぜ、衝撃波がクレーターを広げた。

 殺到する『見えざる手』の隙間を、僕はただの一度も止まることなく潜り抜ける。

 百の命を薪にした僕の速度は、すでに人の認識できる領域を超えていた。

 

 大剣を振り下ろす。

 

 鉄の塊が、ペテルギウスの頭頂部から股下にかけて、一切の抵抗を許さずに通り抜けた。

 大罪司教の痩せ細った身体は、まるで紙細工のように無惨に、左右真っ二つに分かたれた。

 切断面から鮮血が噴き出す間もなく、凄まじい衝撃波がペテルギウスの半身をそれぞれ正反対の方向へと吹き飛ばした。背後にあった巨木が、その余波だけで何本もへし折れていく。

 真っ二つになったまま、地面に転がったペテルギウスの首が、一度だけ痙攣するように動き、そして静止した。彼の背後で蠢いていた不可視の腕の群れも、霧が晴れるように一瞬で消失した。

 

 森に、耳を刺すような静寂が戻った。

 

 僕は返り血を浴びた大剣を地面に突き立て、荒い呼吸を整えながらゆっくりと振り返った。

 そこには、口を半開きにしたまま、文字通り石像のように固まっているスバルたちの姿があった。

 

 「……嘘、だろ……」

 

 スバルの掠れた声が、沈黙を破った。

 レムやエミリアも、僕の圧倒的な暴威に、ただただ驚愕し、恐怖に身を竦ませていた。

 

 「ふう…」

 

 僕は血のついた顔を袖で乱暴に拭う。

 真っ二つになったペテルギウスの残骸が転がり、森に不気味な静寂が戻る中、僕は処刑人の大剣を肩に乗せた。

 目の前のスバルたちは、ボロボロだ。スバルは膝をつき、エミリアとレムも満身創痍で僕を凝視している。

 このまま放置して、もしスバルが傷の悪化やショックで死ぬようなことがあれば、僕のこれまでの苦労はすべて台無しになる。またあの地獄を経験しなければいけなくなる。

 

 「……ああ、ストックがどんどん減ってくなぁ」

 

 僕は毒づきながら、意識の奥底にある『リスト』を覗き込んだ。これまでに掌握した命の灯火は、先ほどの戦闘と逃走でかなり減っているが、背に腹は代えられない。

 

 「『十名消費』」

 

 僕が低く宣言した瞬間、脳裏で十の赤い光がぷつりと消えた。それと同時に、僕の身体から溢れ出した眩いばかりの『命のエネルギー』が、濁流となってスバルたちへと流れ込んでいく。

 

 「っ!? なんだ、これ……温かい……?」

 

 スバルの掠れた声が漏れる。彼らの身体を包み込んだ光は、裂けた肉を繋ぎ合わせ、折れた骨を接合し、失われた活力を強引に叩き込んだ。エミリアの頬の傷が消え、レムの呼吸が整い、スバルの顔に赤みが戻っていく。

 ほんの数秒。『傲慢』の権能による治癒によって、彼らは完治した。

 

 「……傷が、治ってる。一瞬で……?」

 

 エミリアが自分の手を何度も握り締め、信じられないものを見る目で僕を見上げた。彼女の瞳には、僕という存在への恐怖と、そしてそれ以上に深い困惑が渦巻いている。

 

 「あ……ありがとう。助けて、くれたのね」

 

 エミリアの鈴を転がすような声でのお礼をすると、すぐに、彼女の瞳に言いようのない不安が浮かんだ。

 

 「でも……さっきあなたが言った『十名消費』って、どういう意味なの? 誰を……何を『消費』したというの?」

 「……俺も、それを聞かなきゃならねぇと思ってた。アンタレス、お前のその力……。俺たちの傷を治すために、まさか『誰か』の命を使い潰したのか?」

 

 スバルの声には、治療されたことへの感謝の念と、人の命を勝手に代償にする行為への生理的な忌避感が混ざり合っていた。

 僕は彼らの問いに対して、特に何かを答えるつもりはなかった。スバルの死に戻りについて話せば嫉妬の魔女からどんな制裁が下るか分かったものでは無いし、ぼかして言っても彼らの納得は得られない。

 それより、こんなところで時間を食うわけにはいかない。ラインハルトが、今この瞬間に追ってくるかもしれないのだ。

 

 「……それじゃあ、僕は行くよ。二度と会わないことを願ってる」

 「――おい! 待てッ!!」

 

 僕は処刑人の大剣を肩に担ぎ直し、彼らに背を向けて走り出した。

 この場を離れ、ラインハルトも、スバルも、魔女教もいない安住の地を探しに行かなければならない。今度こそ、僕の平穏な人生を勝ち取るために。

 だが、数歩踏み出したところで、足元に違和感を覚えた。

 

 「……え?」

 

 急激に視界が白く濁り始める。

 さっきまで木漏れ日が差し込んでいたはずの森全体に、異常なほど濃い、そして冷たい「霧」が立ち込め始めたのだ。

 不自然なほどに真っ白な視界。それは数メートル先も見通せないほどの密度で、瞬く間に僕たちの周囲を包み込んでいく。

 

 「この霧……。!! まさか…ッ!」

 

 前世の知識が、僕の脳内で最大級の警報を鳴らした。

 『あれ』は、本来、この場所、このタイミングで来るものではない。しかし、僕と言う存在がバタフライエフェクトを起こして、出現位置と時間がズレてもおかしくない。

 背筋を凍りつかせるような巨大な『何か』の気配が、霧の向こう側から刻一刻と近づいてくるのを感じる。

 白く、濃密で、すべてを拒絶するような冷たい霧が、瞬く間に森の木々を飲み込んでいく。

 視界は数メートル先すらおぼつかなくなり、湿った大気には、生物の根源的な恐怖を呼び覚ますような、巨大な『何か』の気配が満ちていた。

 僕はその霧の向こう側を凝視した。

 

 「……嘘だろ。なんで、今なんだよ」

 

 喉の奥から、怒りを孕んだ声が漏れる。

 本来なら、このタイミングであれが現れるはずはない。

 『白鯨』――霧と共に現れ、通り道にあるものすべてを喰らう、ダフネが生み出した三大魔獣の一角。

 僕という異分子がこの世界で暴れ回った結果、バタフライエフェクトが起きて出現位置と時間がズレたのだとしても、あまりに最悪なタイミングだ。

 

 「……な、なん、だ…あれ……?」

 

 背後で、スバルが震える声で呟く。

 振り返ると、スバルは、そして隣にいるエミリアとレムも、絶望に染まった表情で立ち尽くしていた。スバルの反応を見るに、白鯨に出会うのは初めてのようだ。

 ガタガタと震え、腰を抜かしかけているスバルの姿を見て、僕は思わず頭を抱えた。

 

 「ああ、もう! ちょっと、マジで空気読めよ、あのデカブツ……!」

 

 僕は、心底からの愚痴を霧の向こう側へ向かって吐き捨てた。

 せっかく。せっかく、百人もの命を燃料にしてラインハルトから逃げ切り、面倒なペテルギウスを真っ二つにして、ようやくこの「僕が逃げ切った世界」を確定させようとしていたのに。

 今ここで、スバルが白鯨に喰われて死んだり、存在を消されてしまったら、これまでの僕の苦労は、文字通り「無かったこと」になる。

 またあの赤髪の死神に追いかけ回される地獄を、一からやり直すなんて、死んでも御免だ。

 

 「スバル! シャキッとしろ! 死ぬなよ、絶対に死ぬんじゃないぞ!」

 

 僕はスバルを怒鳴りつけた。スバルはハッとし、震える足で立ち上がった。

 彼には、この世界を「確定」させるための観測者として、どうしても生き残ってもらわなければならない。

 霧の向こうから、空気を震わせる巨大な咆哮が響いた。それは海鳴りのようでもあり、世界の終わりを告げる弔鐘のようでもあった。

 

 「……ラインハルトたちが来れば、あんなの見世物同然に片付けてくれるんだろうけど」

 

 僕は、遠くの戦場に取り残してきた「最強」の姿を思い浮かべる。彼なら龍剣を抜くまでもなく、あの巨大な魚を干物に変えるだろう。

 だが、あいつは今、僕が仕掛けた魔女教徒たちの自爆特攻を食い止めるのに手一杯のはずだ。ここへ駆けつけるまでに、スバルたちの命が持つのだという保証はどこにもない。

 

 「……あーあ。本当に、僕の計画を邪魔する奴ばっかりだ」

 

 僕は、肩に乗せていた処刑人の大剣を、ゆっくりと、けれど確かな殺意を込めて正眼に構え直した。

 身体の奥底には、まだラインハルトから逃げるために消費した『百名消費』の残滓が、どろりとした熱となって渦巻いている。感覚は研ぎ澄まされ、霧の向こうで蠢く巨大なマナの塊が、鮮明な「標的」として網膜に映し出されていた。

 

 「まぁ、でも、今の僕なら余裕かな」

 

 僕は、自分を「災厄」と呼んだ世界そのものを睨みつけるように、霧の深淵を見据えた。

 

 「行くよ、スバル。……ちゃんと見ててよね。君を救うのが『大罪司教』だって皮肉を、その目にしっかりと焼き付けて」

 

 瞬間、音を、世界を置き去りにする。

 

 音速を超えた僕の身体が、真っ白な霧を強引に切り裂き、巨大な影の元へと肉薄していった。

 僕の生存戦略を邪魔するなら、魔獣だろうが運命だろうが、この大剣で叩き潰してやるまでだ。

 

 「――ふッ!!」

 

 僕は空中で身を翻し、重力と加速のすべてを大剣に乗せて振り下ろした。

 怨念のような黒いエネルギーを纏わせた処刑人の大剣が、白鯨の分厚い皮皮を、まるで紙細工のように容易く切り裂く。

 

 凄まじい衝撃。確かな手応え。

 巨鯨の身体に深い一文字の傷が刻まれ、そこから大量の鮮血が霧の中にぶちまけられた。

 空を統べる魔獣が、僕と言うたった一人の幼女の放った一撃に、明確に怯みを見せて大きく体勢を崩した。

 だが、僕の攻撃はこれだけでは終わらない。

 大剣を振るった勢いのまま、僕は空中で白鯨の巨大な側面に足をかけた。筋肉の一本一本が悲鳴を上げるほどの全エネルギーを、右脚へと集中させる。

 

 「オラァ!!」

 

 渾身の力を込めた蹴りが、白鯨の腹部へとめり込んだ。

 瞬間、衝撃波が白鯨の巨躯を内側から爆ぜさせる。強化された僕の脚力は、もはや物理法則を無視した暴威となって、巨大な魔獣の身体に、隕石が衝突したかのような巨大な『クレーター』を穿ち、肉を抉り取った。

 

 「――――――――――――ッ!!!」

 

 白鯨の巨大な口から、悲鳴のような、あるいは大地の怒りを体現したような凄まじい『地鳴り』が響き渡った。それは大気を震わせ、霧を掻き消し、森の木々を根こそぎ震わせるほどの轟音。

 あまりの激痛に、白鯨は巨躯を狂ったようにのたうち回らせる。

 暴風のような身震い。その圧倒的な身をよじる衝撃に、僕は白鯨の身体から強引に振り落とされた。

 

 「うわっ……!?」

 

 景色が激しく回転する。

 僕は空中で体勢を立て直そうとあがきながら、霧の下で石像のように固まっているスバルたちを見下ろした。

 

 (……なんでボーっと見てるんだよ。早く逃げろよ)

 

 逃げようとする素振りすら見せないスバルたちに、僕は苛立ちを覚えた。

 しかし、声をかけている暇はない。それより、一刻も早く白鯨を墜とすことが最優先だ。

 

 白鯨の巨躯から振り落とされ、景色が激しく回転する中、僕は空中で強引に姿勢を制御した。

 肺に溜まった熱い空気を吐き出し、目を細めて上空を仰ぎ見る。そこには、目を疑うような光景が広がっていた。

 

 「……は? 三体……?」

 

 霧の隙間から覗く巨大な影。一体だったはずの白鯨が、いつの間にか三体に分裂し、重なり合うようにして空を泳いでいた。

 一瞬の困惑。だが、すぐに前世で読んだ原作の記憶が脳裏を掠める。

 

 (……ああ、そういえばそんな能力もあったっけ。本体を温存するために、何体か分身を作るんだった)

 

 知識として知ってはいても、実際に全長五十メートル級の怪物が三体も空を覆っている様は、生理的な嫌悪感と圧迫感を引き起こす。

 視界は相変わらず白鯨が吐き出す「消滅の霧」に覆われ、どこに何があるのかさえ判然としない。

 

 「……邪魔だな、霧」

 

 僕は落下しながら、処刑人の大剣を渾身の力で一閃させた。

 強化された膂力が生み出す衝撃波が、物理的な質量を持って周囲の霧を強引に吹き飛ばす。

 一瞬、霧が晴れて三体の鯨の配置が露わになった。

 一番上。雲を切り裂くように、高高度を悠然と泳ぐ個体。僕の知識が正しければ、あいつが「本体」だ。

 僕は意識の奥底にある『リスト』から、また一つ灯火を選び取る。

 

 「『一名消費』」

 

 冷徹な宣言と共に、エネルギーが体内で爆ぜる。

 筋肉が熱を帯び、神経が焼き切れるような速度で活性化する。僕は落下の重力を推進力へと変換し、右脚に集約させた莫大なエネルギーを一気に解き放った。

 

 そして、爆発。

 

 足場もない空中。だが、爆発的なエネルギーの放出は空気を足場に変え、僕の身体を砲弾のように打ち上げた。僕は真っ直ぐ、一番上を泳ぐ白鯨の腹部へと肉薄する。

 加速の勢いをすべて大剣の切っ先に収束させる。

 僕の小さな身体とは対照的な、巨大な処刑人の大剣が、白鯨の白い腹へと吸い込まれるように突き立てられた。大剣の半ばまでが、白鯨の分厚い皮皮と肉を貫いて深々と突き刺さる。

 

 「――――――――――――ッ!!!」

 

 耳を覆いたくなるような、大気を引き裂く白鯨の咆哮が響き渡る。

 処刑人の大剣の柄を握る僕の両手に、巨躯が激しく震える振動が伝わってきた。その震えを感じた瞬間、僕の胸の奥で、妙な既視感がこみ上げてくる。

 痛いだろう。苦しいだろう。……そして、何よりも。

 

 「……ああ。怖いのか、お前も」

 

 僕は、大剣をさらに深く押し込みながら、小さく呟いた。

 剣を通じて伝わってくるのは、単なる筋肉の痙攣じゃない。それは、僕がかつてアスファルトの上で、そしてこの過酷な異世界で何度も味わってきた、あの抗いようのない「死の恐怖」そのものだった。

 空を統べる三大魔獣。数多の英雄を喰らい、その存在すら世界から消し去ってきた絶望の象徴。

そんな化け物ですら、自分自身の命が消えるという予感の前には、これほど無様に、これほど純粋に、死に怯えるのだ。

 

 「結局、お前もただの『生物』なんだ」

 

 その事実が、僕の歪んだ心に奇妙な安堵を与えた。

 恐怖の対象が、自分と同じ「死を恐れる卑小な存在」にまで堕ちてきた感覚。

 僕は、白鯨の白い腹の奥底へ、さらに処刑剣を突き立てる。

 

 ドクン。

 

 伝わってきた。

 鉄塊を介して、掌に直接響く、重厚で巨大な拍動。

 

 ドクン、ドクン……。

 

 分厚い皮皮と肉の層を越えたその深奥に、確かに存在する熱源。一打ちで大気を震わせるほどの、凄まじい質量を持ったポンプの動き。

 僕は今、この巨大な魔獣の命の根源に、明確に触れていた。

 これほど巨大で、これほど鮮明な命の証を、僕の権能が逃すはずがない。

 脳裏にある『権能』のリストに、これまで見たこともないほど巨大で、眩いばかりの紅い灯火が灯るのを感じた。

 僕は、返り血で汚れた顔を歪め、静かに笑みを浮かべた。

 

 「あはは……。捕まえた」

 

 もうこの命は、完全に僕のものになった。白鯨が生きるも死ぬのも、僕の思うがまま。

 僕は、その死の宣告を口にする。

 

 「『一命消費』」

 

 瞬間。

 

 「――――ッ!?」

 

 白鯨の絶叫が、喉の奥で掻き消えた。

 狂ったようにのたうち回っていた五十メートルを超える巨躯から、まるで糸が切れた人形のように、一瞬にして全ての力が抜け落ちた。

 白鯨の目は濁り、空を泳いでいたヒレは力なく垂れ下がる。

 空を統べる暴威は消え、そこにあるのはただの、抗う術を持たない巨大な肉の塊だけだった。

 力を失った魔獣は、重力に逆らうことをやめ、真っ白な霧の深淵へとゆっくりと沈んでいった。

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