魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ   作:あのさぁBOT

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第26話『死ぬなよ、絶対に死ぬなよ』

 理解が、追いつかない。

 脳が、目の前の光景を現実として処理することを拒絶している。

 

 何とか現状を理解するため、脳が勝手に数分前という短い過去まで遡る。

 

 そう、たった数分前まで、俺たちは地獄の底にいたはずだった。

 目の前には、狂気に取り憑かれ、不可視の魔手を操る化け物――『怠惰』の大罪司教、ペテルギウス・ロマネコンティが立っていた。エミリアを、レムを、そして俺を弄び、その「勤勉」なる悪意で全てを塗り潰そうとしていたあのおかっぱの狂人。

 

 「……あ」

 

 俺の喉から、間の抜けた音が漏れる。

 視界の中心、クレーターが穿たれた地面の真ん中に、一人の少女が立っていた。

 青みがかった黒髪に、一筋の赤いメッシュ。

 前のループで俺が「守る」と誓い、その無垢な涙を信じ抜こうとした少女。だが、その正体は、人の命を「資源」として喰らう最悪の『傲慢』――アンタレス・アンドロクトヌスだった。

 

 「……アン、たれ……す……?」

 

 俺の声は震えていた。怒りか、あるいは絶望か。

 だが、そんな俺の感傷を置き去りにして、事態は音速を超えて加速する。

 彼女の傍らには、大の大人でも持ち上げることすら叶わないはずの、悍ましいほどに巨大な鉄の塊――『処刑人の大剣』が突き立てられていた。

 その細い腕で、彼女は羽毛でも扱うかのようにその大剣を軽々と振り回したのだ。

 

 「――ッ!!」

 

 一瞬。本当に、瞬きの合間だった。

 俺たちが死に物狂いで抗い、絶望の象徴だと思っていたペテルギウスが――まるで紙細工のように、ただの一撃で真っ二つに分かたれた。

 断末魔すら上げさせない。狂気による問答も許さない。

 ただの圧倒的な、物理的な暴力。

 真っ二つになった狂人の死骸が転がり、蠢いていた不可視の腕が霧散していく光景を、俺はただ呆然と眺めることしかできなかった。

 

 「……嘘だろ……」

 

 一から十まで、何一つとして理解できない。

 なぜあの子がここにいる。なぜあんな化け物じみた力を持っている。

 何より、俺たちがあれほど苦戦した大罪司教を、ゴミでも払うかのように片付けてしまったあの事実は、一体何なんだ。

 だが、混乱の極致にある俺の脳を、さらなる理不尽が襲う。

 

 急激に視界が白く濁り始めた。

 冷たく、濃密な霧。生物としての本能が、最大級の警報を鳴らす。

 霧の向こうから現れたのは、空を覆い尽くすほどの巨大な影――エミリアとレム曰く、あれは三大魔獣の一角である『白鯨』らしい。

 

 「な、なん、だ……あれ……?」

 

 絶望が重なる。ペテルギウスを倒したと思ったら、今度は伝説の魔獣かよ。

 終わった。今度こそ、本当に。

 そう確信して膝を突きかけた俺の耳に、信じられないほど場違いな「愚痴」が届いた。

 

 「ああ、もう! ちょっと、マジで空気読めよ、あのデカブツ……!」

 

 声の主は、アンタレスだった。

 彼女は、世界の終焉を告げるような巨鯨を見上げて、夕飯の献立を間違えたかのような気軽さで毒づいた。

 そして――。

 見上げる俺の視界の中で、小さな少女の影が、巨大な白鯨の懐へと一瞬で肉薄する。

 振り下ろされる大剣。霧を切り裂き、巨鯨の分厚い皮を容易く貫いたその鉄塊は、魔獣の命そのものを強引に引きずり出したかのように見えた。

 

 「――――――――――――ッ!!!」

 

 空を震わせる絶叫。

 だが、その咆哮もすぐに掻き消えた。

 空を統べる暴威であったはずの白鯨が、突然、まるで糸の切れた人形のように、空中でその力を失ったのだ。

 五十メートルを超える巨躯が、なすすべもなく、真っ白な霧の深淵へと沈んでいく。

 

 「…………」

 

 静寂が、森を支配した。

 霧が晴れ、日光が照らし出したのは、返り血を浴びた大剣を肩に担ぎ、少し満足げに鼻を鳴らす十歳の少女の姿だった。

 

 一から十まで、本当に何一つとして理解ができない。

 

 俺が知っているはずの、この世界のルール。

 俺が信じていた、守るべき弱さ。

 そして、俺たちが必死に抗ってきた、絶望という名の化け物たち。

 その全てが、目の前に立つ、小さくて傲慢な「臆病者」によって、跡形もなく踏みにじられていた。

 

 思考が止まる。

 目の前の光景を、俺の貧弱な脳細胞は現実として処理することを拒絶し、ただ真っ白な空白だけを網膜に映し出している。

 

 ついさっきまで、俺たちは終わらない絶望の中にいたはずだった。

 狂気に染まった『怠惰』の司教が不可視の腕を振り回し、伝説の魔獣『白鯨』が空を覆い尽くして、世界を白い霧で塗り潰していたのだ。

 だというのに、それら全ての「理不尽」は、今や見る影もなく踏みにじられていた。

 

 真っ二つに裂かれたおかっぱの死骸。

 そして、空中で力を失い、ただの巨大な肉塊となって霧の深淵へ沈んでいった巨鯨。

 その蹂躙劇の立役者が、返り血を浴びた大剣を肩に担ぎ、霧が晴れ始めた戦場に音もなく降り立つ。

 

 「……ふぅ。これで一段落かな」

 

 青みがかった黒髪を揺らし、満足げに鼻を鳴らす十歳の少女――『傲慢』の大罪司教、アンタレス。

 俺が必死に「守る」と誓い、その涙を信じたはずの「アンちゃん」が、化け物じみた処刑人の大剣を引きずりながら、俺の目の前まで歩み寄ってきた。

 

 「――下がってください、スバルくん!」

 

 硬直する俺の前に、弾かれたように飛び出したのはレムだった。

 彼女は手にした鉄球を低く構え、全身から剥き出しの殺気を放って、アンタレスを射抜く。

 その瞳にあるのは、もはや不信感などという生ぬるいものではない。得体の知れない「悪」を前にした、根源的な拒絶だ。

 

 「スバルに指一本触れさせないわ! あなた、一体何なの……!?」

 

 エミリアもまた、震える手で氷の礫を浮かせ、俺を庇うように立ち塞がった。

 二人の少女が、『怠惰』と白鯨を苦戦することなく打ち倒した「怪物」を前に、決死の覚悟で盾となっている。

 だが、対峙するアンタレスは、そんな二人の決意など眼中にないといった様子だった。

 彼女はエミリアの氷の礫やレムのモーニングスターに一瞥もくれず、ただ面倒くさそうに自分の袖についた返り血を眺めている。

 その態度は、敵対心すら感じさせないほどに、徹底して自己中心的で、どこまでも傲慢だった。

 

 「……あ。そうだ、忘れてた」

 

 アンタレスは、不意に思い出したかのようにポンと手を叩いた。

 彼女の視線は、俺たちがかつて恐怖した「真っ二つの死骸」――ペテルギウスの残骸へと向けられる。

 

 「スバル、さっさと逃げたほうがいいよ。あの不潔なおかっぱ、ただ殺しただけじゃ終わらないから」

 「……何、を……言って……」

 

 俺の掠れた声に、彼女は冷めた瞳で答えた。

 

 「さっき思い出したんだけど、ペテルギウスって邪精霊なんだよね。肉体を壊しても、近くに適合する人間がいればそっちに乗り移って復活しちゃうんだ。……あ、確かスバルにも乗り移れるはず。まぁ、その様子を見るに別の人に乗り移ったっぽいけど」

 「なっ……!?」

 

 その言葉の衝撃に、俺の背筋に冷たい汗が流れる。

 死んでもなお、他人の肉体を奪ってまで「勤勉」に愛を叫び続ける怪物。そいつが自分の身体にも乗り移れるということ。

 アンタレスは、そんなおぞましい事実を、まるで明日の天気を予報するかのような気楽さで言い放った。

 

 「ストックの『指先』はまだ残ってるはずだし、今の僕にはそいつらまで消す余裕はないからさ。また追いかけ回されたくなかったら、一刻も早くこの場を離脱することをお勧めするよ。というか、ほんとさっさと逃げてほしい」

 

 彼女はそう言い捨てると、再び大剣を担ぎ直し、俺たちから興味を失ったように背を向けようとした。そのあまりに一方的で、理不尽なまでの振る舞いに、俺の中で凍りついていた何かが熱く爆発した。

 

 「……待てよ。待てよ、アンタレス!!」

 

 俺は震える足で一歩、前に踏み出した。

 レムとエミリアが驚いて振り返るが、俺はそれを無視して、少女の背中に問いかける。

 

 「お前は、なんなんだ……!? お前の力は『命の身代わり』じゃなかったのか!? お前のその『力』は、一体何なんだよ!!」

 

 俺の叫びに、アンタレスの足が止まった。

 静寂が、再び森を支配する。

 

 俺の視線の先で、アンタレスは担ぎ直した処刑人の大剣の重みを逃がすように、少しだけ肩を揺らした。その小さな背中には、さっきまで俺たちを死の淵まで追い詰めていたペテルギウスや白鯨の返り血が、どす黒い染みとなってこびり付いている。

 かつてベアトリスが言っていた。そして俺自身も「呪い」として体感した、あの『命の身代わり』の力。

 だが、今目の前で起きたことは、そんな搦め手なんかじゃない。圧倒的な、物理的な暴力。

 王国最強の『剣聖』ラインハルトですら、これほど無慈悲で、かつ「効率的」な殺し方をするだろうか。

 

 俺の問いかけに、アンタレスはすぐには答えなかった。

 彼女はわずかに首を傾げ、何かを口にしようとして……けれど、その言葉を喉の奥で飲み込むように、不自然に言い淀んだ。

 その横顔に一瞬だけ浮かんだのは、傲慢な司教の余裕ではなく、自分の秘密に触れられたことを嫌がる、年相応の子供のような、あるいは何かに怯えるような、ひどく居心地の悪そうな色だった。

 

 「……別に、大したことじゃないよ」

 

 アンタレスは、再び背中を向けたまま、投げやりな声で言った。

 その声には、さっきまでの蹂躙劇を誇るような響きは微塵もなかった。

 

 「ちょっとだけ、本気を出しただけ。……それだけだよ」

 「本気、だと……?」

 

 俺は絶句した。

 あの大罪司教を紙細工のように引き裂き、空の暴威である白鯨をただの一撃で沈めた力が、あいつにとっての「ちょっとした本気」に過ぎないというのか。

 隣で構えていたレムやエミリアも、その言葉の異常さに息を呑むのが分かった。

 アンタレスはそれ以上、俺たちに興味を示すことはなかった。血のついた大剣を肩に担ぎ直し、一歩、また一歩と、深い密林の闇へと足を運び始める。

 

 「待て……! 行かせるわけないだろ!」

 

 俺は震える足で駆け出そうとした。

 だが、その時、俺の脳裏に、ラインハルトが見抜いたあの「どす黒い血の糸」の光景がよぎった。

 それでも――それでも、どうしても聞かなきゃいけないことがあった。

 

 「アンタレス! ……これが、最後の質問だ!」

 

 俺の叫び声に、アンタレスの足が止まった。

 彼女は振り返らない。だが、立ち去ることを一時的に中断し、俺の次の言葉を待っているようだった。

 

 「……お前は、大罪司教なんだろ。俺を『懐柔』して、利用しようとしていたはずだ」

 

 喉の奥が焼け付くように熱い。

 

 「だったら……なんで、俺たちを助けた? ペテルギウスを殺して、白鯨まで倒して……なんで、そこまでして俺たちを生かしたんだよッ!!」

 

 あいつが本当に冷酷な怪物なら、俺たちがペテルギウスに殺されるのを高みの見物していればよかったはずだ。

 あるいは、混乱に乗じて俺たちの命を刈り取ることも容易だったはずなのに。

 

 アンタレスは、溜息を吐くような小さな吐息を漏らした。

 そして、肩越しに、射抜くような、けれどひどく冷めきった瞳で俺を一瞥した。

 

 「スバル。君を助けたのは、慈悲でも何でもないよ」

 

 彼女は、自分自身の存在理由を再確認するかのような、冷徹な響きで答えた。

 

 「――今は、君に死なれたら困るから。……理由は、それだけ。本当、それだけなんだ」

 「俺が死んだら、困る……?」

 

 俺が言葉の意味を噛み締めるよりも早く、アンタレスの身体が、音もなく森の闇へと溶け込んでいく。

 

 「…時間がない。絶対死ぬなよスバル」

 

 その言葉を最後に、アンタレスの気配は空気が爆ぜる音と共に完全に消失した。

 残されたのは、真っ二つになった狂人の死骸と、深い霧の底へ沈んでいった巨鯨の残骸、そして――あいつに一方的に助けられ、生き延びてしまった、俺たちの命だけだった。

 俺は、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。

 そこには、あいつが言った「死なれたら困る」という言葉が、呪いのように重く刻まれていた。

 

 次の瞬間、森の木々を分かつようにして、一人の男が姿を現した。

 

 「――スバル! エミリア様、レムも……無事だったんだね」

 

 白い騎士服を纏い、ただそこに立っているだけで周囲の不浄な空気を浄化するような、圧倒的な正義の質量。王国最強の『剣聖』、ラインハルトだった。

 だが、いつもなら非のうちどころのない微笑みを湛えているはずの彼の顔には、今は隠しきれない苦渋と、深い自責の色が滲んでいた。

 

 「ラインハルト……」

 

 俺が掠れた声で名を呼ぶと、彼は周囲の凄惨な光景――特に、あまりにも「効率的」に仕留められた大罪司教と魔獣の残骸に一瞬だけ目を細めた。そして、切迫した様子で俺たちに問いかけた。

 

「スバル、ここへ来る途中に……あの少女を見なかったかい? 『傲慢』の大罪司教、アンタレスだ」

 

 彼の問いに、俺の隣に立っていたエミリアが、未だに震えの止まらない声で答えた。

 

 「アンタレスなら……ついさっきまで、ここにいたわ。ペテルギウスと白鯨を倒して、そのまま何処かへものすごい速さで逃げて行ってしまったけれど……」

 

 エミリアの言葉を聞いた瞬間、ラインハルトは目に見えて肩を落とした。彼はその場に立ち尽くし、青い双眸を伏せて、絞り出すような声で謝罪を口にした。

 

 「……そうか。逃がしてしまったんだね。すまない、僕の力不足だ。……僕がもっと早く、彼女を確実に無力化できていれば、こんなことには……」

 「力不足、だって……?」

 

 俺は耳を疑った。あの『剣聖』ラインハルトが、自分を力不足だと責めている。ラインハルトは拳を強く握りしめ、自分自身を呪うような、痛々しい声音で続けた。

 

 「……僕は、彼女を不用意に追い詰めてしまった。彼女の『傲慢』の本質を見誤り、力で屈服させようとした僕の慢心が、事態を悪化させたんだ。僕の圧力が、彼女にさらなる犠牲を強いる選択をさせてしまったのかもしれない……」

 

 ラインハルトの言葉には、俺の知らない「何か」への悔恨が満ちていた。彼は、アンタレスを単なる『討つべき災厄』として追い詰めすぎた結果、彼女の生存本能を最悪の形で爆発させてしまったことを悔やんでいるようだった。

 俺は一歩、彼に歩み寄った。聞かなければならない。俺たちの前に現れる前、森の奥であいつと何があったのか。

 

 「ラインハルト……教えてくれ。お前、森の奥でアンタレスと何があったんだ? あいつ、あんな化け物じみた力を振り回して……一体、お前とどんなやり取りをしたんだよ」

 

 俺の問いかけに、ラインハルトはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、一人の少女を『災厄』へと変えてしまったことへの、消えない傷跡が刻まれているようだった。

 ラインハルトは鞘に収まったままの聖剣を重苦しそうに見つめ、絞り出すような声で俺の問いに答え始めた。

 

 「……森の奥で彼女を追い詰めた時、僕は剣を構え、彼女に大人しく捕まるよう勧告したんだ。抵抗をやめ、大人しく捕まってくれと」

 

 ラインハルトの瞳に、言いようのない困惑の色が浮かぶ。

 

 「けれど、彼女は僕の言葉を聞いた瞬間、この世の終わりでも見たかのような顔をした。……それは強者の余裕などではなく、捕まることを極端に恐れている、ただの怯える子供の反応だったよ」

 

 俺は王都での出来事を思い出す。あいつはあの時も、騎士団の牢獄に入れられることを「拷問か処刑か」と叫んで拒絶していた。あいつにとって、自由を奪われることは死に等しい恐怖なのだろうか。

 

 「捕縛の提案を拒んだ彼女は、僕の目の前であり得ない力を行使した。……僕の『魂を見出す加護』は捉えていたんだ。彼女の心臓から周囲へと伸びる、あのどす黒い血のような糸を」

 

 ラインハルトの声が、さらに沈痛なものへと変わる。

 

 「彼女が何らかの宣言をするたび、繋がっていた人々の命の灯火が消え、そのエネルギーが彼女という一点に吸い込まれていくのが見えた。……スバル、彼女は『消費』した他者の命を自分の熱量に変換し、身体能力を爆発的に引き上げる能力を持っていたのかもしれない」

 

 その言葉を聞いて、俺はどこか腑に落ちるような感覚がした。

 喉の奥が焼け付くように熱い。俺は拳を握りしめ、震える声で最も聞きたくない問いを口にした。

 

 「……何人、やられたんだ? あいつ、その力で……何人の命を奪った?」

 

 ラインハルトは一瞬だけ目を伏せ、俺の目を見て、逃げ場のないほど残酷な事実を告げた。

 

 「僕から逃れるため、彼女は生存への執念を爆発させて叫んでいた。……自ら、『百名消費』と。……あの一瞬だけで、少なくとも百名の命が彼女という怪物に飲み込まれたんだ」

 「百、名……」

 

 俺の視界が、ぐにゃりと歪んだ。

 あの小さな身体のどこに、百人分もの死を詰め込んだというのか。

 かつて俺が「守る」と誓い、その涙を信じたあの少女は、俺たちが立ちすくむ静寂の裏側で、百人もの命をただの「資源」として使い潰していたのだ。

 

 ラインハルトからの、あまりにも無慈悲な報告。

 それを胸に抱えたまま、俺たちは逃げ去ったアンタレスを追うこともできず、重い足取りでアーラム村へと向かった。

 村の入り口に辿り着いた瞬間、俺の鼻腔を突いたのは、血の匂いではなかった。それは、生き物の気配が急激に失われた時に漂う、得体の知れない「静止」の気配だった。

 

 「……嘘、だろ」

 

 俺の視界の先、村の広場には、村の人口の半数近い人々が、まるで糸が切れた人形のように力なく横たわっていた。

 彼らの身体に目立った外傷はない。ただ、そこにあったはずの「命」の輝きだけが、何の前触れもなく、根こそぎ奪い去られたかのような無残な姿。

 その傍らでは、生き残った村人たちが、変わり果てた家族や友人の遺体に縋り付き、言葉にならない慟哭を上げていた。

 ついさっきまで笑い合い、明日を語り合っていたはずの日常が、一瞬にして音も立てずに崩壊していた。

 

 俺の脳内に、村の人たちの顔が次々と浮かび上がってくる。

 

 若返りババアこと村長のミルデ、いつも不器用な気遣いをしてくれた青年団のマキジ、懐いてくれたペトラやリュカ……。

 彼らの顔、名前、そして明日何をしたいと言っていたか、俺は全部知っている。

 そのうちの半分が、今、この地面に冷たく転がっている。

 

 俺たちがアンタレスを追い詰め、ラインハルトが彼女に「正義」を突きつけようとしたその裏側で。あの臆病な大罪司教は、自分の身を守るためだけに、彼らの命をただの『薪』にして燃やし尽くしたのだ。

 

 「……オエッ……!!」

 

 激しい吐き気が俺を襲った。

 胃の底からせり上がってくる酸っぱい液体を、必死に飲み込む。自分の無力さと、あの少女が平然と行ってみせた「略奪」への、言葉にならない嫌悪感。

 そして、次の瞬間に俺を満たしたのは、視界が真っ赤に染まるほどの猛烈な怒りだった。

 

 「……っ、アンタレス……!!」

 

 あいつは言った。「今は死なれたら困る」と。あいつは言った。「平穏に生きたいだけだ」と。

 その願いを叶えるために、この人たちの「明日」が踏みにじられていいはずがない。

 俺を「盾」にし、村の人たちを「予備の命」として食い潰したあの少女。あいつが望んだ「世界」を、俺は絶対に認めない。

 

 「スバルくん……?」

 

 レムが心配そうに俺の肩に手を置く。その温もりさえも、今は遠く感じた。

 

 俺には、この理不尽を叩き潰す唯一の手段がある。

 あいつがどんなに効率的に命を消費しようと、あいつがどんなに完璧に逃げ切ろうと。俺がこの世界を拒絶すれば、あいつの積み上げた「犠牲」はすべて無に帰す。

 

 「……やり直しだ」

 

 俺は、腰のナイフを強く握りしめた。

 恐怖はない。あるのは、あの大罪司教の傲慢な生存戦略を、根底からぶち壊してやるという執念だけだ。

 

 「アンタレス……お前の思い通りには、一秒だってしてやらない」

 

 俺は自らの手で、この最悪な結末を終わらせるために、迷わず刃を振るった。

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