魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ   作:あのさぁBOT

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第27話『ある筋の情報から…』

 ガタゴトと、規則正しい振動が身体を揺らしていた。

 鼻を突くのは地竜の体臭と、街道の砂埃の匂い。耳に届くのはパカパカという蹄の音と、御者台から聞こえる地竜を操る掛け声。

 

 「──っ、が、はっ……!!」

 

 俺は激しい過呼吸と共に、飛び起きた。

 喉の奥には、自らナイフを突き立てた時の、あの悍ましい熱と鉄の味がこびり付いている。視界が激しく明滅し、自分が今どこにいるのかを脳が必死に検索し始めた。

 

 「スバルくん!? どうしたのですか、急に……!」

 

 隣から、心底心配そうな声が響く。

 視線を向ければ、そこには青い髪のメイド──レムが、俺の肩を支えるようにして覗き込んでいた。

 その向かいには、凛とした佇まいで座り、こちらを訝しげに見つめる白髪の女性、エミリアの姿がある。

 

 「……ここ、は……」

 「大丈夫ですか、スバルくん。体調が優れないようであれば、スバルくんは待機して、魔女教たちはレムたちにお任せください」

 

 レムの言葉に、スバルの脳内でバラバラだった記憶のピースが、最悪の形となって嵌まり込んだ。

 今は、王都での交渉が終わり、ラインハルトやフェルト、クルシュ、そしてエミリアたちと共に最強の布陣で屋敷へと急行している場面だ。

 

 「……ここから、かよ」

 

 俺は顔を覆い、膝の震えを必死に抑え込みながら、掠れた声で呟いた。

 前回のループの最後。アンタレスがラインハルトから逃げ切るために村人百名の命を使い潰し、さらにペテルギウスを真っ二つにして俺たちを『治療』した、あの地獄のような勝利の光景が、網膜の裏側で嘲笑うようにフラッシュバックする。

 あの理不尽を叩き潰すために自ら死を選んだが、戻ってきたのは『魔女教討伐』に向かう前の、まさに今この瞬間だった。

 

 「どうかしたの? スバル。顔色が悪いわよ?」

 

 上座に座るエミリアが、紫紺の瞳を向けて問うてくる。

 俺は「……いや、なんでもねぇ」と力なく首を振ったが、その内側では血の涙を流すような焦燥感が渦巻いていた。

 

 (間に合わねぇ。もう、村のみんなは『掌握』されちまった後だ……!)

 

 前回のループで、アンタレスは手当たり次第に村人たちに呪いをかけ、二百名以上の命の所有権を掌握した。

 そして、今の俺がいるセーブポイントでは、おそらく彼女はすでに村人の掌握を済ませ、森の奥で『怠惰』ペテルギウスと合流しているか、囮役として森の陰で待機しているだろう。

 つまり、アーラム村の皆がアンタレスに命を握られたままなのが、確定してしまったのだ。彼女が殺されれば、その死は村人の誰かに押し付けられる。

 

 「……っ、クソ」

 

 俺は、パトラッシュが引く竜車の壁に後頭部を預け、虚空を睨みつけた。

 アーラム村で、あの小さな女の子──赤いメッシュの入った黒髪の「アンちゃん」と初めて出会ったあの時まで、戻れたら良かったのにと思わずにはいられない。

 あの時、彼女の涙を信じ込まず、その小さな掌が皆の命をマーキングしていることに気づいていれば、こんな『詰み』の状況にはならなかったはずだ。

 だが、後悔は絶望の燃料にしかならない。

 俺は、前回のループでアンタレスが最後に見せた、剥き出しの涙と叫びを思い出した。

 

 『死にたくない』『平穏な人生を送りたかっただけ』

 

 彼女は怪物だ。大罪司教『傲慢』であり、他人の命を資源としか思っていない略奪者だ。

 だが、同時に彼女は、死の恐怖にガタガタと震え、誰よりも「安全な場所」を切望している、ただの臆病者でもあった。

 

 (あいつを殺せば、いや、追い詰めれば村人が死ぬ。なら……『説得』するしかねぇ)

 

 もとよりそのつもりだったが、今回のループでは、その策をさらに練り上げる必要がある。

 アンタレスは、俺が自分の『正体』を知っていることに気づいて逃げ出した。彼女の臆病な本質を突くには、力による屈服ではなく、彼女が求めてやまない「絶対的な安全」をこちらが提供できると信じ込ませるしかない。

 

 (あいつの生存戦略を利用してやる。ペテルギウスや魔女教と一緒にいるよりも、俺の側にいた方が確実に『長生き』できる。……そう、あいつの損得勘定を書き換えてやるんだ)

 

 彼女が恐れているのは、死そのものと、死に直結する『未知の恐怖』だ。

 それを俺が、俺らが退いてやると証明できれば、彼女は魔女教を裏切ってこちらにつくはずだ。

 

 その根拠は、前回のループでのアンタレスの行動にある。

 ガタゴトと揺れる竜車の中で、俺は流れる景色を眺めながら、脳内にこびりついた前回のループの光景を反芻していた。

 目の前で真っ二つになった狂人ペテルギウス。空から力なく墜落していった霧の魔獣、白鯨。そして、返り血を浴びた大剣を担ぎながら、傲慢に、けれどどこか投げやりな瞳で俺を見下ろしたあの少女。

 

 「……アンタレス」

 

 ポツリと、誰にも聞こえない声でその名を呟く。

 

 アンタレスの行動は、思い返せば矛盾だらけだった。

 アーラム村で初めて会ったあの日から、あいつは俺を『懐柔』しようとしていた一方で、隙あらば俺から……いや、この騒動から離れたがっているようにも見えた。逃げられるのなら、今すぐにでも逃げ出したいという心の叫びが聞こえてくるようだった。

 それなのに、前回のループの最後、ラインハルトという最大の障壁から逃れたのにも拘わらず、彼女は俺たちを助けたのだ。

 圧倒的な暴力で同僚であるはずの大罪司教を蹂躙し、魔獣を屠った。そして、村人の命を『消費』するという、到底俺には受け入れられない悍ましい方法ではあったが、俺やエミリア、レムの傷を完治させた。

 

 「……慈悲でも何でもない、か」

 

 彼女は言った。今は俺に死なれたら困る、と。

 その言葉の真意が、今の俺には痛いほどよく分かる。今まで僅かに抱いていた可能性が、前回のループで確信へと変わったのだ。

 

 アンタレス──あいつは、俺が『死に戻り』することを知っているんだ。

 

 だからこそ、アンタレスは俺を死なせたくなかった。俺が死んで世界が巻き戻れば、彼女が百人もの命を犠牲にして最強の騎士ラインハルトから逃げ切ったという『勝利』まで、無かったことになってしまうから。

 彼女にとって、俺は単なる懐柔対象じゃない。

 自分の生存を確定させるための、歩くセーブポイント。自分の都合のいい未来を固定するための、観測者。

 

 (──だからあの時、あいつは迷わず俺を殺したのか)

 

 脳裏に、前々回のループ……王都のカルステン邸での最期が蘇る。

 ラインハルトに正体を暴かれ、逃げ場を失ったアンタレス。あの時、追い詰められた彼女は狼狽し、俺の耳元で正体を明かした。

 そして、『次はちゃんと、僕を助けてね』と言い残し、俺の命を奪った。

 

 あれは、単なる口封じでも、八つ当たりでもなかった。

 自分の正体が露見し、ラインハルトの手によって拘束されるという『詰み』の状況を回避するために、俺というリセットボタンを強引に押したのだ。そうして、彼女は『死に戻り』という俺の呪いを利用して、盤面をまっさらに戻した。

 そう、彼女の言う『次』とは、次のループのことを言っていたのだ。

 

 「……初めての理解者がこれかよ。はは、笑えねぇ冗談だな」

 

 俺は自嘲気味に口の端を歪めた。

 一人の少女を救いたいと願い、その涙を信じようとした結果、俺自身がアンタレスの『最も効率的な生存ツール』として利用されていたとは。

 彼女は、徹底した臆病者だ。死を恐れ、平穏を望むがゆえに、他人の命も、俺の『死に戻り』すらも、平然とリソースとして勘定に入れる。

 きっと、彼女が魔女教なんて物騒な組織にいるのも、そこにいれば身の安全がある程度保証されるからなのだろう。

 そして、それ以上の安寧の道を見つけたら、彼女は迷わず魔女教を裏切り、邪魔な同僚を叩き斬ってからその道を疾走する。

 その道が俺の膝元へ続いていたとしても、安全と分かっていれば飛び込んでくる。

 

 (どこまでも自分の命のため、平穏のために行動する。色々あったけど、アンタレスって奴は本当にそれだけなんだ)

 

 俺は、竜車の壁に強く背を預けた。そして、ゆっくりと拳を握る。

 

 「平穏が欲しいってんならくれてやるよ。……今度こそ、誰も『消費』させない」

 

 俺の決意を乗せて、竜車は魔女教が潜むメイザース領の深奥へと、速度を上げて突き進んでいった。

 

 

 天幕の中、地図を囲む俺たちの間に、重苦しい沈黙が降りていた。前回のループで目の当たりにした、あの理不尽なまでの蹂躙劇が脳裏に焼き付いて離れない。

 俺は震える拳を地図に押し付け、覚悟を決めて口を開いた。

 

 「……みんな、聞いてくれ。アンタレスとペテルギウスについて、どうしても伝えておかなくちゃならないことがある」

 

 俺のただならぬ気配に、クルシュやラインハルト、エミリアたちの視線が集中する。俺は喉の奥にこびりついた鉄の味を飲み込み、まずあの子について語り始めた。

 

 「『傲慢』のアンタレスは、ただ他人の命を『盾』にするだけじゃない。あいつは、あらかじめ掌握した他者の命を『資源』として直接消費し、自分の身体能力を爆発的に引き上げる力を持っているんだ。あいつがその気になれば、百の命を使ってラインハルトを凌ぐ力だって得られる」

 

 天幕を揺らす風の音さえ消えたような沈黙。俺は言葉を畳みかける。

 

 「それと、『怠惰』のペテルギウスだ。あいつはただの人間じゃない。正体は『邪精霊』で、肉体を壊しても近くに適合する人間――『指先』や、あるいは俺にさえ乗り移って復活することができる。肉体を殺しただけじゃ、あいつを止めたことにはならないんだ」

 

 俺の告白が終わった瞬間、天幕の中に衝撃が走った。エミリアは悲鳴に近い吐息を漏らし、フェリスは信じられないものを見る目で俺を凝視している。

 そして、地図を睨みつけていたクルシュが、静かに、けれど怒りを孕んだ声で俺の名を呼んだ。

 

 「――ナツキ・スバル」

 

 その静かな怒号に、俺はビクッと肩を跳ね上げた。彼女の琥珀色の瞳は、鋭い刃となって俺を射抜いている。

 

 「何故、それほどまでに重要な情報を今まで黙っていた。敵の首魁が不死に等しい性質を持ち、もう一方が百の命を燃料にして戦場を蹂躙するなど……作戦の根幹を揺るがす致命的な情報ではないか」

 

 クルシュは一歩踏み込み、俺に詰め寄る。彼女の周囲で、厳しい糾弾の風が吹き荒れる。

 

 「我が陣営の騎士たちは、卿の言葉を信じ、命を懸けてこの森へ入ろうとしているのだ。フェルトもまた、命の危険を冒してでも大罪司教討つつもりでいる。その情報の隠匿は、彼らへの、そして同盟への明白な裏切りだ。卿は、我々に全滅しろと言うのか」

 「……っ、すまねぇ。謝って済むことじゃねぇのは分かってる……」

 

 俺は深く頭を下げた。視界に入る地図が、自分の不甲斐なさを嘲笑っているように見えた。

 

 「悪気があるわけじゃなかったんだ。ただ、どう説明すれば信じてもらえるか……いや、俺自身、その情報をどう扱えばいいか混乱してて……。あいつを『救いたい』なんて甘い考えが、判断を曇らせてたのかもしれねぇ」

 

 俺の絞り出すような謝罪を聞き、ラインハルトがクルシュを宥めるように手を差し出した。

 

 「クルシュ様、スバルを責めないでください。大罪司教の権能は、知っていること自体が正気を疑われるような理不尽なものばかりです。……彼もまた、その恐怖と戦いながら、最善のタイミングを探っていたのでしょう」

 

 クルシュはしばらく俺を厳しく睨み据えていたが、やがて深く、長く溜息を吐き出した。

 

 「……卿の『風』に、悪意がないことだけは理解した。だが、二度目はないぞ、ナツキ・スバル」

 

 クルシュの琥珀色の瞳から放たれる、凍てつくような鋭い視線が俺の心臓を射抜く。天幕の中を吹き抜ける風が、俺の不甲斐なさを責め立てているように感じた。

 

 「……本当に、すまねぇ」

 

 俺は心底申し訳なさそうに頭を下げた。

 俺は震える拳を地図に押し付け、喉の奥にこびりついた鉄の味を強引に飲み込んだ。

 隠し事はしない。アンタレスの生存戦略を利用して彼女を捕らえるためにも、そして今度こそこの戦いに勝つためにも、自分の持っている情報をすべて場に晒す必要がある。

 

 「クルシュ、ラインハルト……みんな。その、二度目は無いぞって言われたばかりで何だが……もう一つ、どうしても伝えておかなくちゃならない、重要な情報があるんだ」

 

 俺のただならぬ気配に、天幕の中の空気が一気に重く沈み込んだ。エミリアが不安そうに俺の袖を掴むのが分かったが、俺は彼女の目を見る勇気すら持てなかった。

 フェルトが鼻を鳴らしながら俺を急かす。

 

 「おい、兄ちゃん。さっきから勿体ぶってんじゃねーよ。出し惜しみは裏切りだって、公爵様にも釘を刺されたばっかだろ? 何があるんだよ、さっさと今のうちに全部吐いちまえよ!」

 「……ああ。……霧が出るんだ」

 

 俺は静かに、けれど逃げ場のないほどはっきりとした声で告げた。

 

 「今日この森に、三大魔獣の一角、白鯨が現れる」

 

 その瞬間、天幕を揺らしていた風の音さえもが、ピタリと止んだ。

 

 「……白鯨、だと?」

 

 クルシュが声を失う。

 三大魔獣は何百年も人類を脅かし続けた災厄だ。俺はこの世界の歴史に詳しくはないが、それほどの存在が未だ駆除されずに残っているということは、誰もそれらを倒せなかったということに違いない。

 それほど強大な敵が、二人の大罪司教が潜む森に乱入してくる。その事実に、皆が言葉を失っていた。

 だが、部屋の空気を最も劇的に変えたのは、ヴィルヘルムとラインハルト、その二人だった。

 

 「…………」

 

 それまで静かに俺の言葉を聞いていたヴィルヘルムの身体から、一瞬にして、この世のものとは思えないほどの悍ましい「殺気」が噴出した。

 彼の背筋は鋼のように真っ直ぐに伸び、その老練な瞳には、十四年間の歳月をかけて研ぎ澄まされてきた凄絶な執念の炎が燃え上がっていた。

 そして、ラインハルトは――。

 

 「……白鯨か」

 

 彼の澄み切った青い双眸が、かつてないほどに深く、暗い翳りを帯びた。

 ラインハルトの纏う空気が、いつもの温和な「騎士の中の騎士」から、災厄を断ち切るための「世界の愛し子」へと、急速に変質していくのを俺は肌で感じた。

 

 「スバル、その情報は確かなのかい?」

 

 ラインハルトの声は低く、そして逃げ場のないほど冷徹だった。

 

 「ああ。……場所は地図で言うと…ここらへんだな。森のど真ん中だ。昼過ぎくらいに、あの巨大なデカブツが空を覆い尽くすはずだ」

 

 天幕の中に、刺すような緊張感と、それ以上に重苦しい決意が満ちていた。

 俺は、震える拳を地図に押し付けたまま、この場にいる面々を見渡した。

 

 「……敵の数は多い。だから、役割分担をさせてくれ」

 

 俺の言葉に、クルシュやラインハルトが静かに頷く。俺は喉の奥にこびりついた鉄の味を飲み込み、まず自分たちの役割を告げた。

 

 「アンタレスは、俺とエミリア、そしてレムで引き受ける。あいつは俺が自分の正体を知っていることに気づいて、極限まで追い詰められているはずだ。あいつは安全な場所を求めてる。こっちがその場所を提供できると信じさせれば、迷わず寝返ってくるはずだ。だから、力でねじ伏せるんじゃなく、俺たちが直接対峙して、あの最悪な呪いを解除させるよう説得する」

 「……分かったわ、スバル。あの子を……アンタレスを、これ以上悲しい道に行かせないために、私も全力を尽くすわ」

 

 エミリアが、悲痛ながらも力強い決意を瞳に宿して応える。隣に立つレムも、モーニングスターの鎖を静かに鳴らし、「スバルくんの進む道が、レムの戦場です」と短く告げた。

 

 「クルシュさんたちは、襲撃してくる『怠惰』のペテルギウスと魔女教徒を。そして、現れるはずの白鯨を叩いてほしい」

 

 俺の提案に、クルシュさんが琥珀色の瞳を鋭く光らせた。

 

 「承知した。ナツキ・スバル、卿の読み通りならば、我々は複数の強敵を同時に相手取ることになるな」

 「ああ。だから、ラインハルト」

 「なんだい、スバル」

 

 ラインハルトが俺を見る。その青い瞳には、親し気でありながら、災厄を断ち切るための確かな闘志が宿っていた。

 

 「白鯨はお前に任せたい。伝説の魔獣を相手に、お前以上の適任はいねぇ」

 

 王国最強の『剣聖』ならば、数百年の間人類を拒んできた雲の上の化け物であっても、容易く屠ることができるはずだ。

 だが、その決定が下されようとした瞬間――。

 

 「――お待ちいただきたい」

 

 低く、けれど内臓を直接掴まれるような凄まじい威圧感を伴った声が、天幕を震わせた。

 声を上げたのは、クルシュの背後に控えていた老騎士、ヴィルヘルムだった。

 

 「ヴィルヘルムさん……?」

 

 俺が目を見開く中、ヴィルヘルムは一歩、また一歩と、地を這うような重厚な足取りで中心へと進み出た。

 その老練な瞳には、十四年という歳月をかけて研ぎ澄まされてきた、凄絶なまでの執念の火が灯っていた。

 

 「スバル殿。そしてラインハルト。どうか、白鯨との戦い、この老いぼれに、先陣を切らせてはいただけないでしょうか」

 

 ヴィルヘルムは、ラインハルトと俺に深く頭を下げた。だが、その背中からは、一人の剣士としての、そして大切なものを奪われた人間としての剥き出しの怨念が溢れ出していた。

 

 「ヴィルヘルムさん…貴方が強いってのはよく知ってます。だけど、相手は白鯨、数百年間も討伐されなかった魔獣ですよ」

 「重々承知しております。……十四年です。あの日、妻を奪ったあの巨大な影を斬ることだけを、私はただの一日たりとも忘れたことはありませぬ。今の私の心臓は、あの獣を屠るためにのみ脈打っているのです」

 

 ヴィルヘルムの声は、静かだが震えていた。そのあまりの凄まじさに、エミリアが息を呑むのが分かった。

 沈黙が天幕を包む中、ラインハルトが静かに、そして慈しむような眼差しを祖父へと向けた。

 彼は俺に、そしてクルシュに向き直り、跪いて請うた。

 

 「僕からもお願いします。ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアという一人の剣士の、十四年越しの宿願を……どうか、叶えさせてあげてください。」

 

 ラインハルトの言葉には、かつての家族としての、そして現在も続く確執の中にある、彼なりの不器用な情愛が含まれているように聞こえた。

 

 「ラインハルト…」

 

 ヴィルヘルムが静かに呟く。

 クルシュが思案する。ヴィルヘルムは強力な戦力だ。魔女教との戦いにおいて大きな活躍が期待できる。白鯨と戦うということは、その戦力を一時的に、下手すれば永久に手放すことを意味する。

 俺は、彼と主従関係にある彼女の決断を待った。

 

 「……よかろう。ヴィルヘルム、白鯨討伐の指揮は卿に任せる。ラインハルトはその後方支援に回り、不測の事態に備えよ」

 「感謝いたします……!」

 

 ヴィルヘルムさんは再び深く頭を下げた。その拳は、白鯨という名の運命を握りつぶさんばかりに、白くなるほど強く握りしめられていた。

 

 「よし、布陣は決まった」

 

 俺は天幕の外、夕闇に染まり始めたメイザース領の深い森を睨み据えた。

 白鯨、ペテルギウス、そしてアンタレス。

 地獄のような陣容だが、今の俺たちには、絶望を塗り替えるための最強の駒が揃っている。

 

 「行くぞ。誰一人として欠けずに、明日を迎えるんだ」

 

 俺の決意を乗せて、運命の火蓋が切って落とされた。

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