魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ   作:あのさぁBOT

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第28話『雁字搦め』

 メイザース領の深い森。かつてのループで何度も見た、不吉な沈黙が支配する緑の迷宮を、俺たちは慎重に進んでいた。

 俺の背後には、戦場に不釣り合いなほど清廉な空気を纏うラインハルト、そして厳しい眼光で周囲を圧するヴィルヘルム、氷の魔法を構えるエミリアとレムがいる。カルステン陣営の私兵たちによる包囲網は、着実に森の深奥、大罪司教たちが潜むであろう座標へと絞り込まれていた。

 

 不意に、感覚が粟立った。

 鬱蒼と茂る巨木の陰、木漏れ日が不自然に遮られた暗がりに、宇宙を思わせる青みがかった黒髪と、その隙間に一筋だけ混じる鮮血のような赤いメッシュを俺の目は捉えた。

 

 「……っ」

 

 心臓が嫌な音を立てて跳ねる。間違いない、『傲慢』の大罪司教アンタレスだ。

 俺は即座に右手を上げ、背後に続くラインハルトやレムたちを制止した。彼らは俺のただならぬ気配を察し、無言で足を止める。

 俺は一度、肺の奥まで冷たい空気を吸い込み、木陰に潜む小さな影に向かって声を張り上げた。

 

 「アンタレス! 交渉しよう!」

 

 森の静寂に、俺の叫びが木霊する。

 影の中にいる彼女の肩が、びくりと大きく跳ねたのが見えた。

 前回のループで、彼女は俺たちが意識を向けた瞬間、なりふり構わず逃げ出した。

 だが、今回は違う。「交渉」という、戦闘を避けるような言葉を彼女に投げかけた。

 

 アンタレスは、影の中から困惑を隠しきれない瞳で俺を見つめていた。

 彼女の表情には、これまでの「無垢な子供」の演技を続けるべきか、あるいは大罪司教として牙を剥くべきか、その狭間で激しく揺れ動く困惑が浮かんでいる。

 彼女はその場から逃げ出そうとする素振りを見せなかった。

 

 (……第一段階成功、だ)

 

 俺は心中で密かに呟き、拳を握りしめる。

 彼女は臆病だ。戦闘は可能な限り避けたいだろうし、敵意を向けられるだけでも恐怖だろう。

 そんな彼女にとって、相手が「対話」を提示してきたのであれば、それに食いつかない手は無いだろう。それでも、すぐに影から身体を出さないのは、罠を警戒しているからだろう。

 

 俺はさらに一歩踏み出し、彼女が最も求めているはずの「報酬」を口にした。

 

 「お前の事情は全部知ってる! ……俺たちはお前を保護しに来たんだ!」

 

 「保護」――大罪司教という「討つべき災厄」に対して放たれるはずのない、あまりに場違いなその言葉。

 アンタレスは、驚愕でその目を大きく見開いた。

 

 彼女が恐れているのは、死そのものだ。そして、捕らえられた後に待っているであろう拷問や処刑だ。

 それを俺が、自らの命を懸けて否定し、彼女が切望してやまない「安全な場所」を保証すると告げたのだ。

 命を喰らわなければ生きられなかった彼女の歪んだ生存戦略を、俺が力ずくで書き換え、ただの平穏な子供に戻してやるために。

 

 アンタレスの細い唇が、かすかに震えているのが見えた。俺の投げた「慈悲」という名の縄が、彼女の頑なな『傲慢』の芯に、確かに届き始めているのが分かった。

 

 木陰に身を潜めたアンタレスは、大きく見開いた瞳で俺を凝視していた。その震える小さな肩は、今にも逃げ出したいという本能と、すべてを見透かされたことへの逃れようのない戦慄の間で、激しく揺れ動いている。

 

 「……全部、知ってる……? 本当に? 言ってみてよ…」

 

 蚊の鳴くような、けれど試すような声。アンタレスは掠れた声で俺を問い詰めた。

 彼女の瞳の奥には、前のループで俺を『懐柔』し、そして絶望の果てに殺害した時の、あの冷徹な大罪司教の光が微かに混じっている。

 俺は、一歩も引かずに言葉を続けた。彼女が最も隠しておきたかった、そして俺だけが知っている『真実』を。

 

 「知ってるさ。お前が『アンちゃん』なんて可愛い名前の迷子じゃないことも、その正体が魔女教大罪司教『傲慢』担当、アンタレス・アンドロクトヌスであることもな」

 

 アンタレスの喉が、ヒュッと音を立てて鳴った。俺は畳みかけるように、彼女の権能の正体を暴き立てる。

 

 「お前の力も知っている。他者の命を掌握し、その命を『燃料』にして自分の肉体を化け物みたいに強化したり、負った傷を瞬時に治したり……挙句の果てには、自分自身の死さえ無かったことにできることもな」

 「あ、……ぁ……」

 

 アンタレスの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。

 俺が口にしているのは、ラインハルトの加護やベアトリスの知識、そして何より俺が自らの死を以て体感してきた、彼女の生存戦略の核心そのものだ。

 だが、俺は彼女を責めるためにここに立ったんじゃない。

 

 「……だけど、俺はそれ以上に、君の本質を知っている」

 

 俺は声を和らげ、彼女の怯える瞳を真っ直ぐに見据えた。

 

 「君は、ただの臆病者だ。誰よりも死を恐れて、痛いのが嫌いで……ただ一人生き残るために、他人の命を盾にすることしかできなかった、救いようのない寂しがり屋の子供だ」

 「…」

 「……君にはペテルギウスみたいな狂気がない。君にあるのは、『ただ生きていたい』っていう、当たり前の、けれど誰よりも切実な生存本能だけだ」

 

 俺は、前々回のループで見せた、彼女の剥き出しの涙を思い出す。正体を暴かれ、追い詰められた時に彼女が叫んだ「平穏に生きたかっただけ」という、あの悲痛な本音を。

 

 「君に悪意なんてない。誰かを苦しめたいわけじゃない。ただ美味しいものを食べて、暖かい布団で眠る……そんな当たり前の平穏を掴み取るための方法が、あまりに歪んでいただけなんだ。……そうだろう?」

 「…………」

 

 アンタレスの唇が、小さく震えた。

 俺の言葉は、彼女がこれまで魔女教という泥沼の中で、誰にも理解されず、誰にも向けられなかった「理解」そのものだった。

 アンタレスの大きく潤んだ瞳が、微かな光を湛えて激しく揺れ動く。

 俺を『利用対象』としてしか見ていなかった彼女の心に、俺という人間が投げ込んだ「慈悲」という名の不純物が、静かに、けれど確実に波紋を広がっていった。

 

 「……本当なの?」

 

 木陰の暗がりに潜むアンタレスが、掠れた声で問いかけてくる。その瞳には、かつて王都で俺を殺した時の冷徹な光も、俺を『懐柔』しようとしていた策士の計算も、今は欠片も残っていなかった。

 そこにあるのは、ただひたすらに死の深淵に怯え、泥を啜ってでも生存を願う「臆病者」としての、剥き出しの期待だった。

 

 「僕を、殺したりしない……? 牢屋に閉じ込めたり、処刑したり、しないで……本当に、僕を助けてくれるの……?」

 

 彼女の細い指先が、隠れている大木の樹皮を白くなるほど強く握りしめているのが見えた。

 俺は迷わず、一歩踏み出して頷く。

 

 「ああ、本当だ。約束する。俺が、お前の味方になってやる」

 

 俺の声は、自分でも驚くほど静かに、けれど揺るぎない確信を持って森の空気を震わせた。

 あいつがどれだけ他人の命を『消費』してきたか、どれほど醜い生存戦略で俺たちを裏切ってきたか、その罪が消えるわけじゃない。

 だけど、こいつを殴り飛ばしてでも、その歪んだ生き方を止めてやると俺は誓ったんだ。誰かを殺さなくても生きていける道を、俺が死ぬ気で探してやる。

 

 「もう、一人で震えるのは終わりにしよう。俺と一緒に来い、アンタレス」

 

 それから、しばらくの間、静寂が流れた。

 風が木の葉を揺らす音、地竜の息遣い。それらすべてが遠のき、俺とアンタレスの視線だけが、目に見えない糸のように絡み合う。

 

 やがて、アンタレスがゆっくりと、本当にゆっくりと、木陰からその小さな身体を現した。

 黒いローブを身に纏い、泥に汚れた十歳の少女の姿。彼女は、今にも壊れそうな硝子細工を扱うような、恐る恐るといった様子で、一歩ずつ俺の方へ歩み寄ってくる。

 その瞳は、俺を『歩くセーブポイント』としか見ていなかった以前とは違い、ただ一人の人間として、救い主としての俺を求めていた。

 

 「スバ、ル………」

 

 俺は、彼女を温かく迎え入れるために、両腕を大きく広げた。

 もう一度、あの日アーラム村でやったように、この小さな絶望を抱きしめてやるために。今度こそ、偽りではない本物の温もりを分かち合うために。

 だが、その指先が俺の身体に触れる、その直前だった。

 

 「──ッ!!」

 

 俺の網膜が、不吉な空間の揺らぎを捉えた。

 音もなく。

 森の深奥、光の届かない闇の向こう側から、悍ましい色をした『見えざる手』が、獲物を狙う大蛇のように音速で伸びてきたのだ。

 

 「ひっ……な、なに……っ!?」

 

 アンタレスが悲鳴を上げる間もなかった。

 無数に現れた不可視の腕が、彼女の華奢な胴体を、そして手足を、暴力的な質量で鷲掴みにする。

 そのまま彼女は抗う術もなく、文字通り「攫われて」いく。

 

 「アンタレスッ!!」

 

 俺の手が空を切った。

 彼女の小さな身体は、引き摺られるようにして凄まじい速度で森の暗闇へと消えていく。

 

 「ああ、ああ、ああ! なんという逃避! なんという脆弱! それは魔女の寵愛への、ワタシの愛への冒涜デスッ!!」

 

 森の奥から、聞き覚えのある狂気に満ちた高笑いが響き渡る。ペテルギウスだ。あいつ、俺が手懐けようとした『傲慢』を、再び自分の『勤勉』な駒として回収しやがった。

 

 「アンタレスッ!!」

 「スバル、待って! 闇雲に突っ込んじゃダメよ!」

 

 エミリアの叫びが背後から響く。だが、俺の耳には届かない。

 今、俺は彼女に約束したばかりなんだ。俺が味方になってやる、もう一人で震えなくていいと。

 その誓いを踏みにじるような理不尽を、俺は絶対に認めない。

 

 だが、俺が地を蹴り、彼女が消えた闇へ飛び込もうとしたその刹那。

 

 森のあちこちから、吐き気を催すような濃密な気配が溢れ出した。

 それと同時に、まるで森そのものが意志を持ったかのように、至る所から影が這い出してきた。

 木々の枝から、岩陰の暗がりから、そして俺たちが踏みしめている腐葉土の下からさえも。

 死装束のような黒いローブを纏い、感情を削ぎ落とした無機質な集団――魔女教徒たちが、瞬く間に俺たちの周囲を埋め尽くした。

 俺は足を止め、周囲を睨みつける。その数は十や二十じゃない。五十は下らない狂信者たちが、逃げ場を塞ぐようにして幾重にも円陣を組んでいた。

 

 「――総員、迎撃せよ! 一人たりとも通すな!」

 

 クルシュさんの鋭い号令が飛び、銀色の甲冑を纏ったカルステン陣営の騎士たちが即座に抜剣する。

 

 「スバルくん、レムの側に!! スバルくんの道を邪魔する者は、レムがすべて叩き潰しますッ!」

 

 レムが叫びながら、俺の前に割って入る。彼女の腕の中にある鉄球の鎖が、怒りに応えるように重苦しい金属音を立てて鳴り響いた。

 直後、レムが放った一撃が、先頭の狂信者をローブごと粉砕する。エミリアもまた、氷の礫を無数に浮かべ、背後から迫る影を迎え撃つ。

 ヴィルヘルムの剣が、目にも止まらぬ速さで狂信者たちの首を次々と刎ねていった。ラインハルトが手刀一つで空間を割き、魔女教徒たちの突撃を強引に押し戻す。

 それでもなお、魔女教徒は何処からともなく湧き出てくる。命を削るような高火力な魔法を放ち、時には体に括りつけた火石爆弾を点火して広範囲に被害を出していく。

 

 「スバル、ここは僕たちが食い止める! 君は先へ!」

 「ああ、分かってる……! いくぞレム、エミリア! アンタレスが命を消費する前に、あいつを助けるんだッ!」

 

 俺は、騎士たちが切り拓いた僅かな隙間を突き抜け、アンタレスを飲み込んだ漆黒の森の深奥へと、再び駆け出した。

 背後で響く剣戟の音と狂信者たちの絶叫を、俺は二度と振り返ることはなかった。

 

 

 騎士たちが切り拓いた血路を突き抜け、俺とレム、そしてエミリアはさらに森の深奥へと足を踏み入れた。肺が焼けるような焦燥感の中、不浄なマナの揺らぎが一点に集中している場所へと辿り着く。

 そこには、正気を疑うような光景が広がっていた。

 

 「……っ、アンタレス!」

 

 俺の視線の先、不自然に空間が歪む木々の中心で、宇宙を思わせる黒髪に赤いメッシュを引いた少女が、宙に浮いた状態で無様にぶら下がっていた。

 いや、浮いているのではない。

 俺の目にははっきりと見えていた。ドロリとした不浄な色をした数十本の不気味な「腕」が、彼女の華奢な胴体や手足を、そして何よりその小さな頭部を、林檎でも握りつぶすかのような無慈悲な質量で鷲掴みにしているのが。

 

 「ひっ……う、あ……」

 

 アンタレスの顔は、かつてアーラム村で見せたあの「臆病な子供」の表情にまで退行していた。大罪司教としての傲慢な仮面は剥がれ落ち、ただ死の恐怖にガタガタと震え、涙で顔をぐしゃぐしゃにしている。

 

 「ああ、ああ、ああ! なんという勤勉な囮、なんという素晴らしい自己愛! これぞ福音に選ばれし『傲慢』の形デスッ!」

 

 その中心で、緑のおかっぱ頭を奇怪な角度に折り曲げた狂人――ペテルギウスが、自らの指を噛み砕きながら悦に浸っていた。

 俺は一歩前に出ると、拳を固く握りしめ、目の前の狂人を睨みつけた。

 

 「その手を放しやがれ、ペテルギウスッ!!」

 

 俺の怒号が森の静寂を切り裂いた。その瞬間、ペテルギウスの奇怪な動きがピタリと止まった。

 彼は血走った眼球を限界まで見開き、信じられないものを見るような、あるいは天啓を受けたかのような驚愕の表情で俺を凝視した。

 

 「……今、なんと? アナタ、今……『その手』と仰いましたか?」

 

 ペテルギウスの声から、さっきまでの陽気な狂気が消え、代わりに底冷えするような戦慄が混じり始めた。彼は首をボキリと真横に折ると、這いずるような声で俺を問い詰める。

 

 「まさか、まさかまさかまさかまさかまさかぁ……ッ!! アナタ、ワタシの『見えざる手』が見えているのデスかぁぁあああ!!?」

 「ああ、はっきり見えてるぜ! その薄汚ぇ腕で、その子を掴むんじゃねぇって言ってんだよ!」

 

 俺が吐き捨てるように断言した瞬間、ペテルギウスの全身から、これまでとは比較にならないほどの悍ましい殺気が噴出した。

 

 「ああ、ああああああッ!! ありえない! ありえないありえないありえないィ!! 魔女の寵愛をッ、ワタシの愛をッ、貴様が、貴様ごときが……斯様に容易く、ワタシの『愛』を直視するなどぉぉおおおおおッ!!」

 

 ペテルギウスは発狂し、自らの顔を爪が食い込むほどに掻きむしりながら、天を仰いで絶叫した。狂った咆哮と共に、彼の背後からさらに数十本の透明な腕が、黒い翼のように広がり始めた。

 

 「不敬! 不義! そして何より――怠惰デスッ!!」

 

 ペテルギウスが激昂と共に腕を振り下ろすと同時に、空間を埋め尽くすほどの不可視の暴力が、俺たちを塵も残さず圧殺せんと一斉に襲いかかってきた。

 不可視の暴力が俺たちを押し潰そうと迫る中、俺は叫んだ。この狂人の権能を、初見のふりで受け止める余裕なんて一秒もありゃしない。

 

 「エミリア、パック! 氷の粉末を辺り一面にぶちまけろ! それで、見えない腕を炙り出すんだ!」

 「分かったわ! パック!」

 「了解だよ、リア!」

 

 エミリアの紫紺の瞳に決意が宿り、パックが空中でマナを爆発させる。瞬間、俺たちの周囲にキラキラと輝く細かな氷の粒子が、吹雪のように吹き荒れた。

 すると、何もなかったはずの空間に、不自然な「空白」が浮かび上がった。氷の粉末を纏い、霧の中に浮かび上がる巨大な影。それは、アンタレスを吊り下げているものと同じ、おぞましい数十本の「腕」の形だった。

 

 「……見えましたッ!!」

 

 レムが鋭い声を上げ、鉄球を唸らせる。

 視認さえできれば、彼女たちの敵ではない。レムのモーニングスターが不可視の腕を粉砕し、エミリアが放つ氷の剣が、迫りくる指を次々と叩き落としていく。

 だが、ペテルギウスの狂気は衰えない。彼は自らの指を噛み砕き、血を滴らせながら、俺を、俺だけを血走った眼球で凝視した。

 

 「……なるほどなるほど。『知っている』とはこういうことデスか。アナタ、ワタシの『愛』を、その対処法を、福音に記されるよりも早く理解しているというのデスね…。実に結構、実に勤勉デス!」

 

 ペテルギウスは、腕が叩き落とされるのも構わずに笑い続けた。その不気味な高揚感は、俺たちの抵抗さえも「試練」の一部として楽しんでいるかのようだった。

 やがて、彼は奇怪な角度で首をボキリと折ると、真横で不可視の腕に掴まれ、震え続けているアンタレスに向き直った。

 

 「ああ、アンタレスよ。ワタシの『傲慢』なる同胞よ。アナタは、いつまでそうやってぶら下がっているつもりデスか?」

 「ひっ」

 

 恐怖で顔を白く染め、涙を流すアンタレスに、ペテルギウスは慈悲の欠片もない冷徹な声を突きつける。

 

 「アナタを救いに来たというあの寵愛の信徒。……アナタは、このまま無様に、彼に助けられるのを待つつもりデスか? それがアナタの選んだ『傲慢』の形、なのデスか?」

 「…っあ…」

 

 宙に吊るされたアンタレスの喉を、ペテルギウスの『見えざる手』が万力のような力で締め上げる。ミシミシと嫌な音が鳴り、彼女の小さな顔が苦痛に歪むのを、俺の目ははっきりと捉えていた。

 

 「やめろッ! 放せって言ってんだろッ!!」

 

 俺の怒号に対し、ペテルギウスは首をボキリと真横に折り、血走った眼球をギラつかせながら、俺ではなく腕の中の少女へと不気味な視線を固定した。

 今すぐにでも助けにいきたいが、ペテルギウスの攻撃で近づく事さえできない。

 

 「ああ、アンタレス。アナタのその震え、その涙……実に見事な『傲慢』デス。ですが、少々自分を、そして周りを欺きすぎたようデスねぇ?」

 

 ペテルギウスは、アンタレスを掴んでいる見えざる手に、さらにジワリと力を込めた。

 

 「……が、はっ……げ、ほっ……!」

 「分かっていましたよ。アナタが魔女を、サテラを……これっぽっちも愛してなどいないことくらい、随分と前から知っていました」

 

 ペテルギウスの冷徹な声が、森の静寂を切り裂く。彼は自らの指を噛み砕き、血を滴らせながら、アンタレスの「本質」を暴き立てる。

 

 「アナタにあるのは信仰ではない。ただひたすらに醜悪で、矮小で、けれど純粋な『自己の生存』への執着のみ! 世界を己を生かすための資源としか見なさぬその魂! ああ、脳が、脳が震えるぅぅぅッ!!」

 

 ペテルギウスは、まるで福音書を読み上げるかのような確信を持って言葉を繋げた。

 

 「アナタが、あの寵愛の信徒――ナツキ・スバルの甘い言葉に乗り、いつかワタシたちの元を寝返る可能性を、ワタシはとっくに計算に入れていたのデス」

 「そ、んな……っ」

 

 アンタレスの瞳に、絶望的な戦慄が走る。彼女の生存戦略のすべてが、この狂人の手のひらの上で踊らされていたに過ぎなかったのか。

 ペテルギウスは彼女に追い打ちをかけるように言葉を繋げる。

 

 「デスが、アナタは忘れている。己が大罪司教であることを! 他者の命を喰らわねば生きられぬ、救いようのない自己愛の中で生きていることをッ!!」

 

 ペテルギウスは顔中の血管を浮き上がらせて彼女を睨みつけた。

 

 「アナタが望む平穏……温かい食事、静かな眠り。そんなものは、魔女の寵愛という名の楽園の中でしか得られないのデス! 外の世界にアナタの居場所などッ、あの日ッ、アナタがッ、魔女教に入信した時からッ、存在しないのデスッ!!」

 

 ペテルギウスは奇怪な高笑いを上げると、別の『見えざる手』を森の奥へと伸ばした。木々をなぎ倒し、影の中から引きずり出されたのは、あの無骨で巨大な『処刑人の大剣』だった。

 

 「さぁ、受け取るのデス、アンタレス!!」

 

 ペテルギウスは、見えざる手でその大剣をアンタレスの目の前へと差し出した。

 俺はその光景に目を見開いた。同時に、阻止しなければ、と思った。

 何故なら、俺は彼女があの剣を手に取った時を覚えている。網膜に焼き付いている。あの大剣を担ぎ、巨悪を次々に滅した戦神の如き風格を。『最強』ですら逃してしまった、あの『傲慢』を。

 俺はペテルギウスが繰り出す『見えざる手』の猛攻をエミリアやレムに助けてもらいながら回避し、無理矢理詰め寄っていく。

 

 「その鉄塊を手に、己を拒絶する全てを叩き伏せるのデス! それこそがアナタに与えられた『傲慢』の証明! 魔女の寵愛の下で、血に塗れた安寧を貪り尽くすのデスッ!!」

 

 ペテルギウスの言葉に、アンタレスの視線が、ふらふらと泳いだ。

 

 まず、彼女は目の前に突きつけられた『大剣』を見やった。

 それは彼女が生き延びるために他人の命を喰らい、振るわなければならない「傲慢」な力の象徴だ。その冷たい鉄の光に、彼女は怯えるように目を細める。

 

 次に、彼女は自らを捕らえているペテルギウスへと視線を移した。

 自らの指を噛み砕き、血走った眼球で「愛」と「勤勉」を説く狂人。彼と一緒にいれば、再び血塗られた安寧の中に引き戻される。彼女にとって、彼は逃れたくても逃れられない「死」よりも近い恐怖なのだろう。

 

 そして最後に、彼女の瞳は俺を捉えた。

 

 「アンタレス!」

 

 俺は必死に手を伸ばし、彼女を呼び続けた。俺は彼女に「味方になる」と約束した。彼女の「平穏に生きたい」という矮小で切実な願いを、俺だけは信じると誓ったんだ。

 だが、今の彼女にとって、俺の存在もまた、巨大なストレスの要因でしかなかったのかもしれない。

 

 魔女教としての自分を肯定し、戦うことを強要するペテルギウス。

 自分を「白」だと信じ、誰も彼も救い出そうとする俺。

 そして、手に取れば誰かを殺さなければならない『大剣』。

 

 二つの陣営の思惑と、自らの生存本能の狭間で、少女の精神はすでに限界を超えていた。

 

 「ぁ……、……っ」

 

 アンタレスの喉が大きく波打った。

 彼女の顔が、土気色を通り越して、見たこともないような不気味な白さに変わる。

 

 「……ぉ、……え」

 

 次の瞬間、彼女の小さな身体が激しく痙攣した。

 凄まじい嘔吐の音が、静まり返った森に響き渡る。

 彼女の口から吐き出されたのは、消化されきっていない食事と、胃液、そしてストレスで荒れ果てた内臓から絞り出されたような苦い液体の塊だった。

 

 「……が、はっ……、ぉえっ……!!」

 

 空中につり下げられたまま、彼女は何度も、何度も嘔吐を繰り返した。

 涙と鼻水、そして吐瀉物で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼女はただ、決断そのものに拒絶反応を示しているようだった。

 

 そのあまりに無様で、あまりに痛々しい姿に、俺は息を呑んだ。

 大罪司教だとか、傲慢だとか、そんな肩書きはどこにもない。

 ただそこにいたのは、背負わされた運命の重さに耐えきれず、身体の内側から崩壊していく、一人のひどく臆病で、小さな子供の姿だった。

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