魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ   作:あのさぁBOT

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第30話『道連れ』

 「――ラインハルト! ヴィルヘルム! あの巨獣を墜とせッ!!」

 

 戦場に、クルシュの凛烈な号令が響き渡った。

 メイザース領の森を包み込む不浄な霧の向こう側で、全長五十メートルを超える絶望の象徴――白鯨が、空を重苦しく回遊している。その巨躯から放たれる圧倒的な威圧感に、並の兵士なら腰を抜かす場面だ。だが、今の俺たちの陣容には、その絶望を切り裂くための「最強」が揃っている。

 

 「御意に、カルステン公爵閣下」

 

 白い騎士服を翻し、ラインハルトが静かに一歩前へ出た。その隣では、かつて『剣鬼』と謳われた老騎士、ヴィルヘルムが、鬼気迫る執念を瞳に宿して愛剣を握りしめている。

 

 「ラインハルト」

 

 ヴィルヘルムの声は、低く、けれど地響きのように重かった。

 

 「……あの獣の止めだけは、俺にやらせてくれ」

 

 それは、一人の騎士としての願いであり、最愛の妻を奪われた夫としての、血を吐くような宿願だった。

 ラインハルトは、祖父の背中に宿る凄絶な殺気と悲哀を正面から受け止め、静かに、慈しむような眼差しで頷いた。

 

 「分かりました。……存分に、その剣を振るってください」

 

 二人の最強の剣士が、空を覆う巨獣に向かって同時に地を蹴った。音速を置き去りにしたその加速は、森の霧を強引に切り裂き、巨鯨の懐へと肉薄していく。

 

 「……っ、アンタレス!」

 

 俺は、二人の背中を見送る余裕もなく、足元で崩れ落ちている少女の元へと駆け寄った。

 

 「ス、バル…!」

 「俺らが守ってやる! だから何もするなよ!」

 

 俺は、彼女を背後に庇うようにして立ち、周囲を睨みつけた。

 彼女は追い詰められると命を消費して窮地を脱しようとする。掌握の解除が出来ないと分かった以上、俺がやるべきなのは、彼女が追い詰められないように、そして死なないように守護することだ。

 

 「大丈夫だ、アンタレス。俺の傍から離れるなよ」

 

 ペテルギウスが、再び『試練』を完遂せんと不可視の魔手を伸ばしてくる。不自然に揺らぐ空間。白鯨が発する霧と、氷の粒子が舞う中で、俺の瞳ははっきりと捉えていた。

 アンタレスを、そして俺たちを、ゴミのように握りつぶそうと迫りくる、ドロリとした不浄な色の『見えざる手』の群れを。

 

 「そこだッ!!」

 

 俺は、死の宣告を運んでくる空間の歪みを指差した。その指先が示す先――鬱蒼とした茂みの暗がり、狂ったように頭を振り回している白髪の老人の姿を。

 

 「クルシュ! あそこだ! ペテルギウスだ!!」

 「了解した、ナツキ・スバル…!」

 

 俺の叫びに応じるように、緑髪の麗人が剣を正眼に構えた。彼女の周囲に、凄まじいまでのマナが収束し、風が激しく渦巻き始める。

 クルシュは鋭い眼光で俺の指し示した一点を射抜くと、全身の力を込めてその一振りを放った。

 ヒュン、と鋭い風が吹く。

 視認範囲すべてを断ち切る、真空の刃が解き放たれた。森の木々を、霧を、そして迫りくる『見えざる手』さえも紙細工のように切り裂きながら、その一撃は狂人の潜む闇へと一直線に突き進んでいった。

 

 「――くっ、手応えが無い」

 

 ペテルギウスに向けて、クルシュが『百人一太刀』を何度も放つ。しかし、彼女の琥珀色の瞳には焦燥の色が混じっていた。真空の刃は確かに霧を切り裂き、奴のいる場所を通っているはずなのだが、まるで虚空を斬っているかのような感覚に襲われているのだ。

 

 「ラインハルトとヴィルヘルムが白鯨を墜とすまでが正念場だ! 総員、霧に惑わされるな! 互いの位置を確認し合い、視界を保てッ!!」

 

 クルシュの凛烈な号令が戦場を鼓舞するが、状況は芳しくなかった。白鯨が吐き出す霧は、森の木々を飲み込み、俺たちの視界を無慈悲に奪っていく。

 

 「……スバル」

 

 俺の背後で、アンタレスが震える声で俺の服の裾を掴んだ。彼女の顔は土気色になり、宇宙を思わせる黒髪に混じった赤いメッシュが、霧の中で不吉に揺れている。

 

 「大丈夫だ、アンタレス。お前には指一本触れさせねぇ。だから……絶対に『力』は使うなよ」

 

 俺は彼女を背中に庇いながら、周囲の白い闇を睨みつけた。彼女を追い詰めれば、また誰かの命が『消費』される。それを止めるのが、俺の役目だ。

 その時だった。

 不意に、霧の奥から耳を劈くような爆鳴が響き渡った。

 

 「なっ、何だ!? 今のは……」

 「スバルくん、敵襲です! 魔女教徒たちが攻撃を再開しました!!」

 

 レムの叫びと同時に、霧の中から黒装束の影が次々と飛び出してきた。奴らは強力な魔法を放ち、騎士たちの集団へと肉薄していく。

 

 「ひっ、ひぃぃいいいッ!!」

 

 アンタレスが悲鳴を上げ、俺の背中に顔を埋める。俺の心臓は早鐘を打ち、冷や汗が止まらない。視界制限と範囲攻撃。最悪の波状攻撃に、カルステン陣営の陣形が乱れ始める。

 

 (クソッ、どっから来やがる……!?)

 

 目を凝らし、空間の揺らぎを捉えようとしたその瞬間。

 霧を切り裂いて、拳ほどの大きさの「小さな袋」が、俺たちを目がけて放り投げられた。

 

 「――あ」

 

 スローモーションのように視界を横切るその袋。その隙間から、赤く輝く不安定な石――『火石爆弾』の破片が覗いているのが見えた。

 

 「アンタレスッ!!」

 「うわぁっ!?」

 

 俺は考えるよりも先に身体を動かしていた。隣で硬直しているアンタレスの細い肩を、渾身の力で突き飛ばす。

 彼女の小さな身体が地面を転がるのと同時に、俺も反対側へ向かって泥を跳ね上げながら飛び退いた。

 

 直後、俺たちがいた場所で凄まじい衝撃と熱風が爆ぜた。爆圧が肺を圧迫し、俺の視界は一瞬で土煙に覆い尽くされた。

 

 爆風が巻き上げた熱い土煙が、肺の奥まで入り込み、喉を焼く。

 俺は地面に這いつくばったまま、泥にまみれた顔を腕で乱暴に拭い、顔を上げた。

 視界は最悪だ。火石爆弾の衝撃で周囲の木々はなぎ倒され、白鯨が吐き出す濃霧と爆辞の煙が混じり合って、数メートル先すらおぼつかない。だが、俺にはやらなきゃならないことがある。咄嗟に突き飛ばした、あの小さな身体を探し出さなきゃならない。

 

 「アンタレス! 無事か――」

 「スバルくん、危ないッ!」

 

 叫ぼうとした俺の言葉は、レムの切迫した警告によって強引に遮られた。

 直後、白い闇を切り裂いて、魔女教徒たちが放った禍々しい魔法の輝きが、俺たちの喉元を狙って殺到する。

 

 「ヒューマ!」

 

 レムが鋭く唱えると、放たれた水のつぶてが空中で魔法を正確に迎撃し、火花を散らして撃ち落とした。

 レムはモーニングスターの鎖を激しく鳴らし、霧の奥に潜む狂信者たちの気配を鋭い眼光で射抜いている。

 

 「このままじゃ防戦一方よ! 皆、私の後ろに隠れて!」

 

 エミリアが叫び、地面に掌を突き当てる。

 瞬時にマナが収束し、俺たちの周囲を囲うようにして、巨大な氷の壁が次々と築き上げられていった。

 これで一時的にでも射線を遮れる――そう思った瞬間だった。

 

 「――っ、エミリア、上だッ!!」

 

 俺の叫びと同時に、何もない空間が不自然に歪んだ。

 俺の瞳だけが、どこからともなく伸びてきた、ドロリとした不浄な色の『見えざる手』の群れをはっきりと捉えていた。

 グシャリ、と。

 エミリアが氷の壁を築くたび、その不可視の魔手は、まるで熟れた果実でも握りつぶすかのような無慈悲な質量で、防壁を粉々に破壊し続けた。

 

 「そんな……!」

 「信徒に攻撃は任せて、コソコソと隠れながら守りを壊す。狂った顔して冷静な奴だね」

 

 築いたそばから砂のように砕け散る氷の破片を浴びながら、エミリアが困惑に声を震わせ、パックが冷静に分析する。

 俺はふと空に圧迫感を抱き、見上げた。そこには、空を覆う絶望の霧を裂き、冗談であってほしいと願いたくなるような光景が広がっていた。

 

 「――っ、三体……!? 分裂しやがった……!」

 

 俺の掠れた叫びが、戦場に響いた。

 不浄な霧の向こう側、巨大な白鯨の影が三つに分かれ、重なり合うようにして空を回遊している。全長五十メートルを超える巨獣が三体も空を占拠する威圧感は、並の兵士の心をへし折るには十分すぎるほどの暴威だった。

 周囲の騎士たちの間に、波紋のような動揺が広がる。だが、その絶望を切り裂いたのは、凛烈なる指揮官の叱咤だった。

 

 「総員、怯むな! あれは奴が追い詰められている証拠だ!」

 

 クルシュが琥珀色の瞳を鋭く光らせ、真空の刃を構えて叫ぶ。

 

 「本体を温存するために、自らの身を削って分身を作ったに過ぎない! もう少しの辛抱だッ!!」

 

 その力強い言葉に、崩れかけていた陣形が再び硬度を取り戻す。

 だが、白鯨が吐き出す霧は以前として深く、俺たちの視界を無慈悲に奪い続けていた。

 

 「この霧をどうにかしねぇと、奴らに一方的に殴られ続ける! レム!」

 「はい、スバルくん!」

 

 俺の意図を察したレムが、重厚な鎖をジャラリと鳴らした。

 

 「霧を払うんだ! その鉄球で、この白い壁をはらってくれ!」

 「了解しました――ッ!」

 

 レムが渾身の力を込めてモーニングスターを大きく振り回す。音速を超える鉄球の回転が、物理的な質量の暴風となって周囲の霧を強引に掻き消した。

 一瞬、視界が開ける。

 霧が薄れた森の奥、不自然に揺らぐ空間の端に、俺の瞳は「それ」を捉えた。

 

 「いた……あそこだ! 茂みの影、奴がいるぞ!!」

 

 俺が指し示した先には、狂気的な動きで頭を振り回し、不可視の魔手を伸ばそうとしている黒装束の男がいた。

 

 「そこか!」

 「逃がさないわ!」

 

 クルシュの『百人一太刀』が真空の刃となって森を切り裂き、同時にエミリアが放った無数の氷の礫が、弾幕となって狂信者の潜む闇へと殺到する。

 激しい衝撃と氷の破片が舞う中、俺は背後に漂う違和感に、心臓が凍りつくような感覚を覚えた。

 

 (……待て。アンタレスは!?)

 

 あの少女の姿が、どこにもない。

 彼女は追い詰められれば、誰かの命を『消費』してでも生き延びようとする『臆病者』だ。彼女を守りの中心に入れなければ、またあの暴虐が始まってしまう。

 

 「アンタレス! どこだ、アンタレス!!」

 

 魔女教の魔法と白鯨の咆哮が入り混じる混沌とした戦場の中で、俺は必死に、赤いメッシュの混じった黒髪の影を探し求めた。

 白鯨が吐き出す濃密な霧と、ペテルギウスの放つ不浄なマナが入り混じる戦場。視界の悪い中、俺はアリ一匹も見逃さないとばかりに周囲を見渡した。

 思えば、魔女教徒の火石爆弾による爆発の後、彼女の姿を見ていない。まさか、あの爆発で吹き飛んだのか。それとも、前のようにペテルギウスに攫われたのか。

 

 「レム! エミリア! アンタレスはどうした!? あの子を見なかったか!?」

 

 俺は近くで魔女教徒を退けていたレムとエミリアに駆け寄り、縋るように問いかけた。しかし、返ってきたのは、俺の焦燥をあざ笑うかのような、深い困惑の表情だった。

 

 「スバル……? 落ち着いて」

 

 エミリアが不思議そうに首を傾げ、紫紺の瞳で俺を見つめる。その隣で、レムもまた無表情なまま静かに口を開いた。

 

 「アンタレスって、誰のこと?」

 「……え」

 「はい、スバルくん。レムの記憶にも、そのような名前の人物は存在しません。……ショックで、どなたかと見間違えたのではありませんか?」

 「……は?」

 

 二人の言葉が脳に届いた瞬間、俺の思考は完全に停止した。

 冗談だろ? ついさっきまで、俺たちはあの子を助けるために一緒に走っていたじゃないか。あの子が魔女教に故郷を奪われた被害者だって、俺が説得したのを忘れたのか?

 

 「おい、こんな時に冗談言ってる場合かよ! アンタレスだよ! 黒髪で赤いメッシュが入った、十歳くらいの女の子だ! 彼女は、俺たちが守らなきゃいけない『傲慢』の大罪司教なんだぞ!」

 

 俺の必死の訴えに、さらに追い打ちをかけるような声が響いた。

 

 「……ナツキ・スバル。卿は何を錯乱している」

 

 振り返ると、そこには血気盛んに指揮を執っていたはずのクルシュが、冷徹なまでの冷静さを湛えて俺を睨み据えていた。

 

 「『怠惰』以外の大罪司教がこの森にいるなどという報告は、卿からも、我が騎士たちからも受けていない。この状況で新たな敵の名を挙げて混乱を招くのはやめてもらおうか。…まずは目の前の問題に集中しろ」

 

 クルシュの琥珀色の瞳には、一点の曇りもなかった。彼女の『風見の加護』は、俺が嘘を吐いていないことを知っているはずだ。だというのに、彼女が語る『真実』の中には、アンタレスという存在が欠片も存在していなかった。

 ラインハルトが言っていた、「血の糸」が見えるというあの言葉。あの子が生きて償う機会を与えてほしいと、俺が必死に頼み込んだあの会議。あいつの首にかけられた見えない死の首輪を、俺たちがどうにかしようと誓ったあの時間は、一体どこへ消えたんだ?

 

 「え、いや、え……?」

 

 足元から世界が崩落していくような、気味の悪い感覚。

 誰一人としてあの子を覚えていない。俺の腕の中にあったあの確かな重みも、彼女が流したあの熱い涙も、すべてが最初から無かったかのように。

 理解不能な現状。目の前の仲間たちが、見知らぬ他人のように思えるほどの違和感。

 俺の思考は、出口のない暗闇の中で、ただひたすらに停止し続けた。

 視界が、ぐにゃりと歪む。

 目の前にいるエミリアも、モーニングスターの鎖を握りしめるレムも、その瞳には俺が知っているはずの「決意」が欠片も残っていなかった。

 

 「……嘘、だろ。何を言ってるんだよ。アンタレスだよ。黒髪で、赤いメッシュが入った、あの小さな女の子……。俺たちは、あいつの魔の手からアーラム村の皆を救うためにここまで来たんだろ……っ!」

 

 絞り出した俺の声は、戦場の喧騒に掻き消されそうなほど震えていた。

 だが、縋るような俺の言葉に対して、レムが返したのは、慈愛に満ちた、けれど絶望的なまでに冷ややかな困惑だった。

 

 「アーラム村……?」

 

 レムは眉を寄せ、記憶の淵を探るように視線を彷徨わせたが、すぐに悲しげに首を横に振った。

 

 「スバルくん、何を仰っているのですか。レムの記憶にも、王国の地図にも、そのような名前の村は存在しません。……エミリア様」

 

 レムが隣のエミリアに向き直る。その青い瞳には、敵への警戒ではなく、壊れ物をいたわるような、痛々しいまでの同情が宿っていた。

 

 「スバルくんは、激戦と恐怖のあまり、心が……限界なのかもしれません。存在しない村や少女の幻影を見るほどに」

 「……分かったわ、レム」

 

 エミリアが紫紺の瞳を潤ませ、俺の前に割って入るように立ち塞がった。彼女の手から放たれる氷の礫が、俺を外敵から遠ざけるための「檻」のように周囲を囲んでいく。

 

「スバル、大丈夫よ。もう何も心配しなくていいわ。私たちが、あなたを守るから。だから……もう、戦わなくていいの」

 

 彼女たちの言葉は、どこまでも優しかった。

 けれど、その優しさが今の俺には、どんな大罪司教の毒よりも残酷に、俺の理性を焼き焦がした。

 アーラム村。ペトラ。村長。あそこで笑い合っていたはずの皆の存在が、最初から無かったことになっている。アンタレスという、俺の命を奪い、救おうと誓ったはずの「怪物」の記憶さえ、俺一人を置き去りにして世界から零れ落ちていた。

 

 「訳が……分からねぇよ……」

 

 俺は呆然と立ち尽くし、逃げ場のない孤独に押し潰されそうになりながら、ただ空を仰いだ。

 白く濃密な霧が渦巻くその遥か上空で、戦場を支配していた絶望の咆哮が、一際大きく、そして悲痛に響き渡った。

 

 「――おおおおおッ!!」

 

 地響きのような咆哮を上げたのは、ヴィルヘルムだった。

 かつて愛する妻を奪った宿敵を前に、老騎士の執念が、研ぎ澄まされた一振りの刃となって霧を切り裂く。その隣では、ラインハルトが音速を置き去りにした踏み込みを見せ、巨鯨の逃げ道を神速の連撃で封じ込めていた。

 

 「これで、終わりだッ!!」

 

 ヴィルヘルムが叫びと共に、彼の執念が、空を駆ける一筋の光となった。

 

 一閃。

 

 世界の理を断ち切るような鋭い剣鳴と共に、空を覆っていた本体である白鯨の巨大な首が、ゆっくりと、無慈悲に宙を舞った。

 噴き出す鮮血が、真っ白な霧を赤く染めていく。伝説の魔獣が墜ちる、歴史的な勝利の瞬間。

 だというのに、俺の心にあるのは、勝利の昂ぶりなどではなかった。

 

 (アンタレス……お前は、どこへ消えたんだ。この地獄の結末を、どこで見てるんだ……!)

 

 誰も覚えていない少女の影を追い求めて、俺はただ、雨のように降り注ぐ白鯨の返り血の中で、動かなくなった。

 

 空を覆っていた絶望の象徴が、ゆっくりと傾ぐ。首を失った白鯨の巨躯は、重力に従って地上へと落下を始めた。その下には、いまだ霧の中で戦い続けるクルシュの騎士たちがいる。

 

 「――っ、危ねぇ!!」

 

 俺の叫びが空に消えるよりも早く、白い閃光が走った。

 ラインハルトだ。彼は空中で跳躍すると、落下する白鯨の巨躯へと肉薄した。物理法則を無視したような一撃、あるいはただの手による誘導か――彼は、山のような質量を持つ鯨の死骸を、騎士たちがいない森の空き地へと強引に押し流した。

 轟音と共に大地が揺れ、土煙が舞い上がる。それと同時に、白鯨が放ち続けていた霧が、魔法が解けたかのように急速に薄れ始めた。

 

 「総員、怯むな! 反撃の時だ!!」

 

 霧が晴れ、視界が確保された戦場にクルシュの凛烈な号令が響き渡った。 太陽の光が差し込み、白鯨という重圧から解放された騎士たちが、一斉に雄叫びを上げる。

 形勢は完全に逆転した。霧に紛れて奇襲を仕掛けていた魔女教徒たちは、次々と騎士たちの刃に沈んでいく。

 俺は周囲を警戒した。その時、森の茂みから響いてきたのは、聞き覚えのある悍ましい声だった。

 

 「……ああ、ああ、あああッ! これでは、これでは愛が、試練が足りないッ!!」

 

 別の「指先」に乗り移ったペテルギウスが、血走った眼球で戦場を凝視していた。 奴は自らの指を噛み砕いている。だが、狂気の奥にある奴の冷徹な計算が、現状を分析していた。

 『剣聖』ラインハルト、そして士気を取り戻した公爵家の私兵たち。これ以上の戦闘継続は、福音に記された「試練」の完遂を遠ざける――奴はそう悟ったようだった。

 

 「……撤退、デス。今は、今はこれ以上の怠惰を重ねるわけにはいきません! 場所を、舞台を変え、改めて愛を証明せねばッ!!」

 「逃がすなッ!!」

 

 クルシュの真空の刃と、エミリアが放つ氷の礫が殺到した。 逃げようとしたペテルギウスの肉体――その「指先」は、逃げ場を失い、一瞬にして切り刻まれ、氷漬けにされた。

 ドサリ、と肉塊が地面を叩く。

 

 「やったか……?」

 

 誰かがそう呟いた。だが、俺の心臓の鼓動は早まるばかりだった。倒した「指先」の死骸を見下ろすが、そこにはもう、あの悍ましい精神の気配が残っていなかった。

 

 「……逃したか」

 

 奴の正体は邪精霊だ。肉体を殺しても、近くに適合する人間がいれば乗り移ってしまう。 先ほど倒した「指先」は、ただの空っぽの器に過ぎなかった。

 ペテルギウスは、すでにその精神を別の場所へと逃がしていたのだ。

 

 白鯨の巨大な頭部が地面を叩き、凄まじい土煙が舞い上がった。数百年もの間、世界を恐怖に陥れてきた「霧の魔獣」の最期。

 だが、俺の耳には騎士たちの歓声も、ヴィルヘルムの咽び泣くような安堵の吐息も届かなかった。

 

 「……総員、油断するなッ! 周囲を警戒しろ!」

 

 クルシュの凛とした号令が響く。彼女は抜剣したまま、霧の晴れゆく森の奥を鋭く睨み据えていた。

 

 「負傷者の手当てを優先せよ。一度、天幕まで戻り、休憩と補給を行う!」

 

 彼女の命令に従い、騎士たちが整然と動き始める。地竜の鼻鳴らしや、鎧の擦れる音が、戦いの終わりを告げる事務的なリズムとなって周囲を満たしていく。

 皆が天幕のある方向へ戻っていく中、俺だけは逆の方向を向いていた。

 

 (……あっちだ。あっちに、あるはずなんだ)

 

 俺はフラフラとした足取りで、北西の方角へ歩き出した。かつて、そこには平和な日常があった。ペトラがいて、村長がいて、俺に焼き菓子を焼いてくれたおばちゃんがいた場所。アーラム村があるはずの場所へ。

 

 「スバル……? どこへ行くの? 天幕はあっちよ」

 

 背後から、エミリアの鈴を転がすような、けれど今はひどく心配そうな声が届く。

 

 「……確認しなきゃいけないんだ。そこにあるはずなんだよ。アーラム村も、あの子も……」

 「スバルくん、もう止めてください」

 

 隣に並んだレムが、俺の腕を優しく、けれど拒絶を許さない力強さで掴んだ。

 

 「そこには何もありません。魔獣の気配が残る危険な森が広がっているだけです。スバルくんの心は、もう限界を超えています。……お願いです、レムたちの言うことを聞いてください」

 

 彼女たちの瞳に宿っているのは、敵への警戒ではない。壊れ物をいたわるような、痛々しいまでの同情だ。彼女たちの中では、アーラム村も、アンタレスの存在も、最初から無かったことになっている。

 

 「離してくれ……行かなきゃいけないんだ! 自分の目で確かめなきゃ、俺は……俺の頭がおかしいのか、世界がおかしいのか、それすら分からないんだよ!!」

 

 俺が叫ぶと、エミリアが悲しげに紫紺の瞳を揺らした。

 

 「……分かったわ、スバル。そんなに苦しそうな顔、見ていられないもの」

 

 エミリアは俺の手をそっと握り、レムに向き直った。

 

 「レム、一瞬だけ、本当にお散歩するくらいの一瞬だけ、スバルの言う方に行ってみましょう。このままじゃ、スバルが壊れてしまいそうだわ」

 「……。エミリア様がそう仰るなら、レムも同行します。ただし、一瞬だけです」

 

 レムは不服そうに唇を噛んだが、結局は俺を支えるように隣に立った。

 

 「……ありがとな」

 

 俺は震える声で礼を言い、二人を連れて、誰も覚えていない「村」があったはずの深淵へと足を踏み入れた。

 霧の晴れゆく森は、不気味なほどに静かだった。かつてそこにあったはずの活気や生活の匂いは微塵も感じられず、ただ冷たい風が木々を揺らしている。

 

 (嘘だろ……頼む、誰かいてくれ。ペトラ、村長……誰でもいい、俺が狂ってないって証明してくれ……!)

 

 俺は、足元の泥を強く踏みしめながら、自分たちの「明日」が消えた空白地帯へと進み続けた。

 エミリアとレムを伴い、俺は一心不乱に森を駆け抜けた。記憶が確かなら、この茂みを抜けた先に、活気あるアーラム村が広がっているはずだった。

 だが、目の前の視界が開けた瞬間、俺はその場に縫い付けられたように立ち尽くした。

 

 「……は?」

 

 そこには、村など最初から存在しなかったかのように、見渡す限りの草原が広がっていた。

 家々も、柵も、村人たちが耕していた畑も、何一つない。ただ風に揺れる青々とした草が、静まり返った大地を覆っているだけだった。

 

 「そんな……嘘だろ。ここには、アーラム村があったんだ。ペトラがいて、村長がいて、みんなが……!」

 

 俺はよろよろと歩き出し、村の中心だったはずの場所で呆然と膝をついた。

 地面を掴むが、手に触れるのは土と草の感触だけだ。焼き菓子の匂いも、子供たちの笑い声も、生活の残滓すら残っていない。

 

 「スバル……。やっぱり、少し休んだ方がいいわ。ここはただの野原よ?」

 

 背後から届くエミリアの痛々しいまでの同情を含んだ声。彼女たちの記憶からも、この場所の存在は完全に削り取られている。

 俺の胸を占拠したのは、得体の知れない気味の悪い喪失感だった。

 まさか、あの白鯨の仕業だとでもいうのか。あの魔獣が、村という場所そのもの、そこにいた何百人という人々の存在すべてを飲み込んだというのか。

 

 「……あいつだ。あのデカブツが、全部……!」

 

 俺は怒りに震え、遠く地に伏した白鯨の巨躯があるはずの方角を睨みつけた。

 ヴィルヘルムの宿願は果たされた。白鯨は討たれた。だが、その代償はあまりに大きすぎた。アーラム村も、そして俺が救い出そうと誓ったあの臆病な少女、アンタレスさえも、誰の記憶にも残らず消えてしまった。

 

 (ふざけるな……。こんな結末、認めてたまるかよ!)

 

 誰も覚えていないのなら、俺が連れ戻す。世界が忘れたのなら、俺が記憶を上書きしてやる。

 俺は懐から、鈍い光を放つナイフを取り出した。

 

 「スバル!? 何をするの!?」

 

 エミリアの悲鳴が聞こえた。レムが目を見開き、俺の手を止めようと駆け寄ってくる。

 だが、それよりも早く。

 

 「待ってろ……。今度こそ、アンちゃんを、村の皆を救ってやる」

 

 俺は自分の喉元に刃を突き立て、ふぅっと一息し、一気に引き抜いた。

 ドロリとした熱い感触が溢れ出し、視界が急速に暗転していく。エミリアの叫びも、草原を吹き抜ける風の音も、遠い霧の向こうへと消えていく。

 抗いようのない死の闇。だが、その深淵の先で、俺は再び「あの時」へ戻るための扉を叩いた。

 すべてをやり直し、あの小さな絶望を、そして村の日常を取り戻すために。

 俺の意識は、底のない闇の向こう側へと、真っ逆さまに落ちていった。

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