魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ 作:あのさぁBOT
洞窟の崩落によって舞い上がった土煙が、アンタレスの身体から放たれる暴力的なまでの力の奔流に押され、異様な円環を描いて退いていく。
ペテルギウスは、目の前に立つ少女から放たれる、神罰にも似た圧倒的な威圧感に全身を震わせていた。
「あ……あぁ……、なんという……なんという不条理な輝きデスか、アンタレス……ッ!!」
ペテルギウスは、奇怪な角度に首を折り曲げ、自らの指を血が滴るほどに噛み砕きながら、震える声で問いかけた。彼の血走った眼球は、アンタレスの小さな器に収まりきらず溢れ出している全能感を正確に捉えていた。
「一つ、確認があるのですが……アナタ、その理不尽なまでの暴威を得るために……あの『剣聖』ラインハルトを『消費』したのデスか?」
その問いが響いた瞬間、アンタレスの端正な貌から感情が消え、その瞳が僅かに、けれど明確に見開かれた。
沈黙。その一瞬の反応こそが、ペテルギウスにとって何よりの『肯定』であった。
狂った司教は、ガハッ、と喉を鳴らして、自らの顔を爪が食い込むほどに掻きむしり、歓喜とも絶望ともつかぬ咆哮を上げた。
「――やはり! やはりデスか! ああ、あああああッ!! 脳が、脳が震えるぅぅぅううううううううううううッ!!」
ペテルギウスは、自らの推測が正しかったことに狂喜し、地面を転がり回るようにして奇怪なダンスを踊り始めた。
「数ではない……『質』! 命の『質』デス!! 思えばワタシは……アナタの権能について、細かな検証を怠っていた……。なんという『怠惰』! なんたる不覚!!」
彼は突如として動きを止め、膝をついたまま、射抜くような視線をアンタレスへと向けた。その瞳の奥には、狂気の影に隠された、邪精霊としての冷徹な知性が光っていた。
「アンタレス、問わせてもらいマショウ……。アナタは、前々から知っていたのデスか? 『権能』によって得られる強化の幅が、捧げる命の『質』によって、魂の純度によって劇的に変わるということをッ!!」
ペテルギウスの問いは、逃れようのない真実を突きつける刃のようだった。
だが、今のアンタレスにとって、狂人の自問自答に付き合う時間は一秒たりとも残されていなかった。
アンタレスは、返り血で汚れた『処刑人の大剣』の柄を握る手に力を込め、冷え切った瞳でペテルギウスを見下ろした。
「……喋りすぎだよ、ペテルギウス。時間稼ぎのつもり?」
「――ッ!」
アンタレスの言葉が終わるよりも早く、世界から音が消失した。
神速。たった一歩の踏み込みが、アンタレスの身体は音速の壁を容易く食い破り、ペテルギウスが不可視の腕を展開する暇さえ与えず、その懐へと一瞬で肉薄した。
ペテルギウスが驚愕に目を見開いたその刹那。
アンタレスの振るった大剣が、ペテルギウスの胸の中央を、その心臓ごと真っ直ぐに突き刺した。
凄まじい衝撃波が遅れて洞窟内に響き渡り、背後の岩壁が粉々に砕け散る。
狂った司教の痩せ細った肉体は、大剣の切っ先によって岩壁へと縫い付けられ、その口から鮮血が激しくぶちまけられた。
「ガ、ハッ」
胸を貫く冷たい鉄の感触と、肺腑を抉る激痛。ペテルギウスは、岩壁に縫い付けられたまま、目の前の少女――アンタレスを血走った眼で見つめていた。
だが、目の前に立つアンタレスは、その絶望的なまでの全能感を纏ったまま、冷徹な瞳で彼を見上げている。彼女は処刑人の大剣の柄にさらに力を込め、骨が軋む音と共に、ゆっくりと口を開いた。
「……ペテルギウス。お前は、自分の『指先』の命を僕に掌握されるのを嫌がって、決して掌握させてくれなかったよね」
「……な、に……?」
ペテルギウスの喉が、不快な音を立てて詰まる。アンタレスは淡々と言葉を続ける。
「だからこそ、分かりやすかった。ここに来るまでに僕が潰した魔女教徒たちの中に、僕の権能で『掌握』されていない奴が混じっていた。……それはお前の『指先』だったんだろう?」
「ま……さか……ッ!!」
ペテルギウスの血走った眼球が、驚愕で今にも飛び出しそうに見開かれた。
自らの『指先』をアンタレスの利用対象から外そうとした彼自身の用心深さが、皮肉にも彼女にバックアップの正体を教えてしまったのだ。
「……否定しても無駄だよ。ここに来る前に、僕はその『不自然に掌握されていない器』を先回りして潰してきたんだから」
アンタレスは、大剣をさらに深く押し込み、すでに肉体が死に絶えているペテルギウスを強制的に次の肉体へ移らせる準備をする。
「お前の指先は全部で十人。ラインハルトが一人、僕が白鯨の傍で一人、ここに来るまでに六人。そして、ここで一人。残りの指先は……次で最後だ」
「――ッ!!」
ペテルギウスの声なき絶叫が、崩落しかけた洞窟内に虚しく木霊した。
それは、次の肉体が滅べば、彼の狂気も、魔女への『勤勉』なる愛も、全てがこの世界から消滅することを意味しているからだ。
アンタレスは、死の予感に震える狂った司教を見つめながら、かつてないほど美しく、そして残酷な笑みを浮かべた。
「それじゃあ、また会おう」
アンタレスはペテルギウスに突き刺していた大剣を持ち上げる。それだけで彼の胴体が、顔が、有無を言わさず真っ二つに切り裂かれた。
―
不浄な魂が、最後の一体となった『指先』の肉体へと滑り込む。
ペテルギウスは、慣れない器の感覚を確かめるように、バキバキと首の骨を鳴らした。視界が安定するのを待たず、自らの指を噛み、滴る血の熱さで生を実感する。脳が、震えるほどの怒りと屈辱に支配されていた。
「アンタレスぅ…ッ! アンタレスぅぅうううううううう!!!!」
計画は、あの「傲慢」な少女、アンタレスによって無残に粉砕された。
ペテルギウスは、薄暗い洞窟の陰で、どうすればこのメイザース領から、あの理不尽な暴虐から逃れられるかと思案を巡らせる。福音書はもはや何も語らず、周囲には救うべき同胞も、愛を分かち合うべき信徒もいない。
「アナタがッ、アナタがアナタがアナタがあッ、ワタシの魔女への愛を、サテラへの愛を、勤勉に遂行する試練をッ、よくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもォ!! ああああああ! 愛、愛に愛に愛に愛に報いなければぁああああ!!」
その時、彼の血走った眼球が、近くで縄を打たれ、地面に転がされている男を捉えた。
「――あ?」
「ひっ」
近場で捕らえてきた、灰色の髪をした冴えない行商人。名前は確か、オットー・スーウェンと言ったか。特筆すべき力も、魔女の寵愛も感じられない不純物。本来ならばゴミのように片付けるべき存在だが、今のペテルギウスにとっては、それが唯一利用可能な「資源」であった。
ペテルギウスは、奇怪な角度に腰を折り曲げながら、震えるオットーへと歩み寄る。
「ああ、ああ、ああ! なんと、なんと、なななななんと幸運なことか! アナタ、こんな場所で独り寂しく、絶望に身を浸しているとは! ああ、サテラよ! これは貴女の寵愛なのデスね!」
「ひっ、……な、何でもするんでどうかお命だけは許してくださいぃ……!」
オットーの顔が、恐怖で土気色に染まる。その無様な姿を見下ろし、ペテルギウスは裂けた口元を歪ませて、死の宣告にも似た福音を突きつけた。
「アナタには……そう、アナタには! ワタシの歩みを繋ぐための、勤勉な『囮』となってもらうのデス!!」
ペテルギウスがそう叫んで『見えざる手』を展開し、オットーの身体を強引に吊り上げようとした、その瞬間だった。
「──そうはさせない」
静寂を、凛とした清廉な声が切り裂いた。
「──っ!?」
ペテルギウスが驚愕に目を見開いた刹那、彼の『見えざる手』が掴んでいたはずのオットーの姿が、かき消えるように消失した。
音もなく、風さえも置き去りにしたその神速。
ペテルギウスが弾かれたように声のした方を見れば、そこには、白い騎士服を翻し、空よりも青い瞳でこちらを射抜く男が立っていた。
燃えるような赤髪。ただそこに立っているだけで、世界の理が彼を祝福しているかのような圧倒的な存在感。
「ラインハルト……ヴァン……アストレア……ッ!!」
一度はアンタレスに「消費」され、果てたはずの『剣聖』。文字通り不死鳥の如く蘇り、再び目の前に立ちはだかった正義の象徴を前に、ペテルギウスの脳は、かつてないほどの恐怖と驚愕に震え上がった。
ラインハルト・ヴァン・アストレア。世界そのものに愛され、あらゆる加護をその身に宿した、正義という名のバグ。
その存在は、魔女への信仰を勤勉に捧げるペテルギウスにとって、理解不能な理不尽そのものだった。
ペテルギウスは、目の前に立ちはだかる赤髪の騎士を、血走った眼球が零れ落ちんばかりに見開いて睨みつける。
だが、ラインハルトはその射殺さんばかりの視線など、どこ吹く風といった様子で受け流す。彼はペテルギウスに言葉を返すことすらせず、ただ静かな、けれど圧倒的な足取りで、地面に転がされたままの行商人、オットーの前へと進み出た。
「これも、これも、サテラ、貴女の試練なのデスかッ!?」
理不尽の連続に、ペテルギウスの脳は沸騰せんばかりに震える。だが、狂気の裏側で、彼の思考は生存のためにフル回転していた。
真正面から戦えば、一瞬で塵にされるのは明白だった。ならば、道は一つ。
(舞台を、舞台を壊すのデス!!)
ペテルギウスは、背後に数十本の『見えざる手』を展開させた。狙うはラインハルトではない。この洞窟の岩盤、その脆弱な支点だ。
不可視の魔手を一斉に天井へと突き立て、その膂力で強引に引き剥がす。凄まじい轟音と共に洞窟を崩落させ、土砂と混乱がラインハルトたちの視界を奪うその隙に、自分だけはこの肉体を生かして逃げ延びる。それこそが、魔女の愛に導かれた『勤勉』な次の一手であると、彼は確信した。
だが、彼がその計画を実行に移そうとした、その刹那だった。
背後の岩壁が、内側から爆発したかのような凄まじい衝撃音と共に砕け散った。
「――ッ!?」
ペテルギウスが弾かれたようにそちらを見れば、立ち込める土煙の中から、一人の少女がゆっくりと歩み寄ってくるところだった。
青みがかった黒髪に、不吉な鮮血を思わせる一筋の赤いメッシュ。手には、彼女の小さな体躯には不釣り合いなほど無骨で巨大な『処刑人の大剣』が握られている。
アンタレスだ。
彼女は、全能感の残滓を瞳に宿し、まるで道端に落ちている石ころでも見つけたかのような、冷酷な平熱の声で告げた。
「――最後の命、見っけ」
「ア、アンタレスぅぅぅうううッ!!」
ペテルギウスが絶叫し、咄嗟に『見えざる手』を彼女へと向けようとした。
だが、それよりも遥かに速い。
アンタレスが処刑人の大剣を横一閃に振るった。
音速を置き去りにしたその鉄塊は、ペテルギウスの対応を一切許さず、その両脚を、膝の付け根から無慈悲に、容易く切断した。
「――ッ!」
凄まじい衝撃波と共に、切断された脚から鮮血が噴き出し、ペテルギウスの肉体はバランスを失って地面へと激しく叩きつけられた。
視界が激しく揺れ、脳髄が恐怖で沸騰する。痛みは彼にとって魔女の寵愛を実感する最高の悦びであるはずだったが、今、全身を駆け巡っているのは、それとは似て非なる、魂の根幹を凍りつかせるような絶望的な「終焉」の予感だった。
予備の肉体である『指先』は、もう残っていない。この肉体が滅びれば、数百年の時をかけて積み上げてきた勤勉なる愛の軌跡も、サテラへと続くはずの光り輝く道も、すべてがこの薄暗い洞窟の塵となって消え去ってしまう。
ペテルギウスは言葉を失い、絶句した。
魔女教徒による襲撃も、白鯨による蹂躙も、すべては魔女の器を、エミリアを精査するための『試練』であったはずだ。
だというのに、それらすべてが、目の前に立つ『傲慢』の少女――アンタレスと『剣聖』ラインハルトによって、跡形もなく踏みにじられてしまった。
「ぁ……あぁ、ぁ……」
裂けた口端から漏れるのは、もはや狂気の咆哮ですらなかった。ペテルギウスは、地面に這いつくばったまま、震える指先で虚空を掻いた。
「ワタシ、は……まだ……。愛に……報い……なければ……。試練……は……まだ、終わって……」
途切れ途切れの呟きは、絶望の泥濘の中で虚しく響く。
サテラへの愛を証明し、彼女をこの世に解き放つという至上命題。それを果たさぬまま、無価値な死を迎えることなど、彼には許されるはずがなかった。
だが、その執念を遮るように、冷酷な影が彼を覆った。
「――ペテルギウス」
アンタレスが、音もなく彼の目の前に膝をついた。彼女は倒れ伏したペテルギウスの胸――その心臓が脈打つ場所に、白く細い、けれど鋼のような力を持った手を添えた。
逃げ場を奪うように、彼女の全体重がその一点へと叩き込まれる。
「……ま、さか……ッ!!」
ペテルギウスの血走った眼球が、驚愕で今にも飛び出しそうに見開かれた。
かつてリーファウス街道の平原で、彼女が言い放ったあの不吉な言葉が脳裏をよぎる。魂のさらに奥底に潜む、邪精霊としての魂そのものを掌握するという、あの悍ましい宣告だ。
「……ひどい動揺だね。お前の『心拍』、僕の手のひらを通じて、嫌っていうほどよく分かるよ」
アンタレスの唇が、美しくも残酷な三日月を描いた。彼女は胸を押さえつける手にさらに力を込め、魂の根元を食いちぎらんとする『傲慢』な牙を剥き出しにする。
「前は一瞬の差で逃げられたけど……今度は、絶対に逃がさない。お前の狂気も、愛も、その汚い魂の欠片すら残さず、僕の『資源』として全部喰らってあげる」
それは、大罪司教が同胞に送る最後の福音であった。
「止すのデス!! ワタシには、ワタシにはまだ――ッ!!」
ペテルギウスは、自らの魂が根こそぎ吸い上げられる予感に、身をよじって絶叫した。魔女への愛を叫び、助けを求めるその姿は、かつて彼が蔑んだ『怠惰』な敗北者そのものだった。
「――やめるわけないだろ!!」
アンタレスは、狂人の悲鳴を塗りつぶすような怒号と共に叫んだ。
「僕はこの日を、お前から完全に解放されるこの瞬間を、ずっと、ずぅぅぅぅぅっと、待ちわびていたんだよッ!!」
彼女の叫びが洞窟内に木霊し、彼女の持つ莫大な熱量が、ペテルギウスの胸元へと一気に解き放たれた。
邪精霊の断末魔が響き渡る中、アンタレスの脳裏にある『リスト』に、かつてないほど禍々しく、不浄な輝きを放つ最後の灯火が灯ろうとしていた。
ペテルギウスは驚愕に目を見開いていた。
目の前に立つ少女、アンタレス。彼女の細い指先が、自分の胸元――心臓の鼓動を捉えるその一点に添えられている。そこから流れ込んでくるのは、あの『剣聖』を消費して得た、理解を絶するほどの暴虐的な熱量だ。
だが、彼を震わせたのはその力だけではなかった。
「ずっと僕はお前を殺したかったッ!!」
アンタレスの口から漏れたのは、これまでの「臆病な子供」の演技でも、大罪司教としての冷徹な平熱でもなかった。
それは、腹の底に溜まり続けたドロドロとした怒りが、限界を超えて溢れ出した毒のような声だった。
「何が『試練』だ、何が『勤勉』だ……! 勝手なことばかり並べ立てて、僕の人生をめちゃくちゃにしやがって!」
アンタレスは叫んだ。洞窟の崩落音を塗りつぶすほどの、剥き出しの絶叫だった。
「僕はただ、平和に暮らしていたんだ! あの村で、誰にも邪魔されずに、明日何を食べるかだけを考えて生きていたんだよ! それを、お前がいきなり現れて全部燃やして、僕の家族を、友達を、知り合いを――大切な人たちを、ゴミみたいに殺したじゃないか!!」
ペテルギウスは言葉を失った。自分が見出した「凄惨なまでの生への固執」――あの美しき『傲慢』の種は、己の狂気を受け入れて芽吹いたのではなかったのか。
「あげくに『傲慢』の素質があるなんてデタラメを言って、無理やりこんな大罪司教なんて椅子に座らせて……! 毎日毎日、頭のおかしい奴らに囲まれて、いつ殺されるか怯えながら猫を被るのが、どれほど苦痛だったか分かってるのかよ!!」
少女の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。それは、理不尽な運命に対する、正真正銘の憤怒の雫だった。
「死ぬような目になんて、数えきれないほど遭ってきた! 実際、僕は一度死んだんだぞ!! お前らが押し付けてくる勝手な期待に応えるために、他人の命を削って、自分の魂まで汚して……そんなの、僕の望んだことじゃないッ!!」
「あ、あぁ……。デスが、アンタレス。それこそが魔女の愛、アナタの『傲慢』が招いた――」
ペテルギウスが震える声で持論を差し込もうとした、その瞬間だった。
「うるさいッ!!」
アンタレスの声が、狂人の妄執を真っ向から両断した。
「勤勉だの傲慢だの、そんなのはお前らが自分を正当化するために作った、中身のないガラクタだ! 馬鹿馬鹿しい!! 結局、お前もシリウスも、自分の勝手な解釈を他人に押し付けて、酔いしれてるだけじゃないか! 自分の狂信を『愛』なんて綺麗な言葉で包んで、その実、自分自身の自己愛に酔いしれてるだけだ!!」
あまりにも痛烈な、そして客観的な否定。
ペテルギウスの脳は、その真実を拒絶しようと激しく火花を散らした。自分が捧げてきた数百年の勤勉が、ただの「自己愛」であるはずがない。魔女への愛が、妄想であるはずがない。
「ワタシ、の……愛が……自己満足だと……? そんな、そんなそんなそんなはずはァッ!!」
狂乱し、自らの顔を掻きむしろうとするペテルギウス。
だが、その無様な醜態を、アンタレスの小さな手が遮った。
静まり返った洞窟内に、乾いた、けれど重厚な衝撃音が響き渡った。
アンタレスの右手が、ペテルギウスの蒼白な頬を全力で殴りつけていた。
『剣聖』の命を燃料にしたその一撃は、単なる平手打ちの域を遥かに超えていた。
視界が激しく揺れ、上下の感覚が消失する。アンタレスの拳が頬にめり込んだ瞬間、ペテルギウスの頭蓋は悲鳴を上げ、首の骨が不自然な音を立てて断裂した。凄まじい衝撃波が脳髄を揺さぶり、血走った眼球が眼窩からこぼれ落ちそうになる。
だが、肉体的な苦痛など、今の彼にとっては些事であった。
「あ、が……あぁ……、サテ、ラ……」
砕けた顎で、狂った司教はなおも愛を紡ごうとした。
視界の端で、アンタレスが処刑人の大剣を投げ捨てているのが見えた。
アンタレスの小さな手が、ペテルギウスの胸ぐらを掴み上げ、強引に顔を寄せさせた。
「まだそうやって怠惰に目を背けるのか。またそうやって僕を否定するのか」
アンタレスの叫びは、もはや少女のそれではなく、地獄の底から響く呪詛のようだった。
彼女の瞳に宿る昏い火は、ペテルギウスがこれまで見てきたどの狂信者の情熱よりも深く、そして冷酷に彼を射抜いていた。
「もううんざりなんだ、僕の声が、望みが、お前らによって否定されるのは」
彼女の指先が、ペテルギウスの喉元に食い込む。
その筋力は、邪精霊の依り代となっている肉体を容易く破壊し、魂の根元すらも握りつぶさんばかりの圧力を放っていた。
「だから僕はお前らの声を、望みを否定する」
アンタレスは、心底憎たらしいとばかりに顔を歪めた。
彼女は逃げ場を奪うように、ペテルギウスの顔をさらに引き寄せる。目と目が引っ付きそうなほど、鼻先が触れ合うほどの至近距離。
「サテラへの愛は偽りで、サテラを愛してる自分が好きなだけだったと知って、これまでの人生に絶望しながら無様に死に絶えろ」
冷徹に放たれたその言葉は、ペテルギウスが数百年の勤勉を捧げて築き上げてきた信仰の城壁を、根底から爆破する劇薬であった。
「あ……あぁ、あ、愛が、ワタシの愛が……怠惰なものだったと?」
ペテルギウスの思考が、初めて真っ白な空白に塗り潰される。
己の命を投げ打ち、他者を依り代として渡り歩き、ただ魔女のために尽くしてきたはずの『勤勉』。それが、単なる肥大化した自己愛の産物に過ぎないと、他ならぬ同胞であったはずの『傲慢』に断じられたのだ。
目の前のアンタレスの瞳には、かつて彼が見出した「生への固執」が、もはや他者への殺意へと完全に反転して燃え上がっていた。
ペテルギウスの視界が急速に狭まっていく。
アンタレスの小さな、けれど理不尽なまでの暴威を纏った手が、彼の魂の核へと直接牙を立てるのを感じた。魔女の寵愛も、福音の導きも、この少女の圧倒的な憎悪の前では、形なき霧のように霧散していく。
数百年の狂乱の末に訪れたのは、魔女の腕の中ではなく、ただ一人の少女の、底知れぬほど傲慢な拒絶の闇であった。
ペテルギウスは再び、かつて己が村で拾った少女、アンタレスを見る。
彼女の瞳に宿る、自分への底知れない「憎悪」と、忌まわしい鎖から解き放たれようとする剥き出しの「歓喜」。その相反する二つの感情が混ざり合い、彼女の端正な顔を、見たこともないほど歪で、それでいて完成された「傲慢」の笑みへと変貌させていた。
「あ……あぁ……」
ペテルギウスは、自らの魂の核が、彼女の小さな掌を通じて吸い上げられていくのを感じていた。
心臓を介して命の所有権を奪い、それを己の糧とするその牙が、今や「指先」という殻を突き破り、邪精霊である彼の本質そのものにまで食い込んでいる。
「お前はサテラのために、何も成していない。何も成せていない。……何処までも『怠惰』な奴だったよ」
アンタレスの囁きは、死の接吻よりも冷酷だった。彼女の瞳には、全能感の残滓が、不気味な紅い光となって渦巻いている。
ペテルギウスは、自らの存在が急速に薄れていく恐怖に悶えた。数百年の時をかけ、サテラへの愛を証明するために積み上げてきた狂気の軌跡。それが今、この自分勝手で臆病な少女に否定され、「資源」として、ただの燃料に成り下がろうとしている。
否定したかった。これが愛への試練であると叫びたかった。しかし、彼女の掌から流れ込んでくる圧倒的な拒絶と憎悪の重圧が、彼の魂を沈黙させた。
「――さようなら、ペテルギウス。願わくば、次の生を謳歌することもないように」
アンタレスが低く、祈るように告げた。
「『一名消費』」
彼女の脳裏にある『リスト』から、かつてないほど禍々しい最後の一つの灯火が、音もなく掻き消える。
その瞬間、ペテルギウスの意識は、底のない深い闇へと一気に引きずり込まれた。
魂の根源を咥え込んだ牙が、彼の存在を最後の一片まで噛み砕き、その全てを少女の内側へと流し込んでいく。
魔女への狂信も、福音への執着も、全てが彼女を潤す冷たいエネルギーへと書き換えられていった。
最後に見えたのは、憎しみの果てに、ようやく平穏への入り口を見つけた子供のような、アンタレスの歪な、けれど輝くような微笑みだった。
邪精霊は断末魔さえ上げる暇もなく、最後の一体であった『指先』の肉体から、不浄なマナの脈動と共に完全に消失した。
――洞窟内を、重苦しい静寂が支配した。
崩落した岩石の隙間から漏れ出す光が、土煙の舞う冷たい空間を白く照らし出している。
脚を失った『指先』の残骸と、主を失って霧散した不可視の腕の残滓。その死の静止画の中心で、アンタレスは返り血を浴びたまま、ただ独り立ち尽くしていた。
「…………」
長い、あまりに長い沈黙の後。
静まり返った洞窟の奥に、全ての重荷を投げ出したような、アンタレスの小さく、けれど深い溜息だけが、幽かな余韻を残して鳴り響いた。