魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ   作:あのさぁBOT

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第38話『強襲』

 アーラム村の朝は、昨日の騒乱が嘘のように穏やかだった。

 差し込む朝日は眩しく、本来なら僕が最も愛するはずの「平和な一日」の始まりだ。だけど、僕の心はちっとも晴れなかった。

 

 「いいか、アンタレス。クルシュのところへ行っても、ちゃんと良い子にしてるんだぞ。羽目を外して、また誰かを『掌握』しようなんて考えるなよ?」

 

 竜車の前で、スバルが屈み込んで僕の顔を覗き込んできた。その顔は、まるで初めてキャンプに行く子供を心配する父親のようで、正直に言って、今の僕にはひどく居心地が悪かった。

 

 「……スバル、あまり子ども扱いしないで欲しい。僕だって、自分の立場くらい分かってるよ」

 

 僕はわざと、少しだけ不貞腐れたように頬を膨らませた。猫を被るのは得意だけど、この男の過保護な善意に毒され続けるのは、それはそれでむず痒い。

 

 「何言ってんの。アンタレスは、どこからどう見ても子供でしょ?」

 

 横から、エミリアが鈴を転がすような声で、至極当然のことを言うように断言した。彼女の紫紺の瞳には悪意なんて微塵もなくて、その純粋さが逆に僕の胸をチクりと刺す。

 

 「ほら見ろ。エミリアたんもこう言ってる。……ったく、言うことだけは一丁前だよな。このマセガキめ」

 

 スバルが笑いながら、僕の頭をクシャクシャとかき回した。

 

 「あ、もう…」

 

 文句を言いながらも、僕はその温かい手の感触を振り払うことはしなかった。

 この男の隣にいれば、少なくとも『剣聖』の処刑台に立たされることはない。今の僕にとって、スバルは最強の「安全地帯」なのだ。

 まぁ、今、その「安全地帯」から離されるのだけれど。

 ただ、ラインハルトは友の約束を違えない。スバルは彼にとっての友で、その約束は僕に危害を加えないこと。なんなら、ラインハルトの庇護という別ベクトルでの最強の「安全地帯」を得たと言えるだろう。

 

 救護班の騎士たち数人を村に残し、僕たちを乗せた竜車は、ゆっくりとアーラム村を離れ始めた。目指すはリーファウス街道で待機しているクルシュの陣営だ。

 だが、竜車の中での扱いは、「護衛対象」とは程遠いものだった。

 

 「アンタレス。悪いけど、この竜車の中では一人で過ごしてもらうよ。……申し訳ないけど、理解して欲しい。君が誰かの命を掌握しないために、必要な事なんだ」

 

 ラインハルトが、申し訳なさそうに、けれど一切の妥協を許さない瞳で告げた。

 彼らは警戒している。僕の権能が、心音を実感するだけで相手を『資源』に変えてしまうことを知っているからだ。

 広々とした竜車の中で、僕は一人、膝を抱えて座っていた。

 

 「まぁ、縛られないだけマシか……」

 

 僕は小さく溜息を吐き、意識の奥底にある『権能』のリストをそっと覗き込んだ。

 そこにある紅い灯火は、今やかつての輝きを失い、心許ない数まで減っていた。

 あの道で掌握した十名の騎士。彼らはまだ僕の『牙』が刺さったままだ。そして、先の戦いでの魔女教徒の生き残り六名。それと、シリウス。

 計、十七名。

 

 「……たった十七か」

 

 背筋に冷たいものが走る。

 つまり、蘇生可能回数は一回。この殺伐とした世界を生き抜くには、あまりにも少ない。

 もし今、ペテルギウスのような狂人が襲ってきたり、ラインハルトが「やっぱり君は災厄だ」と思い直して抜剣したりすれば、僕の命はあっという間に尽きてしまうだろう。

 

 「……でも、今の僕に逃げ道なんてない」

 

 僕は自分の細い両腕を抱きしめ、ガタガタと震えるのを必死に抑えた。

 僕が望んでいるのは、誰の命も気にしなくていい、圧倒的な静寂と安全だ。なのに、今の僕は、他人の命の残量を数えながらビクビクと怯えて過ごすしかない。

 その時だった。

 

 「――おーい、アンタレス! 今から入るから中で話そうぜ、退屈で死んじまいそうだ!」

 

 竜車の外から、聞き慣れた勝気な少女の声が響いた。

 フェルトだ。彼女の呼びかける声に、僕は顔を上げた。

 

 「フェルト様、いけません。危険です」

 

 即座にラインハルトの制止する声が聞こえる。彼の声には、いつもの誠実さに加えて、僕という「災厄」に対する抜かりない警戒が混ざっていた。

 

 「彼女の権能は、心臓の鼓動を実感するだけで対象を『資源』に変えてしまう。不用意に近づけば、フェルト様の命さえ彼女の掌中に落ちかねません」

 

 騎士としての正論だ。実際、僕は生き残るためなら誰の命だって燃料にするし、ラインハルトの言うことは一分も違わない。だけど、フェルトは、そんな警告を鼻で笑い飛ばした。

 

 「固いこと言うなよ。ラインハルト、お前がすぐ側で見てんだろ? こいつはバカじゃない。そんな状況でアタシの命を掌握しようなんて無茶、しやしねーよ」

 (……その通りだよ)

 

 フェルトの言葉に、僕は内心で頷いた。

 世界そのものに愛された『剣聖』の目の前で、そんな不吉な真似ができるわけがない。僕が誰かを『掌握』しようとして魂に触れれば、ラインハルトの『加護』の目には丸見えなのだ。

 

 「それに、もしこいつが変な真似をしようとしたら……その時は、お前がこいつとの繋がりを斬ればいいだけだろ?」

 

 フェルトの冷徹な一言が、僕の脳裏にあの日、アーラム村で味わった「地獄」を呼び起こした。

 ラインハルトが僕と村人たちを繋ぐ『血の糸』を指先で一閃した時の、あの嫌な感覚。髪の毛を一本、根元から無理やり引き抜かれたような、神経を直接逆なでされるようなあの鋭い痛み。それを二百回以上も連続で味わわされた「地獄の連続抜毛刑」の記憶が、全身の毛穴を総毛立たせた。

 

 「……しない。絶対にしないよ」

 

 僕はシーツを握りしめ、震える声で竜車の壁越しに叫んだ。

 

 「あんな……あんな変な痛み、もう二度と御免だ! 僕が大人しくしてるって言ってるんだから、ラインハルトも剣に手をかけたりしないでよ!」

 「ハッ、だそうだぜ」

 

 僕の必死な叫びを聞いて、フェルトは愉快そうに笑った。

 ガタ、と竜車が大きく揺れる。フェルトが並走していた地竜から飛び移り、御者台に降り立った気配がした。

 

 「おい、ラインハルト。お前がこいつを監視し続けるってことは、つまり、アタシの陣営がこいつを管理するってことだよな?」

 

 フェルトの問いかけに、ラインハルトは一瞬の沈黙の後、重々しく答えた。

 

 「……はい。クルシュ様との合意通り、アンタレスの身柄は、僕が……ひいてはフェルト様の陣営が責任を持って預かることになります」

 「なら話は早い」

 

 フェルトは御者台からこちらを覗き込むようにして、赤い瞳をギラつかせた。その視線には、かつて貧民街でスリを働いていた頃のような、貪欲で計算高い光が宿っている。

 

 「おい、アンタレス。一つ聞かせろ」

 

 フェルトが、僕の権能の根幹に触れるような問いを投げかけてきた。

 

 「お前のその力……人間じゃなきゃダメなのか? そこらへんにいる魔獣の命でも、お前は強くなれるのかよ」

 

 その問いに、僕は言葉を失った。

 魔獣の命で強化ができるか。そんなことは考えたことも無かった。

 僕の権能は、心音を聞き、心臓の存在を実感することでマーキングする。それが必ず人間でなければならない決まりは確かに存在しないかもしれない。やったことはないが、自分の中で、出来るという確信にも似た感情があった。

 魔獣を燃料にできるなら、わざわざ人間を殺して『資源』にする必要もなくなる。

 フェルトの問いは、僕が望んでやまない「安全な場所」へ至るための、一つの可能性を指し示していた。

 

 「……やったことはないけど、多分、できると思う。そこに心臓があって、脈打っているのなら、人間も魔獣も関係ないはずだよ」

 

 僕は竜車の隅で膝を抱えたまま、消え入りそうな声で答えた。

 

 「っし、なら話は早い!」

 

 フェルトは御者台でニカッと、八重歯を見せて不敵に笑った。その赤い瞳には、かつて貧民街で獲物を見つけた時のような、貪欲な光が宿っている。

 

 「なら、これからアタシの陣営でたっぷりこき使ってやるからな! 魔獣を片っ端から力に変えて、アタシの道を切り開きやがれ!」

 「……えぇ、そんなブラックな労働環境は嫌なんだけど……」

 

 あまりに勝気な王候補の宣言に、僕は思わず本音を漏らした。

 せっかく魔女教という地獄から抜け出せると思ったのに、今度は過酷な魔獣狩りのマシーンにされるなんて、僕の望む平穏とは程遠い。

 

 「フェルト様、あまり彼女を脅さないであげてください」

 

 横から、ラインハルトの穏やかだが、釘を刺すような声が響いた。

 彼は地竜を並走させながら、僕という『爆弾』から一瞬たりとも意識を逸らしていない。

 

 「アンタレスは確かに強力な権能を持っていますが、彼女はあくまで監視対象であり、同時に保護対象です。彼女の力を安易に利用するのは、大きな危険が伴います」

 「固いこと言うなって。宝の持ち腐れだろ?」

 「騎士の誇りとして、譲れない一線があるのです」

 

 ラインハルトの正論によるガード。最強の騎士が僕とフェルトの間に介入したことで、竜車内の空気は少しだけ落ち着きを取り戻した。

 

 それからしばらく、竜車はリーファウス街道の緩やかな起伏を越えて進んでいった。

 窓の外には、白鯨との死闘を終えた騎士たちが休息を取る光景や、巨大な魔獣の亡骸を運び出そうとする慌ただしい動きが見える。

 やがて、前方にひときわ大きな天幕と、緑の獅子の紋章が翻る一団が見えてきた。クルシュ・カルステン公爵の陣営だ。

 僕たちの竜車が止まると、そこには凛とした軍服姿のクルシュが、傍らにフェリスとヴィルヘルムを従えて待ち構えていた。

 

 「待っていたぞ、ラインハルト、フェルト」

 

 クルシュは琥珀色の瞳を鋭く光らせ、僕たちの乗る竜車を一瞥した。彼女の周囲には、嘘を許さない静かな風が吹いている。

 

 「念のため聞くが、例の『傲慢』、アンタレスの身柄は、間違いなく確保できているか?」

 

 彼女の問いは、政治家としての冷徹な確認だった。

 

 「ああ、安心しな。公爵様」

 

 フェルトは御者台から軽やかに飛び降りると、親指で僕が潜んでいる竜車の扉を指し示した。

 

 「ここに、最高に臆病で最高に厄介な爆弾が、ちゃんとおさまってるぜ」

 

 扉の隙間から見えたクルシュの視線に、僕は反射的に肩を震わせ、さらに身を丸めた。

 彼女の人の本性を暴くような鋭い目つきが、僕に突き刺さる。

 

 「ひっ……!」

 

 僕の怯えをどう受け取ったのか、クルシュは僅かに表情を和らげると、諭すように静かに告げた。

 

 「安心しろ。そちらが危害を加えない限り、こちらも何もする気はない。スバルやラインハルトとの約束もある。卿が大人しくしている限り、私は卿を『守るべき一人の少女』として扱うと誓おう」

「……何もしません。大人しくしてます。だから……だから、痛いことだけはしないでください……」

 

 僕は震える声で、必死に「無害な子供」であることをアピールした。今の僕に牙を剥く度胸なんて欠片もない。ただ、暖かい布団で眠れる平穏が欲しいだけなのだ。

 クルシュは僕の言葉を聞き、満足げに一度だけ頷いた。彼女の『風見の加護』が、僕の言葉に偽りがないことを真実として告げたのだろう。

 

 「よろしい。その言葉を信じよう」

 

 彼女は踵を返すと、周囲で待機していた騎士たちに向かって声を張り上げた。

 

 「総員、聞け! これより王都へ向けて出発する! 白鯨の身体の一部は間違いなく荷台に乗せたな!?」

 「はっ! 巨獣の頭部、確かに積み込みを完了しております!」

 

 騎士たちの力強い返唱。

 数百年もの間、世界を恐怖に陥れてきた「霧の魔獣」が墜ち、その亡骸が戦利品として運ばれていく。それはクルシュが掲げる「竜に頼らない国造り」の、確かな実績となるだろう。

 

 「よし、出発だ! 我が陣営の誇りを示すため、堂々と王都へ凱旋するぞ!」

 

 クルシュの号令と共に、地竜たちが一斉に鳴き声を上げ、重い車輪がゆっくりとリーファウス街道の土を踏みしめ始めた。

 最強の騎士ラインハルトによる監視、そして王都への帰還。

 不安は尽きないけれど、スバルの信じる『白さ』と、ラインハルトの『庇護』、クルシュのくれた『誓い』という名の檻に守られながら、僕は再び、泥濘のような運命の中へと進み始めた。

 

 

 僕を乗せた竜車が、王都へ向かって進んでいく。

 窓の外を見れば、燃えるような赤髪の騎士が、白い騎士服を風になびかせながら地竜で並走しているラインハルトが見える。

 僕は窓枠に肘をつき、外を走る彼に、ずっと胸の奥に溜まっていた疑問を投げかけることにした。

 

 「……ねぇ、ラインハルト。一つ聞いてもいいかな」

 

 僕の声に、ラインハルトは地竜を操りながら、穏やかで誠実な青い瞳をこちらへ向けた。

 

 「なんだい、アンタレス。僕に答えられることなら何でも話そう」

 「……あの時さ。メイザース領の深い森で、ペテルギウスの『見えざる手』から僕を助けてくれた時。……君、気づいてたんでしょ? 僕が反射的に、君の命を『掌握』したことに」

 

 僕の問いに、ラインハルトは僅かに目を細めたが、驚く様子は見せなかった。

 彼は溢れんばかりのその『加護』たちで、なんだって見抜くことが出来る。僕が彼の魂の根元を牙で咥え込んだ瞬間を、彼が知らないはずがなかった。

 

 「……ああ。はっきりと見えていたよ。君の権能の牙が、僕の心臓に、魂に深く突き刺さったのをね」

 「だったら、なんであの時、何も言わなかったの? 僕は君の命を『資源』として奪ったんだよ? 怒って僕を斬り捨てたって、おかしくなかったはずなのに」

 

 僕は自分の細い指先を見つめながら、震える声を絞り出した。

 ラインハルトはそんな僕を見つめ、どこまでも静かな声で答えた。

 

 「……あの時の君は、精神的にひどく不安定だったからね。自分の運命と、大罪司教としての責務の狭間で、身体の内側から崩壊してしまうのではないかと思うほどに。そんな君に、命の掌握を指摘してしまえば、君はさらに取り乱して、暴走し、取り返しのつかないことになる……そう危惧したんだ」

 

 ラインハルトの言葉は、あまりに慈悲深く、そして残酷だった。

 「それに」と、彼は前方の街道を見据えて言葉を継いだ。

 

 「結果的に、君は僕の命を薪にして、白鯨と『怠惰』を討伐するという快挙を成し遂げた。君が生き延びるために、そして人々を救うために僕という『資源』を消費したのなら、一人の騎士として、それを咎めるつもりはないよ」

 「…………」

 

 ラインハルトの、自身の命を好き勝手に利用されても、彼は「騎士の誇り」という名の下にすべて受け入れる姿勢に、僕は言葉を失った。

 あまりの価値観の違いに、胸の奥が不快な熱さで焼け付くようだった。僕は、ずっと聞きたかった、けれど聞くのが怖かった最後の問いを口にした。

 

 「……怖くないの?」

 

 ラインハルトは、不思議そうに首を小さく傾げた。

 

 「何がだい?」

 「……自分が死ぬことが、だよ。あんな風に、他人の都合で、あっさりと命を消費されて……。一度死んだら、何もかも無くなっちゃうかもしれないのに」

 

 僕の脳裏には、前世で通り魔に刺されたあの日の、アスファルトの冷たさと救いようのない虚無の予感が蘇っていた。僕にとって、死は世界で最も忌むべき、絶対的な恐怖そのものだ。

 だが、ラインハルトは僕の震えを静かに見つめると、ただ穏やかに、そしてどこまでも平然と微笑んで見せた。

 

 「……いいや、怖くないよ。それが、僕に与えられた役割なのだから」

 

 その青い瞳には、死を恐れる人間としての感情は欠片も存在しなかった。

 僕は、再び自分を抱きしめるように身を丸めた。最強の騎士の横顔が、今はどんな大罪司教よりも、得体の知れない怪物のように見えて仕方がなかった。

 

 「……ねぇ、ラインハルト。じゃあさ」

 

 並走する最強の騎士の横顔を見上げ、僕はふと思いついた疑問を投げかけようとした。

 

 次の瞬間、僕の意識は、絶対的な死の虚無へと堕ちた。

 

 衝撃すら感じなかった。

 視界が真っ白に弾け、気が付けば、前世で通り魔に刺されたあの日のアスファルトの冷たさよりもずっと深い、救いようのない暗闇にいた。

 

 『赤き心臓』が脈動する。

 

 僕の死を無かったことにするために、意識の隅にある『リスト』から、鮮やかだった十の灯火が一斉に吹き消される。

 

 「カハッ……!!」

 

 肺に強引に空気が戻り、僕は再び目を覚ました。

 そして、顔を上げようとして、僕は言葉を失った。

 さっきまで僕がいた竜車は影も形もない。それどころか、その前後に並んでいた竜車すらも、すべてがまるで強大な力によって吹き飛ばされたかのように、跡形もなく粉々に粉砕されていた。

 

 「え……?」

 

 状況が掴めず、喉から間抜けた声が漏れる。

 周囲を見渡せば、街道の地面はえぐれ、地竜たちの悲鳴すら聞こえない。あまりにも一方的で、あまりにも徹底された「断絶」の跡。

 

 何が起きた。何が、僕を殺したんだ。

 

 ガタガタと震える膝を抱え、泥の中に座り込む僕の耳に、場違いなほど穏やかで、けれど救いようのないほど不快な男の声が届いた。

 

 「――全く、困るんだよね。僕はさ、ただ道を歩いていただけなんだよ。それなのに、いきなり現れて「どけ」だのなんだの、僕の存在を無視するような真似をしてさぁ」

 

 砂煙がゆっくりと沈んでいく中、僕の視線の先に、一人の男が立っていた。

 長くも短くもない白髪に、華美でも貧相でもないどこにでもいそうな服装。平凡な顔立ちをしたその青年は、血の海と化した街道の真ん中で、返り血一つ浴びずに平然と佇んでいた。

 男は、誰に聞かせるでもなく、けれど朗々と、自らの「正当性」を説き始めた。

 

 「僕には僕という個人に許された、平穏で安寧とした日々を享受する権利がある。それは誰にも侵されるべきではない、僕だけの不可侵な私財だ。それを君たちは、数に物を言わせて、僕という弱小な個人を威圧し、どけと指図した。それってさぁ、僕の不可侵であるべき私財を盗もうとしたってことだよね。僕が持つ権利を冒涜したってことだ。君たちは無欲な僕の持つ権利を侵害したんだ。それはいくら寛容な僕でも許せないなぁ。僕の僕としての充足を、君たちの都合で奪おうとするなんて、本当にありえないことしてるって自覚ないわけ?」

 

 彼は、困ったように眉を下げ、まるで自分こそが被害者であると言わんばかりの声音で言葉を重ねる。周囲には、彼の一撃で沈黙した騎士たちの残骸が転がっているというのに。

 

 「多数で個人を責めて、多数決なんて傲慢な論理で個を塗り潰す。それはもう、慎みに対する冒涜だ。進んで慎む僕という無欲な個人への冒涜だ! いかに心が広い僕であっても許容できる範囲にも限度ってものがあるんだよ。僕の心は、今、君たちの非道な振る舞いによって、ひどく傷つけられた。僕というちっぽけな存在が静かに、無欲に享受している心の平穏を乱した。それはつまり僕が平穏を享受する権利を否定したってことだ! 許しがたい、権利の侵害だ! そもそもさぁ――」

 

 僕は竜車の残骸の影で、ガタガタと震えながらその独白を呆然と聞き流していた。

 

 (なんだ、こいつ……。何を、何を言ってるんだ……?)

 

 あまりに自分勝手で、論理の破綻した、けれど狂気的なまでに完成された自己愛。その饒舌な口ぶりに、僕の脳裏にある記憶が、最悪な形で火花を散らした。

 白髪。平凡な顔。権利の侵害。そして、圧倒的な破壊。

 

 「……あ」

 

 僕の顔から、急速に血の気が引いていくのが分かった。

 思い出した。白鯨を討伐し、意気揚々と王都へ凱旋するクルシュの一団。彼女たちが街道で遭遇するのは、魔女教の大罪司教――『強欲』と『暴食』。

 そして、目の前にいるのは、単独で要塞都市を壊滅させた、文字通り「無敵」の権能を持つ怪物、魔女教大罪司教『強欲』担当のレグルス・コルニアスだ。

 

 (そうだ……この場面だ。ここで、大勢死ぬ。というか、死んだ。僕も、一回死んだ。残機はもう無い。また殺されたら……ああ、怖い、怖い怖いこわいこわいこわいこわいこわいッ!!!)

 

 その時、風に乗って、軽薄で、けれど胃の腑を直接掴まれるような不気味な声が届いた。

 

 「おいおい、僕たちのペットがやられたと思って来てみれば、上物揃いじゃないかぁ。これならおつりがくるってもんさぁ!」

 「……っ!」

 

 心臓が跳ね上がる。僕は声のした方、破壊された街道の先を恐る恐る覗き込んだ。

 そこには、ボロ布を纏い、焦げ茶色のざんばら髪を揺らした小柄な少年が立っていた。

 魔女教大罪司教『暴食』担当、ライ・バテンカイトスだ。

 

 「…ぅ、ぁ…」

 

 僕はガタガタと震え、自分の細い腕を強く抱きしめた。

 ペテルギウスやレグルスも恐ろしいが、この『暴食』は別種の恐怖がある。

 あいつの権能で名前や記憶を喰われたら、僕はどうなる? この世界の誰も僕を覚えなくなり、僕自身も自分が何者だったのか、「前世」の記憶さえ失ってしまうのか?

 そうなれば、身も心も空っぽになる。それは、死ぬことよりもずっと、得体の知れない恐怖だった。

 

 「そこらかしこから良い匂いが漂ってくるじゃないかぁ。ああ、いいね、いいさ、いいとも、いいだろう、いいだろうよ、いいだろうからこそッ! 暴飲! 暴食!」

 「――っ」

 

 目の前に立つ、ボロ布を纏った小柄な少年。

 その異様な気配に、僕の生存本能が全力で警報を鳴らしている。

 僕が恐怖で指先一つ動かせず、ガタガタと膝を震わせていた、その時だった。

 

 ――白光。

 

 視界を横切る、あまりに清廉で、圧倒的なまでの正義の質量。

 

 「そこまでだ」

 

 低く、けれど逃れようのないほど毅然とした声と共に、僕と少年の間に一人の男が割り込んだ。

 燃えるような赤髪。空の青をそのまま閉じ込めたような双眸。汚れ一つない白い騎士服を翻し、聖剣の鞘を握りしめて立つその背中は、この世の何よりも強固な壁となって僕を絶望から切り離した。

 

 「ライン、ハルト……」

 

 掠れた僕の声に、彼は振り返ることなく、ただ正面の敵へとその鋭い視線を固定したままでいた。彼がそこに立っただけで、周囲に漂っていた不浄な殺気が、魔法が解けたかのように急速に霧散していくのを感じる。

 ラインハルトは、腰の龍剣レイドに手をかけることはせず、だが全身から放たれる威圧感だけで少年の動きを完全に封じ込め、静かに問うた。

 

 「この暴虐、騎士として許すわけにはいかない。何者だ」

 「あははははッ! すごいね、いいよ、最高だよ! いいとも、いいだろう、いいだろうともさぁッ!!」

 

 ラインハルトの問いに対し、ライは、狂喜に満ちた絶叫を上げて身をよじった。

 その獰猛な笑みは裂けた口元から溢れ出し、血走った瞳には、獲物を見つけた獣のような、ドロリとした食欲が渦巻いている。

 

 「本物の『剣聖』だぁ! 伝説の、生ける神話! 僕たちの、俺たちの胃袋がずっと待ち焦がれていた、最高級の、最上級の、極上の美食が目の前にいるんだからッ!」

 

 ライは獰猛で恍惚とした表情でラインハルトを凝視した。その言葉の一つ一つが、飢えた怪物の咆哮となって街道に響く。

 

 「愛! 執念! 騎士道! 長々と延々と積み上げられてきた、その輝かしい記憶を喰らえる満足感ッ! 想像しただけでたまらない…からこそッ! 暴飲、暴食、されておくれよぉ~ッ!!」

 

 彼は獣のような足取りで一歩、前へ踏み出すと、自らの「正体」を誇らしげに、傲慢に言い放った。

 

 「僕たちは魔女教大罪司教『暴食』担当、ライ・バテンカイトス!」

 

 『暴食』の宣言。その瞬間、ラインハルトの纏う空気が、より鋭いものへと変貌する。

 ラインハルトは、一見すればただの小柄な少年に過ぎないライに対し、最大級の警戒を露わにした。彼の目は、ライが持つ権能の正体を見透かそうとしている。

 

 「……大罪司教か。やはり、君たちの狂気は尽きることがないようだ」

 

 ラインハルトは静かに告げると、背後にいる僕の存在を意識し、短く命じた。

 

 「アンタレス、後ろに下がっていてくれ。クルシュ様がそこにいる。ここは僕が引き受ける。」

 「う、うん……分かったよ」

 

 僕は彼の言葉に従い、震える足で後ずさりした。

 すると、またあの不快な声が戦場を切り裂く。その声は苛立ちを隠そうともしていなかった。

 

 「あのさぁ、僕が静かに権利を主張しようとしている最中に、僕を置いて勝手に話を進めるなんて非常識だと思わない? それってつまり、僕を蔑ろにしてるってことだよね? 騎士だか何だか知らないけど、正義の味方がそんなことしていいわけ? いいわけないよね。君のような騎士の善意は世界中の誰にも分け与えられるべきだし、僕もその分け与えられるべき者の内の一人だ。だというのに、君はそれを怠り、あまつさえ善良な市民である僕を冒涜した。それはれっきとした僕の権利の侵害だ。そんな子供のために身勝手に人の権利を侵害するなんて、騎士として、人として恥ずかしいとは思わないわけ? 誤解しないで欲しいけど、僕は別にその子を見捨てろって言いたいわけじゃない。僕にとってはどうでもいいけど、その子にだって守られる権利はあるし、その権利が侵害されるのは僕の本意じゃない。僕は慈悲深いからね。見ず知らずの子供にも配慮が出来るんだ。なら君は見ず知らずの僕にも配慮すべきだ。それこそが理解ある世界を築くための――」

 

 レグルスが不快そうに顔を歪め、長々とした屁理屈を並べ始める。

 広げられる、あまりにも噛み合わない問答。僕は竜車の残骸の影に身を潜めながら、心臓の鼓動を必死に抑えていた。

 だが、ラインハルトはどこまでも涼しげな、心にも思っていないような軽い調子で口を開いた。

 

 「それは失礼したね。君の話を遮るつもりはなかったんだ。謝るよ」

 

 あまりにも軽い、誠意の欠片も感じられない謝罪。最強の騎士様らしい、相手を微塵も脅威だと思っていないがゆえの不遜さだ。

 

 「ところで、君も『暴食』と同様に、魔女教の大罪司教なのかい?」

 

 その問いが、レグルスの逆鱗に触れた。

 彼は表情をこれでもかと歪ませ、待ってましたと言わんばかりの勢いで切れ散らかし始めた。

 

 「あのさぁ! 謝れば済むと思っているわけ!? 君、さっきから僕を馬鹿にしてるよね? そんな取ってつけたような謝罪で、僕の踏みにじられた権利が回復すると本気で思っているなら、それはもう知性の欠如だし、僕という個人に対する、さらなる侮辱だ! 許しがたい権利の侵害だ! だいたいさぁ、君は名を名乗っていないのに、僕が何者か尋ねるなんてどういう教育を受けてきたわけ? 名を名乗るならまずは自分からって言うよね。それをすることが会話の第一歩であり、最低限の礼儀なわけ。それに僕が何者かなんて君には関係のないことだ。それを厚かましくも尋ねるなんて、土足で人の心に踏み込む権利が君にあるとでも思ってるのかな? あるわけないよね。あると思ってるのなら、自分が非常識なことをしてるってさっさと気づけよ。僕はただ、平穏に、無欲に、ここに存在しているだけなんだ。そんな僕に肩書きを求めるなんて、それは個の否定だ、僕という完成された個に対する侵害だ! そもそも僕の話を聞いている姿勢からして――」

 

 レグルスが自らの存在を誇示するように、滔々と自分の正当性を喚き散らす。その饒舌さは、戦場においてあまりにも隙だらけに見えた。

 いや、あいつにとっては隙なんて関係ないのだ。常に無敵状態のあいつにとって、防御を固める必要なんてないのだから。

 けれど、世界最強の騎士は、そんな「仕様」など知ったことではないと言わんばかりに動いた。

 

 僕の目が、強化された動体視力ですら捉えきれない加速。

 ラインハルトが一歩踏み込んだ瞬間、衝撃波が遅れて地面を爆ぜさせた。

 

 「ぶおおおぁぁぁああああああああああああッ!?」

 

 レグルスの長ったらしい屁理屈が、情けない悲鳴と共に強引に中断された。

 ラインハルトの鋭い蹴りが、レグルスの脇腹に真っ直ぐ叩き込まれたのだ。

 彼の身体が、まるでただのゴムボールのように、無様に、情けなく、街道の彼方へと蹴り飛ばされていく。

 バウンドしながら土煙の中に消えていくレグルスの姿を見送って、ラインハルトは塵を払うような動作で静かに告げた。

 

 「隙だらけだ。戦いの場において、そう長く話している時間はないよ」

 

 そんなやりとりを見ながら、僕は震える膝を気合で動かし、後方のクルシュたちのもとへと急いだ。

 あんな風に情けなく吹っ飛ばされたが、妻を引き連れていない今のレグルスは正真正銘の無敵だ。ラインハルトが勝つのは難しい。最初こそレグルスは舐めプするが、時間が経つにつれてそれも薄れていくだろう。

 つまり、これから起きるのは怪獣大戦争だ。ストックがいくらあっても足りはしない。ライという、ストックを無視して僕に『死』を与える存在もいる。

 僕はただただ、一刻も早くこの場から逃げ出したいと、魂の底からの願いを原動力にして足を動かした。

 

 その時だった。

 ヒュン、いう空気を切り裂く音と共に、冷たい金属の感触が僕の胴体と手足を容赦なく締め上げた。

 

 「ひッ!? な、なに…!?」

 

 あまりの衝撃に、喉の奥から情けない悲鳴が飛び出した。万力のような力で縛り上げられ、僕の小さな身体は宙へと浮き上がる。

 同時に、聞き慣れた、けれど僕にとっては悪夢のような声が鳴り響いた。

 

 「――ああ、アンタレス! 無事ですか? 怪我はありませんか? ごめんね、遅くなって本当にごめんね! でもありがとう! 私のことを待ってくれて。あら? もしかして震えてるの? ああ、私の愛しい子がこんなに震えているなんて、私は心が張り裂けそうです!」

 

 街道の脇から、全身を包帯で巻かれた女が姿を現した。忘れるはずもない、愛に狂い、愛を押し付け、何故か僕を自分の子供だと思い込んでいる狂人。

 大罪司教『憤怒』担当、シリウス・ロマネコンティだ。

 彼女の周囲からは、彼女自身の「心配」と「慈愛」が権能を通じて強制的に共有され、僕の心の中にドロリとした熱となって流れ込んでくる。

 

 「シリ、ウス……」

 

 僕と彼女の目が合う。包帯の隙間から覗く彼女の左目は、湿った熱を帯びて僕を射抜いていた。

 

 「ありがとう、ごめんね、アンタレス。でも安心して。どうしても、どうしても我慢できなかったの。愛しいペテルギウスと、そして私の可愛いアンタレスが恋しくて……つい、こっちに来ちゃった!」

 

 シリウスはうっとりと身をよじり、僕と、そしてどこかにいるはずのペテルギウスを想って恍惚とした声を上げた。

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