魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ 作:あのさぁBOT
「わぷっ……!」
全身を締め上げていた鎖が不意に緩んだかと思うと、僕はそのまま、熱病に浮かされたような熱い体温を持つ女の懐へと力任せに引き寄せられた。
包帯越しに伝わるシリウスの拍動が、権能を通じてドロリとした「慈愛」となって僕の心の中に流れ込んでくる。気持ち悪い。吐き気がするほどの濃厚な執着だ。
「ああ、アンタレス……。私の可愛い子。そんなに震えて、可哀想に。ごめんね、怖かったわよね? でもありがとう、こうしてまた私に抱きしめさせてくれて!」
シリウスは僕の小さな頭を、自身の胸元に壊さんばかりに押し付け、愛おしそうに髪を撫でた。彼女の巻かれた包帯の隙間から覗く左目が、湿った熱を帯びて僕をじっと見つめている。その瞳の奥には、正気など微塵も残っていない。
僕は、彼女の腕の中で石像のように固まっていた。冷や汗が止まらず、喉の奥がカラカラに乾いている。
(どうしよう……どうすればいい!? ラインハルトはあっちでレグルスたちの相手をしていて、すぐには助けに来てくれない……! シリウスを消費するか? でも会えてうれしいし…違う! 嬉しくなんかない!)
シリウスの権能が、彼女が抱く「アンタレスに会えて嬉しい」という激情で僕の心を塗りつぶしてくる。いつもなら躊躇わない命の消費に、後引くような後悔の予感を強制される。
それに、もし彼女を消費して強化した脚力で逃げようとしても、失敗したら、死んだら、それで終わりだ。今の僕は生き返ることが出来ないのだから。
絶望的な状況。そして、シリウスが次に発した言葉が、僕の心臓を物理的に握りつぶしたかのような衝撃を与えた。
「ねぇ、アンタレス。教えてちょうだい。……私の愛しい人、ペテルギウスはどこにいるのかしら? ずっと探しているのに、ちっとも見当たらないの。ごめんね、あなたなら知っていると思って。教えてくれるわよね?」
「……っ」
喉がヒュッと鳴った。
言えるわけがない。言えるはずがない。
ペテルギウスを、最後の一片まで「処理」して、僕の『資源』として喰らい尽くしたのは、他でもないこの僕だ。
もし、彼女が「愛しい夫」の死を知ったらどうなる? それも、僕が殺したのだと知ったら?
(絶対に殺される……。ただ殺されるだけじゃない。『憤怒』の権能で、僕を狂わせるんだ。何時間も、何日もかけて……!)
想像するだけで、全身の毛穴が総毛立ち、奥歯がガチガチと音を立てて鳴った。僕は必死に言葉を繋ごうとして、どうにかその場を凌ごうとした。
「そ、れは……あの、えと……」
「……アンタレス?」
シリウスの声から、先ほどまでの湿った母性がスッと消え、代わりに冷徹な、底知れない激情が混じり始めた。僕を抱きしめる腕の力が強まり、肋骨が嫌な音を立てる。
「どうして黙っているの? 私たちの間に隠し事は良くないって、いつも言っているでしょう? ごめんね、私の聞き方が悪かったのかしら。……ペテルギウスは、どこ?」
シリウスの顔が、僕の鼻の先まで迫ってくる。
包帯の隙間から溢れ出す殺気が、物理的な圧力となって僕を押しつぶす。彼女の感情が権能によって逆流し、僕の心は、彼女が抱く「ペテルギウスが見つからない焦燥」と「疑惑」に塗りつぶされていく。
怖い。恐ろしい。
ラインハルトの正義のプレッシャーとは違う、理屈の通じない狂人の「重み」。
「あ……ぁ……」
乾いた口を必死に動かし、何とかその場を切り抜ける嘘を吐こうとした。
『あっちに逃げるのを見た』とか、『別の指先に乗り移った』とか、何でもいい。僕の生存戦略に基づいた、完璧な回答を出さなければならない。
けれど。
「答えなさい。アンタレス。私の愛しい夫は、今、どこで、何をしているの?」
シリウスの絶叫に近い問いかけ。
それと同時に、彼女の全身から噴き出した圧倒的な威圧感が、僕の理性を完全に去勢した。空気が凍りつき、肺が酸素を拒絶する。
「……っ、……、……ッ」
声が出ない。
どれだけ喉を震わせようとしても、恐怖で喉が引き攣り、掠れた吐息しか漏れてこない。
「ヒュッ、ガ、ハッ……あ……」
僕の肺は酸素を拒絶し、喉の奥で嫌な音が鳴る。指先が痺れ、視界がチカチカと点滅を始めた。
「……アンタレス?」
シリウスの声が、さらに一段、温度を下げた。彼女の左目が、信じたくないという絶望を必死に押し殺し、冷徹なまでの静寂を湛えて僕を射抜く。
「どうしてそんなに怯えているのですか? まるで、私の問いが……あの方の不在が、あなたにとって取り返しのつかない『罪』であるかのような怯え方。ごめんね、私の聞き方がいけなかったかしら?」
彼女の細い指が僕の頬をなぞる。その感触は氷のように冷たく、けれど権能を通じて流れ込んでくる感情は、焦熱の如き執着と、今にも爆発しそうな疑念の塊だ。
「答えて、アンタレス。ペテルギウスに……一体何があったのですか?」
「……あ、ぁ……っ!」
答えようとしても、声にならない。
恐怖で喉が完全に閉塞し、酸素を求めて喘ぐたびに心臓が壊れそうなほど脈打つ。過呼吸の苦しみが全身を支配し、僕はシリウスの腕の中で、ただ無様にのたうち回ることしかできなかった。
シリウスの『憤怒』の権能が、僕のこの「死に直結する絶望的な恐怖」を彼女に共有させる。
すると、彼女の目に宿っていた冷徹な疑念が、不意に、深い同情の色へと塗り替えられた。
「……ああ、ごめんね。ごめんなさい、アンタレス。私、なんて酷いことを」
シリウスは僕を締め付けていた腕の力を緩め、今度は壊れ物を扱うような手つきで、僕を優しく抱き寄せた。
「ああ、分かりました……分かったのです。あなたのこの、魂を削り取るような苦しみ、胸を焼き尽くすような恐怖……。これほどまでに心を痛めているのは、あの方が……私の愛しい人が、もう……」
シリウスは僕の背中を、あやすようにゆっくりと叩き始めた。
その瞳には、自分の子供が父親の死に立ち会ってしまったと信じ込み、その心中を思いやる狂った母性が宿っている。
「ごめんね、アンタレス。辛いことを思い出させてしまって、本当にごめんなさい。あの方は、最期まで勤勉に愛を叫んでいたのでしょうね。それを見たあなたの心に、深い傷を残してしまったのですね……」
彼女は僕の耳元で囁き、僕の過呼吸が収まるのを待つように、ドロリとした慈愛で僕を包み込んだ。
やがて、彼女は僕の顔を両手で包み込み、正面から覗き込んできた。
その瞳には、先ほどまでの冷徹さとは違う、ドス黒い憎悪の炎が静かに、けれど苛烈に燃え盛っていた。
「教えて。私の可愛いアンタレス。……愛しいペテルギウスを、あの人を……殺したのは、誰?」
シリウスの問いかけが、僕の鼓膜を汚す。
至近距離で見つめてくるその左目には、狂気と、そして逃れようのない『期待』が渦巻いていた。
(そんなの、言えるわけがない! 言ったら死ぬ…!! 嫌だ、いやだいやだ死にたくない!!)
僕の脳内にある生存本能が、限界を超えて加速する。
冷や汗が背中を伝い、思考の歯車が火花を散らしながら、この絶望的な状況を打破するための「嘘」を高速で編み上げていく。
目の前にいるのは、愛する者のためなら世界を焼き尽くすことも厭わない狂信者だ。
ならば、やることは一つ。
僕が生き残るために、誰かを『資源』として差し出すだけだ。
僕は震える右手を、重い鎖を逃れるようにして持ち上げた。そして、ふと思いついた方向に、縋るような、そして絶望に染まった指先を向けた。
その先には、街道で態勢を立て直そうとしている、クルシュやヴィルヘルムたちの陣容があった。
「あ……あ、あの人たちが……!」
僕は喉をひきつらせて、子供特有の甲高い、けれど悲痛な叫びを上げた。
涙を溢れさせ、鼻水を垂らしながら、シリウスの包帯だらけの胸元にしがみつく。
「あそこにいる、あの……あの怖い女の人たちが……! ペテルギウスさんを、殺しました……!」
シリウスの身体が、ピクリと硬直した。クルシュたちの空気が変わる。
僕は止まらない。生存のための嘘を、真実よりも真実らしく積み上げていく。
「僕は、生け捕りにされて……でも、さっきも『お前は危険だ』って言われて……。これから、王都に連れて行かれて、どんな酷い目に遭わされるか分からない……ですっ! 怖い……。助けて、お母さん……!!」
『お母さん』。その、彼女にとって最大の劇薬を、僕は迷わず投下した。
その瞬間、僕を抱きしめていたシリウスの腕から、温もりが完全に消失した。
「……ああ、……そう。……そうなのですね」
シリウスの声は、不気味なほど静かだった。
けれど、彼女から溢れ出したドス黒い殺気が、権能を通じて僕の心に直接流れ込み、内臓を凍りつかせる。
「ごめんね、アンタレス。ありがとう、教えてくれて。……怖かったわよね、辛かったわよね。……あいつらが、あの人を、アンタレスを……」
シリウスは僕をそっと地面に降ろすと、ゆっくりと立ち上がった。
その全身を巻く包帯が、彼女の内側から噴き出す怒りの熱で、パチパチと焦げた音を立て始める。
「ああ、ああああ! よくも、よくもよくもよくもよくもよくもぉぉおおッ!!!」
シリウスは突然、自らの頭を両手で抱え、天を仰いで絶叫した。
その声は、もはや人のそれではない。地獄の底から響く、救いようのない怨念の咆哮だった。
「私の愛しい人を! 私たちの愛の結晶を!! 龍の慈悲に縋るだけの不純物どもが!! その薄汚れた手で私のペテルギウスを壊しただけでは飽き足らず、アンタレスまで汚そうとするなんて!!」
ジャラリ、と不吉な鉄の音が響く。
彼女の両腕に巻き付いた鎖が、主の憤怒に呼応して赤く熱を持ち、大気を発火させていく。
「焼くぞお前らァ!! どうせお前たちはこの子を王都へ送った後死刑にするつもりなのだろう!? ただ生きたい、ただ平和に暮らしたい、ただただ安らかに眠りたいだけの私たちの愛しい子供を手にかけるなんて…ッ!! ああ、どうしてどうしてどうしてッ、そんなにも数が居ながらこの幼気な子を誰も気にかけなかったの!?」
シリウスの『憤怒』の権能が、極限まで膨張する。
僕だけにとどまらず、遠くにいる騎士たちにまで、彼女の「燃え盛るような憎悪」が強制的に共有され、戦場全体が狂気的な熱量に包まれていった。
「私の愛を、私たちの世界を汚した罪を、その命を以て償いなさいッ!!!」
シリウスは炎を纏った鎖を荒々しく振り回し、クルシュたちの陣営に向かって、爆辞のごとき勢いで突撃を開始した。僕を抱えたままの状態で。
「――ッ、来るか!」
地を這うような重厚な声と共に、一人の老紳士が僕とシリウスの前に立ちはだかった。
ヴィルヘルムだ。かつて『剣鬼』と謳われたその男は、愛剣を正眼に構え、シリウスが振り回す炎の鎖を真っ向から迎え撃つ。
鼓膜を突き破るような鋭い金属音が戦場に響き渡った。
ヴィルヘルムの振るった一撃と、シリウスの赤熱した鎖が激突し、火花が夜の闇を鮮やかに散らす。
「ひィ!?」
僕はシリウスの腕の中で、その衝撃の余波に目を回していた。
(やばい、近すぎる……! 万が一巻き込まれたら……!)
僕は必死に、シリウスの包帯だらけの胸元にしがみついた。
シリウスは、ヴィルヘルムの剣を鎖で受け流しながら、歓喜と憎悪が入り混じった絶叫を上げ続ける。
「ああ、邪魔をするのね!? 私とこの子の、愛の復讐を! 私たちのペテルギウスを奪ったその薄汚れた手で、まだこの子を傷つけようというのかぁぁああッ!!」
ジャラリ、と鎖がうねり、ヴィルヘルムを絡め取らんと襲いかかる。
燃え盛る炎の渦の中、ヴィルヘルムは、最小限の動きでそれを回避し、再び鋭い剣撃を叩き込む。その一挙手一投足に、老練な剣士としての隙のない技が宿っていた。
だが、本当の地獄は、その背後で始まっていた。
「……っ、う、ああ……」
ヴィルヘルムの後ろに控えていたカルステン陣営の騎士たちが、突如として苦しげに胸を押さえた。
彼らの顔はみるみるうちに朱に染まり、瞳孔は不自然に開き、荒い呼吸が静寂を乱していく。
シリウスの権能、『憤怒』の力が、この場にいる全員の感情を強制的に共有させ始めていた。
今、シリウスの心の中にあるのは、僕という『いたいけな子供』を傷つけようとする者たちへの、煮え滾るような激昂だ。
「……な、なんだ。この、ふつふつと湧き上がる怒りは……」
「俺たちは……俺たちは、あんなに小さな子を、殺そうとしていたのか……?」
騎士たちの呟きが、呪いのように漏れ出す。
彼らの中で、僕への『警戒』という冷徹な判断が、シリウスから共有された『幼い子供を害する悪への怒り』によって、急速に塗り潰されていく。
「総員、己を保て! これは敵の洗脳だッ!!」
凛とした号令が響いた。
クルシュが、自らの剣を引き抜き、歯を食いしばりながら騎士たちを叱咤する。彼女の『風見の加護』は、この場に漂う感情の濁流が、人為的に歪められたものであることを、不吉な風として正確に捉えていた。
「卿らは誇り高きルグニカの騎士だろう! 感情に呑まれるな、正気を取り戻せッ!!」
クルシュさんの叫びは、戦場に響く風の刃のように鋭かった。
だが、その切実な命令さえも、今の騎士たちの耳には届かなかった。
「……黙れ。あの子が泣いているのが見えないのか……」
「守るべき子供を、政治の道具にし、死の淵へ追いやろうとした……。許せない、そんな自分たちも、この状況も……ッ!」
騎士たちの瞳から理性の光が消え、代わって宿ったのは、自分たちが犯そうとした不義に対する、救いようのない殺意だった。
彼らはもはや、クルシュの声を聞き入れる状態にはなかった。
彼らの視線は、ただ一点。僕を――あるいは、僕を救うべき存在であるはずの「正義」へと、真っ赤に染まった憎悪を向けていた。
「ああ……優しい世界! 皆さんが、ようやく私たちの愛を、アンタレスの尊さを分かってくれたのですね!」
シリウスは恍惚とした表情で、騎士たちの変貌を祝福するように鎖を空高く掲げた。
騎士たちが抜剣する。彼らの剣先は、もはや魔女教ではなく、互いの喉元へと、そして動揺するクルシュへと向けられようとしていた。
「ヴィルヘルム! 卿の剣で、一刻も早く奴を切り捨てろ!」
混乱する戦場に、クルシュの凛とした号令が響き渡った。
「御意に…ッ!」
ヴィルヘルムが短く応じる。老紳士の皮を脱ぎ捨てた『剣鬼』の凄まじい殺気が、シリウスから共有されている狂った「愛」を強引に切り裂く。
「あら、あらあら! まだ邪魔をするのですか? せっかく皆さんの心が一つになりかけていたのに!」
シリウスはうっとりと身をよじりながら、僕を抱きしめる左腕にさらに力を込めた。肋骨が嫌な音を立てる。
彼女は僕を離すまいと片腕で固定したまま、右腕の鎖を蛇のようにうねらせた。鎖から噴き出した業火が、不吉な熱を伴って渦を巻く。熱風で僕の前髪が焦げそうだ。
だが、ヴィルヘルムはその炎の渦に怯むことなく踏み込んだ。
「――ふッ!」
鋭い呼気。ヴィルヘルムはシリウスが放つ炎の鎖を、紙一重の最小限の動きで回避していく。その一挙手一投足には、無駄という概念が欠片も存在しない。
彼は、僕を抱え続けているせいでシリウスが片手でしか応戦できないという致命的な隙を、逃さず突きに来ていた。
シリウスの右腕が、再び鎖を振り回そうとしたその一瞬。
ヴィルヘルムの愛剣が、目にも止まらぬ速さで突き出された。
狙いは殺害ではない。鎖を持つ腕を無力化するための、正確無比な一撃。鋭い切っ先が、シリウスの右肩の付け根を――深く、真っ直ぐに刺突した。
ぷすり、と。包帯を裂き、肉を貫く不快な音が、僕の耳元で鮮明に響いた。
「っ…!? ふふ…!」
シリウスの唇から、苦悶の呻きと不気味な笑い声が漏れる。
彼女の右肩に、ぽっかりと赤い穴が開いた。噴き出す鮮血が、僕の頬を熱く濡らす。
その瞬間。
「!? ぐ…っ!!」
シリウスを刺したはずのヴィルヘルムが、自らの右肩を押さえて膝をつく。彼の服が、みるみるうちに赤く染まっていく。
それだけじゃない。後方で指揮を執っていたクルシュも、周囲で怒気に支配されていた騎士たちも、全員が同時に右肩から血を噴き出し、悶絶し始めた。
シリウスの権能による『感覚の共有』が、彼ら騎士たちへ一斉に牙を向いたのだ。
「痛いですね、苦しいですね……! でも見てください、今、私たちは同じ痛みを分かち合っているのです!」
肩を貫かれながら、シリウスは恍惚とした表情で涙を流し、笑っていた。
すると、それまで苦悶の表情を浮かべていた騎士たちの瞳に熱狂的な色彩が宿った。
「ああ! あなたこそが救いだ!」
「愛を、私たちにさらなる愛を!」
異様な光景だった。
負傷の共有によって肩から血を流しているはずの彼らが、まるで痛みなど存在しないかのようにシリウスを称え、歓声を上げているのだ。
「……ッ、総員、正気を保てと言っている……!」
「クルシュ様、今治します!」
右肩の激痛に顔を歪めながらも、クルシュが凛とした声を張り上げ、フェリスがその治療に取り掛かる。
彼女は自身の肩の傷を鋭い眼光で見つめ、即座に結論を下した。
「洗脳、そして負傷の共有……。正気を保っている者たちは落ち着いて聞け。奴を攻撃すれば、その痛みは我ら自身に跳ね返る。かといって感情を揺さぶられれば、あの騎士たちのように奴の傀儡に成り果てるぞ」
クルシュは剣を杖代わりに立ち上がり、周囲を厳しく睥睨した。
「やりづらい相手だ……。本来なら撤退が最善だが、洗脳された騎士たちを置いて行くわけにはいかない」
クルシュは苦渋に満ちた表情で続けた。
「奴にこれ以上の傷を負わせれば、共有される負傷でこちらが先に持たなくなる……。なるべく傷をつけない方法で、奴を無力化する手段を模索せねばならん。ヴィルヘルム、卿は――」
クルシュが指示を出そうとした、その時だ。
彼女はふと、遠くで爆音と地響きを上げながら戦っているラインハルトの方へと視線を向け、その瞳を驚愕に見開いた。
「……待て。ラインハルトの傍にいたはずの、『暴食』はどこへ行った?」
その言葉に、僕の心臓が冷たく跳ねた。
視線を巡らせると、レグルスと対峙しているラインハルトの周囲に、あのざんばら髪の小柄な少年の姿が消えていることに気づく。
不気味なほどの静寂が、戦場の一角から漂ってきた。
クルシュたちが視線を向けた、少し離れた場所。そこには、僕たちが知らない、ルグニカの制服を着た別の小隊の騎士たちが、まるで糸の切れた人形のように力なく地面に寝転がっていた。
その死体――あるいは抜け殻の山の上に、奴はいた。
「前菜としては、まぁまぁってとこかなァ…」
ライが、満足げに腹をさすりながら、こちらを振り返る。
その口元には、他者の人生を喰らい尽くした後のような、不気味で残虐な悦びが張り付いていた。その瞳が、次に狙う獲物を定めるように、フェリスの治療を受けているヴィルヘルムとクルシュへと向けられた。
「でもいいね、いいよ、最高だよ! おかげで僕たちの『理解』が深まったんだからッ!」
ライが、ボロ布の袖で口元の涎を拭い、一歩踏み出した。すると、その瞬間に彼の纏う空気が、まるで別人のように一変した。
「――実に見事な在り方だ。クルシュ・カルステン公爵閣下、そしてヴィルヘルム殿」
ライの口から漏れたのは、先ほどまでの子供じみた喋り方ではない。それは、規律と礼節を重んじる、ルグニカ王国の近衛騎士そのものの、凛とした響きだった。
「獅子王の意志を継ぎ、竜との契約を断たんとするその覇気。そして、人生のすべてを剣に捧げ、愛する者のために鬼と化した執念。……ああ、素晴らしい。あの大通りを闊歩する、あの『剣聖』に並ぶものが、まさかこの場に二人も揃っていようとは」
ライは、騎士としての敬意を示すような美しい所作で、地面に突き立てられた短剣を抜き放った。その立ち居振る舞いは、今まさに彼が喰らい尽くした騎士たちの記憶が、その身体に『乗り移った』かのようだった。
「僕たちの胃袋が、今の言葉に震えてる。……感謝するよ、名もなき同僚たち。君たちが最期まで抱いていた畏敬の念が、僕たちにこの『美食』の存在を教えてくれたんだッ!」
ライの瞳に、再びドロリとした貪欲な食欲が戻ってくる。彼は自らの身体を抱きしめるようにして、恍惚とした表情でクルシュたちを見つめた。
「前菜はもう十分だ。腹ごなしの運動も済んだ。……だからさ、次は主菜といこうじゃないか。なぁ、俺たちに喰らわせておくれよぉ! その煮え滾るような『経験』を! その誇り高い『名前』をッ! 暴飲、暴食ッ! 根こそぎ全部、僕たちの血肉にしてやるんだからァ!!」
「――っ、来るぞ! ヴィルヘルム!」
クルシュの鋭い声が響く。ヴィルヘルムがその声に応える。二人ともフェリスの応急処置が施されているとはいえ、決して万全ではない。シリウスによる感情の共有にも、いつまで抗えるか分からない。
「――それじゃァ、イタダキマスッ!」
地を這うような低い呟きと共に、ざんばら髪の小柄な少年、ライが爆発的な踏み込みを見せた。
ライの動きは、これまでのどの魔女教徒とも違っていた。小柄な身体からは想像もできない重厚な一撃を放ったかと思えば、次の瞬間には風よりも速く死角へ回り込む。その身のこなしには、彼がこれまで『喰らってきた』数多の武人の技巧が、不気味なほど完璧に詰め込まれていた。
「いいね、いいよ! さすがは『戦姫』、食べ応えがありそうじゃないかぁッ!」
ライの振るう短刀が、クルシュの剣と火花を散らして激突する。
クルシュは『百人一太刀』を繰り出して牽制するが、ライはそれを獣のような反射神経で回避し、笑いながら距離を詰めていく。
そこに、ジャラリと不吉な鉄の音が割り込んだ。
「折角分かり合えたのに、もう無視するなんていけない人達ですねッ!!」
シリウスが僕を抱えたまま、自由な右腕で炎を纏った鎖を振り回した。
クルシュたちが熱に晒されそうになった瞬間、一人の老紳士が影のように滑り込んだ。
「――クルシュ様ッ!」
ヴィルヘルムだ。彼は『剣鬼』の名に恥じない神速の剣筋でシリウスの鎖を弾き飛ばし、その余波さえも最小限に抑え込んでみせる。
けれど、ライはその隙を見逃さなかった。
「その献身! 執念! それこそ僕たちの憧れの『剣鬼』様だ!」
ライは突如、四足歩行の獣のように姿勢を低くした。地面を這うような、生理的な嫌悪感を催すほど滑らかな動き。彼はヴィルヘルムの懐へ滑り込み、その鋭い刃で彼の右足を根元から切断せんと振り抜いた。
「させんッ!」
クルシュの剣が、ライの刃を間一髪で弾き飛ばす。
「おっと、そうはいかないかぁ…」
ライは一度距離を取り、やや不満げに頬を吊り下げた。だが、彼はふと、満足げに笑っているシリウスと、その周囲で狂喜に笑う騎士たちへ視線を向けた。
その瞬間、ライの瞳にドロリとした残虐な知性が宿る。何か思いついたような、獰猛な笑みが彼の顔に張り付いた。
「ああ……そうだ、そうさ、そうだろう、そうだろうとも、そうだろうからこそッ! 使わなくっちゃあ!」
ライは再び地を蹴った。
狙いは、クルシュでもヴィルヘルムでもない。少し離れた位置で、シリウスの権能に当てられ歓喜の渦に飲み込まれた名もなき騎士の一人だ。
「なっ――!?」
クルシュが驚愕に目を見開く。
彼女はライの目的を察したのか、戦慄を隠せない様子で、斬撃を放たんと剣を振り抜く。その斬撃をライは卓越した身のこなしでかわし、瞬く間にその騎士の懐に沈み込んだ。
そして、一閃。
ライの振るった刃が、その騎士の両足を、膝の付け根から無慈悲に、容易く切断した。
次の瞬間、戦場に地獄が顕現した。
ライが騎士に与えた「両足切断」という致命的な負傷が、シリウスの権能を通じて、この場にいる全員へと一斉に波及したのだ。
「ぐッ…!?」
凛として立っていたクルシュが、突如として両足を失い、血の海の中に崩れ落ちた。ヴィルヘルムもまた、老練な体躯を支える術を失い、断たれた足から鮮血を噴き出させて地面に沈んでいく。
周囲を囲んでいた騎士たちも、まるでドミノ倒しのように、一斉に自分の足を失って転がっていった。
「――ああ! ああ、なんて! なんて素晴らしいのでしょう!」
僕を抱きしめているシリウスの身体が、歓喜に細かく震えた。
彼女は僕の頭を自身の胸に強く押し付けたまま、自由な右手を掲げ、激しく、そしてリズム良く掌を打ち鳴らし始めた。
パチ、パチ、パチ、パチ。
不快な、乾いた音が戦場に響く。
「見て、見てくださいアンタレス! 皆さんの心が、痛みが、今これほどまでに完璧に重なり合っているのです! ありがとう、本当にありがとう! ごめんね、こんなに素敵な瞬間を独り占めしようとして!」
シリウスの拍手に呼応するように、地面に倒れ伏したはずの騎士たちが、一人、また一人と上体を起こし始めた。
彼らの瞳には、自身の足を失ったことへの恐怖も、騎士としての理性も映っていない。ただ、シリウスから流し込まれた狂信的な「愛」「歓喜」「怒り」の濁流に脳を焼き切られ、狂った表情で自分の掌を叩き合わせ始めたのだ。
パチパチパチパチパチパチ。
血の海の中で、足のない男たちが、自分たちを破壊した化け物を称えて喝采を送る。それは、どんな悪夢よりも悍ましい「調和」だった。
「……ッ、フェリス!」
その狂気の喧騒を切り裂くように、クルシュの悲痛な叫びが響いた。
彼女は両足を失った激痛に耐え、溢れ出す血を片手で押さえながら、すぐ側に倒れている猫耳の治癒術師へと必死に声を張り上げている。
「卿の治癒魔法ならまだ間に合うはずだ! ヴィルヘルムをまず救え! 私のことは後でいい…!」
クルシュの叫びは、主君としての命令であり、友としての切実な願いだった。だが、彼女がどれほど喉を枯らして叫ぼうとも、青い服を纏った治癒術師からの返答はない。
クルシュは苦悶に顔を歪めながら、不自然な沈黙を保つ背後へと、重い身体を強引に反らせた。
「フェリス……?」
彼女が振り返った先にいたのは、主の窮地に駆けつけようとする献身的な騎士の姿ではなかった。
パチ、パチ、パチ、パチ。
フェリスは地面に座り込み、自らの断たれた足から流れる血を眺めながら、うっとりとした表情で拍手していた。その瞳には、シリウスの権能によって増幅された「共有される悦び」が、毒々しいまでの光となって宿っている。
フェリスは、クルシュの絶望に満ちた視線に気づくことさえなかった。
「…フェリ、ス……」
正気を保とうとしていたクルシュの唇が、絶望に震える。
彼女の『風見の加護』は、今のフェリスの笑顔に一点の「嘘」も混じっていないことを、冷酷に告げていた。彼にとって、この地獄こそが今、真実の救いなのだ。
拍手の音は止まらない。血の臭いと狂った歓喜が渦巻く街道の中心で、僕はシリウスの腕に抱かれながら、ただ、クルシュ陣営の崩壊を、冷めきった瞳で見つめ続けるしかなかった。