魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ   作:あのさぁBOT

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長め


第45話『交渉』

 パトラッシュの背に揺られながら、俺たちは北へと進んでいた。目指すは、地平線の先にひっそりと佇む、地図にも載っていないような廃村だ。

 俺の隣には、風に水色の前髪をなびかせ、周囲への警戒を怠らないレム。地竜の御者台の隅で、不機嫌そうにドリル状の金髪を揺らしているベアトリス、落ち着いた様子で景色を眺めるエミリアがいた。

 

 「……もうすぐだ。あそこに、アンタレスがいる」

 

 俺の声は、自分でも驚くほど硬かった。脳裏に焼き付いているのは、かつてのループで彼女が最後に見せた、剥き出しの絶叫と俺の命を奪い去ったあの冷徹な感触だ。

 あいつを救うと決めた。殴ってでも、その歪んだ生き方を止めてやるって誓ったんだ。

 だが、廃村まであと数百メートルという距離に差し掛かった、その時だった。

 

 「――ッ!?」

 

 パトラッシュが突如として激しく嘶き、前脚を高く上げた。

 

 「おっとっと! どうしたパトラッシュ!」

 

 必死に手綱を引くが、誇り高いはずの彼女が、ガタガタと全身を震わせ、泡を吹かんばかりの勢いで後退りし始めたのだ。周囲の地竜たちも同様に、まるで天敵を前にした小動物のように怯え、パニックに陥っている。

 次の瞬間、空気が物理的な質量を持って俺たちを押し潰しにかかった。

 

 「……っ、なんだ、これ……っ」

 

 爆発的に膨れ上がった、あまりにも巨大で、あまりに不浄な『気配』。

 それは、かつて白鯨やペテルギウスと対峙した時に感じたプレッシャーなど、比較にもならない。まるですぐ目の前で、巨大な竜が眠りから覚め、その眼をこちらに向けたかのような――あるいは、底のないブラックホールに吸い込まれるような、圧倒的なまでの『存在』の暴力だった。

 

 「カハッ、はぁ、はぁ……」

 

 冷や汗が滝のように流れ、心臓が痛いほど脈打つ。俺は反射的にパトラッシュの背から飛び降り、逃げ場を求めるように一歩、また一歩と後ずさりした。

 あまりに理不尽な、全能の威圧感。あの日、ラインハルトの命を『燃料』にして白鯨を瞬殺したあいつの暴虐が、今、あの廃村の中心で渦巻いているのが分かった。

 

 「スバルくん! ……下がってください!」

 

 レムが叫び、俺の前に割って入る。彼女の額からは『鬼の角』が突き出し、全身から殺気を放って、廃村の奥を睨みつけていた。隣に座るベアトリスも、表情を険しくさせ、いつでも魔法を放てるように指先にマナを収束させている。

 

 「スバルくん、どうしますか? ……この気配、尋常ではありません。一度引き返しますか?」

 

 レムの切迫した問いかけ。彼女の手にある鉄球の鎖が、緊張でジャラリと鳴った。

 俺は震える膝を叩き、深呼吸を繰り返して、どうにか肺に溜まった熱い空気を吐き出した。

 

 「……行くしかないだろ」

 

 俺は、一歩前へ踏み出した。パトラッシュがまだ怯えているのを見て、俺は彼女の鼻先を優しく撫で、その場に待機させる。

 

 「俺が行く。あいつと、話をしなきゃならねぇんだ」

 「いけません、スバルくん! 危険です!」

 

 レムが必死に俺を止めようと詰め寄ってくる。ベアトリスもまた「死にたいのかしら」と、呆れと心配が混ざった瞳で俺を睨んだ。

 だが、俺は首を横に振った。

 

 「いいか、よく聞け。アンタレスは……あいつは、とんでもねぇ臆病者なんだ。死ぬのが怖くて、痛いのが嫌で……だから、あんな化け物みたいな力で自分を固めることしかできねぇんだよ」

 

 俺は廃村の入り口、陽炎のように揺らぐ空間を見据えた。

 

 「人が多いと、あいつを刺激しちまう。囲まれたって思えば、あいつは保身のために迷わずその力を振るうだろう。そうなればお終いだ」

 

 俺はレムとベアトリスに向き直り、努めて不敵に笑って見せた。

 

 「戦う気はないって示せば、あいつも少しは話し合いの余地を持ってくれるはずだ。……だから、信じて待っててくれ、レム、ベアトリス」

 

 俺が切実な思いを込めて二人の目を見つめると、レムは悲しげに、けれど俺の決意を汲み取るようにわずかに瞳を揺らした。

 

 「……わかりました、スバルくん。スバルくんがそこまで仰るなら、レムはここで信じて待っています」

 「全く、契約した精霊を置いてあんな場所に向かうなんて、精霊使いとしてありえないのよ。でも、今のスバルにベティーがどうこう言っても聞かないだろうし、ちょっとは待ってやるかしら」

 

 二人は、仕方のないことだと悟ったように、重々しく、けれど確かな信頼を込めて頷いてくれた。

 

 「ありがとな。……それと、エミリア」

 

 俺は銀髪の美少女に向き直った。彼女は、不安を押し隠すように紫紺の瞳を揺らしている。

 

 「エミリアには、一緒に来て欲しい。……アンタレスが求めている平穏。俺たちが作ってやると決めた『居場所』には、君の優しさが必要なんだ」

 

 エミリアは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに俺の手をギュッと握り返し、力強く頷いた。

 

 「……ええ、わかったわ、スバル。私も一緒に行く。あの子に、もう怖がらなくていいんだよって、ちゃんと伝えたいもの」

 

 エミリアはレムとベアトリスの方を向き、穏やかな、けれど凛とした声で告げた。

 

 「レム、ベアトリス。パトラッシュたちのこと、お願いね。私たちが戻るまで、この子たちの守りをお願い」

 「はい、エミリア様。必ずやお守りいたします」

 「言われるまでもないかしら」

 

 二人に背中を預け、俺とエミリアは廃村へと続く緩やかな坂を登り始めた。

 一歩、また一歩と踏み出すたびに、肺が押し潰されるような、重苦しい『圧』が増えていく。

 村の奥から放たれているのは、もはや威圧感などという言葉では説明できない、物理的な破壊を伴うほどの『存在』の暴虐だった。

 

 「スバル……大丈夫?」

 「ああ……エミリアこそ。……っ、クソ」

 

 膝がガタガタと震える。本能が「これ以上近づけば消される」と、耳元で狂ったように警鐘を鳴らし続けている。冷や汗が滝のように流れ、心臓が肋骨を突き破らんばかりに打ち鳴らされた。

 一歩、また一歩。泥を掴むような足取りで、俺たちは進む。

 目の前で揺らめく空気の向こう側に、小さな人影が見えた。

 宇宙を思わせる黒髪。不吉な赤いメッシュ。そして、十歳の幼女には到底似合わない、巨大な鉄の塊――『処刑人の大剣』を肩に担いで、あいつは立っていた。

 今のあいつから放たれているのは、かつてラインハルトの命を薪にした時のような、あるいはそれ以上の、理不尽なまでの全能感だ。一体どれだけの命を使ったのか分からないその輝きが、俺の理性を焼き切ろうとしてくる。

 

 「……っ、う、おおおおおおッ!!」

 

 俺は、砕けそうになる膝を執念だけで叩き直し、最後の一歩を強引に踏み出した。

 恐怖でひきつる顔を無理やり笑みの形に歪め、俺は、世界で一番小さな大罪司教の、すぐ目の前まで辿り着いた。

 

 「よぉ……アンタレス。……約束、果たしに来たぜ」

 

 俺の声は震えていたが、俺の目だけは、眼前の小さな絶望を真っ直ぐに捉えて離さなかった。

 アンタレスは、肩に担いだ巨大な鉄の塊――『処刑人の大剣』を、事も無げにザクリと地面に突き立てた。その所作には、以前のような「怯え」や「迷い」は微塵も感じられない。

 

 「何の?」

 

 彼女の口から漏れたのは、驚くほど静かで、淡々とした声だった。表情からは感情が削ぎ落とされ、ただ冷徹な『傲慢』としての平熱だけがそこにある。

 俺は、一歩も引かずにその瞳を睨み返した。

 

 「決まってんだろ。……お前を止めに来るっていう約束だ」

 

 俺の宣言に、アンタレスは不可解そうに僅かに首を傾げた。その仕草は十歳の子供らしく愛らしいが、その瞳の奥に宿る濁った光が、彼女が大罪司教であることを否応なしに突きつけてくる。

 

 「……僕を止める? 何を、止めるって言うの?」

 「全部だよ。お前が一人で勝手に背負い込んだ、その理不尽な生き方の全部だ」

 

 俺は深呼吸をし、喉の奥にこびりついた圧迫感を強引に押し流して言葉を繋いだ。

 

 「知ってるぜ、アンタレス。お前が三大魔獣の『大兎』を掌握したことも……。そして、それを世界中の僻地にばらまいて、自分の『無限の残機』にしたこともな」

 

 アンタレスの瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。自らの生存戦略の核心を突かれたことへの、隠しきれない動揺。だが、彼女はすぐに冷めた笑みを浮かべ、突き立てた大剣の柄に細い指を這わせた。

 

 「……それで、どうする気? 正義の味方として、僕が築いた平穏を壊しにでも来たの?」

 

 彼女の声には、かつてラインハルトに追い詰められた時のような戦慄はない。今や彼女は、誰にも奪われない、自分だけの安全な檻を手に入れたと確信しているからだ。

 隣で静かに見守っていたエミリアが、その紫紺の瞳に宿る『決意』を背負って、アンタレスに告げた。

 

 「いえ、お願いに来たの。あなたに、大兎をやっつけてほしい」

 「……駆除しろってこと? 僕に、僕の命そのものである大兎たちを殺せって言うの? そんなの、僕が自分から死を選ぶのと変わらない。僕が従うと思う?」

 

 アンタレスの瞳に、昏い被害妄想と拒絶の色が走る。彼女にとって、掌握した命を手放すことは、死へと直結する恐怖そのものなのだろう。

 俺は慌てて首を横に振り、彼女の臆病な心を繋ぎ止めるための『補足』を付け足した。

 

 「待て待て、早とちりするな。……もちろん、全部ってわけじゃねぇよ。お前の身を守るために必要な分は、お前の手元に残しておいていい。掌握を解除しろなんて無理も言わねぇ。……ただ、ばらまきすぎたんだよ、お前は」

 

 俺は周囲の廃村を見渡した。

 

 「お前がばらまいた大兎のせいで、救えるはずの場所が、平穏に暮らせるはずの土地が、次々と食い荒らされようとしてる。エミリアは、お前に『アンちゃん』として笑っていてほしい一方で、お前が誰かの『居場所』を奪うことも望んでないんだ」

 

 アンタレスは、俺の言葉を吟味するように沈黙した。

 

 「……自分で自分の命を削らせる……。それが、君たちの言う『正義』なの?」

 「いいや、俺たちの『わがまま』だ。……アンタレス、お前が望む平穏を、俺たちは否定しない。だけど、その平穏の上に、誰かの絶望を積み上げるのはもうやめようぜ。……一緒に、誰も死ななくて済む『正解』を探そう。な?」

 

 俺が手を差し伸べると、アンタレスは不敵に、けれどどこか迷子のような瞳で、俺の手と、突き立てた大剣を交互に見つめていた。

 大剣の柄に手をかけたまま、アンタレスは値踏みするような視線を俺とエミリアに交互に向けた。その瞳の奥には、俺が差し出した「救いの手」への戸惑いと、それ以上に深い疑念が渦巻いているのが分かった。

 

 「……一つ、聞いていい?」

 

 アンタレスが、鈴を転がすような、けれど冷徹な平熱を保った声で切り出した。

 

 「スバルたちは、どうして僕がここにいるって分かったの? それに……僕が大兎を掌握したことまで。誰にも見られてなかったはずだけど…」

 

 彼女の問いは、自分の生存戦略がどこで綻んだのかを正確に把握しようとする、臆病者ゆえの確認だった。

 俺は、繋いだままのエミリアの手の温もりを力に変えて、真っ直ぐに彼女を見据えた。

 

 「きっかけはベアトリスだ。あいつ、ロズワールが『聖域』に向かわせた大兎の群れと対峙したとき、違和感に気づいたんだよ。あの大兎たちの魂の根元が、誰かさんの『傲慢』な牙でガッチリ咥え込まれてるってな」

 

 アンタレスの眉がピクリと跳ねる。俺は周囲の荒れ果てた家々を見渡した。

 

 「その後だ。世界中の僻地から、大兎の目撃情報が次々と入ってきた。んで、そこから先は予想だ。お前なら、誰の目にも触れない安全な場所に引きこもって、増え続ける命を眺めて安心してるはずだってな。……お前の考えそうなことは、嫌っていうほど見てきたからよ」

 

 俺の言葉に、アンタレスは苦々しげに唇を噛んだ。

 自分の手の内が、かつて「懐柔」しようとした相手に筒抜けだったことが、彼女の自尊心を小さく削ったのだろう。

 そこへ、エミリアが優しく、けれど凛とした声で言葉を重ねた。

 

 「場所を特定できたのは、ラインハルトのおかげよ。彼、本当にたくさんの加護を持っているでしょう? 『追跡の加護』や、他にも場所を突き止めるための力を幾つも使って、あなたの微かな気配を辿ってくれたの」

 

 ラインハルトの名前が出た瞬間、アンタレスの身体が目に見えてビクッと跳ね、その瞳に僅かな恐怖が走った。

 エミリアは彼女の恐怖をなだめるように、さらに穏やかな微笑みを向けた。

 

 「でも、安心して、アンタレス。ラインハルトは今、とっても忙しくて、ここにはいないわ。彼も、あなたには自分からその手を解いてほしいって願っているのよ。だから……ね?」

 「……あいつ、いないの?」

 

 アンタレスが、まるで奇跡でも信じられないといった様子で、消え入りそうな声で尋ねる。

 

 「ああ、いねぇよ。今ここにいるのは、お前の『味方』になりたいって願ってる俺たちだけだ」

 

 アンタレスはその言葉を聞いて「ふぅ」と息を吐き、突き立てた大剣の柄に細い指を滑らせた。

 そして、俺を試すような、冷ややかな視線を向けてきた。

 

 「……スバル、聞きたいんだけど、君はさっき、僕の身を守るために必要な分の大兎は残しておいていいって言ったよね」

 「ああ、言ったさ。お前の『安心』のためには、それが必要なんだろ」

 

 俺が頷くと、アンタレスは僅かに眉を寄せ、周囲の廃村の静寂をなぞるように言葉を継いだ。

 

 「だったら聞くけど、その残された大兎の『管理』はどうするつもりなの? あの子たちは放っておけば無限に増えるし、お腹が空けば目の前のものを全部食べる。被害が今まで通り出続けることになるけど」

 「あ、それなら大丈夫よ、アンタレス! 安心して。ベアトリスがね、前に『アル・シャマク』を使って、大兎の群れをまとめて『異空間』に閉じ込めたことがあるの。確かあの時の大兎も掌握してたのよね? その子達を使えばいいじゃない!」

 

 エミリアの提案は、かつて『聖域』で大兎を殲滅した時の実績に基づいた、彼女なりの最大限の善意だった。

 だが、その言葉を聞いた瞬間、アンタレスは首を横に振った。

 

 「それは無理」

 「え? どうして?」

 

 不思議そうに首を傾げるエミリアに対し、アンタレスは投げやりな、けれど逃れようのない事実を突きつけた。

 

 「僕の権能の糸はね、対象との『繋がり』があって初めて成立するんだ。もしあの子たちが、物理的にもマナ的にも隔絶された異空間へ放り込まれたら……その瞬間に、僕と繋がっている数万の糸は全部引きちぎられる。そうなれば、僕の脳内リストにある灯火は一瞬で全部消えて、僕はまた、たった一回の死ですべてが終わる『ただの人』に逆戻りだ。そんなのリスクが高すぎて、受け入れられるわけない」

 「そんな……繋がりが切れちゃうなんて、知らなかったわ……。ごめんなさい、アンタレス」

 

 しゅん、と肩を落とすエミリアを横目に、俺は頭を抱えた。

 

 (……まじか、てっきり、異空間の大兎もいけるとばかりに)

 

 アンタレスをこの『傲慢』の道から引き戻し、俺たちの側に懐柔するには、彼女の根源的な恐怖――『死』への不安を取り除くことが絶対条件だ。

 そして今の彼女にとって、その不安を打ち消せる唯一の『資源』は、無限に増殖し、自分の死を肩代わりしてくれる大兎の残機だけ。

 大兎を完全に消せば、彼女は恐怖のあまり再び闇に逃げ戻るだろう。かと言って、この世界に大兎を野放しにするわけにもいかない。

 懐柔のために大兎は不可欠。だが、大兎の存在は平穏を脅かす。

 俺は、突き立てられた大剣の横で冷めた瞳を向けてくるアンタレスを見つめ、脳内のパズルを強引に組み替えた。あいつが求めているのは「死なないための保険」であり、俺たちが求めているのは「大兎の脅威の排除」だ。

 その二つを両立させる、綱渡りのような案を俺はなんとか絞り出した。

 

 「……なぁ、アンタレス。確認なんだが、お前の権能で大兎を『消費』した時、それを直接マナに変換して補うことはできるのか?」

 

 俺の問いに、アンタレスは怪訝そうに眉を寄せた。

 

 「できるよ。それがどうかしたの?」

 「よし。じゃあもう一つ。お前は他人に……ベアトリスにそのマナを分け与えられるか?」

 

 その言葉を発した瞬間、アンタレスの瞳から微かな「光」が消え、代わりに鋭い警戒の色が宿った。彼女は鼻を鳴らし、俺の意図を先回りするように言葉を叩きつけてきた。

 

 「……スバル、さっきの話、全然聞いてなかったでしょ。言ったよね、異空間に放り込んだら繋がりが切れるって。君のわがままのために、僕を丸腰にするつもりなら、相応の抵抗をするか、今すぐここから逃げさせてもらうよ」

 「待て待て、落ち着け! 切り捨てるつもりなんてねぇよ!」

 

 俺は慌てて両手を広げ、彼女の臆病な本能をなだめるように言葉を重ねた。

 

 「いいか、繋がりを断たない方法があるんだよ。……異空間の入り口を、閉めずに『開いたまま』に固定しておけばいい」

 

 アンタレスが、驚いたように目を見開いた。

 

 「入り口を……開けたまま?」

 「ああ。ベアトリスの陰魔法なら、異空間への扉を維持し続けることも不可能じゃねぇはずだ。だけど、それには継続的に膨大なマナを消費し続けることになる。……そこで、さっきの質問だ」

 

 俺は、真剣な面立ちのアンタレスを指差した。

 

 「その扉を維持するためのマナを、中に入れた大兎を『消費』することで補うんだよ。大兎は放っておいても勝手に増える。だったら、増えるスピードに合わせてお前がそいつらをマナに変え続ければ、お前の懐を痛めずに、永遠に扉を開きっぱなしにできるだろ?」

 

 これなら、大兎は物理的に異空間に隔離されながらも、入り口が開いている限り、アンタレスの『繋がり』は保たれる。彼女のリストにある灯火が消えることもなく、外の世界に大兎が溢れ出すこともない。

 彼女は視線を落とし、自らの指先に絡みつく見えない『糸』をなぞるように動かす。やがて、彼女はゆっくりと顔を上げ、得心がいったように、小さく、けれど確かに頷いて見せた。

 

 「……なるほど。扉を開けたままにすれば、マナの糸は断ち切られない。その維持コストを大兎自体に払わせる……。僕の生存も、君の言う平穏も、どっちも壊さずに済む…」

 「だろ? かなりの名案だと思うんだが…」

 

 アンタレスは俺の案を吟味するように視線を転がし、やがて射抜くような、けれどどこか縋るような瞳で俺を見てきた。

 

 「その案、どうしても拭いきれない懸念が二つある」

 「なんだ? 言ってみろ。俺にできることなら、何とかしてやるからさ」

 

 俺ができるだけ安心させるように笑ってみせると、アンタレスは一つ、深いため息を吐いた。

 

 「一つ目は、危険な目に遭いがちなスバルの傍に居続けないといけないこと」

 「え、俺の傍?」

 「そう。僕が他人に力を分け与えるには対象のすぐ隣に……スバルやベアトリスの近くに居続けなきゃいけない。……でもね、スバル、自覚があるか知らないけど、君、本当に死ぬような目に遭いすぎなんだよ」

 

 「これからも遭うだろうし」と付け加え、アンタレスは心底呆れ果てたという顔で俺を指差した。

 

 「そんなトラブルメーカーの隣に密着してなきゃいけないなんて、僕の生存戦略としては最悪に近い。君がピンチに陥るたびに、僕まで巻き込まれて心臓が止まるような思いをするなんてたまったもんじゃない」

 「ぐっ……!!」

 

 図星を突かれ、俺は言葉に詰まった。

 死に戻りをして、何度も地獄を見てきた自覚はある。あいつの言う通り、俺の隣は世界で一番騒がしくて、世界で一番死に近い場所なのかもしれない。それを「安全な居場所」だと言い張るには、今の俺はあまりに頼りなさすぎた。

 

 「……否定できねぇのが、最高に悔しいぜ」

 

 俺が歯を食いしばって項垂れると、アンタレスはさらに追い打ちをかけるように二つ目の理由を告げた。

 

 「二つ目は、ベアトリスに命を握られ続けること。さっきの話だと、異空間の扉はベアトリスが握ってるってことだよね。つまり、君たちの機嫌一つで扉を閉められれば、僕は一瞬で『残機』の殆どを失う」

 

 アンタレスの瞳に、昏い疑念の色が走る。

 

 「そんな、君たちの慈悲に百パーセント依存しなきゃいけない状況を、僕が納得できると思う? そんなの、僕にとっては新しい牢獄に入れられるのと変わらないよ」

 「それは……っ」

 

 俺は言葉を失った。

 あいつの言うことは、生存を第一に考える『傲慢』としては、あまりにも正しすぎる論理だった。俺たちがどれだけ「味方だ」と叫んでも、あいつを無力化できる『鍵』を俺たちが握っている以上、あいつの恐怖は消えない。

 

 「大体、ずっと異空間の扉を維持するのは、マナ以前に骨が折れるのよ」

 「うわっ!?」

 

 突如、すぐ真横から響いた不機嫌そうな声に、俺は情けない悲鳴を上げて飛び上がった。

 いつの間にか俺の隣に立ち、ドレスの裾を摘まんで不満げにドリル状の金髪を揺らしているのは、ベアトリスだった。

 

 「スバルたちがいつまでも廃村の入り口で話し込んでるから、待ちきれずに来たのかしら。地竜はレムに任せてきたのよ」

 

 ベアトリスは、鼻を鳴らしてアンタレスをジロリと睨みつけた。

 

 「さっきの話の補足をしてやるかしら。扉を繋げたままにするのは、精神的な集中力も削がれるのよ。お前のような不届き者のために、ベティーが二十四時間体制で扉の番人をするなんて、面倒にもほどがあるかしら」

 「……」

 

 ベアトリスの上品だがそっけない言葉に、アンタレスは警戒するような冷ややかな目で返す。

 俺とエミリアは顔を見合わせ、それから力なく、同時にため息を吐き出した。

 

 「……まぁ、そうだよな。ベア子にずっと無理をさせるわけにもいかねぇし、扉を開けっぱなしってのも非現実的だ」

 「ええ……。それもそうね……」

 

 ベアトリスの言葉で、安易な封印という解決策が物理的にも難しいことが突きつけられ、俺たちは再び、アンタレスという『爆弾』を抱えたまま、この理不尽な状況をどう切り抜けるべきかという難題に、深く息を吐くしかなかった。

 俺は腕を組み、唸り声を上げながら必死に脳細胞を回転させるが、名案は一向に浮かんでこない。

 そんな俺の様子を、突き立てた大剣の横で眺めていたアンタレスは、心底退屈そうに小さく欠伸を漏らした。

 

 「もういい?」

 

 アンタレスの声は、冷徹な平熱を取り戻していた。

 

 「話が平行線なら時間の無駄だよ。君たちの『わがまま』に付き合う義理も、僕の命を危険に晒す理由も、これ以上見当たらないしね。ほら、帰った帰った。君たちが守りたいっていう、その平和な居場所へさ」

 

 アンタレスは俺たちを追い払うように小さな手をしっしと振る。

 彼女の生存戦略を書き換えるためのフックが、あと一歩のところで届かない。このままアンタレスをこの廃村に一人残せば、俺は彼女を救ったことにならない。俺は彼女を救わなければならない、何故なら、他ならぬ彼女自身にそうお願いされたからだ。

 俺は頭を悩ませ、焦燥感に焼かれながらも、一か八かの賭けに出ることにした。

 

 「……なぁ、アンタレス、陰魔法って使えるか?」

 

 俺の唐突な問いに、アンタレスは意外そうに瞬きをした。彼女は細い指先を顎に当て、何かを思い出すように視線を上に向ける。

 

 「……陰魔法? 多分使えるかな。……でも、やったことないからやり方は全然知らない。特に『アル・シャマク』なんて、僕には使えないよ」

 「――しっ、だったら話は早い!」

 

 俺はアンタレスの言葉を遮るように叫ぶと、すぐ隣に立っていたベアトリスの背中を、景気よくバチンと叩いた。

 

 「安心しろ! ここに陰魔法の専門家がいる! 教えてもらえばいいんだよ!」

 

 突如として背中を叩かれたベアトリスは、一瞬だけ驚きに目を見開いた。だが、すぐに俺の手を振り払い、ひどく嫌そうな顔をして俺を睨みつけた。

 

 「なっ……! ベティーの背中を叩くなら優しくするかしら! そもそも、こんな不届き者にベティーの知識を授けるなんて、これっぽっちも乗り気じゃないのよ!」

 「そういうなよベア子~。やってくれたら俺はいつも以上にベア子を愛でるからさ~」

 「ベティが良いと言うまで愛でてくれるのなら考えてやるかしら…」

 「おいおい、そんなこと言われたら今すぐ愛でたくなっちまうだろ!」

 

 そう言って俺はベアトリスのドリルを持ち上げる。

 彼女は顔を真っ赤にして「やめるのよ~」とか言いながら俺の手を振り払おうとするが、その表情には隠しきれない嬉しさが滲み出ていた。

 

 「…………はぁ」

 

 そんな俺たちのやり取りを、地面に突き立てられた大剣の横で見ていたアンタレスが、心底呆れ果てたという顔で深い溜息を吐き出した。

 青みがかった黒髪の間から覗く彼女の冷めた瞳には、俺たちの仲睦まじい光景が、まるで理解不能な異生物の求愛行動か何かに映っているようだ。

 

 「ねぇ、目の前でバカみたいな茶番を見せられる僕の身にもなってほしいんだけど。……分かったよ。その案、乗ってあげる」

 

 アンタレスは、いちゃつく俺たちを遮るように声を張り上げ、投げやりな、けれど確かな意志を宿した瞳で俺を射抜いた。

 

 「自分の手で大兎を異空間に納めるって案、賛成だよ。それが出来たら、世界中の大兎を一斉に消費してあげる」

 

 彼女はそう言って、自らの指先に絡みつく見えない『糸』をなぞるように動かし、鼻を鳴らした。

 

 「よしッ! そうこなくっちゃな!」

 

 俺は力強くガッツポーズを決め、アンタレスに向かって満面の笑みを向けた。

 彼女が自ら一歩を踏み出し、俺たちの提案を受け入れてくれた。それは、彼女を『ただの子供』として救い出すための、大きな、本当に大きな進歩だ。

 

 「そうと決まれば善は急げだ! アンちゃん、さっそく特訓を始めようぜ! 講師はルグニカ最高峰の陰魔法の使い手、ベアトリス先生だ! 感謝してビシバシ鍛えてもらうんだな!」

 

 俺の宣言に、アンタレスは「……ほどほどにしてよね」と不貞腐れたように顔を背けたが、その小さな手は、もう拒絶するように振られていなかった。

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