魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ 作:あのさぁBOT
メイザース領へと向かう竜車の中で、僕は意識の奥底にある『リスト』をなぞった。
そこには、相変わらず大兎の増殖によって膨れ上がった数万という紅い灯火が、銀河のように密集して輝いている。
僕はその中から、ごく自然に、呼吸をするのと同じ気軽さで宣言を維持し続けていた。
「『千命消費』……」
低い呟きと共に、莫大なエネルギーの濁流が僕の細い血管を駆け巡る。
筋肉の繊維一本一本が鋼のように引き締まり、視界は千里先まで見通せるほどに研ぎ澄まされ、聴覚は地を這う虫の足音さえも正確に捉えていた。
この圧倒的な暴力の蓄積こそが、臆病な僕が「平穏」を維持するための唯一の生命線だった。
「おいおいアンちゃん、そんな怖い顔して窓の外睨むなって。ほら、エミリアたんが持たせてくれたこのお菓子でも食って元気出せよ!」
御者台からひょいと顔を出したスバルが、能天気な笑顔で焼き菓子を差し出してきた。
僕はその暑苦しい善意から逃れるように、一瞬だけ『処刑人の大剣』の柄に触れ、それから無造作に菓子を受け取った。
「……別に、睨んでないよ。ただ、外の景色を見てただけ。……あと、あまり子供扱いしないでって言ってるでしょ」
「ははっ、言うねぇ! でもそのマセガキっぷりがアンちゃんらしいぜ」
スバルは僕の頭をクシャクシャとかき回すと、再び前を向いた。
「……さて、休憩は終わりなのよ。アンタレス、さっさと特訓を再開するかしら」
隣に座る、フリル付きドレスを揺らした幼女──ベアトリスが、不機嫌そうにドリル状の金髪を跳ねさせた。
僕は彼女の小さな指先を見つめ、背筋に薄寒いものを感じた。彼女の陰属性魔法──特に『アル・シャマク』の技術は、僕の権能の糸を強制的に断ち切る危険を孕んでいる。
彼女は僕の「講師」だけれど、同時に僕の命を握りかねない最も警戒すべき相手でもあった。
「……次は、何をすればいい?」
「ゲートに流すマナの密度をもっと高めるのよ。お前はその権能のせいか、マナを動かすのは得意でも細かな制御が雑かしら。それでは『アル・シャマク』には一生辿り着けないのよ」
ベアトリスの指導は厳格で、一切の妥協を許さない。
僕は目を閉じ、体内のマナを引っ張り上げるイメージを繰り返す。
『千命消費』で得た暴力的なエネルギーの一部をマナに変換し、出来る限り慎重に繊細にゲートへと通していく。
シャマクの黒い煙が手のひらから噴き出す。ここまではいいのだが、量や勢いの調整が中々難しい。
ベアトリスの言う通り、どうやら僕は繊細な力の制御が苦手なようだ。
(今まで力任せにしてれば、それで解決できたからなぁ…)
僕はシャマクを止め、その手のひらを見つめた。
大兎を異空間へ納め、入り口を開け続けながら「無限のストック」を維持する。
そのためには、僕自身が陰属性魔法の極致を習得する必要がある。それが出来なければ、ベアトリスとスバルが協力して僕を異空間へ閉じ込めようとするかもしれないし、ラインハルトを出張らせて、大兎の消費を強制させにくるかもしれない。
「……まぁ、ちょっとはマシになったかしら。上達が早いことは認めてやるのよ」
ベアトリスは少しだけ感心したように、けれど鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
僕は額の汗を拭いながら、彼女の横顔を観察する。もし、彼女が隙をついて僕を異空間へ封印しようとしたら──その時は、迷わずこの竜車ごと吹き飛ばして逃げる準備はできていた。
―
竜車が止まり、見慣れた、けれど僕にとっては巨大な処刑台にも見えなくはない、あの豪奢な屋敷の正面玄関に辿り着いた。
僕は『千命消費』による強化を維持したまま、意識の奥底にある数万の紅い灯火を確認する。
「さぁ、着いたぜアンちゃん! ここが今日からのお前の家だ!」
スバルが御者台から飛び降り、快活な声を上げながら僕の手を引く。その先の門には、桃色の髪のメイドが立っていた。
そこにいたのは、冷徹なまでの静寂を纏ったラムだった。彼女は「バルス、予定より遅かったじゃない」とスバルに流れるように文句を言い、それから僕へと視線を移した。
「…………」
彼女の薄紅色の瞳が、一瞬、僕の魂を射抜くように細められる。
それは確かな警戒の表れだったが、特段何かするわけでもなく、そのまま僕から視線を外した。
「ロズワール様がお待ちよ」
ラムに促され、僕たちは重厚な扉を潜った。そのまま彼女に導かれて二階の執務室へと向かった。
扉の前で、ラムが足を止める。
「ロズワール様、スバルたちを連れて参りました」
「どーぉぞ」
中から聞こえてきたのは、耳を撫でるような不快な抑揚、そして芝居がかった独特の話し声。僕の生存本能が、かつて僕を大罪司教へと変えたあの『怠惰』とは別の意味で「ヤバい怪物」がいることを告げていた。
扉が開く。そこには、道化の化粧を施した男、ロズワールが机に肘をついて待ち構えていた。
「おかえり、スバルくん。それにエミリア様。……そして、どうも、私たちの新しい『お客様』」
ロズワールは左右非対称の瞳を細め、僕を射抜いた。
彼は立ち上がり、優雅な動作で僕の前まで歩み寄ると、逃げ場を奪うような笑みを深めた。
「さて、アンタレスくん。君に一つ、聞かせて欲しいことがあるんだがねぇ」
彼は僕の鼻先数センチまで顔を寄せ、その不気味な瞳で僕の『本性』を暴こうとしてきた。
「君は今、どういう立場でここにいるのかぁーな? 変わらず、魔女教大罪司教『傲慢』担当としているのかな?」
その質問が投げかけられた瞬間、室内の空気が一変した。
「ロズワール! お前、いきなり何を――!」
スバルが僕を庇おうと声を荒らげ、割って入ろうとした。
だが、それよりも早く、僕は一歩前へ踏み出した。僕は自分でも驚くほど冷徹な、けれど偽りのない平熱の声で、ピエロの目を真っ直ぐに見据えた。
「僕は、ただ生きたいだけの人間として、ここに来た」
大罪司教だとか、魔女の寵愛だとか、そんなゴミみたいな肩書きはどうでもいい。ただ生きたい、そのためならなんだってする。それだけだ。
ロズワールの瞳は変わらず僕の目の前にある。僕の答えを聞いても、彼の態度は依然として変化はなく、ただただ僕の心の内を見透かすような瞳で見つめてくる。背後でスバルが息を呑む気配がした。
やがて、ロズワールは、得体の知れない光を宿していた瞳を僅かに和らげると、「そうかぁ」と短く、けれど深く頷いた。
彼は優雅な足取りで机の向こうの椅子へと戻り、どっかりと腰を下ろす。
「うんうん、アンタレスくん。君がその言葉を違えない限り、この屋敷への滞在を許可しよう。というか、許可しなかったらスバルくんにもの凄ぉーくどやされるしねぇーえ」
ロズワールは肩をすくめ、わざとらしい仕草で笑ってみせた。
「よっし! 分かってるじゃねーか、ロズっち!」
スバルが僕の肩を叩き、満面の笑みを浮かべる。その手の温もりが、張り詰めていた僕の緊張を少しだけ解いてくれた。
「それじゃあ、決まりだ! アンちゃん、さっそく案内してやるよ」
「……あ、ちょっと、引っ張らないでよ」
ロズワールの執務室を出ると、スバルは僕の小さな手を強引に……けれど、決して痛くないような絶妙な加減で引いて歩き出した。
「あ、そうそう。これからお前がここで暮らすなら、会わせておきたい奴がいるんだ。今は内政官として、書類の山と格闘してるはずだからな」
長い廊下を進み、スバルはある一室の扉を勢いよく開けた。
「おーい、オットー! ちょっといいか!」
「なんですかスバルさん? 何か僕に用でしょうか?」
部屋の中では、灰色の髪をした青年が、机の上に積み上がった膨大な書類と格闘していた。筆頭内政官のオットー・スーウェンだ。
彼は眼鏡を直しながら不満げに顔を上げたが、スバルの背後に隠れるように立っている僕の姿を認めた瞬間、その動きが完全に止まった。
「…………え?」
オットーの瞳が、驚愕で見開かれる。彼は持っていた羽ペンを床に落とすのも構わず、ガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。
「あ、貴女は……!」
「よう、オットー。覚えてるか? 例の件で助けてもらった……」
スバルの言葉を遮るように、オットーは僕の前まで駆け寄ってくると、信じられないものを見るような、それでいて深い敬意の籠もった眼差しで僕を凝視した。
「忘れるはずがありません! 貴女は、あの恐ろしいペテルギウスから、僕を救ってくれた恩人です!!」
オットーは深々と、腰が折れんばかりの勢いで頭を下げた。
「僕はあの日を忘れません! 貴女があの狂人を、自らの手で……その、倒してくださったことを! おかげで僕は今、こうして生きて書類仕事に追われていられるのです!」
(……ああ、そういえば、あの時オットーがいたなぁ)
僕はオットーの感謝の言葉を耳にしながら、ペテルギウスを処理していた時に彼があの場にいたことを思い出した。
「商人として、そして一人の人間として、この御恩は一生忘れません。あんな絶望的な状況から救い出していただけるなんて、夢にも思っていませんでしたから」
オットーは深々と頭を下げたまま、さらに言葉を重ねた。その声は震えていて、向けられる感謝の質量に僕は思わず後ずさりしたくなる。
「……別に、僕はただ、個人的にペテルギウスが憎かっただけ」
僕はわざと冷淡な、突き放すような声を意識して言葉を返した。
「あいつには僕の故郷を焼かれたし、勝手な期待を押し付けて僕の平穏をめちゃくちゃにされたからね。その落とし前をつけただけ。別に、君を助けようとしたわけじゃないよ。君がそこにいたのは、ただの偶然なんだから」
これは本音だ。
あの時、僕を突き動かしていたのは、自分を脅かす狂信者への殺意と、自分自身の生存への執着だけだった。そこに「他人を助ける」なんて高潔な意志が入り込む隙間なんて、一ミリだって無かったはずなんだ。
けれど、オットーは、困ったような、けれどすべてを見透かしたような穏やかな笑みを僕に向けた。
「ええ、確かにそうなのでしょうね。……あの時、貴女がペテルギウスに向かって叫んでいた言葉、僕もあそこで聞いていましたから」
その言葉に、心臓がピクリと跳ねる。
「貴女があの狂人を心底から憎み、自分自身の平穏のために戦っていたのは理解しています。……ですが、その結果として、魔女教の道具にされかけていた僕のような商人が、こうして五体満足で書類仕事に追われていられる。それは動かしようのない事実なんです。どんな理由があろうと、僕が貴女に助けられた事実は変わりません。ですから、重ねてお礼を言わせてください。本当に、ありがとうございました」
「……っ」
真っ直ぐな瞳。一点の曇りもない、純粋な感謝。
スバルの暑苦しい善意とはまた違う、理性的で、それでいて温かな肯定。自分勝手な理由で振るったはずの暴力が、誰かにとっての「救い」として定義されることに、僕は言いようのないむず痒さを感じた。
頬が少しだけ熱くなるのを感じて、僕は慌てて視線をオットーの足元へと落とした。
「……もういい、分かったから! しつこいよ。そんなに感謝されたって、僕からは何も出ないって」
「いえいえ。もう十分に貰っているのに、これ以上を望むほど僕は恩知らずではありません。一人の商人として、たっぷりとお礼をさせていただきます」
「…そう」
僕はぶっきらぼうに言い捨てると、照れ臭さを誤魔化すように、横でニヤニヤしながら僕らを見ていたスバルの服の裾を強く引っ張った。
オットーの執務室を後にして、スバルは僕の手を引いたまま、長い廊下を軽快な足取りで進んでいった。
「さあ、着いたぜ! 今日からここがお前の部屋だ!」
スバルが勢いよく扉を開けると、そこには僕のような子供一人には広すぎるほどの、豪華な客室が広がっていた。
僕は部屋の中に足を踏み入れ、ぐるりと周囲を見回した。磨き上げられた床、柔らかな陽光を透かす清潔なカーテン、そして何より、魔女教のジメジメした洞窟やあの隙間風の吹く廃村とは比較にならないほどふかふかそうなベッドがそこにはあった。
「……いい部屋だね」
スバルは僕の反応を見て、「だろ?」と満足げに腕を組んだ。
だが、僕が手でベッドの弾力を確かめていると、ふと彼の表情からいつもの能天気さがふっと消えた。
「……懐かしいな」
ぽつりと、独り言のように漏れたその言葉。
それは、現在の状況とは明らかに食い違う、ひどく重苦しくて、けれど愛おしいものを慈しむような響きを孕んでいた。
「懐かしい? 何が?」
僕が問いかけると、スバルは弾かれたように肩を震わせ、慌ててこちらを振り返った。
その三白眼の奥には、底しれない悔恨と達成感が渦巻いていた。
「え? あ、いや……なんでもねぇよ! ちょっと、昔のことを思い出しただけだっての! ほら、俺って感受性豊かなタイプだからさ!」
スバルは不自然に声を張り上げ、後頭部をガシガシと掻きながら強引な笑みを作った。
だが、その誤魔化しは、あまりにも稚拙で、あまりにも分かりやすかった。
(……前のループでも、同じようなことがあったのかな。多分、この部屋に、僕は来たことがあるんだろう)
その時の僕は、一体スバルに何を言って、どういう流れでこの部屋に来ることになったのか。
真実はスバルのみぞ知ることだが、僕の事だ、十中八九ここにいた方が安全だと踏み、どうにかしてスバルの同情を買ったのだろう。
「……そう」
僕はただ短く答えると、無造作にベッドへと腰を下ろした。
前回の僕がどうなったかなんてどうでもいい。どうせ無かったことになった時間だ。
今はただ、この平和と窮地とも取れるこの場所で自分の思うままに過ごせばいい。生きるために、為すように為せばいいのだ。
―
ロズワール邸での生活は、僕のこれまでの人生――前世を含めても――最も規則正しく、そして最も平和なものだった。
朝、ふかふかのベッドで目が覚める。
かつて魔女教のジメジメした隠れ家や、泥にまみれた廃村で寝ていた頃が嘘のようだ。だが、僕は目覚めた瞬間にまず意識の奥底にある『リスト』を確認する。そこには大兎の増殖によって得られた数万の灯火が、相変わらず銀河のように輝いている。僕はこれを確認して初めて、今日という日を生き延びられる実感を抱くのだ。
「おーい、アンちゃん! 朝だぜ、シャキッと起きろよな!」
部屋の扉を遠慮なく開けて入ってくるのはスバルだ。
彼は相変わらず暑苦しい善意を振りまきながら、僕を中庭へと連れ出す。そこで始まるのが、彼の朝の習慣である「ラジオ体操」だ。
「いいかアンちゃん、腕を大きく振って! これが健康な一日の第一歩だぜ!」
「……分かってるよ。朝から元気すぎ」
不格好に手足を動かしながら、僕は周囲を観察する。
ラムが冷ややかな目でスバルを「バルス、朝から騒々しいわね」と切り捨て、レムがスバルにだけ献身的な笑みを向けている。平和な光景だ。だが、僕は常に『千命消費』の強化を維持している。この平穏がいつ壊れても、即座に逃げ出すか敵を殲滅できるように。
朝食は、レムの絶品料理だ。毒など入っていないことは分かっているが、僕は一応、スバルに毒見をさせてから口にする。
食後は、僕にとっての「メインイベント」であり、最も神経を削る時間――ベアトリスとの陰魔法の鍛錬だ。
「アンタレス、さっさと準備をするかしら。お前まだまだ制御が雑なのよ。もっと繊細にマナを操るのよ」
「……分かってる」
ベアトリスの指導は相変わらず厳しい。僕は権能を使い、大兎の命をマナへと変換してゲートに流し込む。本来の僕のゲートでは到底耐えられないような出力を、権能による強化で強引に補うのだ。
昼食を食べ、午後もまた鍛錬。ゲートの酷使でダメージを負っても、権能で治す。マナが切れても、権能で補充する。一刻も早く『アル・シャマク』を習得したい僕の意向で、休憩は極力減らす方針にしている。
夕方には、大きな浴場に入る。汚れを落とし、大兎の命で身体の疲れを癒やしながら、僕は湯気に巻かれて思考を沈める。僕は今、誰の命も傷つけず、ただ『資源』としての大兎を浪費しながら、着実に力を蓄えている。これが僕の求めていた「平穏」に最も近い形なのかもしれない。
夕食を食べ、自室に戻る。スバルが「おやすみ、アンちゃん。明日も頑張ろうな!」と声をかけてくるのを適当にいなし、僕は扉に鍵をかける。
そんな生活を一カ月ほど続けた、ある日の午後。
僕はベアトリスの前で、体内の全マナを一点に集中させていた。
意識の奥底で『リスト』の灯火を数十個、一気に「燃料」としてくべる。ゲートが悲鳴を上げるような感覚を権能の強化で強引にねじ伏せ、世界の理を切り裂くイメージを膨らませる。
「――『アル・シャマク』!!」
僕の手のひらから放たれたのは、これまでの『シャマク』とは次元の違う、濃厚な絶望の闇だった。空間が鏡のようにひび割れ、目の前の虚空が不気味に捻じ曲がる。世界の影を切り取ったかのような巨大な異空間への扉が、確かにそこに顕現した。
「……やったかしら。まさか本当に、この短期間でここまで辿り着くなんて、驚きなのよ。ベティの名師っぷりに感謝するがいいかしら」
ベアトリスが驚愕と僅かな誇らしさを混ぜた瞳で僕を見つめる。
僕は扉を維持したまま、荒い呼吸を整えた。そして、すぐに閉じようとする異空間の扉を見つめ、満足げに鼻を鳴らした。これでようやく、僕は、この不条理な世界を生き抜くための一歩を踏み出せたのだ。
「うおおおおおっ!! やった! やったぜアンちゃん!! マジかよ、本当に出しやがった!!」
静寂を切り裂いたのは、隣で飛び跳ねるように狂喜乱舞するスバルの叫び声だった。
彼はまるで自分のことのように拳を突き上げ、三白眼をこれでもかと輝かせながら僕の周りを走り回っている。
「見たかベア子! 俺のアンちゃんは天才だ! これで大兎の管理もバッチリ、不法投棄された兎たちも一件落着! パフェコミの勝利だぜッ!!」
スバルの暑苦しいまでの称賛を浴びながら、僕はほっと息をついた。
これでようやく、僕の『無限のストック』を、ベアトリスたちの干渉を受けない場所に隔離しつつ維持する手段の、最低限の土台が整った。ここからだ、と僕は達成感に流されないよう気を引き締める。
だが、ふとスバルの様子を伺うと、あんなに騒がしかった彼の動きがピタリと止まっていた。
「……え?」
スバルは、僕の手のひらの前で閉じようとしている闇の残滓をじっと見つめたまま、急激に肩を落とし、まるで全財産をスられた後のような絶望的な顔で項垂れ始めたのだ。
「……あーあ。……そうか。できちまったのか、アル・シャマク」
「……なに、急に。情緒が不安定すぎるんだけど……どうしたの?」
僕が訝しげに問いかけると、スバルは力なく顔を上げ、執念と寂しさが混ざり合ったような複雑な瞳で僕を射抜いた。
「どうしたもこうしたもねーよ。……お前がそれを習得したってことはよ。もう、ここ……ロズワール邸に居る意味がなくなっちまったってことだろ」
スバルは頭をガシガシと掻きむしり、自分に言い聞かせるように言葉を漏らした。
「条件だったもんな。お前が一人で大兎を管理できるようになれば、どこへ行っても俺たちは邪魔しない、追いかけないって……。あーあ、折角これからレムの料理のレパートリーを増やしてもらって、アンちゃんを餌付けして懐柔する予定だったのによ……」
スバルの声には、隠しきれない落胆が滲んでいた。
彼にとって、僕が力をつけることは『救済』であると同時に、僕という『爆弾』を自分の手の届く範囲に留めておくための鎖を失うことでもあったのだろう。
「……これで、お前はもう自由だ。明日には、ここから出ていっちまうのか?」
スバルの寂しそうな、どこか僕の正体を知る者としての冷徹な諦めを含んだ問い。
僕は一度だけ意識の奥底にある数万の大兎の灯火――僕を死から遠ざける唯一の防壁を確認し、それから目の前のトラブルメーカーを見上げて、冷淡な平熱の声で答えた。
「……別に、まだ出ていかないよ」
「……えっ?」
スバルが、漫画のように間抜けた声を上げて硬直した。
「え、今なんて!? 出ていかない? ここに居てくれるのか!?」
スバルは一瞬にして絶望を脱ぎ捨てると、再び期待に満ちた顔で僕に詰め寄ってきた。そして、ニヤニヤとした不敵な笑みを浮かべ、僕の頬を指先で突く。
「あっ、分かったぜぇー? さてはお前、あれだろ! ここの生活が気に入っちゃって、俺のラジオ体操とレムのメシなしじゃ生きられない身体になっちまったんだろ! 素直に『寂しいから居させて』って言えばいいのに、このツンデレめ!」
「死ぬほど心外なこと言わないでくれる?」
僕は全力の拒絶を込めてスバルの手を叩き落とすと、自分自身の生存に関わる『現実』を突きつけた。
「勘違いしないで。……さっきのは、ただ発動できただけ。異空間の扉を四六時中安定して開け続けることは、まだできない」
僕は自分の手のひらを見つめ、僅かに残る不浄なマナの感触を反芻した。
「今大兎を異空間に納めても、維持しきれず失敗する。『アル・シャマク』の習得はただのスタートライン。ここからが本番だよ。常に異空間の扉を維持し続けるために、陰のマナを無意識的に制御できるようにならないといけない。独学でも時間をかければできるようになるかもしれないけど、陰魔法の専門家がすぐそばにいるこの環境でやったほうが確実だ」
僕の目的は常に「絶対的な安全」だ。ベアトリスという最高の講師から、陰属性魔法の深淵を完全に盗み出し、僕の命を誰にも届かない場所へ固定するまでは、この屋敷は、僕にとって最も効率的な避難所なのだ。
「……だから、勝手な解釈で喜ぶのはやめて。特訓は、まだまだ続くから」
「『というのは建前で、本当はここから離れたくないだけなの』ってことだろ!? いいんだぜアンちゃん、無理しなくてよ。そうやって理屈を並べ立てるところが、逆にお前の『本音』を隠してるみたいで可愛いじゃねーか。やっぱり俺というナイスガイと離れるのが寂しいんだろ? 正直に言っちゃえよ!」
「ああ、もう、うるさい! あんまり調子に乗ってると、今すぐ異空間に放り込むぞ!」
僕はニヤニヤが止まらないといった様子のスバルを睨みつけた。
「まだ扉を『維持』することはできないけれど、お前一人を封印するくらいなら、今の僕でも出来るんだからな」
僕の手のひらから、ぬっと不気味な黒いマナが漏れ出す。それを見たスバルは、さすがに一歩後ろへ飛びのいて、顔を派手に引きつらせた。
「お、おい……。それは照れ隠しにしては過激すぎるだろ!? 普通は『バカ!』とかで済ますところを、いきなり異次元送りの宣告かよ! さすがは元大罪司教、デレの表現が文字通り次元違うぜ……!」
「いずれ来る大兎のためにも、おもてなしを用意するべきだよなぁ…」
「なんかマジでやろうとしてない!?」
僕の手のひらから漏れ出した不気味なマナを見て、スバルは情けない悲鳴を上げた。
彼はベアトリスの背後に、転がるような勢いで滑り込んだ。大きな身体を不自然に折り曲げ、ベアトリスの影に隠れるようにしてこちらを伺っている。
「ベア子、助けて! この子、目がマジだ! 俺を異空間に放り投げて、大兎のディナーにする気満々だッ!!」
「……全く、何をやっているのかしら。アンタレス、その禍々しいマナをさっさと引っ込めるのよ」
ベアトリスは呆れたように鼻を鳴らし、僕にやめるよう催促してくる。
彼女に従って手のひらのマナをゆっくりと霧散させる。そして、僕は俯き、スバルたちに見えないように、唇を小さく、けれど確かに歪ませた。