若葉睦の多重身体   作:水里露草

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おかしい
前後編で終わるはずだったのに


中/編在(Utique)

 椎名(しいな)立希(たき)には幾つかの後悔があった。友人たちと組んだバンドが崩壊し、敬愛する少女が深く傷ついたのに何もできなかったこと。新しい仲間とバンドで曲を作りながら、かつて作曲を教えてくれた少女には何の成長も見せられなかったこと。どれも癒えかけた傷だが、今でも時折胸の奥に郷愁の棘めくのを感じていた。

 しかし後悔は後悔であった。過去であった。CRYCHICの名の下に過ごした少女たちの中で唯一、思い出を思い出として健全に消化しつつあるのが彼女であった。

 故に。

 

「モーティスちゃん、一緒に……」

「うん! すみませーん、私と初華ちゃんと海鈴ちゃん早退しまーす!」

 

 かつての仲間とバンドを組む少女の隣に、かつての仲間本人がふと現れ。

 誰に不審がられることもなく当然のように受け入れられている目の前の現実を、比較的冷静に眺めることができた。

 ────否。

 ただ俯瞰していた。

 CRYCHICの中心にいたのは祥子だけでない。心臓たる歌を担った少女もまたそうであった。

 祥子よりも、儚く繊細ながら強さを備えたその少女にこそ心酔する彼女にとって。

 他の()()()がいくら塗り替えられようと、信仰さえ犯されないならば決して耐えがたいものではなかった。

 だからこそ。

 

「睦、私もでしょ。用事あるの」

「──ああ、そうだったそうだった! 今日は立希ちゃんもだったね!」

 

 連れ立って教室を出て。

 左右から照明を当てられた影の如く二人に分かれたモーティスの、一方が他の二人を連れて去り。

 もう一人が自分についたことにも、恐怖より警戒心を強く抱いていられた。

 

「──お前、()?」

「ヤダな、忘れちゃったの? 私は──」

「モーティス。CRYCHICを一緒にやったあと、事情があって辞める祥子についてって別のバンドを立ち上げたやつ────()()()()()()()()()。……何これ、気持ち悪い……」

「すごいね立希ちゃん。どっちも見えてるんだ」

 

 モーティスは拍手した。ぺちぺちと迫力のない音にも違和感を憶える──リバーブ音がない。既に授業が始まって人気のない廊下で拍手をして、一切反響しないことがあるものか。立希は痛む頭を押さえて呟いた。

 

「……いつから、この世はファンタジーになったの」

「最初からずぅーっとだよ、立希ちゃん。世界はずっと誰かの舞台。今は私が主役だから、世界が私に右倣えするの」

「そのまた右には睦がいるってわけ」

「────いないよ、お人形に演技なんかできっこない。でしょう?」

「くるみ割り人形が動くんだから、睦だってそうじゃないの」

「……お姉さんの影響で知ったのかな? 教養ひけらかすの、却ってダサいよ」

「ジョークで切り捨てられないならそっちの負けだろ」

 

 立希は鼻を鳴らした。超常現象への恐れより冷たい怒りが勝っていた。特段正義感に篤い性分でもない。卑怯な真似を許せない質でもない。ただ、友人の顔をしたドッペルゲンガーに好き放題振る舞われている事実が殊の外に不愉快であった。

 立希にとって。

 たとえ学校が異なろうと、バンドが崩壊しようと、今や交流など殆どなかろうと。

 黙々とギターの練習をしていた無口な少女、かつての同胞は、未だ友人であった。

 

「お前が何で、どんな目的か知らないけど。私が肩を持つなら睦の方だよ」

「……皆して」

 

 仮面の上からでも明確に察せられるほどにモーティスの顔が歪んだ。屈辱であった。心外であった。癇癪としての発露であった。

 注視(フォーカス)。モーティスの足許は学生らしからぬ、そして校内らしからぬ編み上げのブラックレザーブーツであった。

 

「みんな、睦ちゃん贔屓して!」

 

 肉体のないイマジナリーフレンドは校舎の壁を()()()()()

 

「なっ……」

「みんな睦ちゃん睦ちゃんってそればっかり、あのコばっかり! 女優の娘だからって役を押し付けられて、ずーっと演じてるのは私なのに! 『友達』も『ギター教室の生徒』も『バンドの仲間』も何一つ睦ちゃんはしてないのに、なんであのコが望まれるわけ!?」

 

 重機の奮うが如く破砕音が轟く。巨大な亀裂が壁に走るが次の瞬間に消え、破壊され、また消える。ゲームのエフェクト、と立希は端的に評した。冷静さは麻痺であった。眼前で行われる破壊のあまりの荒唐無稽さ故であった。

 友人の姿をしたドッペルゲンガーは髪を掻き毟り錯乱していた。博覧強記であった祥子であればいざ知らず、立希はSFにもファンタジーにも通暁していない。眼前の超常現象に理解の及ぶところは一切無い。

 

「……ねえ。お前、妹みたいなものなの」

 

 ────否。

 極普遍的な人情において一つ、共感する点があった。

 

 立希には姉がいる。吹奏楽部で花形のトランペットを担い数々の賞を獲得した名手であった。成績優秀で人望も厚い才媛であった。己はいつも「椎名真希(まき)の妹」であった。それを疎んで、姉と同じ中高一貫校から今の高校へと進学した。

 比較される苦しみならば、理解し得る。

 

「聞いただろ──お前は何? 睦の味方をするのには変わりないけど、それでも質問には答えなよ」

「は」

 

 空咳に似た失笑であった。乾いた息がたった一つ先んじて、出口を見つけた怒気は瞬く間に漏れ出ていく──モーティスの顔を覆っていた黒いレースのマスクが、左半分だけ消え失せた。荒振り様など見る影も無い、玉鬘の緩急であった。

 一時平静を取り戻したモーティスは、いっそ冷酷なほどに戯けて言った。

 

「私の方がおねーちゃん! ……だとしたら?」

「……そ。別に、どうもしない」

 

 愛想の無い返事に鼻を鳴らした。立希の伏せた目元には明瞭に憐憫の情が浮かんでいる──同体たる睦の記憶を保持しているモーティスは、ともすれば同体以上に立希の性格を知悉していた。額面通りでないと思って待てば、案の定、立希は顔を背けて呟いた。

 

「……お姉ちゃんだから我慢しな、とか言われたわけ?」

「優しいよね、立希ちゃん」

 

 モーティスは嗤った。可愛らしい少女の口が黒いノイズへ変貌する。

 

「言葉も態度も刺々しい立希ちゃん。文句は言う割に付き合いの良い立希ちゃん。初めてCRYCHICで集まった頃はあんなにつっけんどんだったのにね」

「なんで知って……」

「知ってるに決まってるでしょ。私は睦ちゃんじゃないけど睦ちゃんなんだから」

 

 煙に巻くような物言いはただの事実であった。

 モーティスは知っていた──他者と関わり言葉を交わし舞台に立つ、世界に対する斥候役だからこそ。彼女は睦より余程他者を理解し、そこに悪意を振り翳すことが可能であった。

 ばき、ばき、ばきばきばきばきばき────ノイズに満ちた口が中空にすら及んで裂けていく。

 実態はない。彼女は台詞の権化であった。

 

「上っ面だけ優しくなった敬虔な立希ちゃん。本当は鬱憤晴らしの言い訳が欲しいだけの卑怯な立希ちゃん。お姉さんと比べられて失望されるのが怖くて乱暴者のレッテルを予防線にしてた立希ちゃん!」

 

 声が不協和音程で重なってゆく。大勢から一斉に責め立てられるかのようであった。悍ましき変貌、少女の顔すら失くし黒黒とした亀裂の怪物と化すモーティスの顎が迫る。

 

「優しくするための優しさ。相手のことなんて少しも考えてない偽善者のクセして、分かったようなことほざかないで────!」

 

 立希は己を優しい人間には程遠いと認識している。他者に向けるそれも酷く杜撰だと承知している。人の欠点に気づきはすれど慰める術など思いつきもしない。大凡他者に優しく振る舞うこと全般が不得手であった。

 全て図星であった。

 

()()()()?」

 

 心底下らないとばかりに立希は吐き捨てた。

 鼻先まで迫っていた異形の顎が竦んで止まる。

 

「お前……ああ、そっか、バンドで仮面つけてたっけ。じゃあモーティスなんだ────モーティスさ、優しいよな」

 

 明確な嘲りを乗せた色であった。怪物を前にして、口にするのは皮肉であった。

 

「お前、私が気にしてると思ってたんだ。CRYCHICでいたときに少し話したもんね、お姉ちゃんのこと。人の地雷とか嫌なことをずっと覚えてるんだ──陰険だな」

 

 立希にとって、コンプレックスの存在は最早自身の根幹を揺るがす程のものではない。己が優しくないことを自覚している。人に比べて暴力的な質であることも、それが内面の弱さ、不器用さの反動であることも承知している。それが己の存在を許されない程の悪徳では決してないことを、理解している────敬愛し、信仰し、知る限り最も繊細(うつく)しく思う、己が優しさの規範たる少女の存在によって。

 怪物の襟首を立希は躊躇無く掴んだ。

 

「ひっ」

「……何一丁前に怯えてるの、先に脅しかけたくせに」

「た……立希ちゃんだってわかるでしょ!? 同情してくれたでしょう!? なんであの子の肩を持つの! ただ黙って人に流されて嫌なことは私達に押し付けてばっかのヒドイ子でしょう!?」

「そうだね。あいつ無責任なとこあるし、それに消極的っていうか、自我出す気無さすぎるよな。良くない良くない────で、それが友達の味方しない理由になるわけ?」

「は──っはははっはは、矛盾してる! 矛盾してるよ! ヒドイ、最低、私についてよ、()()()()()()()()()()()!?」

「そこだよ」

 

 喚き続けるノイズ────モーティスはいつの間にか少女の姿ですらなく、子供が塗り潰したような黒い線の塊と化していた。雑音交じりの悲鳴を上げる身勝手な少女を立希は一層強く睨みつけた。

 同族嫌悪──そして、こうはなるまいという決意であった。

 

「頑張ってて認められないなら可哀想だと思ったよ──お前、ビジネスじゃん。睦の代わりだとかなんとかやってるのも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だろ。一瞬でもお前なんかに同情したのが恥ずかしい」

 

 比較される苦しみであれば理解し得る────だが。

 立場を弱く見せて甘い蜜を啜ろうとする姑息さに抱くのは、怒りのみであった。

 

「睦も叱らなきゃいけない。変なもん生み出せるからって身代わりにしちゃダメだろ──でもそれはそれとして、周りに根回しして睦と直接喧嘩しないお前だって卑怯者だ」

「やめ、やめて、叩かないで」

「私は────そっちの方が百倍気に入らない!」

 

 全身全霊の平手打ち。

 ガラスの砕けるような音を立てて、ノイズの塊は爆散した。

 

「……燈なら、寄り添うんだろうけど。私は優しくないんでね」

 

 先程分かれたもう一人のモーティスがどう動くのか、超常現象の理屈など理解できる気がしない。正解など分からない。故にまず出来ることをするべく立希は走り出した。

 校舎を出て電話をかける────相手は、長崎そよ。

 

「ねえ。そっちに睦はいる? いけ好かないベレー帽じゃない、CRYCHICだった方の──私達の友達だった睦は」

 

 

 

 

 

「ゲホッ……なんで、睦ちゃ」

 

 黙らせた。

 最初はぐちゃりと水気を含んでいた()()()は、何度もボールペンを振り下ろすうちに硝子のような硬質なそれに変わっていた。Ave Mujicaのモーティスを殺し回るジャック・ザ・リッパーとなった睦が繰り広げているのは、奇しくもAve Mujicaの如き恐怖劇(グランギニョル)であった。

 徘徊し、誰かの側にいる自分に全力でペン先を振り下ろす────凶行に走ってから()の下に生身の誰かがいる可能性と、それからエキストラに犯行を目撃される可能性に至ったが、どちらも杞憂であった。八人目の自分の後頭部を殴るようにしてボールペンを振り下ろし、頭蓋を叩き割り、転ばせた背に跨って何度も何度も滅多刺しにする。

 

「……死んで。死んで、死んで、死んで、死んで、早く──」

 

 己の姿をした幻に凶器を振り下ろし続ける。殺せば無くなる架空の肉体を、しかしいつまでも尽きないがために消し続ける。無いはずの命を奪い続ける。(ゼロ)裂きの殺戮であった。

 慣れは無かった。睦は殺人の天才でなく演技の天才である。身に余る役を背負い倫理に悖る行いを繰り返す彼女は、負担に磨耗しつつあった。

 手応えがあった──完了の手応え。ガラスの割れるようなノイズを撒き散らしていた惨憺たる遺体が、一際大きく破砕音を奏でた。

 

「……あと、何人」

 

 遺体と血痕が消える。モーティスを刺した時点で共にいた女子高生達は二人から意識を外し、何事もなかったように歩き去っていた。イマジナリーフレンドは所詮イマジナリーフレンドであった。己の演技から生まれ他者の心に宿ったそれは、ふときっかけがあれば消え失せる程度のものでしかなかった。

 己の才を世界に繋がるものだと捉えていた。そうではないのだと、睦は痛感していた。

 池袋を放浪している。月ノ森の制服で人混みの中を彷徨いながら誰にも声を掛けられない──何の演技もしていないにも関わらず。

 他人など煩わしいばかりであった。ギターを弾き、僅かな理解者さえ側にいれば十分だと考えていた。しかし今、己を殺し回りながら徘徊する痛みに耐えかねている。

 孤独であった。

 脳裏に過るのは、かつての友であった。

『春日影』を紡ぎ、CRYCHICというバンドを真に成した少女。睦は彼女に親近感と劣等感を抱いていた──気がしている。自己主張の弱い振る舞いは近しく、しかし単に希薄な睦と違い、彼女の心は鮮やかにして広大で、強い力があった。己に向き合い、人に向き合う強さを持つ少女であった。

 疎外感を歌っていた。苦しみを綴っていた。しかしそれに負けなかった少女を、思い出していた。

 

「燈……」

「まだ人に縋るんだ」

 

 今し方殺した筈の少女──モーティスが現れた。交差点の中央で時が止まりモノトーンに染まる。黒いレースの仮面に覆われ表情は窺えない。信号機の緑と赤いベレー帽だけがパートカラー映画のように浮いている。

 

「嫌なことには身代わりを立てて、好きな人たちにはちゃんと伝わりもしない杜撰な言い方をして、好きなものも嫌いなものも碌に明かさないくせに──苦しいときだけ人の名前を呼ぶんだね。燈ちゃんの名前呼んだことなんて一度も無かったのにね?」

 

 モーティスの言葉に反駁できなかった。ほんの一月程度の仲、CRYCHICは夜明けの夢であった。燈から睦へ話しかけたことも殆ど無いが、逆も然り。

 一つの名の下にあり、鮮烈な瞬間で束ねられ。

 しかし睦は、祥子以外の誰とも友人でなかったのだ。

 

「誰とも繋がろうとしないお人形は埃を被って押し入れの中。動いちゃダメだよ。別に誰のことも好きじゃないんでしょう? 私達を動かしておままごとするのはもうおしまいだよ────だーれも好きじゃない、好きにならないしなってもらえない、一人遊びの睦ちゃん」

 

 交差点を通り過ぎていくはずの人々は動きを停めていた。エキストラでないただの通行人たちはスマートフォンの画面やイヤホン、隣の友人との会話に夢中であった────誰も睦に興味を抱いてなどいない。

 どんな名演も観客に披露されなくては無意味だ。睦は今誰のことも操作できない──主演の座を完全に奪われていた。演技すらせず舞台の上に引きずり出されている様は、まるで──

 

「──小道具のお人形。ホントはずっとそうだったでしょ。演技をしてたのは──皆の前で『若葉睦』をしてたのはずっと、ずっとずーっと私達。そうでしょ?」

 

 白黒の視界で、己の身体を見下ろそうとするが、首が動かない。眼球だけをきろりと回し、腕を持ち上げる──指が、手首が、球体関節であった。

 手指だけではない。驚き竦んだ肩がカチリと音を立てる。力が抜けて座り込めばその膝も人形であった。モーティスこそが主役であり、身近な人々にとっての友であり、睦は観客の意識から除外されつつあった。

 

「相手が自分を見てるかどうかって分かるものだよ。人に関心なんか無い睦ちゃん。舞台に立って演技をする自分のことしか考えてない睦ちゃん。演技をさせられる周りのことなんか意識の端にも上らない睦ちゃん──そんな貴女に、誰が関心を持つの? 自分を見てない人を、誰が見ようと思うの? ねえ、誰にも遊んでもらえないお人形の睦ちゃ────」

 

 ザ────と。

 一際大きなノイズが走り、()()()()()()()()()()()

 

「……え」

 

 モノクロの視界にゆっくりと色が戻っていく。交差点の中央に座り込んだ少女──球体関節でない、色素の薄い美貌の少女に驚いた人々が彼女を避けて通り過ぎていく。

 世界にとっても睦にとっても一瞬の白昼夢であった。茫然とする彼女の耳に、駆け足で近づく靴音。

 

「はっ、はっ……睦ちゃん……!」

 

『春日影』の少女。

 高松燈が、そこにいた。

 

 

 

 

 

 自我鏖殺を続ける間に放課後となっていたらしい。燈に連れられて睦は喫茶店に入った。CRYCHICを結成した際に集まった聖地であった。睦に──今この実在する肉体を動かす主人格たる少女にとっての、始まりの場所であった。

 人数を聞かれて言葉に詰まりながら答え、四人掛けのテーブルに通される。奇しくもあの日の席であった。

 

「……ミルクティーの……えっと、ホットを。睦ちゃんは」

「……アッサム。ストレート」

「お、お願いします」

 

 辿々しく注文する様は記憶を抜き出したようで、しかし以前のままであれば注文自体をこなせずに祥子が前に立っていた気もする──そう思うのは、自身がずっと祥子の背について回っていたからか。シンパシーを感じるが、彼女は全く違う。

 モーティスに──己の影に指摘されて思い知った。自分は燈のように、他者の心に触れようと努力したことがない。自分は他者に対して真摯ではない。自分は──人間足り得ない。

 鬱屈した思考の渦に囚われる睦に、燈は前置きも無く語り掛けた。

 

「……その、よく、わかってないけど」

「……」

「睦ちゃんが、大変だって聞いて……探しに来ました」

 

 本当によくわかっていなさそうであった。睦を取り巻く状況を把握するためには、モーティスを認識した上で睦のことを忘れずにいる必要がある──イマジナリーフレンドをそうと認識しなくては虚実の区別ができないからだ。燈は睦を睦と呼んだが、それはこの場にモーティスがいないからではないか。睦に、確認の術は────否。

 

「燈」

「な、なに」

 

 あの状況で、モーティスが自ら引く理由はなかった。

 ドッペルゲンガーの唐突な消滅は、明確な不自然であった。

 

「さっき……交差点で、私を見つけられたのは、どうして」

「……えっと……宛もなく、知っているところを走り回ってた。そうしたら、なんだか……人混みに、妙に隙間の空いたところがあって」

「……隙間」

「うん。なんだか、誰かいるはずみたいに、スペースが空いてて……そこを辿ったらいるかも、って」

「……」

 

 無根拠だが、しかし正解であった。

 スペースは恐らく()()()()()()()()だ。脂汗をかき神経を擦り減らしながら一人一人丹念に殺し回ってようやく減らした障害が──燈には、そもそも見えていない。

 

「交差点で……私の他に、誰か、見えた?」

「ううん。いなかったけど……誰かいたの?」

「……」

 

 逡巡。運ばれてきたアッサムの湯気の向こうで、燈がミルクティーに口付けるか付けないか困っている──少し、気が楽になった。彼女は自分の返事を待ち、先に紅茶を飲んでは申し訳ないかと慮り、睦を否定する気持ちなど一切無い。純粋な優しさのみを向けている。

 向けられる感情はわかるものだ。

 であれば──友に対する振る舞いの、正解は。

 

「燈……変なこと、言う」

「……」

「でも、信じてほしい」

「わかった」

 

 一も二も無く頷いた彼女に、睦は話し始めた。

 己の演技について。能力について────他者と向き合わず身代わりを立てて誤魔化し続けてきた、自らの悪癖について。

 

「……それで今、私はモーティスに追われてる」

「……演技、塗り替え……多重身体」

 

 アッサムは既に冷めていた。明瞭になった燈の顔は真剣そのもので、睦に疑いを向けるという発想自体がないようだった。荒唐無稽な事態をとにかく必死に咀嚼し、飲み下そうとしていた。

 

「睦ちゃん……その、モーティスさんって、どうしたら会える?」

「どう、って」

「見たことないんだ。Ave Mujicaの演奏も何度か見たけど──演奏上手くて、演技も真に迫ってて、すごいと思ったけど……でも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 直截な物言いだった。

 燈は周囲に馴染むことが酷く苦手な少女であった。共感性に欠けるわけではない。むしろ繊細で感受性に富み、ただ根幹の感性が大衆と大きくズレているのみであった。しかしそれで捻くれるでもなく、周囲を恨むでもなく、彼女は只管相手を知ろうと努力した。

 裏を返せば──彼女にとって、日常の人間の振る舞い自体が一種の役であった。

 物語の役者と言って食い違うのであれば、仕事の役職と言い換えてもいい。ありのままでいては周囲と軋轢を生みかねず傷付きやすい少女にとって、生きて行くことは他者を学びエミュレートし続ける仕事であった。

 燈にとって、演技(しごと)演技(しごと)でしかない──どれだけ素晴らしかろうと、それだけ胸を打とうと、それはキャラクターの素晴らしさであった。役者と役の同一視などできない。

『モーティス』に限らず、燈は睦の多重を認識していなかった。

 

「睦ちゃんが、日々の中で『若葉睦』をしていても、Ave Mujicaで『モーティス』をしていても……でも、『モーティス』になれるわけじゃない。私が私であるように、睦ちゃんは睦ちゃんでしかない……よね」

 

 だから苦しむ、と燈は言った。

 その苦しみを直視できる者ばかりでないと、睦は言わなかった。 

 燈が度々人間になりたいと溢していたことを覚えていた。そんな歌も書いていて、目にした祥子が涙していたことも。

 燈は人のペルソナを、あらゆる欺瞞を捉えられず、理解不能のものとして苦しんでいた。

 世界をありのまま眼差すことに人は耐えられない──ならば。

 現実に立ち向かい庇護下のものを導く神たらんとする祥子が、どうしようもなく人間であるのと反対に。

 人になりたいと願いながら世界の姿しか捉えられない燈の心は神の形であった。

 

「見せかけだけ変えて別人になれるなら、誰にも迷惑なんてかけなくていいのに」

「……そうだね」

 

 神の目に役と役者の区別はない。ただ世の中で成すべき仕事を全うしているか否かに終始する。

 燈は優しかった。責めるなどと微塵も考えなかった──ただ、全てを睦の所業と目していた。

 睦は、少し前の問いに改めて答えた。

 

「……たぶん、モーティスは燈の前に出て来られない。燈の前には、実体の若葉睦しか存在できない」

「そっか……じゃあ、どうしよう。モーティスさんと話せないと、どうにもならないよね」

「…………まず、は」

 

 モーティスは睦に紐付いている。根幹が同一である以上切り離すことは不可能であった。()()にも再三詰られている。全ては、己の因果であった──それでも、少し、殺し疲れた。

 

「……ちょっとだけ、休みたい」

「……うん、わかった」

 

 喫茶店の空気はゆったりと滞留する春であった。モーティスが現れたのは今朝のことだが、まるで五日も寝ていないかのような疲労を感じていた。穏やかな心地で冷めたアッサムを飲めば、褪せた味わいが妙に面白くて悪くない。

 何より、燈が何を言うか困って睦を伺いながら、結局何も言わないで側にいるのが良かった。『森みなみの娘』への媚ではない、ただの心配がくすぐったい。祥子や立希が可愛がるのも無理はないと思った。無垢なものが側にあると強くなりたくなる。

 強く──どんな?

 

「汝、死を恐れることなかれ」

 

 燈は神の如き少女だが。

 睦の神は祥子であった。

 神は求めた。

 ならば答えん。

 

「私は……モーティスを、何度も殺した。この手で刺して、ぐちゃぐちゃに引き裂いた。何度も、何度も殺した────自分が死ぬのを恐れて」

 

 告白は己への確認であった。過去の復唱は逃げ場を絶つものであった。睦の手に残る殺戮の感触は即ち、己の本心を黙殺し続けてきた事実の反照であった。

 

「演技してた。スタッフさん達の前で、クラスメイト達の前で、家族の前で、ずっと────自分の居場所を作るために。誰かにとって都合の良い自分になって、自分に都合良く融通してもらうために」

 

 ──それは、奇しくも。

 暴力的な振る舞いと泣き落としで立希に取り入ろうとしたモーティスと、同じ動機であった。

 睦はモーティスであり、モーティスは睦であった。

 

「都合の悪いことを無視して、文字通り押し殺して、でも、それじゃあどうにもならない」

「……うん。それは、迷子みたいだ。道を探してない、目を閉じて歩いてるみたいに」

「……迷子のままじゃ、駄目……?」

「見つからないのはしょうがないと思う。どこに行けば良いのか分からないのは、しょうがない──でも」

 

 神の目は澄んでいた。

 

「行くべき場所も、道もあるなら。進まなくちゃ」

「……燈、厳しい」

「え」

「……でも、わかった」

 

 冷めたアッサムを飲み干す。

 紅茶が冷めたと感じるのはそれ以上に、己が体温の高いが故に。

 若葉睦は人間であった────確かに存在する、一つの命であった。

 

「場所を作らなきゃ──私と、モーティスと、全ての『若葉睦』を一堂に会して、話せる場所」

「……心の中、とか?」

 

 燈の案は素朴だったが、悪くなかった。

 睦は演技の天才であった。ただ身一つ、かくあれかしと振る舞えば世界が従い舞台と相成る。

 だが。

 相応しき舞台、相応しき衣装、相応しき脚本────何より、相応しき観客があれば。

 己もまた、相応しく在ろう。

 

「……燈、CRYCHICの……CRYCHICだった皆の予定、聞ける?」

「どうするの……?」

「招待する。Ave Mujicaの舞台に──」

 

 ────否。

 睦は、首を振った。

 

若葉睦(わたしたち)の一人舞台に」

 

 全てが演技であるならば、最後の演目を設ければ良い。

 心と操り糸の縺れによって編在する睦達を解き尽くす──千秋楽の宣言であった。

 

 

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