街はずれの森呪遣い   作:コスタリカ

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初投稿です。不慣れな点もあるかと思いますが、読んでいただければ嬉しいです。


発芽
冒険者たちの街


 夕方のアキバは、妙に広かった。

 

 街そのものの大きさが変わったわけではない。中央通りの幅も、石畳の継ぎ目も、古びた雑居ビルが斜めに連なっている景色も、ゲーム時代に見飽きるほど見たままだった。エルダー・テイル日本サーバ最大の拠点都市、アキバ。馴染みのある街であるはずなのに、今日に限っては、自分がその中へ踏み込んでいるという感覚がどこか薄く、代わりに街の方がこちらへじわじわ迫ってくるように思えた。

 

 人が多い、と片づけてしまうには、もう少し切迫したものがあった。大通りには、立ち尽くして空を見ている者がいる。自分の腕や顔を触り続ける者がいる。泣いている者がいる。怒鳴っている者がいる。笑っている者までいた。あまりのことに、感情の行き場を失っているのだろう。

 

 トーカは中央通りの角で立ち止まり、無意識のうちに旅装の襟元へ指をやった。汗ばんではいない。だが、喉が少し乾いていた。

 

 呼吸を整える。肺へ入る空気が、普段より冷たく、重い。重いというのは気分の問題ではない。肺がふくらみ、肋骨が広がり、息を吐けば胸郭が戻る。その一つ一つに、画面の向こうではない身体の手応えがある。

 

 トーカは右手を軽く握り、また開いた。指の関節が鳴りそうなほど生々しい。自分の手なのに、触覚の精度がいやに高い。その奇妙さに慣れないまま、腰の斧へ触れてみる。柄のざらつき、革巻きの継ぎ目、金具の冷たさ。それだけは、ひどく馴染んでいた。

 

 少なくとも、手足は動く。それだけでも、この場にいる大勢よりはましだと、トーカは思った。自分は混乱している。だが、取り乱してはいない。恐慌に飲まれてもいない。歩けるし、物も考えられる。状況の説明はつかなくても、自分がいま何をすべきかを切り分ける程度の余裕はある。

 

 もともと、そういう遊び方をしてきた。大人数で騒ぐより、一人で回る方が性に合っていた。敵の配置を見て、退路を見て、回復の回し方とMP消費を測り、どこで引いてどこで押すかを自分だけで決める。その積み重ねで作ったビルドだ。だから、周囲が狼狽しているこの状況でも、まだ思考が切れていないのだろう。

 

 街路の向こうで、何かが倒れる音がした。

 

 見ると、宿屋の前で二人の〈冒険者〉が掴み合いになっていた。片方は若い〈半狼人〉で、もう片方は重装備の〈武闘家〉だ。怒鳴り声の中身までは聞き取れないが、寝る場所か、水か、食い物か、そのへんだろうと見当がつく。

 

 この状況では、そういう揉め事は起きる。

 

 トーカは少し身体をずらし、人の流れから外れた位置で二人を見た。半狼人の方は感情のままに踏み込んでいて、逃げ場を考えていない。武闘家は腕力で押し返そうとしているが、現実の体格差と、ゲーム時代の感覚が頭の中で噛み合っていない。どちらも対人戦の経験がないのだ。いや、PKの経験がないというだけではない。目の前の相手が本当にそこにいて、殴れば痛む身体を持っているのだと、まだ腹へ落ちていない。

 

 周囲には野次馬ができていたが、止めに入る者はいない。みな、自分の足元で手いっぱいなのだろう。

 

 その時、通りの反対側から荒っぽい怒声が飛んだ。低く、よく通る声だった。人垣が少し割れる。黒い装備を基調にした一団が、大股でこちらへ来るのが見えた。肩をいからせた戦士、剣を背負った前衛、揃った足取り。ギルドの空気だ。

 

 先頭の男が、掴み合っていた二人の間へ乱暴に割り込み、片手で武闘家の胸を押し返した。怒鳴り声は続いたが、内容までは聞き取れなかった。ただ、勢いだけで場を制圧する種類の声だということはわかった。半狼人の少年は一歩退き、武闘家も舌打ちしながら腕を下ろす。取り巻きの何人かが野次馬を散らし始め、道が開く。

 

 乱暴ではある。だが速い。いまのアキバには、ああいうやり方が必要なのかもしれない、とトーカは思った。

 

 紋章まで確かめる必要はなかった。トーカは視線を引き、角を曲がった。ああいう種類の秩序とは、なるべく早いうちに距離を取っておいた方がいい。

 

 中央通りを離れると、人の密度は少しだけ下がった。それでも静かにはならない。泣き声も、怒鳴り声も、足音も、建物の壁と壁のあいだに残っている。街というのは、音をしまいこむ容器なのだと、トーカは変なところで感心した。

 

 裏通りへ折れたところで、焚き火の匂いがした。

 

 見ると、半ば崩れたビルの一階を使って、誰かが休める場所を作っているらしい。毛布が敷かれ、水桶が置かれ、座り込んだ〈冒険者〉たちの前に、湯気の立つ椀が回されている。どこかの中堅ギルドだろう。給仕に走っている人数からして、大手ではないが、統率は取れている。火にかけられた鍋のそばでは、やかんを持った者が順番に湯を注いでいたし、毛布の端を整えてやっている手つきにも慣れが見えた。たった一晩でここまで形にするだけでも、いまのアキバでは大したものだ。

 

 若い〈冒険者〉が、そこでやっと泣き出したのが見えた。声を殺して泣いている。隣にいた誰かが、その背をさすっていた。

 

 トーカは足を止めた。楽だろうな、と一瞬だけ思う。

 

 食事があり、水があり、毛布があり、人のいる場所がある。それだけで今夜はやり過ごせる。自分ひとりで物資の計算をしなくていい。見張りもいらない。そういう場所に身を置くこと自体を、トーカはこれまでほとんど選んでこなかったが、それでも今は、頭のどこかが「入ってしまえばいい」と囁いた。

 

 だが、その光景を見ているうちに、別の感覚が先に立った。人の声も、息遣いも、泣き声も、匂いも、視線も、何もかもが近い。助け合っているのだとわかるからこそ、余計にそうだった。そこで自分の装備の状態を見て、補修の順序を考えて、次の移動先を決めることを想像すると、それだけで肩が詰まるような気がした。

 

 馴染めない、と言い切るのは早い。実際、あそこへ入れば今夜は少し楽になるのだろう。そうわかっているのに、身体の方が先に拒んでいる。

 

 トーカはその場を通り過ぎた。助けを拒んだつもりはない。ただ、今の自分には、人が近すぎるのだと思った。

 

 裏路地をさらに進み、半ば崩れた雑居ビルの陰に入る。瓦礫に腰を下ろし、ようやく人目から外れたところで息を吐いた。ようやく落ち着ける場所へ入ったのだと感じた瞬間、自分の偏りを少しだけ自覚して、トーカは眉を寄せた。街の真ん中では息が詰まるのに、崩れたビルの陰では落ち着く。性格の問題だけではない。こういう立ち位置を、ゲーム時代から自分で選んできたのだ。

 

 インベントリを開く。意識の奥へ焦点をずらすと、馴染みのある情報群が立ち上がる。包帯や補修用の布、乾燥食、糸と針、研ぎ石、護身用に持ち歩いていた札、そうした細々した物はひととおり揃っている。数が足りないわけではない。だが、現実になった今、それは単なる所持品ではなく、今夜から先をどう生きるかの問題に変わっていた。

 

 街の中で誰かと奪い合うほど貧しくもないが、安心して籠もれるほど潤沢でもない。

 

 トーカは左腰に吊った小さな玻璃球へ、指先だけ触れた。暗赤色の、手のひらほどの器具だ。戦いの主役になる装備ではないのに、ゲーム時代からなぜか捨てずに持ち歩いていた。冷たい。指先に伝わる感触は、少なくともこの時点では普段どおりだった。

 

 トーカはそこでようやく、自分がもう街に残る前提で物を考えていないと気づいた。このあとどうするか。誰に頼るか。どこへ潜り込むか。そういう発想ではなく、外縁に置いていた隠し置きを回収し、数日ぶんを一人で回せる状態に持ち直すことを、ほとんど当然のように計算していた。

 

 東の外縁の森に二つ。沢の近くに一つ。以前、長時間潜るために、補修材や予備の触媒を少しずつ隠しておいた場所がある。大した量ではない。だが、あれを回収できれば、一週間は他人の世話にならずに動ける。

 

 それは合理的な判断だった。そして同時に、最初から共同体に寄らないという意味でもあった。

 

 自分でそれを選んでいる。その事実を、トーカはまだ問題とは思わなかった。ただ、そういう動き方しか思いつかないだけだ、と片づけていた。

 

 気がつくと、外は少し暗くなっていた。街の喧噪は沈んではきたが、静かにはならない。遠くで誰かが喚いている。近くで低い泣き声がする。物が倒れる音も、ときおり混じる。

 

 結局その夜は、崩れた雑居ビルの二階に残っていた半端な空き部屋のような場所で、壁にもたれるようにして浅く身を横たえた。屋根が完全に抜けていないだけましで、床は冷たく、窓も半分割れていたが、人の輪の中で眠るよりはずっと楽だった。それでも、眠りは深くならなかった。街の中は安全なはずなのに、目を閉じるたび、すぐそばに他人の気配があることを意識してしまう。声、咳、衣擦れ、足音、誰かが寝返りを打つたびに軋む床の音。その全部が神経に触った。

 

 夜明け前、空がようやく白み始めたころには、街を出る決心は固まっていた。必要なものを外縁から回収し、それから戻るかどうかを考えればいい。それなら理屈も立つし、当面の生存も自分で握れる。そう考えたとき、トーカにはその選択がほとんど自然なものに思えた。自然すぎること自体に、ほんのわずかだけ引っかかりはあったが、それでも他のやり方よりずっと自分らしいと思えたのだから仕方がない。

 

 装備を整える。旅装の留め具を確かめ、斧の位置を直し、髪を低い位置で括り直す。薄い手袋をはめ、左腰の玻璃球が揺れすぎないことを確認する。街中では目立たないように抑えていた装備の気配が、外へ出る準備を始めた途端、ようやく自分の輪郭へ戻っていく感じがした。

 

 外へ出ると、朝のアキバは夜より幾分ましな顔をしていた。それでも、まだ街は街になりきっていない。秩序というには早く、混乱というには少しだけ人が動き始めている。

 

 昨日、焚き火の匂いがしたあたりには、まだ何人かが集まっていた。どこかのギルドが一晩のうちに最低限の受け皿を作ったのだろう。休める場所があるだけで、人の顔は少し変わる。そこで初めて眠れた者もいるのかもしれない。

 

 トーカは視線だけをやって、すぐに外した。入ろうと思えば、今からでも入れる。そう考えたのは事実だ。だが、そのたびに自分の内部で何かが閉じる。人の輪の内側へ入ることに、理屈より先に身体が拒否を返してくる。そこを無理に押し通しても、長くは続かないだろう。

 

 だから彼女は、振り返らず東の外門へ向かった。

 

 門の外へ出る手続きのようなものはなかった。そもそも、街の守りがどう機能しているのか、誰もまだ把握しきれていないのだろう。外へ出る者もいれば、ぼんやりと門の脇に立ったまま空を見ている者もいる。

 

 トーカは雑踏を抜け、石畳が途切れるところで一度だけ歩みを緩めた。背後には、アキバがある。大災害のあとも、人が集まり、声を上げ、勝手に秩序を作り始める街。そこへ入ることもできた。けれど自分は出ていく。誰に追われたわけでもなく、自分でそう決めて。

 

 門を越えた瞬間、胸の奥の圧迫がわずかに緩んだ。街の匂いが薄れ、湿った風が木の葉の匂いを運んでくる。石畳の硬い響きが土の柔らかさに変わるだけで、吸う息が少し深くなった。街にいるより外の方が楽に呼吸ができるという事実は、自由だというより偏りの証明のようで、トーカはそのことにかすかな驚きを覚えたが、まだそれを悪いとも危ないとも思わなかった。もともとそういうビルドで、そういう遊び方をしてきただけだ。たまたま今日は、世界の方がそちらへ寄ってきただけなのだと、簡単に片づけていた。

 

 東の外縁の森は、朝靄の底でひっそりと待っていた。見慣れた狩場への道。何度も通ったルート。以前の自分が置いた隠し置きが無事なら、必要なものを回収できる。そこまで行けば、少なくとも当面の選択権は手放さずに済む。

 

 トーカは旅装の襟を指先で整え、誰に聞かせるでもなく、口の中だけで呟いた。

 

 アキバにいる理由がない。

 

 そう言い切ることでしか、いまの自分には街の方を振り返らずに済まないのだと、どこかでわかっていた。それが強がりなのか、合理なのか、自分でもまだわからないまま、彼女は歩き出した。背後の街はゆっくり遠ざかり、前方の森だけが、静かに近づいてきた。

 

 アキバの外へ出ると、風の匂いが変わった。

 

 土と草と、夜露の残り香だ。街の中にいたときは、人の体温と煙と埃に埋もれていて気づかなかったが、こちら側の空気には、まだ朝の湿り気が残っている。吐いた息が白むほどではない。それでも、肺の奥へ落ちていく感触は街中よりも明らかに軽く、石畳の上では詰まりがちだった呼吸が、土の上へ出た途端に少しだけ深くなるのをトーカは感じた。

 

 歩きながら、無意識のうちに歩幅が広がる。石畳の上では抑えていた重心が、柔らかい土へ乗った途端に前へ流れる。旅装の裾が脚に沿って揺れ、腰の後ろで斧の柄が小さく鳴った。その程度のことで、自分の輪郭が戻ってくるのだから、つくづく自分はこういう場所で動くようにできているのだと、半ば呆れたような気分になった。

 

 見通しのよい街道をそのまま進めば、東の外縁まではそう遠くない。ゲーム時代にも何度も通った道だ。アキバ近郊の狩場は初心者向けから中級者向けまで密度が高く、そのぶん、夜まで潜るつもりなら引き際と休み方を覚えておく必要があった。トーカは大規模ギルドに属していたわけではないが、ソロで長く潜ることが珍しくなかったので、外縁には二、三か所だけ、自分用の隠し置きを作っていた。大量の物資ではない。包帯や補修用の布、安価な触媒、保存の利く携帯食、護身用に持つ程度の札、そのくらいだ。街へ戻らずに一晩、長くても二晩だけ行動を延ばせる、それだけの継ぎ足しでしかない。

 

 いまになってみれば、そういう備えをわざわざ外に作っていたこと自体、少し行き過ぎていたのかもしれない。だが、切れたら引き返すしかなくなる物を、引き返しにくい場所の近くへ少しずつ置いておくのは、トーカにとってごく自然な発想だった。ソロで潜る人間にとって、補給の遅れはそのまま撤退の遅れになる。

 

 いま、その偏執めいた几帳面さが役に立つ。そう考えると、少しだけ口元が緩みそうになった。状況が解決したわけではないし、元の世界へ戻れる見込みが立ったわけでもない。ただ、次に取るべき行動が、自分の手の届く範囲へ戻ってきたというだけで、人はだいぶ落ち着けるものらしかった。

 

 街道の脇には、折れた標識と、蔦の絡みついた古い電灯が立っている。アキバ周辺の景観は、ゲーム時代からそうだった。旧世界の廃墟を土台に、緑がじわじわと食い込んでいる。崩れた高速道路の脚、割れたアスファルト、ひびの間から伸びる草木。人工物の輪郭がまだ残っているせいで、かえって森の濃さが際立って見えた。

 

 道は覚えている。東の外縁へ入るなら、街道を少し進んだ先で脇へ切れ、浅い沢へ沿う獣道を取るのが早い。ゲーム時代には何度もそうした。モンスターの巡回域と視界の切れを考えれば、街道をまっすぐ進むより危険はわずかに増えるが、移動時間は短い。トーカはその馴染みのある判断を迷いなく選び、道を外れて草を払った。

 

 細い下りへ入ると、土が柔らかい。旅装の靴底が沈みすぎないことを確かめながら、トーカは沢の音へ耳を澄ませた。水音は、以前の記憶より少し近い。地形のせいか、耳の拾う距離が変わったせいか、それとも自分が過敏になっているのか、まだ判別はつかなかったが、違和感を違和感のまま怖がるのは後でいい。いまはまだ、判断を急がない方がましだ。

 

 草むらの向こうで何かが動いたのは、そのすぐあとだった。

 

 トーカは反射で足を止め、半歩だけ下がって重心を落とした。野犬型の敵が二体。アキバ近郊では珍しくない帯域の相手だ。街の中ではずっと息苦しかったのに、こうして索敵している時の方が、よほど頭は静かに回る。人の輪の中でどう振る舞えばいいのかは曖昧でも、敵との距離の測り方は身体の方が先に思い出すのだと、トーカは半ば苦く、半ば安心した。

 

 戦闘前の癖で、短い詠唱をほとんど呼気に紛れさせるように走らせる。自分自身へかける〈ハートビートヒーリング〉。脈動するように持続回復を刻むこの呪文は、森呪遣いとしての彼女の基礎中の基礎であり、ソロに寄せた今のビルドでは、前へ出るための前提そのものだった。街の中で何もせずにいた時は逆に意識から抜けていたが、狩場へ入れば指先と舌が手順を思い出す。

 

 最初の一体が飛び込んでくる。踏み込みは浅い。まだいける。トーカは半歩だけ左へずれた。牙が空を噛む。その首筋へ斧の刃を浅く滑らせるように入れ、すぐに引く。深追いはしない。もう一体が脇へ回る気配を見て、身体を逆へ切る。足裏が土を掴み、旅装の裾が低く払われた。接敵の距離、敵の重心、自分の回避幅、その全部が街の中よりずっと明瞭にわかる。

 

 最初の一体が再度飛び込むより先に、トーカは半身になって斧の柄を差し込み、顎の下を押し上げるようにして体勢を崩した。引きずられるように前へ流れた個体へ、刃を短く叩き込む。二体目は横から噛みつこうとして失敗し、逆に近すぎる距離へ入りすぎた。ならば都合がいい。トーカは一歩踏み込み、肘で押し返しながら喉元へ刃を返した。骨を割る感触は、画面越しの手応えよりずっと不快だったが、その不快さがかえって迷いを消してくれた。

 

 戦闘は短かった。二体の残骸は、光の粒になって消えたりはしない。湿った土の上に、現実の獣に似た死骸として崩れる。その一点だけが、どうしてもまだ慣れない。だが、動きそのものは問題なかった。〈ハートビートヒーリング〉の脈動も正常だ。斧の取り回しも、位置取りも、少なくともこの程度の相手ならまだ身体がついてくる。

 

 勝てる。その確認だけで、胸のあたりが少し軽くなった。アキバの中ではうまく呼吸もできなかったのに、狩場ではまだ自分のやり方が通じる。その事実は、思った以上に大きかった。

 

 沢沿いの道は、そこから先でさらに細くなる。旧世界のコンクリート片が土に半ば埋まり、低木と蔓がそれを覆っている。見覚えのある景色だった。記憶と現実の重なり方に、まだ大きなずれはない。トーカはそう判断して歩を早めた。

 

 最初の隠し置きは、この先の高架脚の陰だ。かつて崩れた道路の残骸が、そのまま東へ伸びきれず地表へ沈んでいる場所がある。その下のわずかな空間に、小さな防湿袋をひとつ押し込んであった。中身は補修材、乾燥食、予備の包帯、それに安い触媒。こういうものが一つあるだけで、一晩の行動半径は大きく変わる。

 

 高架の影はすぐに見つかった。ただ、近づいた瞬間、トーカは足を止めた。蔓が増えている。以前から植物がまったく無かったわけではない。だが、高架のひびを這っていたはずの細い蔓が、今は妙に太く、垂れ下がるように陰を埋めていた。そこだけ湿気が濃い。腐葉土の匂いに混じって、熟れすぎた果実のような甘い匂いがわずかにある。

 

 嫌な匂いだった。

 

 トーカはしゃがみ込み、蔓を避けて手を差し入れた。指先が防湿袋の縁に触れる。回収はできる。だが、その瞬間、左腰に吊った暗赤色の小さなガラス玉が、かすかに熱を持った。

 

 反射的に手を引く。熱い、といっても火傷するほどではない。けれど、いつもなら冷たさしかない器具だ。体温を吸うような冷え方をするのが常で、それがこの魔法具の安定でもあった。こんなふうに、内側からじわりと温度を返してくるのはおかしい。

 

 トーカは周囲を見回した。何もいない。沢の音。風。葉擦れ。遠くで、先ほどの野犬型とは別の敵が動いた気配があったが、こちらへ寄ってくる様子はない。ならば土地の側の問題か。そう考えて、もう一度手を伸ばす。今度はガラス玉のことを意識の端へ置きながら、防湿袋を引き出した。表面には泥と湿りがついているが、中身は無事らしい。留め具も外れていない。

 

 その場で中を確かめる。乾燥食、包帯、補修布、金属片、簡易触媒。数は減っていない。ほっとしかけて、そこで指先が止まった。袋の底に、見覚えのない薄い赤茶の粉が溜まっている。土にしては細かすぎるし、錆にしては色が明るい。以前の自分が入れたものではないと、トーカは断言できた。こういう細かい管理だけは忘れないようにしていたからだ。

 

 布の端でその粉を軽く拭い取る。匂いはない。少なくとも血ではない。ただ、見覚えもない。

 

 袋を閉じてポーチへしまい、もう一度だけガラス玉に触れる。熱は少し引いていた。気のせいではない。だが、いまこの場でそれ以上の答えは出ない。トーカはそう判断して立ち上がった。

 

 隠し置きが無事だったのは収穫だ。未知の粉とガラス玉の熱は気にかかるが、それでも得るものの方が大きい。残りの隠し置きも回収できれば、今日外へ出た意味は十分にある。

 

 歩き出そうとして、ふと沢の方へ目を向けた。水面が見える。浅い流れだ。日が上がりきっていないせいで、光はまだ白い。その水際に、赤い花びらのようなものが何枚か落ちていた。

 

 この辺りに、ああいう花はあっただろうか。

 

 記憶を探る。思い出せない。外縁の森に珍しい草花がないわけではないが、少なくとも自分の隠し置きの近くで見た覚えはなかった。近づくべきか、一瞬だけ迷う。だが結局やめた。今日の目的は観察ではなく回収だ。いまは必要なものを取り戻し、街へ戻るかどうかを決める材料を増やす方が先になる。

 

 トーカは沢から視線を切り、次の隠し置きへ向かって歩き出した。背後で水音がわずかに近づいたように聞こえたのは、聞き間違いだと片づけるには少しだけ近すぎたが、それでも彼女は振り返らなかった。

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