目が覚めた。
薄明るい。それが最初に分かったことだ。暗闇ではないが、どこかに光源があるわけでもない。ただ、全体がぼんやりと白く見える。
床を見た。踏みしめると僅かに沈むような、しかし沈みきらない感触だ。少し足を取られそうな感覚はあるが、充分歩ける。
自分の手足を見てみる。ボンヤリとしか分からない。こんな黒い服と靴持ってったっけ?。そう言えば、この場所に来た記憶がまずない。そして、自分の名前が出てこない。
不思議なことに、焦りや驚きはあまりなかった。とりあえず、暫く歩き続けた。時間の感覚もない。腕時計があるかと思って左手首を見たが、何もなかった。そもそも今どんな顔をしているのだろう。鏡もない。何も解らない。
10分ほど歩き続けたころだろうか。突然、目の前に何かが現われた。ボタンだった。台座らしきものの上に置かれており、大きさは自分の拳くらい。非常ベルのボタンくらいの大きさだ。赤色に見える。なぜだかは解らないが、躊躇することなく「私」はそのボタンを押した。
目の前の空間に切れ目が入った。それはみるみるうちに広がり、気づけば目の前に四角い光の枠が浮かんでいた。縦横それぞれ1メートルほどだろうか。空中に浮かんでいるように見える。
私はおそるおそるその窓の縁に手をかけた。縁はびくともしない。そのまま体重をかけ、窓の中を覗き込んでみた。どこかの家の食卓が見えた。30代くらいの女性と、娘と息子が1人ずつ、計3人。夕食を食べながらいろいろなことを話している。笑い声が絶えない。楽しそうな風景だが、父親はいないようだ。
誰だろう、この人たち。
特にすることもない。暫く眺めてみることにした。
莉子と陽介は、毎朝殆ど同時刻に起きるが、降りてくる時間は全然違う。
先に1階に降りてくるのは常に莉子だ。朝の動作は完全にルーティンになっていて、起床後きっかり45分で家を出る。高2になった莉子だが、化粧の気配はなかった。眉をちょっと足すだけだ。
対照的に、2つ年下の陽介はのんびり降りてくる。中学校の始業時間は莉子の通う正側高校より早いにもかかわらず、だ。男の子というのは行き当たりばったりだ、と雪子は毎朝のように思う。
親子の会話もそこそこに、莉子は出支度をして玄関に駆けていった。見送る雪子に「行ってきます」と言ってから、莉子は玄関で一度だけ振り返った。
「今日はアタシが晩ご飯だっけ?」
「そうね。ありがとう」
莉子は少しだけ首をかしげ、雪子の顔を覗き込む。ほんの一瞬だ。これも莉子の「ルーティン」だった。12年前のあの日以降、莉子は常に雪子の顔を覗き見るようになった。雪子が「気をつけてね」と言うと、莉子は小さく頷いて扉を閉めた。
陽介はその3分後に台所に飛び込んできた。
「間に合わないわ。2限休みにパン食うわ。これ持ってくね~。今日部活あるから遅い」
「ちゃんとご飯食べなさい」
「時間ないんだってば。晩ご飯要らないかも。行ってきます!」
勢いよく扉が閉まる。その勢いで下駄箱の扉が少しだけ開いた。
雪子は下駄箱を閉めながら、奥にある寛太の革靴に目をやった。残してあるのは一足だけだ。焦げ茶色のスエード生地、つま先が少し傷んでいる。結婚してすぐに寛太が買った靴だった。殆どのものを処分したはずが、どうしても棄てられないものがある。この革靴はそういうものの1つだった。
9時半。雪子はスマホでLINEを開き、トーク欄から「夏美先生」にメッセージを打った。今送っておけば、2限の後の休みには見てくれるだろう。文面を二度書き直した。最終的に送ったのは短い一文だった。
「少しお話ししたいです」
返信は1時間後だった。やはり、2限の休み時間だ。
「土曜の午後、駅前のルノアールでいかがですか」
「ありがとうございます。伺います」と返した。
夏美先生に会うときは、いつも少し気後れする。だけど、定期的にどうしても話を聴いてもらいたくなる。
雪子はスケジュール帳を取り出した。大学生の時から毎年同じスケジュール帳を購入し保管している。本棚の隅に、10数冊のスケジュール帳が並んでいた。
1時間後、母から電話がかかってきた。いつものように、とりとめもなく話す。父の話を意識的に出しているのが分かる。雪子はスピーカーホンにして殆ど相づちを打つだけだ。話に取り合うことはない。
今日の電話は20分で終わった。仕事休みの日は特に伝えていないのに、狙ったかのように母は電話をしてくる。
昼食の後、LINEに着信通知が入った。竜朗さんだ。
「ご無沙汰しています。少し気になる話が入りました。一度お会いしませんか?」
雪子は、来週末にならないと予定が取れないことを返信した。短いやりとりがいくつかあり、会う約束をした。
特に要件がなくても、竜朗は定期的に連絡してくる。竜朗と知り合って11年半になる。寛太の上司だったと名乗る竜朗を、雪子はかなり警戒していた。だが寛太の失踪後、完全に崩壊していた雪子の精神を支えてくれたのは竜朗だった。
彼は同じくらい寛太の失踪を悲しんでいた。詳しい話はしないが、失踪直前に寛太と諍いがあったらしい。自分のせいだ、と彼が思っていることは明らかだった。
12年。ともすれば起こったこと全てを忘れそうになる月日だ。竜朗はそれをつなぎ止めようとしているかのように見える。
陽介は20時過ぎに帰ってきた。食事をしていないというので、ブツブツ言いながら莉子と雪子は陽介の分の夕食を急ぎ準備し、結局3人で一緒に食べた。
食事をしながら、雪子はリビングのテレビをボンヤリと観ていた。バラエティ番組、ひな壇にたくさんのタレントが出ている。女装した連中だ。あれだ、昔はホモとかオネエとかそんな言い方をしていたけど、今はなんて言うんだっけ。
唐突に莉子が話しかけた。
「お母さんー、また眉間にしわが寄ってる~」
陽介がゲラゲラ笑っている。
「しょうがねえじゃん。雪子はこういう奴ら嫌いなんだからさ~」
「雪子じゃないでしょ!お母さんって言いなさい!」
雪子は声を張り上げた。図星だったからかもしれない。莉子が笑いながら続ける。
「そうだよ~、雪子なんて言ったら、寛太さんが怒るよ~」
「こら!」
莉子は、いなくなった父親のことを「寛太さん」と呼ぶ。いつからかは覚えていない。失踪時5歳だった莉子に、寛太の記憶は朧気にしかない。陽介に至っては、写真や動画で残っている姿しか知らない。父親を「寛太さん」と呼ぶのは、莉子なりのリスペクトなのかもしれなかった。
3人で終始笑いながら、夕餉の時を過ごした。
食器を洗いながら、雪子は今日一日のことを考えた。いろんな人から連絡があった、考えることが多い。陽介の塾をどうするかまだ決めてないなあ、どうしよう…
いつしか食器を洗う手は止まっていた。その時、頭の中に声が響いた。
『寛太さん?』
莉子は思わず振り向いた。誰かが後ろで話しかけたような気がしたのだ。全く知らない声だ。もちろん、後ろには誰もいなかった。余りにもハッキリした声だった。
冷や汗が出てきた。今日は早く寝よう。
寛太さん。その名前に、間違いなく聴き覚えがあった。なぜか切ない感じもある。窓の向こうで洗い物をしている女性。雪子というのか。この人のいなくなった夫が寛太。娘さんがそう呼んでいた。思わず口に出して言っていた。寛太さん。
その瞬間、窓の向こうの雪子が振り向いた。凄い形相だ。暫く辺りを見回している。私の声が聞こえたのか?訳が解らなくなった。フラフラと、窓の前を離れた。少しだけ歩いてみた。また目の前にボタンが現われた。さっきまではなかったはずなのに。今度は青っぽいボタンだ。もちろん、押してみた。
目の前に違う窓が現われた。覗き込んでみる。今度はどこかのビルだ。会社のオフィスだろう。オーダースーツにチーフを決め、短めに刈り込んだ銀髪と、濃い緑縁のメガネが特徴の男性が歩いていた。歳の頃は40代中盤だろうか。まだ若いのに、随分頭が白い。