水上透。
全てをハッキリと思い出した。私の名前。そうだ。私は寛太さんと付き合っていた。もともと、女性には興味を持てなかった。ずっと男性が好きだった。寛太さんは、その中でも私の最愛の人だった。だから、奥さんと子供さんもいるというのが信じられなかった。 胸が苦しい。手足が冷たくなってくる感覚がある。
私は死んだ、と夏美先生は言ってたな。じゃあ、いまここにいる自分は何だ?ここで感じている胸の苦しさとか、手足の冷たさとか、これは実際に起こっていることなのか?そもそも、私は存在しているのか?
私はフラフラと立ち上がった。腕をつねってみようと思ったが、できなかった。感覚はあるのに、自分の体をそのものとして認識が出来ない。
その時、気づいた。5つめの窓が浮かんでいる。30mくらい向こうだ。思わず駆けだした。窓の向こうに、男性の後ろ姿が見える。窓から身を乗り出さんばかりになって、その人の姿を見た。どこかの景色が見える。湖と、遠くにうっすらと山も。多分、日本じゃない。そして、かすかに見覚えのある小柄な男性の後ろ姿。
間違いない。少し丸まった背中に、丸みをおびた顔の輪郭。うっすらと生えたあごひげ。もちろん、いつも見せていたあの柔らかい笑顔。髪の毛は天然パーマでくしゃくしゃだった。余り身なりに構わない人でもあった。私自身がこよなく愛していた、その一つ一つを忘れるわけがない。
暫く眺めたあと、窓に背を向けた。彼に話しかけてはいけない。
私はもう一度、融合した大きな窓の前に戻った。今伝えるべきことはこちら側にある。向こうじゃない。私は窓に向かって、ゆっくりと話しかけた。
雪子、竜朗、真悟、夏美。
4人は同時に真上を見上げた。そして、目を見合わせた。
「…聞こえますね」
「聞こえます」
竜朗は目の前のメモパッドに何かを書き付けていた。声が途絶えたようだ。竜朗はメモを読み上げた。
「…どこかの外国。山を背にした湖のほとりに、寛太さんがいます」
また声が聞こえる。竜朗がメモを取る。途絶える。それを読み上げる。
「湖というか、大きな池のような場所…」
「山はそんなに高くありません。多分、暑いところにいると思います…」
「…周りにいる人も、アジアの人っぽい…」
「寛太さんを…さがして…」
やりとりは5分ほど続き、残りの3人はじっと聞いていた。声が完全に途絶えてから、竜朗は全員を見渡した。
「声の内容を信じるとして、ですが。寛太さんが東南アジアのどこか、おそらくはホーチミンかその近郊にいることは間違いないと思います。ただ、この情報だけではまだ雲を掴むようだが…」
真悟はじっと考えていた。そして、発言する。
「寛太おじちゃんって、メモを取る癖がありませんでした?」
雪子と莉子が目を見合わせた。雪子が答える。
「うん。良くポストイットに何かを書き付けて、それをノートや書類に貼り付けてた。いわゆるメモ魔だった。大事なこともそうでないことも、とにかく書き付けてたわ」
「あんまり自信はないけど、寛太おじちゃんがいるところって、前から行きたかったところじゃないですか?それをメモに残しているとか、そんな可能性はないですかね?」
「うーん…」
雪子は考え込んだが、陽介が促す。
「帰っていろいろ探してみようよ。ダメ元でさ」
「良ければ我々もお邪魔して良いですか?」竜朗が提案する。上島家3人が先に戻り、家を片付けてから残り4名が訪問することになった。
部屋を出る間際、健司が夏美に話しかけた。
「あの、皆さんが聞いた『声』の主って…」
夏美は、ハッキリとした口調で答えた。
「ええ。透さんだと思います。間違いありません」
上島家に集まった7名は、寛太の残した部屋で書類を探していた。
警察の捜索過程で、寛太の遺留していたものは完全に調べられていた。当時の書類は殆ど返ってきてはいたが、普通に仕事の書類ばかりだった。寛太は日記のようなプライベートの記録を残さない人だった。もちろん寛太が所有していたノートPC内のHDDや外部記録媒体も徹底的に調べられていたが、失踪先のヒントとなるようなものは何も見つかっていない。書類を探し始めてから、ゆうに2時間半は経っていた。
「…やっぱり、難しいのかな」真悟が書類をめくりながら独りごちた。
「うーん…」
莉子は書類を受け取って、元あった棚に戻そうとした。手元を誤り、隣の棚に書類をぶつけてしまった。ノートがバラバラと床に落ちた。
雪子のスケジュール帳だ。莉子はそれを棚に戻そうとした。
その時、不意にある記憶が浮かんだ。
確か、莉子が4歳の時。当時莉子が大好きだったシルバニアファミリーのハウスセットを、両親がクリスマスプレゼントでくれたことがあった。もちろん、当時の記憶としては両親からではなく、サンタさんからとして残っているが。
莉子は文字通り飛び跳ねて喜びながら、ハウスの小さな扉を開けた。その時、内側にメモが挟まっているのを見つけた。濃いめの字体で書いてあった。
「めりー くりすます りこちゃん」
莉子は既に平仮名を読むことが出来た。だから、この内容をハッキリと覚えている。今思えば、あれは間違いなく寛太さんの字だった。父が失踪してから数年間、意識することなく記憶から封印していたあの出来事が、目の前で再生されるかのように目に浮かんだ。
「…スケジュール帳だ!」
莉子はスケジュール帳に飛びついた。寛太のいなくなった年、2013年の確か夏ごろ。その前のあたりのページを次々にめくった。
3月のページを開いたとき、それは見つかった。名刺大の小さな台紙に、少しだけ糊の後がある。あの日見たメモと同じような筆跡で、あまり色あせることもなく。メモにはこう書かれていた。
Tri An
Dong Nai省 Dinh Quan
HCMから車2時間
莉子と陽介、舟。小さなボート
全員がそのメモを覗き込んだ。真悟が素早くタブレットを取り出す。検索サイトを開いて、書いてある名前を調べてみる。
「これじゃないですか?チュアン貯水池、かな。Tri An Lakeで出てきます」
検索サイトには写真もあった。
「この写真見てください。後ろの方に低い山も映ってます」
「川に面した山だね」
莉子と陽介が、思わずハグし合っていた。雪子はメモを食い入るように見つめていた。
「これって、寛太さんが私に見つけられるように…」
「そう!寛太さんってサプライズ好きだったんだよ。クリスマスプレゼント、シルバニアファミリーの時にやってくれた。それを思い出した!」
寛太は、この湖で莉子と陽介をボートに乗せてくれようとしていた。私がこのメモを見つけるのを、多分ずっと楽しみにしてたんだ。また、雪子は涙が止まらなくなった。
竜朗はメモの筆跡を見ながら、内ポケットから万年筆を取り出した。このところずっと持ち歩いている、寛太の万年筆。メモの下に一本だけ横線を引いてみた。多少の色の違いはあれど、同じ輪郭の線が浮かび上がる。
竜朗も、溢れる涙を抑えられなくなっていた。
「…寛太、今度こそ見つけたぞ…」
夏美は少し離れた場所に立ち、静かに微笑みながら彼らを見ていた。透さん、あなたが伝えたかったのはこういうことかしら。横を見ると、健司が号泣していた。真悟が健司を振り向く。
「だから、なんでお前が泣いてるんだよ!」
「だって、こんないい話他にあるかよ!」