作:しろたく

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竜朗

 竜朗がオフィスに来たのは4日ぶりだった。早朝、ホーチミンから帰国したばかりだ。

 墨田区の小さめのビルにオフィスを構えて、もう7年になる。一応社長室はあるが、彼がその部屋にいることは殆どない。いつものように8時半には出社し、フロアーを歩き回りながら社員たちに声をかける。

 原が声をかけてきた。最近伸びてきた中堅小売店との商談が進んできているらしい。

 「…もう少しラインナップに幅がほしいな。インナー系は何SKUある?」

 「今のところ10です」

 「レフインナーで4SKUは増やせるだろう。バイヤーは最近最上君が中心になったんだったね」

 「そうです。取引額も2億山積みできそうだと、この間話が出てました」

 「分かった。直接最上君とやりとりして。先方の社長にアポ取るよ」

 「ありがとうございます!」

 原はニッコリ笑って、自分の席に戻っていった。確か彼は28歳だったな。随分仕事を任せられるようになった。細面だけど童顔、中性的で人なつっこい原の姿を、竜朗は自ら気づかないうちに目で追っていた。

 原がやや遠くから自分の目線に気づいた。彼はもう一度微笑み、軽く会釈をしてきた。竜朗は少し顔が赤らむのを感じた。軽く右手を挙げてから、社長室に入った。

 雪子さんに連絡をしなければならない。数年ぶりに、手がかりが見つかった。スマホを開き、雪子と短いやりとりを行なった。来週末に時間を取ってもらうことにする。

 椅子に座り、テーブルの上を見やった。右端にあるペンケースの中に、やや無造作に万年筆が一本入れられている。署名の入った、寛太の万年筆だった。寛太と最後に会った日、竜朗はこの万年筆を路上で拾った。それ以来、万年筆はずっとペンケースの中に刺さったままになっている。

 

 「社長が社長室にいるなんて珍しいね」原の同僚、君嶋加代が話しかけた。

 「そうだね、お疲れなんだろう。今朝ホーチミンから帰ってきたみたいだし」

 「何か原君と遠くから挨拶してたよね。仲いいね」

 「そういうわけでもないけど…」

 原は少しだけ首をかしげてから、最上との打合せに入った。

 

 竜朗はこの日、珍しく早めに帰宅した。溜まっている家事を片付けたいし、多少はゆっくりしたい。夕食を終え、近くのジムで軽く汗を流してから、ハイボールとつまみを片手にリビングに鎮座した。

 何をするでもなくチビチビと呑んでいると、嫌が応もなくあの日のことを思い出してしまう。今日は雪子と連絡を取った。そうなるともうダメだ。頭の中を、いつまでもあのときの会話が巡ってしまう。鮮明な絵とともに。

 今思えば、なんであんな場所で話をしたのか。寛太の自宅から数分の距離にある公園、その横の路地で立ち話となった。見たこともないような切迫した表情で寛太が行なった告白、竜朗はその内容に自分でも驚くくらい動揺していた。自然と、言葉遣いも強くなる。

 「…今お子さんはいくつだ?」

 「5歳と3歳です」寛太は終始うつむき加減で話していた。

 「まだまだこれからじゃないか。お子さんを棄てることになりかねないんだぞ」

 「はい、だけどこのままじゃ…」

 「今まで何とかやれて来たんだったら、このまま黙ってやっていく方法もあるだろう」 「そりゃそうです。ずっと考えてきたんです。黙ってる方が良いに決まってます。だけど、もうなんか耐えられなくなってきたんです!」

 寛太が声を荒げた。その様子に、竜朗自身もヒートアップしてしまう。

 「それはあなたのワガママだろうが!…」

 その後に、決定的な一言を放ってしまった。あのときの寛太の絶望的な表情が、12年間片時も頭から離れない。うっすらと涙を浮かべ、俺を見上げてきた、あのときの目。

 

 「寛太、いつまで隠れてるつもりだ?」

 竜朗はひとりごちた。寛太はいなくなったが、亡くなっているとはどうしても考えたくなかった。どこかに隠れている、と自らに言い聞かせてきた。酔っ払ってきたな。やたらと独り言が増えてしまう。竜朗はキッチンに向かった。

 氷をかき回しているとき、不意に目の前から誰かが話しかけてきた。

 『寛太さん、どこにいる?』

 竜朗は目をしばたたいた。もちろん、目の前に誰かがいるはずもない。

 いかん。朝海外から帰ってきて、そのまま仕事してりゃ疲れも溜まる。あんまり呑みすぎてもダメだな。そう思いながら、竜朗は濃いめのハイボールをもう1杯作った。

 

 10日後、雪子との約束の日に、竜朗は身支度をしていた。

 竜朗は雪子が何度固辞しても、食事をしながら話して全額払った。「おカネだけはありますから」と冗談めかして言うことで、雪子の罪悪感を拭っていた。

 今回はさらに特別だ。寛太に繋がる情報が、数年ぶりに見つかった。もちろんぬか喜びに終わらないように、慎重に伝えるつもりだ。ジャケットの内ポケットに、寛太の万年筆を差し込んだ。昨日、オフィスから何となく持ち帰ってきていた。お守り、かな。

 竜朗はもう一度身なりを姿見でチェックしてから、家を出た。

 

 この人も「寛太さん」を知っているのか。私の中で、寛太さんが少しずつその姿を取り始めた。小柄で、ちょっと丸顔で、少しだけあごひげを生やしていて、気弱そうだけど優しい笑顔の持ち主。

 胸の奥がわずかに疼く気がする。自宅でハイボールを飲む「社長」は、寛太の名前を独り言で呟いていた。雪子さん、と言う人に会いに行くようだ。この人にも、話しかけたら声が届くのか?

 今度は落ち着いて話しかけてみた。社長と呼ばれていたこの人は、雪子のようにビックリしていない。ちょっと目を見開いただけだ。それ以上に何の反応もなかった。聞こえているようだけど、それ以上は何もない。

 夢中で眺めていた2つめの窓の、さらに3メートルほど向こうに、いつのまにか3つめのボタンが出現している。黄色のボタンだ。私は迷わず3つめのボタンを押した。窓が現われる。またどこかの家だ。今度は高校生の男の子か?背の高い男の子だった。

 

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