雪子との約束の日。夏美は30分ほど早くルノアールに着いていた。
座る席は、空いていればいつも決まっている。入って左へ3つめ、2人がけ窓際のテーブル席だ。通りの光景がよく見えるこの席を、夏美はことのほか気に入っていた。店員も手慣れたもので、二言三言声をかけた後すぐに注文を取った。
最近、美容院を変えた。この歳になると、何かを変えるには小さな努力を伴う。夏美はほぼ10年ぶりにショートカットにしてみた。白髪が大半を占めているが、染めたりする気にはならない。おととし亡くなった夫は、ショートカットを余り好んでいなかった。だけど、今ならば気分は少し別だ。
お気に入りの銀縁の老眼鏡をかけ、カバンの中から3日前に読み始めた文庫本を取り出し、開いた。何ページかめくるが、全く頭に入ってこない。目線が文字の上を上滑りするだけだ。そう言えば夫は電子書籍にしろとよく言っていたな。キンドル?とか何とか。だけど、やっぱり本は紙で持っていたい。
注文したホットコーヒーが到着する。いつも通りブラックだ。コーヒーを少し啜りながら、夏美は手に取ったばかりの文庫本をテーブルに置いた。窓の外を眺め、行き交う人たちを何となく観察してみる。
待ち合わせの14時5分前に、雪子が店内に入ってきた。
「先生、お待たせしてすみません」
夏美は少し微笑みながら「さっき来たところよ」と応じた。コーヒーが半分減っているので、さっき来たばかりでないのは明らかだが、まあいい。
雪子はミルクティーを注文した。
「…莉子ちゃん、部活にはもう慣れた?」
「はい。私のほうが心配してたんですけど、本人は全然楽しそうで…」
莉子と陽介。雪子の2人の子供に、夏美はまだ会ったことがない。だが、こうやって雪子から話を聴くたびに、夏美はまるで自分の孫の話を聞いているような気分になってくる。
女性同士の話はとりとめがない。雪子はいつになく饒舌だった。
「…それで、お母様からお電話はあったけど、お父様とはお話ししてないのね?」
「ええ。毎回話す努力をしようとは思うんだけど、どうしてもその気にならなくて…」
ひとしきり話した後、雪子は一息ついた。殆どなくなっているミルクティーのカップを両手で挟みながら、話を切り出す。
「寛太さんがまた夢に出てくることが多いんです」
「ええ」夏美は本格的に聞く体制に入る。
「今までは、何だかんだ夢の中でも話をしてるんです。大きくなった陽介と遊んでいるとか。夢だとまあよくあるじゃないですか」
「だけど、最近はただ向こうを向いているだけなんです。後ろ姿が見えるだけで」
「同じような夢を、一月に何回も見るようになっていて…」
カウンセリングに行ってみてはどうか、という言葉を、夏美は呑み込んだ。もちろん自分はこういった話の専門家ではない。雪子が、ただ話したくて話していることはよく分かっている。
雪子が、かなり躊躇った後にこう切り出した。
「バカなこと言ってる自覚はあるんですけど、寛太さんが見つかるんじゃないかって。私に何か伝えようとしてるんじゃないかって、そんな気がするんです」
「…そうね。可能性はある」
夏美は、小さく頷くことしか出来なかった。
気づけば1時間半ほどが経過していた。
「すみません、陽介が少し早く帰ってくるから戻らないと」
「そうしてあげなさい」
雪子は伝票を持って立ち上がった。
「先生、いつもありがとうございます。甘えてしまってばかりで、ごめんなさい」
「いいんですよ」
夏美は微笑み、立ち上がって雪子を見送った。
雪子が店を出た後、夏美は窓の外を見る。雪子の後ろ姿が商店街に消えていく。コーヒーの残りはとっくに冷め切っていた。夏美も程なくして店を後にした。
月曜日。夏美は8時30分には研究室にいた。午前中は自分1人だ。室内灯のスイッチを入れる。相変わらず雑然とした部屋だ。書類や書籍が溢れているのは常として、歴代の研究生たちが使ってきたドリップ式のコーヒーメーカーが流しに置かれている。指導講師や研究生の写真が、何枚か無造作に飾られている。
ゼミ生の1人、利香子がノックして入ってきた。
「先生、共同体における規範考察のレポートでご相談が…」
「どうぞ」
利香子はことのほか熱心な生徒だ。この日も1時間近く、レポートの内容を一緒に検討した。
「母集団のサンプル数は充分ですが、この推論部分の検定値は1を超えていて…」
「だけど、外れ値のパーセンテージもそれなりにあるね。どう思う?」
「単なる外れ値とすると、逆に分散の信頼性が下がってしまって…」
ある程度結論が出た。利香子は満足げな表情で夏美に語りかける。
「先生、どうもありがとうございました!」
「いいんですよ」
答えてから夏美は気づいた。雪子にも、同じ返事をしていたな。
一息入れよう。年代物のコーヒーメーカーに豆を入れ、手回しで挽き、ポットをセットする。お湯が少しずつ落ちていく。香ばしいコーヒーの香りが拡がる。
その奥にふと目をやる。歴代のゼミ生の写真。その奥の方の1枚。視界に入るといつも反射的に目をそらしてしまう。だが、今日夏美はその写真をじっと見つめていた。
夏美先生。早川夏美先生だ。
この人は分かる。この人のことは知っている。窓の向こうから、コーヒーの香りが漂ってきた。他の窓からはこんなことはなかったのに。私はこの部屋を知っている。この部屋を訪ねたことがある。何回も。
奥の方に飾られている写真を見ようとした。その時、視界がぼやけた。誰が映っているのか、全く分からない。夏美先生以外、ちゃんと見えない。
話しかけられるだろうか。
夏美の記憶は常に鮮明だった。自分でも、記憶力がいい方だという自覚がある。あの子が初めてこの部屋に来た時も、コーヒーの香りが立ちこめてたな。
あの子は真面目な学生だった。社会学専攻に進んだ。マイノリティ研究に特に熱心だった。成績は悪くなかったが、ゼミの中では目立たない存在だった。ただ、2人になるとよく喋る子だった。利香子とは違う積極性がある。いつしか、研究室で2人になるときは長く話し込むことが多くなった。
その話は突然切り出された。多分、誰かに聞いてもらいたくてしょうがなかったんだろう。付き合っている人がいる。実は最近、その人に妻もいてお子さんも2人いることが分かってしまった。だけど、どうしても気持ちを抑えられない。相手の人も、その事に凄く苦しんでいる。
夏美はただ話を聞いた。助言を求められても「とにかく話を聞かせて」としか言わなかった。賛成も反対も述べなかった。
あの子にとっては、それ自体が初めての経験だったのかもしれない。恋人との思い出を楽しげに語るときもあれば、苦しんで涙ながらに語るときもあった。「小柄で、笑うと目が細くなるんです。そんなところが好きで」なんて言ってたな。自分は何の惚気を聞かされてるんだろう、と思ったこともあった。
3回生になったころだろうか。顔面蒼白になったあの子が、部屋に入ってきて夏美に一言だけ告げた。
「彼、いなくなっちゃったんです」
程なくしてあの子はゼミを退会し、研究室に来ることもなくなった。卒業するまで、廊下で数度すれ違うだけになった。夏美はいつも話しかけたが、あの子はうつろな笑顔を見せるだけになっていた。会うたびに、目に見えて憔悴していた。そのまま卒業式を迎え、連絡を取ることもなくなった。
あの子が自ら命を絶ったことを聞いたのは、たまたま別のゼミ生から耳に入った。卒業から2年後のことだった。
出来上がったコーヒーに口をつけながら、夏美はもう一つのことを思い出していた。
雪子はあの子の2つ上のゼミ生だった。在学中、彼女との接点は多くはなかった。卒論やレポートの指導は行なっていたし、懇親会の場などでも付き合いはあった。22歳の時に、学生結婚をしたと言うことは聞いていた。
卒業してから偶然会ったOB会で、雪子が「話がある」と言ってきた。そして、涙ながらに自らの苦境を語った。夫が失踪したこと。5歳と3歳の子供が残されていること。どうしたら良いのか分からない。警察に捜索願は出しているが、手がかりが何もない。雪子と親御さんとは、関係が良くない…ということは何となく聞いていた。だから、ある意味中立的な立場の自分に声をかけてきたのだと思う。
夏美はその話を聞いてから、胸騒ぎが止まらなかった。時期的に完全に重なるのだ。まさか、な。とは思った。疑念を払拭したい、あるいは確かめたいという思いから、夏美は雪子にときどき連絡を取るようになっていた。
夏美ははっと気がついた。15分くらい考え込んでいたらしい。出来上がったコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。
保温器にコーヒーを戻しながら、夏美はなおも考えた。「寛太さん」とあの子との関係、いずれは伝えなければ。雪子自身が今のループから抜け出すには、多分それしかない。
3限の時間だ。夏美は研究室を出た。
私は夏美に話しかけた。叫んでいたと言ってもいい。
私は誰だ。だいたい、ここはどこなんだ。窓から人の生活を眺め見ること以外、出来ないのはなぜなんだ。夏美は何の反応も示さなかった。音も聞こえるし、匂いまで伝わってくるのに。私は疲れ果てて座り込んだ。唯一知っている人なのに、話しかけることが出来ない。なぜなんだ。
気づけば、4つの窓が目の前にキレイに横に並んでいた。そうか、全部並べて一斉に見ろと言うことか。私は窓から3mほど離れて立ち、それぞれの窓を見つめていた。やがて、2つの窓が同時に2人を映し出した。この女性は雪子さん。もう一人は「社長」と呼ばれていた人だな。