6限終了後、真悟は健司をムリヤリ説き伏せて、C組の莉子を訪ねた。
「何だよ、お前1人で行けよ」
「いきなり1人で行ったら不審がられるだろうが。頼むよ」
2人はおずおずとC組に入った。莉子は帰り支度を始めているところだった。
「…ごめん。上島さん、だよね?」
莉子は不審そうに2人を眺めた。
「俺、A組の五十嵐。五十嵐真悟。こっちは健司。いきなりで申し訳ないんだけど、ちょっと話できるかな?」
莉子は真悟のことをほぼ知らなかった。A組にいる、程度の認識だ。だが、2人の神妙な様子に押され、食堂で話をすることになった。
真悟はかなり躊躇いながら切り出した。
「…正直、怪しまれると思うんだけどさ。上島さんのお父さんって、名前を寛太さんって言うよね?で、お母さんが雪子さん。そうだよね?」
「…何で知ってるの?」莉子の不審な目つきがますます高まる。
「ごめん、そう思うよな。俺、寛太おじちゃん(敢えてこう言った)と昔芦名公園でよく遊んでもらっててさ。多分、上島さんと弟さんも一緒だったと思う」
莉子の表情が変わった。真悟を見つめながら、しばし考え込む。
「…あ、そうか!えっと、真悟ちゃんだ。そうだ!思い出した!」
莉子が大きな声を上げたので、食堂にいた数名が振り返って3人を見た。健司も一緒にびっくりしていた。真悟は1人おかしさを感じた。
「寛太おじちゃん、急に公園に来なくなって、それから俺も芦名公園にはあんまり行かなくなって、と言うかあの頃の記憶が殆どなかったんだけど、最近急にいろいろ思い出してさ。
寛太おじちゃんって、いなくなってるんだよね。それでね」
荒唐無稽なことをこれから言わなければならない。真悟は少し目線を落とした。
「ひょっとしたら、お父さんが見つかるかもしれない気がするんだ」
「何で?」
「話しかけてくる人がいるんだ。頭の中に。いや、落ち着いて聞いてほしい。こんな話、信じてもらえないのは充分分かる。だけど俺さ、お母さんの名前知ってただろ」
「うん。ストーカーかと思っちゃうよ、それ」
「だよなあ」真悟は頭を無造作に掻く。
「その誰かが、お母さんの名前を教えてくれたんだよ。で、俺多分お母さんと会って話をした方がいい気がする」
「……」莉子はたっぷり1分は考えた。そしてスマホを取り出した。
「連絡先交換できる?」
なぜか健司も割り込んできて、3人のグループラインを作ることになった。
「何でお前も入るんだよ」
「いいじゃねえか。行きがかり上だよ」健司は明らかにこの状況を面白がっていた。
「帰ったら、お母さんに話してみる。多分、五十嵐君…真悟ちゃんのことも覚えてるんじゃないかな」
「分かった。ありがとう」
また母から電話がかかってきた。
雪子はいつものようにスピーカーホンにしながら、母のとりとめのない話を聞き流していた。もう5回目か6回目か、母は同じ台詞を繰り返す。
「お父さんがね、最近本当に元気がなくて。孫たち2人を見ることが出来たら、少しは変わってくれるんじゃないかと思うのよ」
「うーん、莉子も陽介も今忙しくて、なかなか時間が取れないかな…」
最後はなだめるように電話を切り、雪子は窓の外を眺めた。
父と最後に会ったのは16年前。莉子を身ごもってしまった雪子が、寛太を連れて結婚の意思を告げに行ったときだ。大荒れなんてもんじゃなかった。父は激高し、土下座して謝る寛太の頭を踏みつけた。「二度と家の敷居をまたぐな」なんて台詞、ドラマや小説以外で実際に聞くとは思わなかった。
昔から、兄・翔太とずっと差をつけられて育ってきた。女に学問は要らん、高校を出たら働けという父を何とかなだめて大学に入り、そこで寛太と出会った。いわゆるデキ婚は、父からの逃亡を企てた結果だった。寛太が「筋を通しに行こう」と言わなければ、あのまま父とは絶縁していた。もちろん、莉子も陽介も父に会わせたことはない。母が何度か通ってきて、近況を父に伝えるだけだ。
あんなに毛嫌いしていた父なのに、結婚生活を始めてみたら父の価値観を驚くほど受け継いでしまっている自分に驚いた。デキ婚をしたこと自体に罪悪感があった。寛太の帰りがちょっとでも遅いと、いろいろと疑って責めてしまうこともあった。育児のストレスも当然関係していた。寛太はいつも、少し寂しそうな笑顔を浮かべ、何も反論しなかった。
雪子は記憶を振り払うかのように、夏美と待ち合わせているルノアールに向かった。
ルノアールで、2人はいつもとは違うちょっと奥まった席に座った。
かなり躊躇した挙げ句、雪子は自分の身に起こっていることを話した。寛太がどうも海外、ベトナムにいるような情報が届いたこと。そして何より、竜朗と一緒にいるときに、どこからか声が聞こえたこと。2人とも同じ台詞を聞いたこと。
声の話を聞いたとき、夏美は思わずビクッと体を震わせた。こんな話信じてもらえるわけがない、と思い込み、目を伏せながら訥々と話していた雪子は、夏美の反応に気づかなかった。
「寛太さん、と言ったのね、その声?」
「はい」
「誰なのかは分からないの?」
「分からないんです。そもそも男性なのか女性なのかも分からないような声で。聞こえるんじゃなくて、頭の中で鳴り響く感じで」
雪子は慎重に言葉を選びながら話した。ところが、次の夏美の返答は想像を超えてきた。
「私も聞いたの」
「え?」
「私も聞いたのよ、その声」
夏美は暫くじっと、雪子の顔を見つめた。そして、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「…雪子さん、今まであなたに言ってなかったことがある。どうしても言えなかった。この声の主を、私は多分知っている。ここで話すのではなく、その竜朗さんという方とも会って話したい。それがおそらく、寛太さんの行方に繋がるかもしれないの」
余りのことに、雪子は文字通り言葉を失った。夏美は言葉を継いだ。
「ごめんなさい、あらかじめ言っておくけど、あなたにとっては辛い話だと思う。それでも話したい。いいかしら?」
「…寛太さんがいなくなった以上に辛いこと、ありませんから」
雪子はきっぱりと言った。夏美は初めて、少しだけ微笑んだ。
その後、四方山話をしてから別れた。別れ際、電話がかかってきた。莉子だ。
「もしもし、どうした?」
「あのね、帰ってからもう一回話すけど、母さんに会ってほしいという子がいて…」
みんなが、寛太さんを探し始めた。私が誰なのかはまだ分からない。でも、夏美先生は私を知っている。4つの窓が揺らぎ始めた。らせんを描くように回り、気化するかのようにゆらゆらとうごめいて、粒状になった窓が混ざり合った。見る間に、大きな1つの窓が出来上がった。どこかのオフィスの会議室だ。
私はその時、まだ気づいていなかった。合体した窓の少し先に、5つめの窓が開きつつあった。