侯爵令嬢アリスルールの魔術剣客伝 ~若干13才の侯爵令嬢は決闘になると最強すぎて魔法大学の天才たちを震え上がらせるようです~   作:星舟能空

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第2話 巨塔へ、よろしくお願いいたします

 奨学生用の青印が刻まれた学生証を、リネットは三度持ち直した。

 

 ついさっきまで風鎖回廊で、白手袋の侯爵令嬢が上級生と斬り結んでいたせいで、入塔後の列は妙に静かだった。誰もが口を閉じているのに、目だけが忙しい。皆、ひとつ先を歩く小さな背中を見ていた。

 

 アリスルール・マクラクラン。

 

 侯爵家の娘。天才。難しい魔術が好き。噂の半分は脚色だろうとリネットは思っていたが、どうやら違ったらしい。

 

 あの子は、本当に笑っていた。

 

 塔門をくぐった瞬間、リネットは足を止めた。

 

 高かった。

 

 外から見ても狂ったみたいに高い塔だったのに、中まで高いとは聞いていない。中央は天井まで抜けた巨大な空洞になっていて、幾重もの環状回廊が空へ溶けるように重なり、そのあいだを籠型の昇降機や荷運び式が光の筋を引いて行き交っている。見上げるほど首が痛くなった。内壁に沿って走る導線の青、結界灯の白、風を整える細い羽根車の銀。その全部が、途方もない規模で動いていた。

 

 北辺の風車町から来たリネットは、橋や水路に走る導線魔術なら見慣れているつもりだった。冬になるたび一本は折れる木橋をどうにかしたくて、この大学を目指した。だが、ここまでくると橋や水車の延長ではない。街ひとつを縦に立てて、その中を魔術で呼吸させているみたいだった。

 

 誰かが息を呑むより先に、先頭を歩いていた侯爵令嬢が言った。

 

「中まで高いんですね」

 

 感想としてはあまりにも素直だった。

 

 だがそれが、妙に正しかった。

 

 リネットが圧倒されているあいだ、アリスルールは怖がるでも気後れするでもなく、内壁の継ぎ目や、回廊の端を走る細い式線や、荷籠を引く光の軌跡をひとつずつ目で追っていた。巨大な建築物に呑まれているのではなく、ちゃんと見ようとしている。

 

 その目を見て、リネットは少しだけ居心地が悪くなった。

 

 あの子は、入塔礼の時と同じ顔をしている。

 上級生の恐れを見つけた時と、たぶん、まったく同じ顔で。

 

 入学者の列は、中央空洞の下層をぐるりと半周するように進み、青銅の扉が並ぶ広間へ導かれた。扉の上には、古い筆記体でこう刻まれている。

 

 志望印刻の間。

 

 来る前に読み込んだ手引きに、その名だけはあった。

 学生証の本刻印と、当座の所属振り分けを行う場所。願書より、魔力より、面接より、最後にものを言うのは本人の志望とその言い方だ、と小さく書いてあった。

 

 広間の中には人の背丈ほどの青銅柱が十数本、円を描くように立っていた。どの柱の表面にも、細かい刻印輪と鈴のような小金具がびっしり仕込まれている。柱の足元からは薄い光の線が床へ埋め込まれ、蜘蛛の巣みたいに別の扉や回廊へつながっていた。

 

 係員たちは慣れた顔で新入生を流し、名前を呼び、学生証を受け取り、また返す。

 

 列の中程で、前の娘が振り返った。

 

「あの……ここ、なんて言えばいいんでしたっけ」

 

 怯えた声だった。手引きもまだ鞄の中らしい。

 

 リネットは反射で答えていた。

 

「短く、具体的に、です。希望の学科名か、学びたい術系を」

 

「ありがとう……」

 

 礼を言った娘がほっとした顔をした、その向こうで、アリスルールがこちらを見た。

 

 青い目だった。大きくて、静かで、しかし変に子供っぽくはない。見られた途端、自分が今どんな顔をしていたか気になってしまうような目だった。

 

「お詳しいのですね」

 

 やわらかい声だった。

 

「……手引きを読んできただけです」

 

「えらいです」

 

 えらいです。

 

 そんな返しがあるのか、とリネットは思った。貴族の娘ならもっと別の言い方をするだろうに、その侯爵令嬢は本当に感心したみたいな顔をしていた。

 

 その間にも、周囲の新入生たちは微妙にアリスルールから距離を取っていく。ひとりが半歩下がれば、その隣も下がる。露骨ではないのに、列全体が彼女を中心に薄く歪んでいく。

 

 アリスルールはそれに気づいて、リネットへ小さく首を傾げた。

 

「皆さん、少しずつ下がっていくのは、わたしの後ろに何かあるからですか」

 

 リネットは一瞬、本気で振り返りかけた。

 

「……いえ」

 

「そうなのですか」

 

「たぶん、その……入塔礼の噂で」

 

 言ってから、しまったと思った。

 初対面の貴族令嬢へそんなことを言うべきではなかったかもしれない。

 

 だがアリスルールは怒るどころか、少しだけ納得したように頷いた。

 

「ああ。笑っていたからでしょうか」

 

「ご自分で言うんですね……」

 

「本当のことでしたので」

 

 その答えがあまりにも迷いなくて、リネットは返す言葉を失った。

 

 係員が名前を呼んだ。

 

「リネット・ガーランド」

 

 びくりとして、リネットは前へ出た。

 

 青銅柱の前に立つと、表面の刻印輪がかすかに回る。近くで見ると、柱はただの金属ではなかった。古い術痕が何層にも染み込んでいて、長年ここで何千人もの学生を見てきたのだとわかる。

 

「本学において、何を修めたく望みますか」

 

 定型句だった。

 だが、問われた瞬間に喉の奥が少し乾いた。

 

 北の町の冬。折れた橋。川向こうへ渡れずに薬が遅れた夜。風車の羽根が吹き飛んで、父が片腕を折った春。ここで学ぶ理由はいくらでもあるのに、口へ出せるのはひとつだけだ。

 

「塔内導線魔術を、学びたいです」

 

 青銅柱が静かに鳴った。

 

 学生証の青印がひかり、床へ細い線が一本、まっすぐ伸びる。第四初年寮、基礎構造群、下層工学棚。順に淡く灯って、すぐ消えた。

 

 係員が頷く。

 

「仮刻印完了。次」

 

 それで終わりだった。

 あっけないほど簡単で、けれど、認められたという実感がちゃんとあった。

 

 リネットが脇へ退くと、今度はアリスルールの名が呼ばれた。

 

 広間の空気が、目に見えないのに少しだけ変わった。

 

 彼女は青銅柱の前へ立って、両手で学生証を包むように持った。まるで儀礼の最中みたいにきちんとしているのに、目だけは柱の刻印を読むのが楽しくてたまらない子供のようでもある。

 

「本学において、何を修めたく望みますか」

 

 アリスルールは少し考えた。

 

 本当に少しだった。作るための間ではなく、ちゃんと言葉を選んでいる間だった。

 

「難しい魔術と、難しいひとを、きちんと知りたいです」

 

 青銅柱の中で、何かが一拍遅れて目を覚ました。

 

 その場にいた全員が、それを聞いたはずだった。

 鈴でも歯車でもない、小さな躊躇みたいな音。

 

 次の瞬間、柱の刻印輪が一斉に回った。

 

 学生証から伸びた光が、一本ではなく四本、五本、いやもっと多く、床へ走る。新入生寮へ向かうはずの青線が途中で分かれ、図書階への白線に噛み、演武回廊へ向かう赤銀の線へ移り、さらに上層行きの昇降籠導線まで這い上がった。

 

「え」

 

 誰かが声を上げた。

 

 柱の鈴が高く鳴る。ひとつではない。広間じゅうの柱がつられて鳴き、床の光が生き物みたいに蠢いた。行き先を失った導線が、新入生たちの足元を舐めるように走り回る。

 

 そのうち一本が、上のほうへ伸びた。

 

 明らかに新入生が触れていい方向ではない、暗い上層へ。

 

 広間の天井近く、閉じられたままの環へ届きかけて、そこでばちりと火花を散らす。

 

「下がって!」

 

 凛とした声が飛んだ。

 

 紺の補佐服を着た上級生が、脇の制御盤を乗り越えるようにして前へ出た。腰まである黒髪を雑にまとめ、札束を指のあいだへ挟み込んでいる。眠そうな顔をしているのに、動きだけは異様に速かった。

 

 彼女は青銅柱へ三枚の制御札を叩きつけた。

 

「導線分岐、学生証認識優先、志望階層の仮制限。ほら、戻れ」

 

 床の光がびくりと縮む。

 

 上層へ伸びかけた線が、嫌がるみたいに震えてから落ちた。

 最後まで残った一本が、図書階への方向を惜しむように明滅し、それも消える。

 

 広間に、妙な静けさが降りた。

 

 誰もすぐには喋れなかった。

 

 係員でさえ顔を強張らせている中、アリスルールだけが、柱のほうを見て小さく微笑んだ。

 

「あら」

 

 鈴の余韻がまだ細く響いている。

 

「少しだけ、巨塔が本音を言ってくれたようでした」

 

 冗談ではない声音だった。

 

 補佐服の上級生が、深く息を吐いた。

 

「暴走しただけです」

 

 そこで初めて、係員が我に返ったように口を開く。

 

「セシル補佐、助かりました」

 

 セシル、と呼ばれた上級生は、疲れた目でアリスルールと、ついでにリネットの学生証を見比べた。

 

「……最悪」

 

「わたしでしょうか」

 

「あなた半分、制度半分です」

 

 セシルはそう言って、リネットの学生証を摘み上げた。

 

「巻き込まれて同群コードが噛んでますね。再刻まで単独移動禁止。あなた、青印の子。名前は」

 

「リネット・ガーランドです」

 

「はい、リネット。災難でした。あなたも一緒に来てください」

 

「え」

 

「え、じゃありません。今このまま放すと、下手したら寮じゃなく温室区へ着きます」

 

 ええ。

 

 リネットが反論しかけた時、隣でアリスルールが少し嬉しそうに言った。

 

「ご一緒なのですね」

 

 まるで遠足の班分けでも決まったみたいな声だった。

 

 困る。

 とても困る。

 

 だが、その困惑を置き去りにして、導線整理を終えた広間はまた流れ始めた。後ろの新入生たちの視線が刺さる。ここでぐずつけば、余計に目立つ。

 

 リネットは諦めて学生証を握り直した。

 

 セシルは足早だった。さっきの制御の反動か、こめかみを押さえつつも歩幅はまったく緩めない。

 

「まず学生寮、そのあと基礎講義環の位置だけ。あとは各自で慣れてください。本当はそういう日です」

 

「本来なら、ですか」

 

 アリスルールが問う。

 

「本来なら」

 

「今日は違うのですね」

 

「あなたが違えました」

 

 それで会話は終わるかと思ったのに、アリスルールはなぜか少しだけ満足そうだった。

 

 志望印刻の間を出ると、内側の風が強くなった。

 

 透明な床板の回廊の下を、さらに別の回廊が横切っていく。下を見ればめまいがする高さなのに、上を見てもまた別の橋と籠がある。巨塔の中には、上も下もありすぎた。

 

 セシルが指先で示す。

 

「あちらが基礎講義環。初年の必修はほぼ全部そこです。食堂は下層へ二環。学生証を翳せば扉は開きます。鐘が青なら通行可、黄なら一時待機、赤なら止まって。荷籠が優先」

 

 説明は必要最小限だった。

 それでいて、歩いていくうちに自然と覚えるようになっている。学生証を扉へかざす。軽い震え。静かな解錠音。荷籠が頭上を通る前に、通路の端で待つ。遅れてきた新入生たちがそれを真似する。

 

 ただひとり、アリスルールだけはそういう流れの途中で、別のものへ引かれて止まる。

 

 回廊の壁に触れそうなほど顔を近づけ、石材の継ぎ目を見ている。

 

「ここ、途中で継ぎ足しているんですね」

 

 セシルが振り返り、リネットもつられて足を止めた。

 

 言われてみれば、内壁の一帯だけ石の色がほんのわずかに違う。だが歩きながら気づくような差ではない。

 

「……よく見ますね」

 

「きれいです。補強式も、あとから噛ませたわりに、喧嘩していません」

 

 補強式。

 喧嘩。

 

 言葉の選び方がいちいち変だった。

 けれど、リネットは思わずその石材の色の差を見直してしまう。たしかに新しい層が古い導線へ無理なく馴染んでいる。町の橋梁なら、ああはならない。

 

 歩き出した直後、今度はアリスルールがふと上を見た。

 

 つられて視線を追うと、何十環も上のあたりに、そこだけ妙に暗い輪があった。周囲の環では風旗がわずかに揺れているのに、そこだけ動かない。高すぎて細部は見えないが、沈黙しているのがわかる。

 

「あそこだけ、風が死んでいます」

 

 リネットはぞくりとした。

 表現そのものにではない。思ったことをそういう言葉で出すことに、ためらいがなさすぎた。

 

 セシルの返事は短かった。

 

「今は気にしなくていい階層です」

 

 その言い方のほうが、よほど気になった。

 

 だがリネットが何か言う前に、前方で甲高い鈴が乱れた。

 

 内部風回廊の中ほど。頭上を行く荷籠のひとつが、そこで不自然に揺れていた。牽引式に沿って滑るはずの箱が途中でつかえ、光の線が輪になって絡まり、荷箱のひとつが外へずれかけている。

 

「止まって!」

 

 セシルが走った。

 

 荷籠の下は吹き抜けだ。ここで箱が落ちれば、下層回廊を直撃しかねない。

 

 近くにいた新入生のひとりが、真っ青な顔で立ち尽くしていた。貴族らしい上等な外套を着た少年だ。荷札の色からして、たぶんあの荷籠の持ち主だろう。

 

「申告外の反応が出ています! あなた、何を積みました」

 

 セシルが制御盤へ手を伸ばしながら怒鳴る。

 

「な、何も……!」

 

 嘘だ、とリネットでもわかった。

 

 牽引式が絡む時は、だいたい荷重か認識のどちらかが狂っている。荷重ならここまで鈴は嫌な鳴り方をしない。認識系のずれだ。それも、持ち主が隠した何かを荷籠が検知した時の、教本通りの乱れ方。

 

 セシルの位置からでは制御盤まで二息遅い。

 その二息で箱が落ちる。

 

 そう思った瞬間、隣の気配が消えた。

 

 アリスルールだった。

 

 彼女は慌てて走らない。

 吹き抜けの縁へ寄り、荷籠と式線の絡みを一度見上げ、ほとんど迷わず腰の細剣を抜いた。

 

「ちょっ――」

 

 止める声は、出す前に遅かった。

 

 銀色の刃が、きらりと光った。

 

 荷籠そのものではない。

 光の線が結び目を作っている、その中心から少しだけ外れた場所。認識式が嘘を庇って膨らんだ、たった一点。

 

 そこへ剣先が入る。

 

 ほんの短い音がした。

 糸を切る音にも、氷へ針を差し込む音にも似ていた。

 

 次の瞬間、暴れていた導線が一斉にほどけた。

 

 荷籠は落ちない。

 外へ滑りかけていた箱が、正しい軌道へすっと戻る。ついでに牽引鈴の色も赤から青へ落ち着いた。

 

 セシルが制御盤へ辿り着いたのは、それからだった。

 

「……今、何を切りました?」

 

 アリスルールは剣を納めながら、当たり前みたいに答えた。

 

「そこだけ苦しそうでしたので」

 

 そして、蒼白な少年のほうを見た。

 

「隠したかったんですね」

 

 少年の肩が跳ねた。

 

「え」

 

「補助魔具です。荷札が、持っていないふりをしていました」

 

 彼女は責めていない。

 責めていないのに、その場の誰より相手を追い込む言い方だった。

 

 少年は何も言えなかった。

 というより、否定の形が見つからない顔だった。外套の内側へ手を入れ、小さな金具のついた護符をぎこちなく取り出す。その沈黙が白状になってしまう。

 

 セシルが額を押さえた。

 

「没収。初日から何やってるんですか……」

 

 深いため息だった。

 怒りより疲労のほうが大きい種類の。

 

 けれど彼女が次にアリスルールへ向けた視線には、疲労だけではないものが混じっていた。助かった、という気持ちと、助けられた相手がこの侯爵令嬢であってほしくなかった気持ちが、同じくらい入っている。

 

「ありがとうございます。助かりました」

 

 律儀に礼を言ってから、セシルは続けた。

 

「でも、学生は導線へ勝手に手を出さないでください」

 

「はい」

 

「今の返事、守らないやつですね?」

 

「善処いたします」

 

 そう言う声が、少しだけ嬉しそうなのが怖かった。

 

 リネットはそこで初めて、入塔礼で見た異様さの正体が少しわかった気がした。

 

 アリスルールは勝つことが好きなのではない。

 綻びを見つけると、どうしても触れてしまうのだ。

 術でも、人でも。

 

 だから、平穏な場所にいても平穏なままで終わらない。

 

 女子寮へ着く頃には、噂はもう先回りしていた。

 

 下層東寮の初年区画。白い壁、青灰の絨毯、等間隔の術灯。実家の屋敷よりずっと簡素だろうに、隣のアリスルールは目を輝かせている。もちろんそれらは地方出身のリネットには充分すぎるほど立派だった。

 

 前室つきの二人部屋へ案内されると、隣室の扉が半分ほど開いていて、内側から娘たちの声が漏れていた。

 

「本当に?」

「笑ったって」

「でも侯爵家でしょ」

 

 セシルが扉を開ける。

 

「新規二名。部屋割りは仮です。揉めるなら自分たちで解決してください、ただし今日中に」

 

 雑だった。

 だが、いかにもこの人らしい。

 

 部屋へ入った途端、隣の娘たちの声が途切れた。

 

 アリスルールはその静けさへ少しも怯まない。

 きちんと部屋の中央で止まり、白手袋の指先を揃えて、見事な礼をした。

 

「本日からよろしくお願いいたします。アリスルール・マクラクランと申します」

 

 その礼があまりに綺麗で、リネットは自分まで背筋を伸ばしてしまった。

 同時に、空気が一段固くなるのもわかった。

 

 誰かが小声で、「マクラクラン侯爵家……」と囁いた。

 

 だがアリスルールの荷物が開かれると、そこで空気が少し変わった。

 

 出てきたのは宝石箱ではなかった。

 分厚い魔術ノート。細かな書き込みの入った式図の束。替えの白手袋。稽古着。鞘に収まった細剣。読み込まれて角の丸くなった本が三冊。

 

 侯爵令嬢の荷物というより、研究好きの変人の荷物だった。

 

 アリスルールは白手袋を一双だけ外し、しわひとつ寄らないように畳んでから、卓の端へ置いた。その手つきだけ妙に幼く丁寧で、リネットは見てはいけないものを見た気がした。

 

 隣室の娘が勇気を出して声をかける。

 

「あの……」

 

「はい」

 

「……本当に、入塔礼で先輩に勝って、笑っていたのですか?」

 

 またその話だ、と思ったが、きっと皆いちばん気になるのだ。

 

 アリスルールは誇るでも隠すでもなく答えた。

 

「はい。先輩のお顔が、やっと見えましたので」

 

 それだけだった。

 

 だがそれだけで、隣室の娘はそれ以上何も言えなくなった。

 

 リネットには、その気持ちが少しわかった。

 自慢でも脅しでもないからこそ、どう受け止めていいかわからないのだ。

 

 鐘が鳴った。

 夕食の時間だった。

 

 食堂は、また別の意味で眩しかった。

 

 下層の広い吹き抜けに、卓が何段も重なるように並んでいる。高窓から差す夕陽が湯気と術灯に混ざり、皿やカトラリーの縁で細かく砕ける。列ごとに並ぶ料理も見たことのないものばかりで、リネットは一瞬、学問より先にここで暮らせることを喜んだ。

 

 ただし、その夢見心地はすぐに現実へ引き戻された。

 

 アリスルールと同じ卓についた途端、周囲の視線がまた動いたからだ。

 

 呼び名まで、もう増えている。

 

 笑っていた侯爵令嬢。

 入塔礼で勝った子。

 印刻柱に嫌われた子。

 逆に気に入られた子。

 

 どれも勝手で、どれも少しずつ違う。

 

 アリスルールはその違いが面白いらしかった。

 

「いろいろなお呼び方があるのですね」

 

「気になるんですか」

 

「少しだけ。皆さん、同じものを見ていても、残るところが違うのだなと思いまして」

 

 そう言って、彼女はスープをひとくち飲んだ。

 味より先に、人間の心の違いを気にしている。

 やっぱり変だ、とリネットは思った。

 

 それなのに、不思議と嫌悪にはならない。

 ただ、近くにいると自分まで見透かされそうで落ち着かない。

 

「リネットさん」

 

「何ですか」

 

「図書階へは、すぐ行けますか」

 

「初日から?」

 

「いけませんか」

 

「普通は行きません」

 

「普通は、なのですね」

 

「申請が要ります。初年の一部閲覧だけなら、たぶん数日で」

 

 答えてから、なぜ自分がこんなに素直に教えているのかわからなくなった。

 アリスルールは上機嫌に頷く。

 

「ありがとうございます」

 

「……別に」

 

「講義環は、朝に混みますか」

 

「混みます」

 

「食堂は」

 

「今みたいに鐘の直後が混みます」

 

「先生方は」

 

 そこでリネットは、少しだけ考えてから言った。

 

「だいたい変です」

 

 向かいの卓にいた上級生が吹き出した。

 その隣が「それは正しい」と真顔で頷く。

 

 アリスルールはその反応ごと気に入ったらしく、目を丸くした。

 

「よい大学ですね」

 

「そこなんだ……」

 

 リネットは思わず呟いた。

 

 この侯爵令嬢は、やはり人とずれている。

 だがずれている方向が、変に一貫していた。

 

 食後、新入生たちは自然と中央空洞寄りの掲示環へ集まっていった。

 

 夜になると、吹き抜けの中層に吊られた巨大な円環板がひとつずつ灯るらしい。そこへ翌日の講義、担当教員、注意事項が浮かぶと、手引きにあった。

 

 見上げると、暗くなった塔内のあちこちで結界灯が星みたいに瞬いている。荷籠の光は昼より少なくなり、そのぶん掲示環の青白さがよく目立った。

 

 新入生たちはざわざわと騒ぎながら、自分の所属群を探している。

 

 円環板が低く唸って、文字を変えた。

 

 基礎魔力理論。

 初年礼法演習。

 導線安全学。

 

 どれも大学らしい。

 どれも恐ろしく、楽しそうでもある。

 

 だが、一枚の円環板が回転し、別の文字を浮かべた瞬間、空気が変わった。

 

 対術剣基礎実技。

 

 周囲の新入生たちが、一斉に嫌そうな顔をした。

 

「うわ」

「初回から?」

「よりによって……」

 

 リネットの隣にいた娘が小さく呻く。

 

「知ってるんですか」

 

「名前だけ。すごく面倒で、すごく腕がよくて、すごく容赦がないって」

 

 そこで担当名が浮かび上がった。

 

 エドワード・ジャンミルフィン。

 

 リネットはその名に特別な感慨はなかった。

 ただ、周囲の反応の強さで、嫌な教師なのだろうと思っただけだ。

 

 けれど、隣のアリスルールだけは違った。

 

 彼女はその名を見た瞬間、ぴたりと動きを止めた。

 

 入塔礼の時に見せた、きらきらした高揚とは違う。

 もっと静かな、もっと個人的な色だった。

 古い本の中に、探していた一頁を見つけた時みたいな顔。

 

「……先生」

 

 ごく小さな声だった。

 

 リネットはそちらを見る。

 アリスルールは気づいていない。

 

「いらしたんですね」

 

 誰へ向けたのでもない一言だった。

 だが、その一言だけで十分だった。

 この侯爵令嬢は、ただ変なだけではない。巨塔へ入って初めて見るはずの講義名の中に、なにか、過去を持っている。

 

 掲示環の灯りが、彼女の横顔を淡く照らした。

 

 アリスルールは白手袋をはめ直し、学生証を両手で包んだ。それから、中央空洞の奥――どこまで続くとも知れない巨塔の内側へ向かって、ごく小さく一礼した。

 

「これから、よろしくお願いいたします」

 

 人ではなく、塔へ向けてそう言ったのを、リネットはたしかに聞いた。

 

 それは新しい学校への挨拶というより、ようやく見つけた難題へ差し出す礼のようだった。

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