侯爵令嬢アリスルールの魔術剣客伝 ~若干13才の侯爵令嬢は決闘になると最強すぎて魔法大学の天才たちを震え上がらせるようです~   作:星舟能空

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第4話 正しい礼は、誰のためのものですか

 その日の午後、リネットの腕はまだわずかに笑っていた。

 

 午前の対術剣基礎実技で、細い足場を掴み損ね、風圧に振られ、落ちる直前まで何度も力んだせいだ。食堂で匙を持つだけでも肩の奥がじんわり痛む。なのに午後一番の講義名は、よりによって礼法演習だった。

 

 礼法は静かな授業だと思っていた。

 少なくとも、落とされることはないはずだ。

 

 そう思っていたのは、どうやら甘かったらしい。

 

 十二層へ向かう回廊では、初年たちがすでに朝とは別の意味で顔色を悪くしていた。剣や杖ではなく、手引きの頁を開いたまま歩いている者が多い。追い越しざまに聞こえる会話も、午前のような恐怖ではなく、もっと乾いた不安に満ちていた。

 

「礼法って、何を見られるんだっけ」

 

「歩幅、目線、応答順、紹介順、席次、あと癖」

 

「癖まで見るの?」

 

「見るらしい」

 

 聞いただけで疲れる。

 

 リネットは隣を歩くアリスルールを見た。

 彼女は午前の実技を終えてもなお、いつもとほとんど変わらない足取りで歩いている。さすがに髪の一房くらいは乱れているが、白手袋はもう整えられ、細剣も鞘へきちんと収まっていた。

 

「疲れていないんですか」

 

「少しだけ、うれしい疲れがございます」

 

「うれしい疲れ」

 

「はい。よく見えましたので」

 

 やはり、この子は違う。

 

 アリスルールは少しだけ首を傾げた。

 

「礼法演習も、きっとよく見えると思うのです」

 

「何がですか」

 

「きれいにしているものです」

 

 それは本来、礼法の正しい感想なのかもしれない。

 だがこの侯爵令嬢が言うと、ひどく別の意味へ聞こえる。

 

「お願いですから、教場ではあんまり怖い言い方しないでくださいね」

 

 リネットが念を押すと、アリスルールは少しだけ考えてから頷いた。

 

「では、やさしく申し上げます」

 

「そういう問題でもないんですけど……」

 

 十二層礼法講堂は、午前の対術剣環と同じくらい別種の戦場だった。

 

 高い天井から、細い銀鐘が何十本も吊られている。床は白と黒の磨き石で幾何学模様に切り分けられ、その継ぎ目には薄い金線が走っていた。正面には段差の浅い半円階があり、上から見れば螺旋を半分だけ切り取ったような形をしている。壁際には姿見めいた黒鏡柱が等間隔に立ち、学生の姿勢を無言で返していた。

 

 剣傷はない。

 焦げ跡もない。

 そのかわり、乱れだけがすぐに目立つ空間だった。

 

 まだ講師は来ていないのに、講堂の中ではすでに目に見えない上下が出来上がっていた。入ってすぐに下の方へ集まる学生たち。何も言わず自然に上段側へ立つ数人。誰が命じたわけでもないのに、場が勝手に人を並べている。

 

 その中心にいる少女を、リネットはすぐに見つけた。

 

 淡い灰金の髪をひと筋も乱さず結い上げ、襟も袖も完璧に整った薄青の講服を着ている。美人だと思うより先に、完成されていると思った。立っているだけなのに、周囲の空気がその子へ向かって自然に整っていく。

 

 話している声は高くない。

 笑っても大きくは崩れない。

 それなのに、近くの学生たちは皆、彼女の前では少しだけ姿勢がよくなっていた。

 

 アリスルールもその少女を見ていた。

 

「きれいですね」

 

 小さな声だった。

 けれど、リネットにはどきりとする響きだった。

 

「知り合いですか」

 

「いいえ」

 

 アリスルールは青い目を細める。

 

「でも、たぶん、よく見える方です」

 

 まだ授業も始まっていないのに、もう獲物を見つけたみたいな言い方に聞こえる。

 

 だが何か言うより先に、講堂の奥の扉が開いた。

 

 入ってきたのは、背の高い女講師だった。

 年齢は三十代半ばほどに見える。焦茶の髪を低い位置でまとめ、黒に銀縁の講師服を寸分の隙もなく着ている。顔立ちは端正だが、優しそうではない。切っ先のない細い刃物みたいな人だった。

 

 女は教卓へ立つと、学生たちをひとわたり見た。

 その視線だけで、ざわめきが消えた。

 

「初年礼法演習を担当いたします。イレーネ・ハルヴァです」

 

 声は低く、よく通った。

 

「先に申し上げます。礼法は飾りではありません。礼法は、階層、記録、距離、責任を、誰にも言い訳させず身体へ刻むための技術です」

 

 技術。

 その言い方が、リネットには少し意外だった。

 

 イレーネ講師は続ける。

 

「剣を持つ者は、剣に癖が出ます。術を組む者は、詠唱に癖が出ます。礼を身につけた者は、その癖を人前で見せないようになります。したがって、礼法は隠蔽の技術でもあります」

 

 講堂の空気が、ひそかに張った。

 優雅な授業には聞こえなかった。

 

「本講義では、初年学生礼、地礼、層位礼の差を扱います」

 

 黒鏡柱のひとつへ、彼女が指を向ける。

 柱面へ淡い文字が浮かんだ。

 

 初年学生礼。

 地礼。

 層位礼。

 

「初年学生礼とは、一層から百層に所属する学生どうしの基礎礼です。これは出自を問いません。青印でも、推薦組でも、外の王族でも、入った直後はまずこれです」

 

 そこで何人かが、ほんの少しだけ息をつく。

 奨学生のリネットも、その一人だった。

 

「地礼とは、外の家格と領地秩序に基づく礼です。美しくても、この塔の中では参考資料にすぎません」

 

 今度は、逆に張る気配があった。

 外から来た貴族の子たちだろう。

 

「層位礼とは、巨塔内部の位階、記録席次、世界貴族秩序に基づく礼です。こちらは知らなければ恥をかきます」

 

 最後の一言だけ、少し温度が低かった。

 

「覚えておきなさい。美しい間違いは、醜い正しさより扱いが悪い。美しいぶん、記録に残るからです」

 

 リネットは思わず背筋を正した。

 妙に納得してしまう。

 

 イレーネ講師は教卓から降りると、中央の金線へ沿って歩いた。

 

「まず地礼の確認から行います。マクラクランさん」

 

 呼ばれた瞬間、講堂じゅうの気配がわずかに動いた。

 

 アリスルールは、いつも通りきちんと一礼して前へ出る。

 

「はい」

 

 その小さな返事さえ、こんな場所ではひどく目立つ。

 

「外の侯爵家令嬢として、正式な初対面礼を」

 

「かしこまりました」

 

 アリスルールは中央で止まった。

 

 まず、左足を半歩だけ引く。

 白手袋の指先を重ね、視線を落としすぎず、だが高くもしない。外套の裾が揺れない角度で膝を折り、起き上がる時には空気を乱さない。

 

 ただ一度の礼だった。

 なのに、きれいだった。

 リネットのように貴族の礼へ縁のない者にでも、それがよく磨かれたものだとわかった。

 

 イレーネ講師も、ほんのわずかに目を細めた。

 

「美しい」

 

 何人かが、ほっとしたように息を吐く。

 だが次の一言で、空気はまた変わった。

 

「侯爵家の地礼としては、上等です。二級」

 

 教場が静かになった。

 褒め言葉のようで、そうではなかった。

 

 アリスルールは目を瞬いた。

 

「二級なのですか」

 

「地礼としては高い。層内礼としては持ち込み過多です」

 

「持ち込み過多」

 

「外の重みを、そのまま塔内へ入れています。ここでは重すぎます」

 

 アリスルールは少しだけ考えて、それから本当に嬉しそうな顔をした。

 

「そうなのですね」

 

 その反応は、明らかに周囲の想定と違った。

 

「ここでは、わたし、まだ軽いのですね」

 

 教場のあちこちで、微妙な顔が生まれる。

 馬鹿にされたと思った者もいたのだろう。あるいは強がりに見えた者も。

 

 だがリネットにはわかった。

 この子は本当に、そこへ面白さを見ている。

 

 イレーネ講師は感情を動かさなかった。

 

「軽いのではなく、未定籍です。喜ぶかどうかは後で決めなさい」

 

「はい」

 

 アリスルールは素直に下がった。

 

 すると、講師は視線を上段側へ向けた。

 

「では、層位礼の模範を。フェルンハイムさん」

 

 先ほどの灰金の髪をした少女が、一歩だけ前へ出た。

 

 それだけで場の線が引き直された気がした。

 

「ユーディト・フェルンハイムです」

 

 声は静かだ。

 けれど、静けさの質が違った。

 アリスルールがやわらかく届く声なら、この子の声は最初から聞かせる位置へ置かれている。

 

 ユーディトは中央へ進み、イレーネ講師へ礼をした。

 

 先ほどのアリスルールの礼が花なら、こちらは定規だった。

 角度、呼吸、指先、視線の高さ、そのどれもが美しいのに、どこかひどく正確で、人ひとりより場全体へ向けて作られている。

 

 銀鐘が、今度は二つだけ、かすかに鳴った。

 失敗ではない。むしろ講堂そのものが応えたような音だった。

 

 イレーネ講師が頷く。

 

「よろしい。これが層位礼の入り口です」

 

 入り口であれなら、奥はいったいどうなるのだろう。

 

 リネットは唖然とした。

 そして気づく。

 周囲の学生たちが、この少女をただの上手な同級生として見ていないことに。

 

 世界貴族。

 

 その言葉はまだ誰も口にしていないのに、講堂の空気はすでにそれを知っていた。

 

 アリスルールが、小さく息をついた。

 

「ほんとうに、きれいです」

 

 ユーディトの目が、初めてこちらを向いた。

 その視線は冷たいわけではない。むしろ礼儀正しい。だが、距離の測り方が妙に正確だった。何歩まで近づけてよく、何歩から先は許さないのかを、最初から決めているような目だった。

 

「では実習へ入ります」

 

 イレーネ講師が床の金線を杖先で叩く。

 すると白黒の磨き石のあいだに、淡い光が走った。螺旋と直線が重なり合い、いくつもの細い礼路が床へ浮かぶ。

 

「本日は行違礼、譲受礼、紹介礼の基礎です。二人一組で組み、礼路上での接近と譲りを身体へ入れなさい。間違えれば鐘が鳴ります。三回鳴らせばその場で止めます」

 

 学生たちが一斉に動き出す。

 友人どうし、同寮どうし、あるいは無難そうな相手どうしで、すぐに組が決まっていく。

 

 リネットはアリスルールへ声をかけようとした。

 だが、その前に淡い青の講服が静かにこちらへ来た。

 

「マクラクランさん」

 

 ユーディトだった。

 

 近くで見ると、さらに完成されていた。

 化粧気は薄いのに、不思議と粗が見えない。姿勢も笑みも整っていて、だからこそ、乱れた時に何が起こるのか想像しにくい。

 

「もしよろしければ、わたくしがお相手いたしますわ」

 

 言い方は丁寧だった。

 しかし、善意に見えない。

 

「初回でいらっしゃいますし、外からお持ち込みの礼と、ここで必要な礼はずいぶん違いますもの」

 

 その場にいた何人かが、自然と聞き耳を立てた。

 露骨ではない。だが、明らかに気にしている。

 

 アリスルールは目を丸くして、きちんと一礼した。

 

「ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

 ユーディトも綺麗に返す。

 

「教場でお困りになるのは、お互いにとって損ですもの」

 

 お互い。

 その言葉の中に、自分は困らないという前提が綺麗に入っていた。

 

 リネットは少しだけ胸がざわついた。

 感じが悪いわけではない。

 悪いわけではないのに、ちゃんと切られている。

 

「リネットさん」

 

 アリスルールが振り向いた。

 

「少し行ってまいります」

 

「え、はい……」

 

 行ってまいります、ではない。

 だが止められない。

 

 アリスルールとユーディトは、隣り合った礼路へ立った。

 螺旋状に光る細い線が、二人の足元から中央へ向かって伸びている。

 

 イレーネ講師の指示で、まずは相互紹介礼から始まった。

 

「名、所属、応答の順を正しく。外の家名を出す者は、なぜそれを出すのかも身体で示しなさい」

 

 ユーディトが先に口を開く。

 

「ユーディト・フェルンハイム。記録儀礼群仮属にございます」

 

 短い。

 だが不足はない。

 

 次にアリスルール。

 

「アリスルール・マクラクラン、侯爵家長女で――」

 

 ユーディトが、ごくやわらかく微笑んだ。

 

「そこですわ」

 

 遮ったのに、不思議と無礼には聞こえない。

 

「塔内では、その順ですと重たく映ります。地礼では美しいのですけれど」

 

「そうなのですか」

 

「はい。こちらでは先に学籍と現在位置を置くほうが自然ですわ」

 

 言いながら、彼女は自分の胸元へ指先を添えた。

 ほんのわずかな仕草なのに、そこに答えが全部入っている。

 

「わたくしたちは、まず巨塔のどこへ立っているかを名乗りますの」

 

「なるほど」

 

 アリスルールは素直に頷いた。

 

「では、やり直します。アリスルール・マクラクラン、初年生です」

 

 その名乗りへ、ユーディトは少しだけ首を傾げた。

 

「家名は残すのですね」

 

「おかしいですか」

 

「おかしくはありません。ただ、ここでそのお名前を前へ置くと、守られるより先に測られます」

 

 柔らかい忠告だった。

 しかし内容は、刃物みたいに鋭かった。

 

「わかりやすく申し上げますわね。外のお名前は、持っていても、塔内ではすぐ役に立ちませんの」

 

 周囲の空気が、わずかに固くなる。

 たぶん、それを聞きたい者が多かったのだ。

 

 アリスルールは怒らなかった。

 むしろ、少しだけ嬉しそうにしていた。

 

「よいですね」

 

 ユーディトの睫毛が、ほんの一瞬だけ止まる。

 

「……そうお思いになりますの?」

 

「はい。難しそうですので」

 

 リネットは頭を抱えたくなった。

 そこはせめて、困った顔くらいしてほしい。

 

 次は行違礼だった。

 

 二人は螺旋の両端から歩き出し、中央の細い合流点でどちらが譲り、どちらが先路を取るかを身体で示さなければならない。

 間違えれば銀鐘が鳴る。

 

 ユーディトは歩き方まで綺麗だった。

 踵が鳴らない。

 裾が揺れすぎない。

 相手を見ているのに、見つめすぎない。

 

 アリスルールも十分に綺麗だ。

 だが同じ綺麗でも、こちらはまだ花の綺麗さだった。咲いているぶん、風に反応する。

 

 中央で、二人が止まる。

 

 ユーディトが先に半歩引き、手首だけで譲受の形を作った。

 

「ここでは、わたくしではなく、記録席次が先になりますの」

 

「席次」

 

「ええ。外の高さではなく、中の順序ですわ」

 

「では、正しい礼は、その順序のためのものなのですね」

 

「場を乱さないためのものです」

 

 即答だった。

 迷いのない答え。

 

 アリスルールはそこで、少しだけ首を傾げた。

 

「正しい礼は、誰のためのものですか」

 

 講堂のあちこちで、空気が止まった。

 

 大きな声ではなかった。

 なのに、その一言だけ妙によく響いた。

 

 ユーディトは表情を変えない。

 変えないまま、ほんの少しだけ呼吸を置いた。

 

「場のためですわ」

 

「場」

 

「皆が無駄に傷つかないためのものです」

 

 立派な答えだった。

 実際、正しいのだと思う。

 

 けれどアリスルールは、答えを聞いてもなお、彼女の顔を見ていた。

 

 いや、顔というより、その奥。

 ずっと奥の、きれいに閉じられた場所を。

 

 イレーネ講師の声が飛ぶ。

 

「続けなさい」

 

 二人は再び歩き始めた。

 今度は譲受礼から紹介礼への連結だ。接近し、止まり、肩の角度を変え、相手の現在位置を受け入れる。

 

 ユーディトが手本のように形を作る。

 

「視線はあと半寸下へ。そうです。顎は引きすぎず、でも上げない。世界貴族位へ向ける礼は、敬意を見せるのでなく、乱さないことを見せますの」

 

「乱さない」

 

「ええ」

 

 その言い方が、綺麗すぎた。

 

 アリスルールは言われた通りにしながら、ずっと見ていた。

 ユーディトの肩の線。

 指先。

 目を伏せる瞬間の速さ。

 息を吸う場所。

 どれも正しい。

 どれも美しい。

 どれも少しも乱れない。

 

 だからこそ、見えてしまうものがある。

 

 アリスルールは、唐突に微笑んだ。

 

「ユーディトさん」

 

「なんでしょう」

 

「とてもきれいです」

 

 ユーディトは礼の姿勢を保ったまま、小さく頷く。

 

「ありがとうございます」

 

「でも」

 

 銀鐘が、どこか遠くでひとつだけ鳴った。

 

「崩したら、ユーディトさんごと崩れてしまいそうです」

 

 今度は、本当に教場が静まり返った。

 

 リネットは息を止めた。

 何を言っているの、この子は。

 

 だがアリスルールの顔には、少しの悪意もない。

 本当に、感心している顔だった。

 

「だから、こんなに正しいのですね」

 

 その瞬間。

 

 ちり、と。

 ユーディトの右手の小指が、ほんの一瞬だけ遅れた。

 

 銀鐘が二つ、鋭く鳴る。

 

 それだけだった。

 姿勢は崩れていない。

 礼も壊れていない。

 だが、たしかに遅れた。

 

 ユーディト・フェルンハイムが。

 

 イレーネ講師の目が細くなる。

 

「フェルンハイムさん」

 

「失礼いたしました」

 

 返答は完璧だった。

 声も震えていない。

 けれど、さっきまでとは違う。

 ほんの紙一枚ぶんだけ、綺麗さの下に人間が見えた。

 

 ユーディトはゆっくりと顔を上げ、アリスルールを見た。

 

 その視線はもう、最初の善意ある内部者のものではなかった。

 怒っているわけではない。

 むしろ、初めてこちらを正面から見たというほうが近い。

 

「……そう見えましたの」

 

「はい」

 

 アリスルールは素直に頷く。

 

「たいへんそうです」

 

 慰めているのでも、哀れんでいるのでもない。

 本当に見えたものをそのまま言っただけの顔だった。

 

 ユーディトの喉が、ひとつだけ小さく動く。

 

 その時、イレーネ講師が杖先で床を打った。

 

「そこまで」

 

 光る礼路が消えた。

 学生たちが一斉に息を吐く。

 今の短いやり取りだけで、誰もが妙に疲れていた。

 

「礼法は、相手を暴くための技術ではありません」

 

 イレーネ講師の声は冷たかった。

 

「ただし、暴かれる程度の礼しか持たぬ者は、まだ未熟です」

 

 その言葉は、アリスルールだけに向けられたのではない。

 むしろ、二人とも切っていた。

 

「続きは各組、自習。鐘が三つ鳴る前に、さきほどの遅れがなぜ起きたかを自分で理解しなさい」

 

 ざわめきが戻る。

 けれど、もう最初の講堂ではなかった。

 

 リネットの近くでは、誰も露骨に喋らない。

 だが、小さな囁きは止まらない。

 

「今の見た?」

「フェルンハイムが」

「あの侯爵令嬢、何言ったんだ」

 

 そこで、囁きのひとつが、少し離れた場所から滑ってきた。

 

「外じゃ侯爵でも、中じゃただの初年だろ」

 

 別の声が、面白がるように継ぐ。

 

「外爵平民」

 

 笑いは小さかった。

 だが、そういう言葉ほどよく残る。

 

 リネットは反射でそちらを睨みかけた。

 だが相手はもう、誰だかわからない群れの中へ紛れている。

 

 最悪だ、と思った。

 ひどい言葉だ。

 ひどいのに、妙に覚えやすい。

 

 アリスルールも聞こえたらしい。

 彼女は瞬きをして、少しだけ考えた。

 

「外爵平民」

 

 口の中で転がすみたいに、小さく繰り返す。

 

「変なお名前ですね」

 

「変どころじゃないです」

 

 リネットは思わず強く言った。

 

「そんなの、気にしなくていいですから」

 

 アリスルールは、きょとんとした。

 

「気にしてはおりません」

 

「でも」

 

「ただ」

 

 彼女は講堂の向こうを見た。

 

 ユーディトが、数人の取り巻きらしい学生たちと話している。

 姿勢はもう完全に戻っている。乱れは見えない。さっきの鐘のことすら、彼女の周囲だけでは起こらなかったみたいに。

 

 それでもアリスルールは、その背中を見て、ひどく満ち足りたように微笑んだ。

 

「ユーディトさんのほうが、ずっとおもしろいです」

 

 リネットは口を閉じた。

 

 そう来るのか。

 

 確かに、あの完成された少女のほうへ気を取られるのはわかる。わかるけれど、この侯爵令嬢はやはりどこか外れている。

 

 いや。

 外れているからこそ、ああいうものを見つけてしまうのだろうか。

 

 自習時間の終わり際、イレーネ講師は最後に一つだけ告げた。

 

「礼は、相手のためだけにするものではありません。場のためだけにするものでもない。自分が、どこで崩れてはならないかを忘れないために行うものです」

 

 それは授業全体へのまとめであるはずなのに、リネットにはどうしても、ユーディトへ向けられた言葉のように聞こえた。

 

 そして同時に、アリスルールへ向けられた警告にも聞こえた。

 

 授業が終わる。

 学生たちは三々五々、講堂を出ていった。

 

 リネットが鞄を抱えて出口へ向かうと、前方でユーディトが立ち止まった。

 彼女は振り返り、まっすぐアリスルールを見る。

 

「マクラクランさん」

 

「はい」

 

「さきほどは、ご丁寧にありがとうございました」

 

 礼儀正しい言葉だった。

 だが最初の柔らかさとは違う。

 こちらを測り、覚え、次に備える声だった。

 

「わたくし、あなたのことを少し誤解していたようですわ」

 

 アリスルールは目を丸くする。

 

「そうなのですか」

 

「ええ」

 

 ユーディトは、寸分も乱れない一礼をした。

 

「次からは、きちんと気をつけます」

 

 その一言の意味を、リネットはすぐには掴めなかった。

 けれど、敵意より厄介な何かが、そこに生まれたことだけはわかった。

 

 アリスルールは嬉しそうに頷いた。

 

「わたしもです」

 

 やめてほしい。

 そこで嬉しそうにしないでほしい。

 

 だが、もう遅かった。

 

 ユーディトは去り際、一度だけ横顔を見せた。

 その顔は美しかった。

 そして、少しだけ怖かった。

 

 講堂を出たあとも、銀鐘の余韻が耳の奥に残っていた。

 

 落ちるわけではない。

 刃が交わるわけでもない。

 それなのに、リネットの胸は午前の高所戦と同じくらい疲れていた。

 

「礼法って、こんな授業でしたっけ……」

 

 思わず漏らすと、アリスルールは真面目に考えた。

 

「もっと静かなものかと思っておりました」

 

「静かでしたけどね」

 

「そうでしょうか」

 

「すごく静かに刺してたじゃないですか」

 

 言ってから、自分で少し驚いた。

 こんな言い方をするようになったのは、間違いなくこの少女のせいだ。

 

 アリスルールは、その表現が気に入ったらしく、目を細めた。

 

「はい。きれいに刺さる方でした」

 

 ユーディトのことだ。

 

 リネットは大きくため息をついた。

 午後の光が回廊の窓から斜めに差し、白手袋をはめた小さな手を淡く照らしている。

 

 その手は、剣を握る時と同じくらい丁寧に、今は鞄の紐を直していた。

 

 たぶん、この子にとっては同じなのだ。

 高いところで剣を交えることも、礼の継ぎ目から誰かの恐れを見ることも。

 

 巨塔には、いろいろな戦場がある。

 

 風鎖回廊。

 対術剣環。

 志望印刻の間。

 そして礼法講堂。

 

 アリスルールは、そのどれでも同じ顔をしてしまう。

 難しいものを前にした時の、静かで、子供みたいに純粋な、あの顔を。

 

「フェルンハイムは、巨塔秩序でいう下級世界貴族を父に持つようです」

 

「ふむ。300層を超えし者、ですか」

 

 リネットは隣の少女を見た。

 

 アリスルールは自分のほうを見ていない。

 もっと遠くを見ていた。

 

 たぶん、次の難しい人を探している。

 

 そしてリネットは、少しだけぞっとしながら思う。

 

 今日、礼法講堂でいちばん怖かったのは、侮辱でも階級でもなかった。

 

 あんな相手を前にして、アリスルールが本当に嬉しそうだったことだ。

 

 この大学では、たぶん、礼すら安全ではない。

 

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