灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~ 作:星舟能空
勝ったのだと、日が落ちてから知らされた。
第三魔術歩兵中隊は、南斜面の果樹園を奪還した。
これをもって本日の反撃は成功とする。
伝令が読み上げた文言は、よく通る声のわりにひどく遠く聞こえた。
シオン・ノールは、泥にまみれたままそれを聞いていた。足首までぬかるみに沈んだ軍靴は重く、背中に食い込む革帯は汗と雨で擦れて痛い。喉の奥には、昼からずっと鉄の味がこびりついていた。
朝にはまだ枝先に赤い実を残していたはずの丘は、いまでは黒く焼けた木立の群れに変わっている。砲火で裂けた幹からは白い煙が細く立ちのぼり、地面へ落ちた果実は泥と血に踏み潰され、甘ったるく腐った臭いを放っていた。
それでも、あれを勝利と呼ぶらしい。
果樹園を取り戻したのだから、王国軍の勝ちなのだと。
シオンには、その理屈がまだ分からなかった。分かるのは、あの焼け跡のどこかに、昼まで生きていた人間たちの息が埋まっていることだけだった。
その日の朝、彼は荷馬車から蹴り落とされるところから戦場へ入った。
「降りろ、補充兵!」
怒鳴られた瞬間、濡れた板の上で足を滑らせた。尻から泥へ落ち、冷たいものが腰から背中まで一気に染み込んでくる。王都で支給されたばかりの軍衣は、戦場へ着いて一呼吸のうちにただの汚れた布へなり果てた。
周囲では、同じように荷車から叩き落とされた少年兵たちが、家畜みたいに横一列へ並べられていた。誰もが青い顔をしていたが、青い顔をしていない者もまた、別の意味で壊れて見えた。
「俺はディーン。そっちの痩せたの、箱を持てるか」
シオンが顔を上げると、頬に古い裂傷の走る下士官が立っていた。濡れた外套の下で胸甲が鈍く光り、左手には細身の魔法剣、右手には泥のついた地図板が握られている。
シオンが返事をする前に、男は木箱を足先で寄こした。側面に銀線の紋様が刻まれている。刻印板を収める箱だと、徴募所で一度だけ説明を受けた覚えがあった。
「落とすな」
それだけ言われた。
脅し文句を付け足すまでもない、という顔だった。
シオンは慌てて箱を抱え上げた。想像していたよりも重い。肩に力を入れた拍子に、内ポケットの縫い目の糸が破れた。孤児院の院長が昨夜、せめてもの縁起担ぎだと言って縫ってくれた糸だった。
そのとき、すぐ脇で誰かが吹き出した。
「伍長、初日からそれじゃ、こいつ泣きますよ」
長身の若い兵だった。煤けた顔に不似合いなほど口元が軽い。槍を肩へ担ぎ、崩れた柵に背を預けている。たぶん、場を持たせるためにわざと笑っているのだと、シオンにも分かった。
「泣く足が残ってりゃ上等だ」
ディーン伍長は地図板から目を上げずに言った。
「走れるうちに前へ出しておけ」
「ほらな。優しいだろ、うちの伍長」
若い兵はそう言って、シオンの背嚢の位置を勝手に直した。手つきは妙に慣れている。
「肩の紐、もっと上。そうじゃないと一刻もたずに皮が剥ける。ああ、それでいい」
そのとき、後ろから大鍋を抱えた大男がどかどか歩いてきて、長身の兵の横っ面を肘で小突いた。
「遊んでる暇があるなら水を汲め、グレン」
「見ろよオットー、この新入り、今にも倒れそうだ」
「倒れる前に腹へ入れりゃ多少は持つ」
オットーと呼ばれた男は、シオンへ木椀を押しつけてきた。中身は麦をふやかしただけの薄い粥だったが、湯気が立っているだけでありがたく思えた。
「飲め。熱いうちに」
シオンが礼を言う間もなく、別の女の声が飛んだ。
「オットー、鍋をこっちへ。あと三番板を出して。すぐ」
木箱の蓋が横から開かれた。焼け跡の染みついた指が、中の刻印板を手早く選り分けていく。袖を肘までまくった女術兵は、一度シオンの顔を見て、それから箱の中身を見た。
「模様を覚えな。字が読めなくても形なら分かるだろ」
シオンは反射的にうなずいた。
「銀線の細い方が三番。太い方は五番。混ぜると死ぬよ」
女はそれだけ言って板を引き抜いた。
あとで彼女がアーデルと呼ばれているのを聞くまで、シオンはただ「怖い手つきの上等術兵」として覚えた。
そこへ灰色の髪をひとつに縛った少女兵が駆け戻ってきた。泥に塗れた測距杖と記録板を抱え、息も乱さずに伍長へ言う。
「左翼、壕が半分埋まりました。補充二十七、歩けるのは二十四。後ろの林、さっきから鳥が飛ばない」
少女の視線の先には、片目を革帯で覆った斥候がいた。彼は森の端を睨んだまま短く言った。
「いる。まだ近くはない」
伍長はうなずき、地図板を畳んだ。
「リゼ、前進後の数も取れ。ニコ、林から離すな。グレン、前へ。オットーは後ろへ下がるな。アーデル、合図で撃て」
そこで初めて、シオンもこの中隊の一部として勘定に入れられた。
「お前、箱。俺から離れるな」
伍長はそれだけ言い、もうシオンの方を見なかった。
見る必要がないのだろう。
ここでは、人間の価値はまず役目で測られる。
果樹園への反撃は、昼前から始まった。
シオンが想像していた魔法戦は、もっと光が多いものだった。王都の広場で見た軍の演武みたいに、整然と術式が組まれ、輝く槍や火球が美しく飛び交うものだと思っていた。
実際には、最初に来たのは土だった。
敵の砲撃が果樹園の斜面をえぐり、泥と石と千切れた枝が一緒に吹き上がる。続いて熱と音。耳の奥で膜が震え、口の中へ砂が入り、目の前の景色が一瞬で茶色く塗り潰された。
「前進!」
伍長の声に押されるように、中隊が泥を蹴った。
シオンも走った。
走るしかなかった。
果樹園と呼ばれている場所は、もう果樹園には見えなかった。幹は裂け、枝は砕け、実は潰れ、甘い汁が泥へ染みている。その上から血が流れ、どこまでも嫌な臭いを立てていた。
右隣を走っていた兵が何か叫んだ。
振り向いた時には、首へ矢が立っていた。
若い顔だった。自分とそう歳は違わないように見えた。口を押さえた指の隙間から、泡立った血が溢れている。
足が止まりかけた。
「見るな、走れ!」
グレンの声だった。
シオンは前へ転がるように進み、崩れた石垣の陰へ身体を投げ込む。頭上を何かが唸って過ぎ、石垣の上端が削れた。術式の刃だと理解する頃には、アーデルが手を突き出していた。
「三番」
シオンは箱を開けた。
震える指で、さっき見せられたばかりの細い銀線を探す。模様を見る。取り違えるな。混ぜると死ぬ。
板を差し出すと、アーデルは何も言わずに奪い取り、短杖へ組み込んだ。青白い紋が弾け、前方の土嚢の一角が吹き飛ぶ。
「今!」
伍長が叫び、中隊が石垣を越えた。
そこから先のことを、シオンはうまく順番で思い出せない。
走った。
伏せた。
板を渡した。
転んだ兵をまたいだ。
誰かが喉を裂かれた。
誰かが敵を刺した。
敵も味方も同じ泥の色に見えた。
途中で一度、シオンは吐いた。
自分の足元に、敵兵の腹の中身と、踏み潰された果実が一緒に転がっていたからだ。甘い臭いと血の臭いが混じると、こんなにも人を苦しめるのだと、そのとき初めて知った。
だが誰も構ってはくれなかった。構う暇がなかった。
「顔を上げるな!」
どこかで斥候兵が怒鳴った。
反射的に視線を落とした直後、頭上を矢の束が唸って通り過ぎた。シオンは泥へ這いつくばり、頬を冷たいぬかるみに押しつけた。泥の下で潰れた果実が指先に触れる。
それでも進まされた。
昼を回る頃には雨も降り出して、血と泥と果汁の境目が分からなくなった。斜面の中ほどで倒れた兵が味方なのか敵なのか、近づいて顔を見るまで判別がつかない。近づいてみれば、もう死んでいるか、まだ死ねずに呻いているか、そのどちらかだった。
シオンは一度だけ、背中を丸めて蹲る兵へ手を伸ばしかけた。
けれどその兵の胸には王国軍の紋章がなかった。
迷っているあいだに、横から別の兵が走り抜け、その背へ槍が突き立った。
ディーン伍長が敵兵を斬り伏せながら怒鳴った。
「止まるな!」
その声に、シオンは自分が何をしかけたのか理解した。
ここで立ち止まることは、ひとりを救うことではない。次に死ぬ人間を増やすだけだ。
だから彼は、奥歯を噛み締めて前を向いた。
夕方、三度目の突撃で、ついに敵兵が果樹園上段から退いた。
王国軍は、焼けた木立のあいだへ旗を立てた。
それで奪還だった。
士官たちは果樹園を取り戻したと言った。
兵たちは勝ったのだと言われた。
シオンの目には、何を取り戻したのか分からなかった。枝先の実はすべて落ちている。黒く焼けたものもあれば、泥の中で潰れて赤黒くなったものもあった。来年また実る木は、いったい何本残っているのか。
そんなことは、たぶん誰も数えない。
日が落ちると、死体回収が始まった。
生きている者は後ろへ。
死んだ者は並べる。
名札を外す。
遺品を袋へ分ける。
手順だけが淡々と進んでいく。
死を悲しむより先に、死者を整理しなければならない。
リゼは記録板を持ったまま、一度も立ち止まらなかった。
「列、詰めて。そこ空けると数がずれる」
誰かが苛立って舌打ちした。
彼女は気づかないふりをしたのか、本当に気にしていないのか、ただ手だけを動かしていた。
シオンは死体の列を見て回った。
探している顔があった。
トーマ。
同じ孤児院で育った、ひとつ年上の少年だ。徴募馬車へ押し込まれる前、「どうせなら騎士団の配属がよかったな」と笑っていた。別の中隊へ振り分けられたと聞いていたが、この戦線のどこかにはいるはずだった。
生きていれば、どこかで会えると思っていた。
三列目の端で、その希望は終わった。
焼けた軍衣の胸元に、見覚えのある粗い縫い目があった。院長の針仕事だ。曲がり方が、どうしようもなく見覚えのある縫い方だった。
シオンの膝が、泥へ落ちた。
顔の半分は焼け、片目は閉じたまま炭みたいに固まっていた。
それでもトーマだと分かった。
口が少し開いている。
何か言いかけたまま、息だけを置いていった顔だった。
シオンはすぐには触れなかった。
触れたら、ほんとうに死んでいると確定してしまう気がした。
「知り合い」
すぐ後ろで、リゼの声がした。
問いではなく確認だった。
シオンは頷いたが、喉が詰まって声は出なかった。
リゼはしゃがみ込み、胸元の名札を外した。泥を拭い、記録板へ短く書きつける。
その手つきは乱れなかった。
乱れないからこそ、シオンは腹が立った。
「……そんなふうに書くなよ」
やっと出た声はひどく弱かった。
リゼは顔を上げた。怒るでもなく、不思議そうにシオンを見る。
「じゃあ、どうするの」
「もっと……」
その先が続かない。
もっと、何だというのか。自分でも分からなかった。
泣いてほしいのか。
悼んでほしいのか。
トーマはただの数じゃないと言ってほしいのか。
でも、それを言ったところでトーマは戻らない。
リゼはしばらく黙っていた。
遠くで焼却壕の火が上がり、赤い光が彼女の横顔をかすかに照らした。
「泣くのはいい」
そう言って、彼女は名札を差し出した。
「でもわたしは数えるしかできない」
シオンは震える手でそれを受け取った。血と泥で冷たい。
「数え損ねると、どこでいなくなったかも分からなくなる」
その言葉には慰めがなかった。
代わりに、嘘もなかった。
シオンは名札を強く握った。金属の角が掌へ食い込み、痛みだけが妙に確かだった。
夜になると、死者たちは順番に焼却壕へ運ばれていった。
風向きが変わるたび、灰が果樹園へ戻ってくる。
それが焼けた枝の灰なのか、実の灰なのか、人の灰なのか、シオンにはもう分からなかった。
昼には確かに実っていたはずの果樹園には、もうひとつも果実が残っていないかのようだった。
王国軍はその果樹園を勝利の証と呼ぶ。
シオンはまだ、その言葉を信じられなかった。