灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~   作:星舟能空

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第10話 第二王女

 白布は、死者の上にかけるとやけに明るく見えた。

 

 昨夜の火と油の臭いがまだ壕の底に残っているのに、その白だけが場違いなくらい清潔だった。

 

 短い停戦が敷かれた朝、外郭壕の前では埋葬と負傷兵の交換が同時に進められていた。白旗ではなく、医療旗と埋葬旗だとディーンは言った。降伏でも和平でもない。ただ、死体を片づけて、まだ死んでいない者を返し合うためだけの時間だった。

 

 シオンはオットーの遺体を運ぶ側にいた。

 

 白布の下の重みは、昨夜と変わらず重かった。

 鍋を持ち上げたときと違って、今は温度がない。

 

 ディーンが前、シオンとグレンが左右を持ち、ニコが後ろについて歩く。アーデルは負傷兵車の整理に回り、リゼは交換名簿と埋葬順の確認に追われていた。

 

 誰もオットーのことを喋らなかった。

 喋れば、そこでまた何かが決壊する気がした。

 

 壕の外れに掘られた浅い埋葬穴へ遺体を下ろすときだけ、ディーンの動きがわずかに遅れた。

 だが、それも一息ぶんだった。

 

「名札」

 

 リゼが来て、短く手を出した。

 シオンはオットーの名札を渡す。リゼはそれを記録板の脇へ差し込み、白布の端を整えた。

 

「埋葬位置、南二列目。あとで写す」

 

 その声はいつもの通りだった。

 だが、昨日の一滴の涙を見てしまったあとでは、もうそれが冷たくは聞こえなかった。

 

 埋葬が終わると、次は交換地へ回された。

 

 修道院砦の南面と外郭壕のあいだにある、砲撃で半ば抉れた果樹地帯。その中央だけが、今朝は不自然に空いている。折れた枝に白布が巻かれ、地面には目印の白石灰が引かれていた。両軍とも、その線だけは越えない。

 

 静かだった。

 

 砲声は遠くで鳴っている。

 だがここには落ちてこない。

 兵たちは怒鳴らない。

 武器を持っていても、すぐに振れない姿勢で止まっている。

 

 戦場が無理やり礼儀作法を教え込まれているみたいだった。

 

「シオン、こっち」

 

 リゼに呼ばれ、シオンは負傷兵の担架の列へ入った。

 交換するのは両軍の重傷者と、昨夜の混乱で取り残された捕虜、それから身元確認の済んだ遺体の一部だという。

 

「数は」

 

「王国側、生存七。遺体五。向こうも同数のはず」

 

「はず?」

 

「向こうの書面が一人ぶん曖昧」

 

 リゼはそう言って、紙束を軽く叩いた。

 

「わざとか、数え損ねたか、まだ分からない」

 

 そんな会話をしながらも、彼女の目はずっと前を見ている。

 敵側の並び、護衛の数、杖の長さ、旗手の位置。数字にすれば何でも落ち着くのかもしれない、とシオンは思った。

 

 やがて、敵側の列が見えた。

 

 黒い外套、黒獅子の紋章、壊れていない歩調。

 王国軍より少しだけ整っていて、少しだけ静かだった。

 

 その中央にいるのを見た瞬間、シオンの足が止まった。

 

 何が違ったのか、最初は分からなかった。

 背丈か、立ち方か、黒衣の縁に刺された銀糸か。

 

 次の瞬間、それが顔だと分かった。

 

 若い女だった。

 いや、少女と呼ぶには完成しすぎていて、女と呼ぶにはまだどこか触れれば壊れそうに見える、そういう年頃の、美しい人だった。

 

 喪に服しているみたいな黒衣を着ているのに、その人だけが妙に明るく見えた。

 肌が白いのではない。

 輪郭が、朝の薄光を自分のものにしているみたいだった。

 

 淡い金にも白金にも見える髪が、風に揺れた。

 睫毛は長く、瞳は遠目でも不思議なくらい澄んでいた。青とも灰ともつかない、冷たい水の色をしているのに、その奥に光だけは宿っている。

 

 教会の壁画に描かれる天使が、そのまま泥の戦場へ降りてきたら、たぶんこんな顔をしている。

 

 シオンは、そう思ってしまった。

 

 思った瞬間、ひどく狼狽えた。

 

 昨夜、オットーが死んだばかりだった。

 今朝、自分の手で土へ埋めたばかりだった。

 そんな時に、敵国の女へ見惚れている。

 

 何をしているのだ、と頭のどこかが怒鳴った。

 だが目は離れなかった。

 

 その人は死体を見ていなかった。

 

 担架の列にも、埋葬穴にも、泣いている兵にも視線を止めない。

 代わりに見ていたのは、砲座の焼け跡だった。

 

 昨夜壊れた砲車の軸。

 外郭壕の縁に残った焦げた術式杭。

 壊れた石壁に走る、焼き切れた魔力線の痕。

 

 まるで、戦場そのものより、そこで“何が起きたか”の方を見ているみたいだった。

 

 シオンの胸が、また別の意味で跳ねた。

 

 綺麗だからではなかった。

 いや、綺麗だった。途方もなく。

 けれどそれだけではない。

 

 この人は、自分と同じものを見ている。

 

 火の痕。

 焼け方。

 壊れた流れの跡。

 

 そう思った瞬間、余計に目を離せなくなった。

 

「見るなとは言わないけど、前は見て」

 

 隣でリゼが低く言った。

 

 シオンははっとして視線を戻した。

 

「……見てた?」

 

「見てた」

 

「ごめん」

 

「謝る相手が違う」

 

 リゼの声は平板だったが、からかっているのではなく、本気でそう思っている時の調子だった。

 

 交換は最初、淡々と進んだ。

 

 担架を線の手前まで運ぶ。

 名を読み上げる。

 相手側が確認する。

 こちらも受け取る。

 

 武器は抜かない。

 杖は下向き。

 怒鳴らない。

 

 誰もそんな約束を信じてはいないのに、破った瞬間に全部が終わるから、全員が律儀に守っていた。

 

 問題が起きたのは五人目だった。

 

 敵側へ返す重傷兵のひとりが、担架からずり落ちそうになった。若い兵だった。顔色は紙みたいに白く、腹をきつく縛られている。目だけが、妙にぎらついていた。

 

 彼は線の向こうに立つ黒衣の少女を見た瞬間、喉の奥から掠れた声を絞り出した。

 

「でん……か」

 

 その一言で、場が凍った。

 

 王国側の兵が反射的に槍を上げる。

 敵側の護衛が杖を持ち直す。

 線のあいだの空気が、一息で張り詰めた。

 

「下げろ!」

 

 ディーンが怒鳴った。

 だが遅い。

 

 王国側の若い兵の一人が、敵の動きを裏切りと見たのだろう、後方の信号火へ手を伸ばした。あの火が上がれば、停戦は破れたとみなされ、後ろの砲兵がそのまま撃ち始める。

 

 シオンは火を見た。

 

 火皿の小さな炎が、風に煽られて細く伸びる。

 その先にある油布。

 さらに奥の火薬紐。

 火が走る道筋が、はっきり分かった。

 

 理屈より先に、身体が動いた。

 

 シオンは短杖を抜き、補助式を滑らせた。

 大きな術ではない。火勢を一瞬だけ鈍らせる、ごく初歩の制御だった。

 

 だがその一拍で、火皿の炎は痩せた。

 

 同時に、リゼが叫んだ。

 

「左三歩、杖三本! そこが先に抜く!」

 

 測っていたのだ。

 護衛の位置も、射線も、こちらがどこで崩れるかも。

 

 ディーンは躊躇わずその方向へ一歩出て、魔法剣の切っ先を地へ叩きつけた。乾いた音とともに、白石灰の線の手前へ短い火花が走る。

 

「そこから先は戦闘だ。やるなら全員死ぬぞ」

 

 低い声だった。

 怒鳴りではない。

 だからこそ、場が止まった。

 

 敵側の護衛も杖を上げ切れなかった。

 王国側の若い兵も、信号火を掴んだまま固まった。

 

 そして、その沈黙を破ったのは、黒衣の少女だった。

 

 彼女は一歩だけ前へ出ると、倒れかけた負傷兵へ視線を向け、護衛へ何か短く告げた。

 言葉は聞き取れなかった。

 だがその一言で、敵側の杖が下がる。

 

 遅れて、王国側も槍を戻した。

 

 場が、辛うじて持ちこたえた。

 

 シオンは息を吐いた。

 吐いた瞬間、自分の心臓がさっきからおかしい速さで打っていることに気づいた。

 

 戦場の緊張だけではない。

 

 黒衣の少女が、こちらを見た。

 

 ほんの一瞬だった。

 礼でも敵意でもない。

 ただ、何かを確かめるみたいな視線だった。

 

 彼女の目は、驚くほど静かだった。

 そして、その静けさの中に、シオンがさっき火へ触れたことを見抜いたような鋭さがあった。

 

 次の瞬間には、彼女はもう視線を外していた。

 

 それだけだった。

 

 それだけなのに、シオンの胸の奥には、砲火より厄介なものが落ちた。

 

 交換は再開された。

 

 今度は誰も崩さなかった。

 負傷兵は向こうへ返り、こちらの兵も戻ってきた。遺体の確認も済み、白布が一枚ずつ泥の上を移動していく。

 

 黒衣の少女は最後まで笑いもしなかった。

 ただ、崩れた砲座と焼け跡と、交換される兵たちの顔を順に見ていた。

 

 その横顔を、シオンは何度も盗み見た。

 見てはいけないと思うたび、余計に見てしまった。

 

 停戦が終わる合図は、拍子抜けするほどあっさりしていた。

 

 双方の旗手が布を下げる。

 医療旗が巻かれる。

 兵が持ち場へ戻る。

 

 そのあと、少し遅れて砲声が戻った。

 

 最初の一発が遠くで落ちた時、シオンはようやく自分がずっと呼吸を浅くしていたことに気づいた。

 

「戻るよ」

 

 リゼが言う。

 

「……あれ、誰なんだ」

 

 シオンは自分でも驚くほど素直に訊いていた。

 

 リゼは一度だけ彼を見て、すぐ前へ視線を戻した。

 

「第二王女。講和条件の確認に立ち会っただけ」

 

「王女」

 

 その二文字が、やけに熱を持って胸へ落ちた。

 

「見すぎ」

 

「そんなに見てた?」

 

「見てた」

 

 さっきと同じ返事だった。

 

 シオンは返す言葉に詰まった。

 オットーを埋めた朝だった。

 戦場の真ん中だった。

 敵国の王女だった。

 

 こんな時に、こんなふうに胸が熱くなるのは間違っている。

 間違っているはずなのに、その熱だけは消えなかった。

 

 壕へ戻る途中、シオンは一度だけ後ろを振り向いた。

 

 黒衣の少女はもう遠く、砲煙の向こうに半分隠れていた。

 それでも、不思議なくらいすぐに見つけられた。

 

 火を見たときのように、そこだけが分かる気がした。

 

 砲声がまた鳴る。

 土が跳ねる。

 停戦の朝は終わる。

 

 それでもシオンの胸には、戦場で抱くにはあまりにも不釣り合いな熱が、消えずに残っていた。

 

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