灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~ 作:星舟能空
停戦の朝が終わってから、敵の砲撃は露骨にいやらしくなった。
壕の縁そのものではない。
炊事の火を起こす場所、刻印板を積む場所、伝令が走りやすい踏み固められた通路、そういう“兵が生きるために使う場所”ばかりを舐めるように削ってくる。
前より正確だ、とシオンにも分かった。
外郭壕の南面で、荷箱の移動を手伝っていた時だった。壕の上を裂いていった砲弾が、刻印板置き場のすぐ脇へ落ちた。土と石と煤が一緒に噴き上がり、銀線入りの板が泥へ散る。
アーデルが舌打ちした。
「昨日の停戦で、こっちの癖まで見られたね」
そう言いながら、彼女は散った板を拾い集める。砲火が止む前に次の装填へ回すつもりなのだろう。
シオンも膝をついたが、アーデルは彼の手を止めた。
「お前は上」
「上?」
「観測。リゼと組め」
シオンは思わず顔を上げた。
アーデルはいつものように焼け跡の染みた指で、短杖の先を彼の胸へ向けた。
「昨日、信号火を殺しただろ」
「あれは、たまたま」
「たまたまで火の勢いは読めない」
即答だった。
「見えた順番で言え。熱の逃げる向き、火の痩せ方、煙の流れ。曖昧にするな。できるだけでいい」
そう言われると、断る理由はなかった。
シオンは壕の縁を回って、崩れた鐘楼跡を見張り台代わりにした観測所へ上がった。板を渡しただけの粗末な足場で、下を見ればすぐ泥と死臭のする外郭壕、前を見れば修道院砦の西壁と崩れた回廊が広がっている。
リゼはもうそこにいた。
測距杖、記録板、砂時計、墨で書き込んだ地図。彼女の周囲だけが小さな机の上みたいに整っている。
「遅い」
「さっき言われたばっかりだ」
いつもの調子だった。
だが、あのオットーが死んだ後の朝を越えた今では、その平板さもただの冷たさには聞こえなかった。
砲声が鳴る。
リゼが顔も上げずに言った。
「三つ数えて」
「何を」
「いいから」
言われるまま、シオンは数えた。
「一、二、三」
着弾。
外郭壕の東寄りで土が跳ねる。
「次」
また砲声。
今度は二つ半で落ちた。
シオンが眉を寄せると、リゼは記録板へ数字を書きつけながら言った。
「昨日までと角度が違う。南東の林からじゃない」
「分かるのか」
「分かるように見てる」
彼女はそれ以上言わない。
代わりに、測距杖の先を西へ向けた。
「あそこ。焼け跡、見える?」
シオンは目を凝らした。
砦の西壁の一角、崩れた回廊の手前に、昨夜までなかった黒い帯が見える。砲火で焼けた石なのか、油か、それとも別の何かか、ここからでは断定できない。
「見える」
「色は」
「黒……いや、黒だけじゃない。端の方が白い」
リゼが初めてこちらを見た。
「白?」
訊かれて、シオンは少し息を呑んだ。
そうだ。
黒く見えたのは燃えた跡で、その縁だけ白く乾いている。熱の走った場所と、熱が痩せた場所がある。
彼にはそれが、理屈より先に分かる。
「……うん。真ん中じゃなくて、右へ逃げてる」
リゼはその言葉をそのまま書きつけ、足元の伝声筒へ口を寄せた。
「アーデル、右へ二つ。熱が逃げてる」
すぐ下の壕から、アーデルの苛立った声が返る。
「熱じゃ分からん。どっちに火が走った」
シオンは足場から身を乗り出した。
西壁の焼け跡を、もう一度見た。焦げた石の継ぎ目、白く痩せた縁、煙の細い尾。
「右上! 右上へ火が逃げてる!」
「最初からそう言え!」
アーデルの怒鳴りのあと、術式砲が唸った。
王国側の火球が西壁の右上へ弧を描き、崩れた回廊の角へ叩きつけられる。次の瞬間、その裏に隠れていた敵の観測旗が遅れて吹き飛んだ。
リゼが短く息を吐いた。
「当たり」
シオンの胸も、少しだけ熱くなった。
これは偶然ではない。
そこへ、下からグレンが顔を出した。
「お、やってるな観測士殿」
いつもの軽い調子だったが、額には汗が滲み、外套の肩口は煤けている。伝令と護衛を兼ねて、壕と観測所を行き来しているのだろう。
「観測士じゃないです」
「でも今の、当てたろ」
「当てたのはアーデルです」
「そういう可愛くない返しする奴は長生きしないぞ」
言ってから、グレンはふと声を落とした。
「見えるのはいい。けど、見えたからって前へ出るなよ」
シオンがきょとんとすると、彼は足場へ肘をかけた。
「見える奴は、つい見に行く。で、近づきすぎて死ぬ」
「……そんなに危ない顔してます?」
「ああ。面白いもん見つけた犬みたいな顔してるぜ」
その例えに、リゼが小さく鼻を鳴らした。
「似てる」
「おい」
抗議しかけたところで、また砲声が重なった。
今度の着弾はさっきより西寄りだった。
しかも、砲撃の合間に妙な間がある。表から撃っているのではなく、死角を使って回しているような、嫌な間だ。
ディーンが自分で観測所へ上がってきたのは、その三発あとだった。
「西回廊の陰に何かいる」
挨拶もなく、そう言った。
リゼがすぐに地図を広げる。
「砲角が浅いです。南面じゃなく、崩れた回廊の裏から修正してる」
「見に行く」
ディーンは短く決めた。
「シオン、リゼ、グレン。俺と来い」
四人はすぐに動いた。
観測所から降りると、砲声はまた遠くなる。だが近くなったのは、石造りの修道院の冷たさだった。西回廊は半分崩れており、聖像の頭が転がり、濡れた石床に灰と血がこびりついている。
ここへ来ると、戦場の質が変わる。
広い空の下の砲戦ではなく、壁と壁のあいだで息を潜める戦いになる。
グレンが先、ディーンがやや左、リゼは後ろで距離と角度を見て、シオンはその真ん中へ押し込まれた。
「見ながら足も動かせ」
ディーンが前を向いたまま言う。
「止まった奴から死ぬ」
その言葉は、もうシオンの身体へ染みついていた。
崩れた回廊の角を抜けた時、シオンは息を止めた。
壁の一部が砲撃で裂け、その向こうに下へ降りる石階段が覗いていた。
ただの物置ではない。
もっと古い、修道院本来の地下へ続く入口に見える。
その周囲の石には、普通の術式砲の焦げとは違うものが残っていた。
焼け跡なのに、どこか湿っている。
赤黒い染みが、石目に沿って細く走っている。
しかも、その中心だけが妙に冷たい。
火が通ったのに、熱が残っていない。
気味が悪かった。
なのに目が離れない。
シオンは一歩、また一歩とそちらへ引かれた。
ここに何が走ったのか。
どう燃えたのか。
なぜ熱がこんな抜け方をしているのか。
それを確かめたかった。
次の瞬間、脇腹へものすごい衝撃が入った。
「っ!?」
景色が横倒しになる。
石床へ肩から叩きつけられ、息が詰まった。
何をされたのか分からないまま顔を上げる。
その瞬間、さっきまで自分の頭があった位置の石壁が、細く鋭く抉れた。
刃の術式だった。
砕けた石片が雨みたいに降る。
シオンはそこで初めて、自分が死ぬ位置に立っていたと理解した。
押し飛ばしたのはグレンだった。
彼はシオンの上へ覆いかぶさるように半身を伏せ、そのまま槍を回廊の奥へ投げた。短い悲鳴が返り、影がひとつ崩れる。
ディーンはもう走っていた。
角の向こうへ飛び込み、魔法剣を横薙ぎに払う。鈍い音。何かが壁へ叩きつけられる。
リゼが低く言う。
「二人。片方は観測、片方は狙撃」
どこを見てそう分かったのか、シオンには分からなかった。
ただ、その声に迷いはなかった。
数息ののち、足音が戻る。
ディーンが回廊の角から現れた。剣先に血はない。だが外套の裾に黒い染みが増えている。
「終わった」
それだけだった。
シオンはまだ荒い息のまま、グレンを見た。
「あ、ありがとうございます」
言ってから、自分でも情けない声だと思った。
グレンは肩をすくめた。
「後で文句は言わせてもらう。今は生きてろ」
それから、いつもの半笑いではなく、少しだけ強い目で続けた。
「面白いもの見つけても、立ったまま惚けるな」
その言い方で、シオンはあの王女の時を思い出してしまい、余計に返事に詰まった。
「……気をつけます」
「そうしろ」
グレンはそれ以上言わなかった。
リゼが崩れた壁へ寄り、血のような紋を見下ろす。
「これ、軍の記録にない」
ディーンも一度だけ階段の口を覗いた。
地下からは冷たい空気が上がってくる。湿っているのに、火の気だけが死んでいるみたいな、嫌な冷たさだった。
「今は降りない」
ディーンが断じる。
「位置だけ持ち帰る。勝手に潜るな」
シオンは頷いたが、目だけはどうしても階段の奥へ引かれた。
停戦の朝、黒衣の王女が見ていた焼け跡。
今、自分の前にあるこの冷たい焦げ跡。
同じものではない。
だが、どこかで繋がっている気がした。
観測所へ戻ると、アーデルは報告を聞いても顔色を変えなかった。
「地下、血みたいな紋、冷えた焼け跡」
彼女はシオンの言葉を繰り返し、泥の上へ簡単な図を描いた。
「こりゃ、表の砲戦だけ見てても、そのうち足元を食われるね」
その声だけが、少し低かった。
リゼは位置、角度、敵観測兵の潜伏点、地下入口の幅を数字で書き留める。
ディーンは壕の配置を変え、グレンは何も言わずに槍の穂先を拭っていた。
シオンはもう一度、西壁の方を見た。
遠くで火が上がる。
煙が流れる。
熱の逃げる向きが分かる。
けれど今、彼が見ているのは火だけではなかった。
その奥にある、火でも焼き切れない何かだった。
砲声がまた鳴る。
観測所の板が小さく揺れた。
シオンは短杖を握り直しながら、修道院の西壁、そのさらに下にある見えない地下へ意識を向けた。
戦場の表だけでは、もう足りない深みが、どこかに垣間見えた気がした。